- 仔猫の人見知りを治す薬 -



部屋に帰り着いたとたん、倒れ込むようにソファに座りこんでしまった。
大きく息を吐いた里桜の傍に義之が腰掛ける。
「疲れた?」
「うん」
素直に、もしくは嫌味に頷いた。
2時間ほど食事に出掛けただけなのに、里桜はずいぶん精神的に疲労していた。理由はわかっている。途中で出会った義之の友人だという男の雰囲気が、里桜の一番苦手なタイプだったからだ。しかも、すごく意地悪そうだった。
おそらく、義之が意図的に会わせたのだと思う。わざわざその人の勤務先の近くを通って食事に行ったのだから。
里桜の右側から、義之が顔を覗き込んでくる。
「あまり時間もないことだし、淳史にリハビリに協力してもらおうと思うんだけど?」
「ええっ……」
通りすがりに出会っただけでもこんなに消耗しているのに、リハビリなんてとんでもないと思った。
「多少の荒療治も必要かもしれないよ?ここから学校に通うんならともかく、里桜の家からだと登校拒否なんてできないだろう?」
確かに、母親が昼間家にいるような状況では、やっぱり行きたくないなんてわけにはいかないだろう。
「リハビリって何するの?」
「とりあえずここへ来てもらって、一緒にいるだけでもいいんじゃないかな。里桜が慣れてきたらその先を考えよう」
一緒にいると考えただけでユウウツになってしまいそうだ。
抱きよせられるまま、義之の胸元に凭れかかった。この腕以上に欲しいものなど何もないのに。
もし里桜が大人だったら、何もかもを放棄してここに引き籠ったまま義之だけを待っていてもいいのだろうか。誰かの歌のように、部屋を磨いて、洗濯をして、ご飯を作って、義之のことだけ思って過ごしても許されるのだろうか。
不意の恐怖心は、やっと外に向きかけていた里桜をまた怖気づかせようとする。思い出してしまいそうな記憶を封じるために、義之の肩に凭れかかった。
「ね」
上目遣いに義之を見上げると目が合った。わかっていると言いたげな義之の首に腕を絡めてキスをねだる。唇が触れ合うと、ホッとするというより急かされたように気が逸った。
あの日、義之に刷り込まれた記憶が里桜を不安定にさせる。怖い思いをした後は無性に体が熱くなってしまう。宥めてくれるのは義之だけだということを知っている体が、性急に昂ぶっていく。
場所を変えることも忘れて、夢中で義之のくれる安堵を追いかけた。



インターフォンが鳴っただけで飛び上がりそうな里桜の代わりに、義之が玄関まで淳史を迎えに出る。里桜はその低い声を耳にしただけで、無意識にソファで畏まってしまった。
前もって聞かされていても、そんなにあっさりと覚悟なんてできるものではないと思う。
室内で見ると、以前会った時以上に淳史が大きく見えた。仕事帰りらしく、スーツ姿のままだ。その大きな上着には里桜が3人くらい入れそうな気がする。
差し出されたケーキの箱に手を伸ばそうと思うのに、バクバクと騒ぐ心臓が里桜の指を震えさせた。
「甘い物が好きだって聞いたからな」
「ありがとう、ございます」
消え入りそうに小さく礼を言う里桜に手渡すことは諦めたらしく、淳史はその箱を義之の方に差し出した。
「何を買ってくれたのかな?」
「さあな、適当に詰めてくれって言ったからな」
勧められる前に、淳史はさっさとソファに座り込んでしまった。義之が対面側に腰を下ろして里桜を手招きする。行きたくはなかったが、仕方なくソファの端に浅く腰掛けた。
「里桜は生クリームたっぷりなんてのはダメだからね?」
義之の責めるような口調に、淳史は気を悪くしたらしい。
「甘党なんじゃなかったのか?」
「そうなんだけど、むつこいのはダメなんだよ」
「我儘だな」
別に、里桜が買ってくれと頼んだわけではないのに。
箱を開けた義之が里桜の腕を引っ張る。
「ほら、里桜の好きそうなのばかりだよ?」
あまり気は進まなかったが、視線を向けてみる。
