- 仔猫の依存症に効く薬 -



「赤ちゃんが来たみたいなの」
まるで、まだ結婚もしていない若い女性のように頬を染めて微笑む母に、里桜は今開けたばかりのペプシの缶を危うく落としそうになった。
もちろん、どこかの赤ちゃんを預かったとかいうわけではなく、まだ僅かも膨らんではいない腹に手を当てる母の仕草で、その意味は理解できた。
「それはおめでとうございます」
「ありがとう」
ごく自然に対応する義之をすごいと思いながら、気を取り直す。
「お母さん、それでこの頃調子が悪そうだったんだ?もう病院には行ったの?」
「ええ。2ヶ月に入ったところですって。安静にしていたいからお仕事も辞めてきたのよ。悪いんだけど、暫く家事をしないでもいいかしら?」
「うん。大事にしてて。これからは俺が全部するから、今度こそ元気な弟だか妹だかに会わせてね」
「ありがとう、頑張るわ」
「晩ご飯ができたら呼ぶし、少し横になってたら?」
「そうね、しばらくはなるべく起きないようにするわね。ごめんなさい」
義之と里桜に頭を下げると、母はリビングを後にした。いつもはパタパタと軽い足音を立てて歩くのに、今日は一段一段を慎重に踏みしめているのか、殆ど音は聞こえてこない。
少し経ってから、義之が声を潜めて話し掛けてきた。
「せっかく早く帰ってきたけど、里桜と出掛けるというわけにはいかないようだね」
「ごめんね。しばらくは出歩くのをやめて家のことをしないと、お母さんムリしそうだから」
「たしか、お義母さんは流れやすい体質だと言っていたね」
「うん。だから安静にしててもらわないと。当分、週末帰省もやめていい?」
「……事情が事情だけに反対は出来ないけど、ちょっとキツイかな」
もう里桜の頬へ手を伸ばしてくるような義之には、確かに難しいことかもしれない。
「義くんだって、赤ちゃん見たいでしょ?」
「里桜が産むんならね」
「ムチャ言わないで。でも、俺もお母さん似だし、赤ちゃんもきっと俺に似てるよ」
「里桜に似てるなら可愛いだろうね。僕たちにくれないかな」
一瞬、真剣な目をした義之に慌てた。
「絶対ダメだよ。お母さん2回も流産して、やっとできたんだから」
「冗談だよ?まだまだ里桜と二人っきりで過ごしたいからね」
その言葉を嘘だとは思わなかったが、欲しいと言ったのも本心だろうと思った。二人っきりではもの足りないと思う日が来ても、里桜には家族を増やすことなど出来ないのだから。
漠然とした不安を覚えて、義之の肩へと凭れかかった。里桜には想像もできないが、自分に子供ができるというのはどういう気持ちなのだろう。おそらく、里桜には一生縁のないことだろうが。
「里桜?」
黙り込んでしまった里桜を呼ぶ声に、急いで平静を装う。
「ご飯の用意をしなくちゃ」
不安を隠すように勢いよく立ち上がると、飲みかけの缶を持ってキッチンの方に急ぐ。後を追ってくる義之の協力を得ながら、夕食の用意に取り掛かることにした。





「鈴木くん?」
見覚えのない上級生に呼び止められて、里桜は足を止めた。更衣室へ移動するために通った2年の廊下で、セーラー服の衿を狭く詰めた茶色い髪の女子が2人、何か言いたげな表情で里桜を見ている。
「はい」
相手が女性だったからか、身構えることなく返事をした。隣を歩く秀明も傍観の構えを崩さない。
「鈴木くん、高橋くんと喧嘩でもしたの?」
あからさまな質問に、里桜は答えに詰まってしまった。
「2学期になってから全然一緒にいないし、もしかして別れたとか?」
「……はい」
単刀直入な質問に良い気はしなかったが、答えないと長引きそうで小さく頷いた。途端に、その女の子たちの顔が華やぐ。
「よかった……やっぱりちょっとした好奇心だったのよね」
別れたのは事実でも、そんな言い方をされたくなかった。去ってゆく後姿に、思わずため息が出る。
「大丈夫か?」
心配げな秀明に、軽く首を振った。
「俺は大丈夫だけど、慎に迷惑をかけることにならないかな?」
「慣れてるだろ、おまえとつき合う前は遊んでたんだから」
あまり慰めにならない秀明の言葉に胸が痛んだ。里桜とのことが大っぴらになったのは、それまでの慎哉の素行の悪さと人目を憚らない行動のせいだったが、それを気に留めなかった里桜にも責任はあるはずだった。
慎哉とつき合うようになってから、面識のない上級生に声をかけられたり、あからさまな視線を向けられることは珍しいことではなくなった。その殆どが好奇の対象としてで、たまに忌々しげに睨まれたり嫌味っぽい言葉を聞こえよがしに呟かれたりもしたが、それほど酷い中傷のようなものはなかったから、なるべく気にしないようにしていた。
「そんな顔したってしょうがないだろ、おまえは年上の方の男前を選んだんだからな」
「そうだけど……」
相変わらずの冷たい言葉で先を急ぐ俊明の背を追いかける。義之と二人で過ごしている間は忘れていたことが、新学期が始まった途端に現実に戻されてしまったように一気に押し寄せてきたような気がした。


「鈴木」
道着に着替え終わって秀明の方に行こうとした里桜を、背後から呼び止める声に足を止めた。振り向いて見ると、体育の授業の時だけ一緒になる阿部だった。里桜とは身長差があり過ぎて、乱取りで組んだこともなく、接点は殆どない相手だ。
「なに?」
「ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「俺に?」