一瞬、その送り主のことを忘れてしまいそうなくらい、箱の中を見つめてしまった。パウダーシュガーのたっぷりかかったガトーショコラ、大粒のいちごが乗ったタルト、とろけそうなレアチーズ。里桜が食べられそうにないものはひとつも入ってなかった。
「本当に好きなんだな」
呆れたようなもの言いに、里桜は我に返った。ケーキに見惚れている場合ではなかったのだった。
「おかげでデートに誘うきっかけを悩まないですんだよ」
義之はともかく、淳史の前で食い気に負けた自分が情けなくて俯いた。
里桜の頭を軽く撫でて、義之が席を立つ。縋るように見上げた里桜に、やさしく笑いかける。
「お茶を入れてくるよ。淳史はコーヒーの方がいいかな?」
「そうだな」
ソファの対極に座っていても、リーチの長い淳史の腕を伸ばせば届きそうな距離だ。里桜に何の興味も示さないとわかっていても、その大きな体がそこにあるだけで怖くて仕方がなかった。
小柄な里桜を簡単に自由にできるだろう、恵まれた体格に鍛えられた筋肉を備えた厳つい男が、傍にいるというただそれだけで震えてきそうになる。
「怖がられるのには慣れてるが、こうあからさまだといい気はしないな?」
「ごめんなさい」
「俺が何かしたか?」
淳史に似たような体格の人が、と言えたらいっそ楽になるのだろうか。
「淳史じゃないよ、前に言っただろう?痛い目に遭ってるって」
義之の言葉に顔を上げると、義之がアイスティとアイスコーヒーの乗ったトレーをテーブルに置くところだった。ソファに戻ろうとする義之のために深く座り直す。里桜が奥へ詰めることなど考えもしなかった。
「あっ……」
空けたままだった淳史の正面へ戻った義之に、気を抜いた里桜の体が引きよせられた。今に始まったことではなかったが、義之はソファに腰掛ける時にはたいてい里桜を膝の上へと抱き上げる。
真っ赤になって暴れる里桜にも、当たり前のような顔を崩さない義之にも、淳史は特に思うところもないのか表面に出さないだけなのか驚いた風ではなかった。
「そういや、そんなことを言っていたな。だからといって、おまえに何の興味もない俺にまで襲われそうな顔をするなよ。俺は義之のような趣味はないし、たとえ頼まれたって襲いようがないからな」
「ごめんなさい」
「淳史みたいなタイプが特にダメなんだよ。他の人は直接触ったりしなければ大丈夫なようだけどね」
「そうか」
コーヒーのグラスに伸ばされた大きな手が、里桜の方へ来るような錯覚を覚えて目を瞑った。背後から抱かれた体を捩って、義之の首へギュッとしがみつく。
もちろん、身を固くした里桜にその手が触れるわけはなかったのだが。
おそるおそる目を開けてみると、何事もなかったように淳史は上着から煙草を取り出していた。
「吸ってもいいか?」
里桜に尋ねられたのだと思ったが、義之が答える。
「ダメだよ。里桜がいるのに」
「しょうがないな」
徐に立ち上がった淳史がベランダに向かう。
ホッとする反面、申し訳なく思った。
「俺、煙草が苦手ってことはないよ?」
淳史に聞こえたのかどうかはわからなかったが、戻ってくる気配はなかった。
「傍にいる人の方に害があるんだから、吸いたい奴が席を外せばいいんだよ」
そんな風に言い切ってしまう義之はもしかしたら嫌煙家なのかもしれない。
膝から降りようとした里桜の体が、腰に回された腕に阻止される。
「義之さん?」
「ダメだよ」
「でも、これじゃ届かないよ?」
まるで縛められるように義之の腕に捕まった体を前に倒してみるが、とてもアイスティには届きそうになかった。
「ひゃ」
いきなり首の後ろを指先でくすぐられて飛び上がりそうになった。首をすくめる里桜の頬にかけられた手が義之の方へ振り向かせる。窮屈な体勢で唇が塞がれた。
「ん」
いくら淳史がベランダに出ているとはいえ、二人きりとはいえないのに。
離れようと暴れても、捩った体を戻すことはできなかった。強引なキスに、体から力が抜けてしまいそうになる。
頬を包んだ手の平が首筋へと滑ってゆく。距離を取ろうとした体を引き止めるように胸元に回された手が別の意図を持って服の上を辿る。
「ダメ」
義之の手を止めようと自分の手を重ねた時、別な手がデニムの前へと滑ってきた。
「あ……」
やんわりと撫でられただけで、体が里桜の思い通りにならなくなる。
デニムのボタンがひとつずつ外されてゆくのを止めようと伸ばす手が震える。薄い生地の中まで忍んでこようとする手に首を振った。
「いや、いや」
大きな声を上げるわけにもいかず、小さく拒否をくり返す里桜の首筋へ、噛み付くようなキスが降ってくる。きつめに吸われると体中の力が奪われてしまうように逆らえなくなる。
「だめ、お願い」
義之が何を考えているのかわからない。淳史を呼んだのは義之なのに、どうしてこんなことをしているのか。
「義之」
声にハッとした。いつの間にか、淳史が窓の内側に入ってきていた。さすがに気を遣ってか、すぐに傍に来るようなことはなかったが、何が起こっていたのかは一目瞭然だっただろう。里桜は恥ずかしさのあまり顔を上げることができなかった。
「児童虐待は二人だけの時にしろ」
苛立ちのこもった声が義之を非難する。
「虐待なんてとんでもないよ、愛し合ってるんだ」
「そういうのを世間一般的に虐待っていうんだ。どう見たっておまえの一方的なセクハラ行為だぞ」
里桜を抱きしめたままで義之が平然と言い切った。
「セクハラはひどいな。里桜が嫌がることはしてないんだけどね」
「俺には合意には見えないんだが?」
少し目尻の上がった怖そうな目が里桜に同意を求めているようだったが、とても口をきけるような状態ではなかった。
淳史が里桜から離れた元の位置に腰掛ける。
コーヒーの入ったグラスを片手で持ち上げて、テーブルに置かれたタオルで水滴を拭う。意外と神経質らしい。
「案外、PTSDの原因はおまえなんじゃないのか?」
淳史の言葉の意味を取り違えて、里桜の血の気が引いていく。この一見傍若無人な義之の友人はどこまで知っているのだろう。義之とは親しいようだから、何もかも知っていてもおかしくはないのかもしれない。だからこそ、里桜を庇うような言い方をしたり義之を責めるような言葉を使うのだろうか。
「否定はしないけど、淳史の言ってるのとは意味が違うよ。僕はこの子のトランキライザーだからね」
「当人同士がいいんなら口出しすることじゃないんだろうが、俺の前ではベタベタするな。好きで来てるわけじゃないんだからな」
淳史の言葉に、自分の都合ばかりを思っていた自分を少しだけ反省する。絶対安全な相手だからリハビリにつき合ってもらおうと義之に言われていたのに、その見た目だけで引きまくっている里桜はきっと心象を悪くしてしまっただろう。
「ごめんなさい、忙しいところを来てもらってるのに……」
一瞬の沈黙が何とも居心地が悪かった。
「おまえより仔猫の方がよっぽどまともだな」
褒められたのか貶されたのか、淳史の言葉は判断に迷う。
「ちょっと人見知りが激しいだけだからね」
「あの」
口を挟むのはどうかと思ったが、一応、訂正をしておかなくてはいけない。
「俺、仔猫じゃないです」
「大人には見えないが?」
淳史の反論はおかしいと思うのに、当たり前のように言われてしまうとすぐに返す言葉が出てこなかった。
「里桜はまだまだ仔猫でいいんだよ、そんなに急いで大人にならなくても」
「そうじゃなくて……俺、ペットなの?」
「またそんなことを言ってるの?里桜がペットだったら家から一歩も出さないよ。首輪をして鈴を付けて、僕がいない時にはケージに閉じ込めておくよ」
里桜以上に、淳史が呆れてしまったらしい。
「本気で犯罪だからやめろ」
「だから、猫だったらって話だよ」
もしかしたら、GPSもステディリングもそれに類するものなのではないだろうか。里桜の両親との約束がなかったら、家にずっと引き籠っていてもいいと言っていたのはそういう意味にも取れる。