今まで喋ったこともないのにと思ったが、心細げな表情につい話を促してしまった。
「長くなりそう?授業、どうすんの?」
「少し遅れてもいいか?」
「まあ、少しくらいなら……」
「悪いな」
仕方なく頷いて、出入り口近くで待っている秀明に声をかける。
「ごめん、後から行く」
あからさまに嫌な顔をする秀明に、自分の応対が間違っていたかもしれないことに気付いたが、一旦了解の返事をしてしまった以上、やっぱりダメだと言うわけにはいかなかった。
授業の開始時刻が近付くと、更衣室には里桜と阿部以外の誰もいなくなる。それを待っていたように阿部が口を開いた。
「高橋とは、もう別れたんだろう?」
「は?」
思いがけない問いに、ある意味気が抜けた。どんな深刻な話だろうかと緊張していたのだったが。
「2学期になってから一緒にいるのを見たことがないからな」
ついさっきも同じことを言われたばかりだ。もしかしたら、皆が同じことを思っているのだろうか。周知の噂になっていたはずだから、興味本位に追求されるのは仕方ないことなのかもしれない。
「そんなこと聞くために授業サボらせたのかよ……」
「俺も、初めて見た時から鈴木のことがずっと気になってた」
「え?」
「どうやって親しくなればいいのか考えてるうちに高橋に先を越されて、ず っと後悔してたんだ。もう、高橋とは別れたんだよな?また他の奴に先越されるくらいなら、思い切って告白しとこうと思ったんだ」
「あ、あのさ、慎とはそうだけど、でも」
こんな告白を聞いた後では義之のことを告げるのは難しい。何と言って婉曲に言うか思案している里桜の戸惑いを、阿部は誤解してしまったらしかった。
「俺は高橋みたいに男前じゃないけど一途だよ。大事にするから」
「そうじゃなくて」
「鈴木」
焦れたように、阿部の手が里桜の腕を掴んだ。
大きな掌に力を籠められると、やっと忘れかけていた恐怖心が甦ってくる。今更のように、よく知りもしない男と二人きりになった自分の迂闊さを悔やんだ。
「離して」
払いのけようと腕を振りながら、自分でも思いがけないほど鋭い声を出してしまっていた。それが阿部を刺激してしまったのか、いきなり大きな体が里桜に覆い被さってくる。
「鈴木……」
掠れた声を発した唇が、髪に触れたのを感じた瞬間、頭の中が真っ白になって体が硬直した。背を撫でる手にぞわりと悪寒が走り、嫌な汗が体中に滲む。まるであの時に戻ったかのような錯覚に襲われた。
「いや」
もう大きな声は出なかった。狼に喉元を噛みつかれた兎よりも弱々しく、涙を散らせながら首を振ることしかできない。また、為す術もなく屠られてしまうだけの存在になってしまうのだと思った。
「里桜」
耳に馴染んだ声が聞こえたような気がした。
すぐに阿部の体が後方へ引かれるように離れ、里桜を縛めていた腕から解放される。怖々、目を開けた。
「……慎」
阿部の道着の襟元を掴んだ慎哉の右ストレートが綺麗に決まる。慎哉が誰かを殴るところを見るのは初めてだった。傾いだ腹に入るアッパーが、阿部を蹲らせた。
「里桜、大丈夫か?」
「慎」
頭で何かを考えるより先に、体が勝手にその胸へと飛び込んでいた。
「別れたんじゃなかったのか」
「二度と里桜に近付くな」
「……悪かった」
誤解させるような言葉を信じた安部が、腹を押えて立ち上がる。それ以上に食い下がるつもりはないらしく、おとなしく更衣室を出て行った。
「里桜?」
震えの納まりそうにない体を慎哉に押し付けたまま、小さく首を振る。
「もう大丈夫だよ、落ち着いたら道場に送って行こうか」
「いや」
「里桜?」
「行かない」
戸惑う慎哉の体が距離を取ろうとするのが怖くて、ギュッとしがみついた。今離れたらきっと負けてしまう。克服したはずの恐怖心に塗り替えられて、また人に接するのが怖くて引き籠ってしまうような気がした。
「慎」
見上げようとした里桜の顔を上げさせないように、頭の後ろから慎哉の胸元へと押し付けられる。髪に埋まる指先に力が籠もってゆくのを感じた。
「……里桜」
囁くような声に首を振る。鮮やかに甦った過去の恐怖から抜け出すことはまだ出来そうになかった。
時間が経てば落ち着くと思っていたのに、焦燥感はひどくなるばかりだった。阿部に触れられたところから、里桜の体が侵食されていくような気がする。
感情が昂ぶり過ぎていて、震えているのが自分だけではないことには気が付かなかった。
「……洗わなきゃ」
「里桜?」
「あいつが触ったとこ、全部」
「外に出ようか?」
里桜の腕を解こうとする慎哉にギュッと掴まった。僅かでも離れるのは怖い。
「里桜?」
「やだ」
小さく息を吐いた慎哉が一度里桜の体を離す。足元がふわりと掬われて、抱き上げられた。
「タオル、持ってる?」
「うん」
道着の合わせ目に押し込んだフェイスタオルがあることを確認して頷いた。
更衣室から少し離れた外の水道まで連れていかれると、慎哉は里桜を抱いたままで、腰の高さほどのコンクリートの縁へ座った。
「里桜?自分で洗える?」
洗ってくれると思い込んでいた里桜は、理由を問うように慎哉を窺った。やさしい指で汚れを流してくれるのではなかったのだろうか。
「……髪、押えててくれないか」
根負けしたように、慎哉が水を流し始めた。顔を下げた里桜の頬へ、温い水が触れる。何度か水を掬った掌に流されて、少しだけ気持ちが落ち着いたような気がした。
流水の下に腕を入れて、両手で何度も洗い流す。道着の袖が濡れるのも気にはならなかった。最後に、頭を蛇口の下に入れようとしたところで、強い力に肩を引かれた。
「風邪をひくよ」
「だって、触られたのに」
生地越しではなく直接触れられた顔や腕はもちろん、唇に触れられた髪の毛が気持ち悪くて仕方がない。
「帰るまで我慢しないとダメだよ。担任に言っておくから早退すればいい」
「……うん」
まだ膝に乗ったままで、慎哉の肩に手をかけて顔を覗き込むように見上げると、困惑した瞳にぶつかった。視線を外した慎哉が、里桜の道着の中からタオルを抜いて、髪から落ちる雫を拭う。
「……俺がさっきの奴みたいにならないと思ってるんだろう?」
答えに詰まって下を向く。いつも里桜は自分の気持ちばかりで、慎哉を気遣うことが出来なかった。今も、少し考えれば慎哉に酷なことばかり望んでいると気付けたはずだった。
ため息を吐いた慎哉が更衣室の方に視線をやる。
「早く着替えた方がいいよ?」
「うん」
我儘を言いたくなる気持ちを抑えて頷いた。もう抱いててくれとは言えなかったが、腕を掴む手を離すことは出来なかった。
「慎?」
更衣室の入り口で立ち止まる慎哉を振り向く。ここで一人にされるのは怖かった。できれば、着替える間も近くにいてほしい。
「一緒に、来て」
複雑な表情をしながらも、慎哉は更衣室の中へ一緒に付き添ってきた。
「里桜、携帯貸して」
訳はわからなかったが、ロックを解除してから携帯を渡す。
「里桜は着替えてて」
慎哉はかなり離れたドアの前に戻って、誰かに電話をかけ始めたようだった。気遣ってくれているのだと思い、急いで着替えることにした。
「高橋です。里桜が他の男に口説かれてパニくってるんですけど、すぐ迎えに来れますか?」
その言い方で、慎哉が電話をかけた相手は義之なのだと気付いた。
「ここの卒業生だって聞いてますけど、道場の裏の更衣室わかりますか?外まで連れて行ってもいいですけど?」
短い受け答えで慎哉が電話を切るのを待って、声をかける。
「義くんを呼んだの?」
「迎えに来てもらった方がいいだろう?」
「……うん」
慎哉がそう言うからには、義之はすぐに迎えに来てくれると言ったのだろう。 ホッとするのと同時に、義之の過剰な心配と怒りが想像できるようで、里桜は自分の様子を確認しておくことにした。
急いで着た制服を整え直して鏡を覗くと、自分の顔色の悪さに驚いた。里桜は、自分で思っている以上に動揺しているのかもしれない。阿部の手の強さや唇の感触を思い出すとまた体が震えてきそうになる。この震えを止める方法はひとつしか知らないが、義之のことだから、きっとすぐに叶えてくれるだろうと思った。
もう一度、鏡を見ながら乱れた髪に手櫛を通して軽く整える。身支度を終えると、慎哉の傍へ急いだ。
「ごめんね、慎までサボらせて」
「里桜の体調が悪くて付き添ってたっていうから気にしないでいいよ」
更衣室の外に出ると、慎哉は壁に背を凭せかけるようにして佇んだ。少し迷ったが、横に並ぶのではなく慎哉の正面に回った。
困ったように視線を逸らせる慎哉の気遣いに、一歩下がって距離を取る。義之を待っている間に、疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
「さっき……何で慎は来てくれたの?」
「里桜が阿部っていう奴に捕まったって、二岡が呼びに来たんだ。里桜に気があるみたいだから大変なことになってるかもって脅かされてね」
「そうだったんだ、ごめん……でも、慎が来てくれたから助かったんだよ。ありがとう」
見上げて、痛ましげな顔の慎哉を目の当たりにするとドキリとした。早く立ち直ってもらうためには会わない方が良いと思っていたのに、結果的にひどく迷惑をかけることになってしまった。
「しばらく気をつけてた方がいいんじゃないか?俺とつき合ってるフリをしててもいいけど、彼氏が嫌がるだろうしな」
「ごめん、また噂になっちゃうかもしれないね」
上目遣いに慎哉を見上げると、訝しげに見つめ返してきた。
「誰かに何か言われた?」
「ううん。でも……」
話の途中で、慎哉の視線が里桜の斜め後方に流れた。つられて振り向く里桜も、待ち人がすぐ傍まで来ていたことを知った。
「義くん、いつの間に」
「君が噂になりそうだと言った辺りからかな。とんでもなく悪い意味に取ってしまいそうなんだけど、一応言い訳くらいは聞いておくよ?」
幾分トーンを落とした声に怖けて、思わず慎哉の影に隠れるように後退った。義之から立ち昇る静か過ぎるオーラからは怒りしか感じられず、近寄ることを躊躇ってしまう。
慎哉は少しも怯む様子はなく、義之と睨み合っていた。そこだけ見ると、まるで里桜を争っているかのようだ。
「言い訳も何も、里桜が口説かれてる所に通りかかっただけです」
「ありがとうと言っておかなければいけないのかな?」
感謝の欠片も感じられない口調にも、慎哉は気を悪くした風はなかった。ただ、少しだけ高い位置にある義之の目を真っ直ぐに見据える双眸には強い意思が窺える。
「……里桜がひどく動揺していたのは後遺症のせいですか?」
低い声で尋ねる慎哉に、義之は露骨に嫌な顔を見せた。
「里桜の前でそういうことを言わないでくれないかな」
慎哉はそれ以上話そうとはせず、里桜の肩を押すようにして義之の方に近付かせた。
「義くん」
広げられた腕の中へ体を預けると、さっきまでの不安が嘘のように消えてゆく。やはりここが自分の居場所なのだと思った。
そっと、頬を撫でる手が顔を上向かせる。ほんの一瞬目が合っただけで、里桜は瞼を伏せた。キスをされるのだと、体が知っていた。
きつく抱きしめられたあと、そっと離れてゆく体の代わりに指と指が絡み合う。
「帰ろうか?」
「うん」
手をつないだままで、慎哉を振り返った。
「慎、来てくれてありがとう。早退届、頼むね」
それが語るに落ちるということなのだと、義之が表情を変えなかったから思いもしなかった。
「ついでに来訪者名簿にも記入しておいてくれないかな?職員室に寄る時間が惜しくてね」
「里桜との関係は何て書いておきますか?」
「婚約者と書くわけにはいかないだろうし、無難に親戚ぐらいにしておいてもらおうかな?」
「わかりました」
今にもため息を吐きそうな慎哉に、軽く手を振って歩き出す。
後ろ髪を引かれる思いがないと言えば嘘になるが、里桜は義之を選んだのだからもう振り返ることはできなかった。
5分ほど歩いて、学校から少し離れた所に停められた車に乗り込むと、義之はすぐに発進させた。
車両通勤をしていない義之は、里桜の実家にいる間も愛車はマンションの方に置いている。その車で来たということは一度取りに行ったということなのだろう。
「ごめんね、お仕事を抜けて来てくれたんでしょ?車もわざわざ取りに行ってくれたの?」
「わざわざじゃないよ、通り道のようなものだからね。仕事は早退してきたよ。大事な訪問の約束があったんだけどね」
「え……」
明らかに嫌味を含んだ言葉にドキリとした。時々、義之は里桜のことになるとなりふり構わなくなってしまうような所がある。
「後輩に頼んで来たよ。最近こういうのが多いから査定に響くだろうね」
「ごめんなさい」
思えば、里桜と知り合ってからの義之はあまり真面目な社会人とは言えないような行動を取ってばかりいた。休憩と称して、里桜に会うために2時間近く抜けて来たり、夏休み中は出勤して2時間足らずで家に帰ってきたり。里桜に学校のことをきちんとするように厳しく言うわりに、義之は不真面目な社会人になっているようだった。でも、それは必ずしも里桜のせいばかりではないと思うのだが。
「でも、何かあったらすぐに連絡しないとダメだよ?里桜は僕のものなんだからね」
「ごめんなさい、そんな余裕がなくて」
「何かパニックを起こすようなことがあったの?コクられただけじゃなかったのかな?」
「うん……」
そう言われても、義之に話すために、起きたことを順序立てて思い出すのもイヤだった。口ごもる里桜にあらぬ誤解をしたのか、義之は眉を潜めて先を促した。
「きみを口説いたのは誰?」
「体育の授業だけ一緒になる阿部っていう奴。ほとんど話したこともない」
「授業中に口説かれたの?」
「ううん、話があるって言うから授業のちょっと前から更衣室に残ってて」
「二人きりで?」
「うん」
「どうして得体の知れない男と二人きりになるかな」
義之が大袈裟なため息を吐く。
「得体の知れないって、同級生だよ?親しくはないけど授業で何度も一緒になってるし、まさかそんなこと思ってるなんて想像もしないでしょ」
「そんなことって?」
言われたことをそのまま説明するのは恥ずかしくて、曖昧な言葉を探した。
「慎と別れたんならつき合いたい、みたいなこと言われた」
「言われただけ?」
「え……」
「本当にそれだけで高橋が飛んできて僕が呼び出されるのかな?」
過保護な義之でも、怪訝に思うのは当然なのかもしれない。いくら里桜でも、告白されただけで早退しなくてはいけないような状態になるのは不自然だった。
「ちょっと……強引だったから」
「何をされたの?」
どう言えば聞こえがいいか考えているうちに、義之のマンションの駐車場に着いてしまった。地下2階の薄暗さも相まって里桜の不安を掻き立てる。
「何って……ちょっと腕を掴まれただけだよ」
「それで髪まで洗ったの?」
「髪は洗ってないよ、顔を洗った時に濡れただけだから」
「どうして顔を洗ったの?」
「触ったから」
「何が?」
「だから、阿部の道着とか腕とか」
「唇とか?」
「うん」
あっさり誘導尋問に引っかかってしまう自分の素直さ加減が嫌になる。俄かに増す怒りのオーラに挫けてしまいそうだ。
「あのね、触ったのが唇かもって思っただけで、俺の勘違いかもしれないから」
元々あまり回転の良くない頭ではきちんと把握できなかったが、大変な誤解をされてしまいそうな会話だったような気がした。
「部屋へ行こうか?」
「うん」
しおらしく頷いて、少しでも義之を逆撫でないようにしようと気を張る。車を降りてすぐに繋いだ手は、エレベーターに向かう間もその後も離されることはなかった。
「確か、高橋と一緒の授業はないと言っていたと思ったけど、どうして居合わせたのかな?」
その口調に籠る疑るような響きに、偶々居合わせたと貫き通すことは諦めた。
「秀が、俺が危ないって知らせたらしくて」
「彼にも危ないってわかっていたことが、どうして君にはわからないのかな」
「だって、相談があるって言われたから……」
日頃からあまり頼られるというようなことに縁のない里桜は、大柄な男に心細げに相談があるなどと言われて悪い気はしなかったのだった。
部屋に着いてからも、義之の追及は途切れることなく続いた。
「高橋はどうやって君を助けてくれたの?」
曖昧な記憶を辿りながら答える。
「えっと、阿部の道着の衿を引っ張って離してくれて、顔と腹を殴ってたかな?それで俺に触るなって言ってくれたんだと思う」
「彼は結構強いんだね」
「なのかな?慎の暴力的な所って初めて見たけど」
「まだつき合っていると思われたんじゃないのかな?」
「たぶん」
慎哉の推測通り、義之はそこが気にかかったようだった。
「どうして将来を約束した相手がいるって言わなかったの?」
「ごめんね、義くんのことを言いかけたんだけど、全然耳に入ってないって感じで聞いてくれなくて。たぶん、ものすごく真っ直ぐな奴なんじゃないのかな」
「相手がどんな奴だって、流されちゃダメだからね」
「うん、わかってるから」
このまま義之にくっついていれば安心できるだろうが、触れられた嫌悪感は洗い流さない限り消えない。
「義くん?俺、早くお風呂入りたいんだけど……?」
義之が里桜を綺麗にしてくれれば、何もなかったみたいに元に戻れるはずだった。
「洗ってあげようか?」
「うん」
期待通りの返事にホッとした。義之が上着を脱いでネクタイを外すのを待って、一緒に洗面所へ向かう。互いに服を脱いで浴室に入った。
「どこにキスされたの?」
口調は穏やかだったが、その言葉は起こったこと以上の事態を想像しているような気がした。
「だから、髪の毛に触ったのがもしかしたら唇だったのかもって思っただけだよ?でっかい奴だったから頭が真っ白になっちゃって、ホントのところはわからないんだ」
言葉で説得しようとする里桜の腕を引いて、義之は浴槽の縁に腰を下ろした。向かい合うような格好で、里桜を膝に座らせる。
「それで思い出してしまったということかな?」
それが斎藤のことだと思い当たった瞬間、体が震え出した。あの日のことは、なるべく考えないようにしていたのに。
里桜を抱きしめる腕に力が籠もる。義之の顔が、里桜の肩へと伏せられた。
「ごめん、君が高橋を誘ったかもしれないと思うと、自分を抑える自信がないよ」
「え……義くん?」
痛いほどに抱きしめられて、里桜の思っていたのとは違うことを義之が気にしていることを知った。改めて、里桜の弱味につけこんだりしなかった慎哉に感謝した。
「慎とは何もないよ?阿部から助けてくれて、洗い場に行くのについてきてくれて、義くんに電話してくれただけだから」
「本当に?」
「うん。もし何かあったんなら義くんを呼ばないでしょ。だから、もう洗っていい?」
「……そうだね、早く洗ってしまおう」
短いキスのあと、義之は里桜の頭を少し前に倒させるようにして、温いシャワーで髪を流し始めた。繊細な指が何度も梳くように髪を通る。
俯き加減のままで、里桜は洗われるのに任せていた。義之の指はいつもと同じように、優しくて気持ちが良かった。
髪を流すと、今度は体が洗われる。くすぐったいくらい優しく滑ってゆく手に、思わず笑いが洩れそうになった。すぐにも抱きしめてもらいたいと思っていたことを忘れられるくらい、穏やかに体が洗い流されていく。
飛沫を浴びて濡れた義之の髪を、今度は里桜が洗ってあげようかと伸ばした手を止められた。
「義くん?」
余裕を失くしたように胸へ抱きしめられて、一瞬息が止まりそうになった。
「もう、いいかな?」
義之は里桜の答えを待たず、濡れた髪をかきあげて、額から頬へ、耳を辿って首筋へとキスを降らせ始めた。微かに震える肩を竦めると、義之は一旦顔を離して、確かめるように里桜の目を見つめてきた。あの時と違って、見た目ほど穏やかな人ではないと知っているぶん、見透かされそうな不安に目を閉じた。
唇を塞がれると、思わず義之の胸元を押し返してしまう。その腕を掴まれて義之の首に回されると、不安に負けそうになる。
「僕が怖いの?」
「ちょっとだけ」
正直に告白した里桜に、義之が困ったように笑う。
「それくらい他の男にも警戒してくれないかな?」
「だって」
「出ようか」
里桜の反論を聞く気はないらしく、濡れた体を抱いたままで義之が立ち上がる。
「ちょっと立ってて」
里桜の頭からバスタオルを被せて、濡れた髪を拭き始めた。その大きめのバスタオルで里桜の体を包むと、義之は自分の体の水滴を軽く拭った。
膝を折って里桜を抱き上げる義之にくすぐったいものを覚えながら、その首に腕を回す。
「義くん、ごめんね、お仕事サボらせて」
「サボったわけじゃないよ。婚約者が倒れたって言ってきたから公休扱い」
「そうなの?」
「身内の病気の時とか、学校行事とかのために年に5日ほど休みがあるんだよ。今まで殆ど取ったことがなかったから、たぶん20日くらい貯まってるんじゃないかな」
「そうなんだ……」
「ごめんよ、さっきは少し意地悪を言いたい気分だったからね」
寝室に着くと、義之は里桜を抱いたままでベッドに腰を下ろした。首にしがみついていた腕をそっと緩めて、義之の顔を覗き見る。
今度こそ、和解できただろうか。
義之が口元を綻ばせたのを見ると安心して目を閉じた。里桜はまだ、キスをする時も、その先も目を瞑らずにはいられなかった。
「ん……」
胸元を辿ってゆく掌に小さく喘いだ。羽織っていたバスタオルが、隆起の乏しい肌を滑り落ちる。
「里桜は全部、僕のだからね。他の誰にも触らせちゃダメだよ?」
「うん」
今までにも何度となく言われた言葉を束縛だとは思わなかった。愛情と、守護の約束のようなものなのだと思う。
義之の腕に大事そうに抱きしめられた体が後ろへと倒された。熱っぽい眼差しが里桜を見下ろす。
「里桜」
近過ぎる距離で見つめられるとそれだけで頬が熱くなってくる。焦れたように、義之の昂ぶりが里桜の下腹に押し付けられた。
「や、ん」
「里桜?」
閉ざそうとした膝を義之の手が阻む。膝の裏を掴んだ手にそのまま押し上げられると、性急に体を開かされているようで身が竦んでしまう。
「ひゃ、んっ」
いきなり里桜の中に入ってきた少し冷たい指に腰が引けた。思わず身を固くした里桜を宥めるように耳元に吐息がかかる。
「里桜、息吐いて」
「や、できなっ……ぁんっ」
長い指に纏った濡れた感触を内側に馴染ませるように擦られてゆくうちに、気持ちよりも素直な体の奥に情欲の火が灯る。
「ん、ぁん……」
「里桜を僕のだって確かめたい」
囁くような甘い声に絆されて、指の代わりに押し当てられた熱い切っ先を受け入れた。
「はっ……あ」
足を高く抱き上げられて、ゆっくりと円を描くように身を進められると芯から甘く蕩け始める。どうしようもなく欲しかったものを認めた体が緩んでゆく。
「ぁあっ……ん」
息を吐くのを待っていたように深く貫かれて腰が跳ねた。少し遠い義之の体に縋るように手を伸ばす。
「誰にも……僕以外の誰にも、そんなことをしちゃダメだよ?」
せつなげな吐息に胸が詰まる。少しの罪悪感を振り切るようにハッキリと頷いた。
「ん、うん……っあん」
義之の腕に腰を引き寄せられて、ゆっくりと前後に揺すられているうちに、全てが気持ち良さに塗り変えられてゆく。もう、後遺症なんて言葉は欠片ほどの言い訳でしかなく、ただ本能のままに快楽を追いかけた。





慎哉と一緒に下校するのは久しぶりだった。
つき合っている時には気にならなかった人目を意識しながら、10分ほどの道のりを歩く。
朝から慎哉のクラスに行ってゆっくり話したいからと誘った里桜に、少し怪訝な顔をされたが、一緒に帰る約束を取り付けることができた。おそらく、慎哉も昨日のことが気になっていたのだろう。
「緒方さんとは和解した?」
「うん」
「里桜の顔を見てたら、聞くまでもないことだったかな」
「そうかな」
もうどちらかの家に寄るという選択肢のない二人は、帰りすがらの児童公園に立ち寄ることにした。少なくとも、誰が耳を欹てているかわからない通学路よりは落ち着いて話が出来そうだったからだ。
遊具から少し離れたベンチに並んで腰を下ろす。バス停にあるような色気のないそれは、子供のためというよりは付き添いの大人のためにあるらしかった。
誘っておいて、なかなか話せない里桜の代わりに、慎哉が生真面目な顔をして切り出した。
「本当言うと、里桜にもう会えないって言われる少し前から、様子が変だなって思ってたよ」
「え?」
「俺の方を見てるのに目が合わなかったり、体に触られるのを嫌がらなくなったり……慣れてきたのかとも思ったけど、俺といても上の空のことが多かったし、時々授業を抜け出したりしてただろう?」
「慎……」
指摘されなかったから、知られていないのだとばかり思い込んでいた。
「里桜が急に綺麗になったって周りに冷やかされたこともあったよ。でも、里桜を綺麗にしたのが俺じゃないことはわかってた」
確かに、義之と会うようになってから、よく綺麗になったと言われるようになった。女の子でもないのに、恋をしたくらいで綺麗になるなんて思わなかったから、あまり気に留めていなかったが。
「里桜……緒方さんに騙されてるなんてこと、ないよな?」
言い難そうに問う慎哉の気遣いに、小さく首を振った。里桜も最初はもしかしたらと思ったことがなかったわけではない。けれども、過剰な独占欲に裏打ちされた愛情を疑うことは止めた。猫可愛がりする義之が里桜に向ける感情が必ずしも恋愛だけだとは言えなかったとしても、構わないと思っている。
「義くん、二学期が始まってから俺の家から仕事に通ってるんだ。義くんの所からだと学校が遠くなるから俺に合わせてくれて。俺の親とも上手くやってくれてるし、騙すつもりならそこまでする必要ないと思うんだ」
「そうだな、昨日の様子を見てたら俺もそうだと思うよ。ごめん、変なこと言った」
「ううん」
慎哉の心配を素直に嬉しいと思おうとした。でも、甘えるだけで何も返せなかったことが悔やまれて、上手く言葉が続けられない。
沈黙を嫌ったのは慎哉の方だった。里桜の横顔にちらりと視線を投げて、また前を向く。
「この頃、少しふっくらしてきたようだけど」
「え」
「顔もだけど、触れた時に柔らかかったし」
話題は最近の里桜のコンプレックスに変わってしまったらしかった。
「甘い物ばっか食べてるから太っちゃって」
「緒方さんが甘やかしてるんだろうな」
「っていうか、義くんの友達に餌付けされちゃって」
「餌付けって……」
言葉のイメージの悪さのせいか、慎哉はあからさまに険悪な顔を見せた。
「あ、ヘンな意味じゃないんだ。俺、厳つい男の人がダメになってたから、義くんの友達のそういう感じの人に頼んで慣れさせてもらってたんだ。あっくんっていうんだけど、俺が甘いものが好きなの知ってて、毎回ケーキとかチョコレートとか、変わったお菓子とかおみやげを持ってきてくれて」
「……俺は、里桜が甘党だなんて知らなかったよ」
心底驚いた、といわんばかりの慎哉の表情に口を滑らせたことに気付いた。里桜の可愛い容姿に惹かれたらしい慎哉のイメージを崩したくなくて、つき合っている間は敢えて言わずにいたのだった。相当な甘党を自覚しながらも、里桜は生クリームが苦手で、その矛盾を説明するのは難しくて。
「ごめん、なるべく言わないようにしてたんだ。甘党っていっても、俺、生クリームがダメだから、そういうの、面倒くさいし可愛くないから」
「どうして?」
「やっぱ、ケーキって言えば苺ショートだろ?俺、苺は好きだけど生クリームたっぷりとかダメだもん」
「だから、それがどうして面倒くさいとか可愛くないとかになるんだ?」
「だって、昔から親戚の人とかお母さんの友達とかがケーキ買って来てくれるたびに、里桜ちゃんは苺ショートが好きでしょって言われてたから……そんな風に言われると苦手だって言えなくて、そのうちキライになっちゃって。だから、なるべく甘党だってことは言わないようにしてたんだ」
「ふうん……でも、それなら生クリーム以外でって言ってくれればいいような気がするけど」
「だって、俺は生クリーム好きそうっていう印象が強いみたいだし、イメージ崩したら悪いかなあとか思って」
慎哉の表情に苦いものが混じる。里桜は何か気に障ることを言ってしまったらしかった。
「俺は里桜に何かイメージを押し付けてたかな?」
「そんなことないよ。ただ、最初は俺のこと女の子だと思ってたって言ってたし、可愛いって言われたら、なるべくそう有りたいと思ってたし」
「……俺は里桜に女の子みたいにして欲しいと思ったことはないよ。そりゃ、初めて見た時は女の子だと思い込んでたけど、男だと知っても里桜を好きな気持ちに変わりはなかったから、つき合って欲しいって言ったんだ」
「それはわかってるよ、だからつき合うことになったんだし」
そうでなければ、慎哉とつき合ってもいいとは思えなかっただろう。ただ、慎哉が真剣になればなるほど戸惑いも大きくなっていたような気がする。応えたい気持ちと、どこかで否定する気持ちがせめぎあって、慎哉を受け入れてしまうことは出来ずにいた。
「……里桜が俺に打ち解けてくれなかったのはそういうことだったのかな」
「え?」
問い返す里桜に、慎哉は答えてくれなかった。
「あまり遅くならないうちに帰ろうか?」
「うん」
先に立ち上がった慎哉に並んで歩き出す。
公園に近い里桜の家には、ほんの数分で着いてしまう。慎哉の家とは少し道が違うことを思い出して、送ってもらったことに気付いた。
「ごめん、送ってもらって」
「いや、昨日の今日だしね。これからは、よく知らない奴について行ったらダメだよ?」
「うん。じゃ、慎も気を付けてね」
どことなく義之に似た言い方が可笑しかったが、さすがにそう言うのは躊躇われて、軽く手を振って背を向けた。
「里桜」
不意に呼び止められて、慎哉を振り向いた。
「あんなことになる前から緒方さんが好きだったのか?」
無防備に見つめてしまった瞳を奥まで覗き込まれて、咄嗟に否定することが出来なかった。
「……待たない方が良かったかな」
ため息と共に吐き出された言葉が胸につき刺さる。里桜も何度かそう思ったことがあったが、今はそうではないと思う。もし、慎哉との約束が全うされていたとしても、義之と出逢った瞬間に惹かれてしまうだろう。その時、義之に他の誰かがいたとしても、里桜を振り向いてくれなかったとしても。それは予感ではなく確信だった。
「ごめん」
苦しげな顔を見ているのが耐えられなくて、里桜はまた自分が楽になる言葉を言ってしまう。
「だから、もう気にしないで?」
その残酷さに気付かないまま、里桜は慎哉と別れた。





「おかえり」
インターフォンの音と同時に玄関まで走った。まだ靴も脱いでいない義之に“ただいま”のキスをねだる。
「どうしたの?何だかテンションが高そうだけど」
「うん。今日、慎と一緒に帰った」
一瞬、嫌そうな顔をする義之にドキリとしたが、すぐに表情を和らげて里桜の背に手を回した。リビングに移動しながら、話を続ける。
「昨日の話?」
「それもだけど、ちょっと話したいなあと思ってて。でもね、慎、知ってたみたいだった」
「何を?」
「俺が義くんと会ってたことも、好きだったことも」
嬉しそうな顔をされてから、その理由に気が付いた。
「わかってても口に出して言われると嬉しいな」
「もう……こういうのを言葉のアヤって言うんでしょ」
「ちょっと違うと思うけど」
義之の解説は聞かないことにした。
「それより、ご飯はお父さんが帰ってからでいい?8時過ぎになるって言ってたけど」
体調の優れない母の代わりに、今日は夕食の用意も全て里桜がしていた。これから当分そうなるだろう。
「じゃ、先にシャワー使わせてもらうよ」
「うん」
「里桜がネクタイを外してくれないかな?」
「うん。えっと、こっちだっけ?」
まだ人のネクタイを外すことに慣れない里桜は、緩めてもいない襟元に手を入れて、輪の左側をグッと引いてしまった。
「……里桜は僕を殺す気かな?」
少し強めに、義之の手が里桜の手を掴んだ。
「ごめんなさい」
里桜の指を結び目にかけさせる手に誘導されるまま、軽く揺するようにして緩める。その片側を引くと、難なく解けた。
「そのうち里桜に結んでもらおうと思ってたけど、殺されかねないかな」
意地悪く笑う義之が、拗ねる間もくれずに里桜を引きよせて口付ける。ネクタイを外した襟元へ手を引かれて、ボタンを外して欲しいということかと思って顔を熱くした。すぐにHなことを連想する里桜がおかしいのかもしれないが、逸る鼓動を抑えようがなかった。
「ちょっと練習する?」
「え、と、結ぶの?」
「そうだよ。結べたら、また解いて」
どうやら色っぽい方向に向かっていたわけではなかったらしい。
「じゃ、義くん座って?腕がだるくなっちゃう」
すぐに結べるほど里桜が上手ならともかく、20センチ以上の身長差がこういう時には不便だった。
ソファへ腰掛けてもらい、里桜は義之の脚の間に割り込むような格好で膝をついた。
「えっと、こっちが上になるんだから、少し長めにしておくんだよね?」
「そうだよ」
以前教わった通り、片手で合わせ目を押えて、長い方をくるりと通そうと思ったが、手がこんがらがってしまいそうになる。
「ああ、もう……反対だからわかんない」
「向かい合わせだと結び難いの?」
「うん」
「僕の背中の方に回ってみる?」
そうすれば、逆手のようにはならないぶん、少しはマシかと思った。
あまり義之の背後に回ることがなかったせいで、意外なほど広い背中にドキドキする。
震えがちな指では、やっぱり上手く結ぶことは出来なかった。
「……やっぱ、ムリ」
「里桜も高校の冬服はネクタイじゃないの?」
「そうだけど、すぐ衣替えになったから冬服着たの1ヶ月ちょっとだもん」
「その1ヶ月はどうしてたの?」
「お母さんか秀に結んでもらってた」
呆れた顔にヘコみそうになったが、事実なのだから仕方がない。
「なんか里桜は不思議だね。料理も掃除も上手なのに、ネクタイが結べないなんて」
「俺、裁縫も苦手だもん」
家庭的なことは得意だと公言して憚らないような里桜だが、実は裁縫は大キライだった。料理にしても掃除にしても、決して手抜きをしているわけでないが、細かなことはあまり得意ではない。
「そうなの?じゃ、僕のシャツのボタンが取れたらどうしようかな」
「……義くんもボタン付けできないの?」
「できないことはないけど」
「それなら、自分で付けたらいいでしょ」
「冷たいなあ、僕は里桜にして欲しいんだけどな」
すぐに甘い声と優しい腕で里桜を懐柔してくる過保護な恋人に、容赦なく言葉を返す。
「ダメ。ボタン付けとアイロン掛けは義くんの管轄」
「え、アイロンもなの?」
「うん。俺、調理以外は家庭科ダメだもん」
開き直る里桜に、義之が困ったような笑いを洩らす。気付かないフリで、念を押すことにした。
「だから、料理も掃除もしなくていいから、縫い物とアイロン掛けは義くんがしてね?」
「だから今までハンカチ一枚、アイロンを掛けてくれなかったんだ?」
「うん」
好きな人にはできるだけマイナス部分を見せたくないと思うのは、人間としてあたり前のことのはずだ。
「しょうがないなあ」
ホッとしかけたのも束の間、笑顔のままで義之が言葉を続けた。
「じゃ、ネクタイを結べるようになったら、次はアイロン掛けだね。それからボタン付けが出来るように頑張ろうか」
「ええー」
てっきり、義之がしてくれると言ってくれると思っていたのに。
里桜の抗議にも、義之は眉ひとつ動かさない。
「里桜が卒業するまで貰い受けられないんだから、しっかり花嫁修業しておかないとね」
「花嫁って何なの……」
「他に適切な言葉がないんだから仕方ないだろう?便宜上、そういう表現をしてしまうだけだから気にしないで。もちろん、里桜が良かったらウェディングドレスでもカクテルドレスでも着てくれて構わないよ?」
「何度も言ってるでしょ、俺はそういうのは着ないの」
「でも、里桜にタキシードが似合うとは思えないんだけどね」
「だから、結婚式もしないし、写真も撮らないんだってば」
「一生に一度しかないことなのに?」
断定的な言葉に、一応反論してみる。
「義くんは一度じゃないでしょ」
「僕はね。でも、里桜はこの先一生、他の誰ともできないんだからね」
それを横暴だと考えもしない義之の神経はおかしいと常々思っているのに、本人は至ってあたり前のような顔をしていた。
「一生なんて、わかんないでしょ」
「僕は里桜より先に死なないし、他の男に里桜を取られるくらいなら殺すよ?」
相手の男をなのか、里桜をなのか聞くのは恐ろしいのでやめた。おそらく、それがただの比喩ではなさそうなことも。里桜の恋人が優しいだけの男ではなかったことを、改めて思い知らされたような気がした。
「俺より長生きしてね」
そっと、背中から義之の首へ抱きつく。その手に手を重ねる義之が里桜を振り向いた。
「わかってるよ。たとえ一日でも里桜より長生きするから心配しないで」
自信有りげに言い切る義之の肩に凭れかかりながら、この横暴さを兼ね備えた恋人が約束を守ってくれることを切実に祈った。



- 仔猫の依存症に効く薬 - Fin

【 仔猫の人見知りを治す薬 】     Novel       【 仔猫は一途に、わがままを貫く 】


もちろん、殺す(ような目に遭わせる程度でしょうが)のは相手の男の方です。
里桜を殺してしまったら、心中でもしないかぎり、義之は失くしてしまいますし。
義之は自殺するようなタイプではありませんし。