「なんか身に覚えがありそうな顔をしてるぞ?」
淳史の声にハッとした。
「まあ、犯罪者にならない程度に抑えているから心配しないでいいよ」
今更のように、本当に怖いのは恋人の方だったことを思い出した。


淳史の帰ったあとも、義之は膝に里桜を乗せたままだった。
睡魔がやってくる前にそろそろソファではなく寝室に移った方が良さそうだったが、何となく言い出せずに義之の肩に頭を預けてぼんやりとしていた。
なるべく考えないようにしていた不安が現実になりそうで怖かった。残り半月足らずしか残っていない夏休みで恐怖心は拭い切れるのだろうか。
「……俺、本当に学校に行けるようになるのかな」
「淳史になるべく時間を取って来てくれるように言ってあるから頑張って慣らそうか」
「うん……」
淳史が見た目ほど怖くないことはわかったが、苦手だと思う気持ちに変わりはない。里桜のために時間を割いて来てくれたこともわかっているが、どうしても気後れしてしまう。
里桜を片手で封じ込めてしまえそうな大きな手も、押え込まれたら絶対に押し戻せそうにない厚い胸板も、低く響く声さえも怖くて仕方なかった。
淳史のことを考えていると、また思い出してしまいそうになる。
「里桜?」
義之の胸元に凭れかかった里桜に、心配げな声がかけられる。この不安を拭う方法はひとつしか知らない。
義之の首へ抱きついて小さく呟いた。
「して」
そっと、里桜の髪が撫でられて、顔を上げるように促される。触れ合った唇がゆっくりと深められていく。さっきとは違って、ずいぶんゆったりとしたキスだ。
じれったい。
早く不安を吹き飛ばしてくれればいいのに。何も考える余裕もないくらい、今すぐに奪ってほしかった。
焦って義之のシャツのボタンを外そうと試みるが、思うようにならない指先がもどかしい。
その手首が取られて指先に口付けられる。義之の首へと回されて、おとなしく抱きしめているよう念を押されたようだ。
義之は里桜があまり積極的になるのは好きではないのだろうと思う。与えられるのを慎ましく待っていればいいのかもしれないが、不安に負けそうになってつい急かしてしまうのだった。
焦らされている間にあの絶望的な記憶を思い出すようで怖かった。ただ屠られるだけの草食動物のような弱々しい自分を、当たり前のように引き裂く肉食動物のような猛々しい相手から逃れる術はないのだから。
義之の手に奪われていく洋服が肩を通り、腰を滑って一枚ずつ床へと落ちていく。纏うものが無くなるとクーラーの効いた部屋は肌寒く、体温を感じたくて義之の肌へとぴったりと寄り添った。
背骨を伝い降りた指が里桜の中を探ろうとする。息を緩めて協力する里桜の内側へと沈んだ指が迷いもせず一点を突く。
「んっ……」
背を逸らした里桜の、より深い所へ潜っていこうとする指を腰を浮かせて止める。
「ここがいいの?」
囁くような声に小さく頷いた。少し浅い所を突き上げられると何も考えられなくなる。
「や、だめ」
指が抜かれようとするのを止めようと腰が追う。
「里桜」
宥めるように囁かれて、指の隙間から熱いものがあてがわれる。一気に押し入ろうとする義之に反射的に腰が引けた。
「里桜」
焦れたように首筋に口付けられて、腰を引き戻されるともう逆らえない。決して肉食獣には見えないのに、義之は時々そのやさしげな表情のままで獰猛な獣に変わってしまう。義之になら貪り食われるのも本望だったが、できれば今日はやさしいままでいてほしかった。あの時のように、壊れ物を扱うように慎重に触れてほしい。
「は、んっ……や、あ」
突き上げられる激しさに体が引き裂かれそうな錯覚を起こす。もうあの時のような何も知らない幼い自分ではないのに。少しくらい手荒に扱われても、むしろ気持ち良いと感じているくらいなのに。パニックになるとあの日に戻ってしまうような気がして、それが余計に里桜を不安にさせる。
里桜の望みは叶えられなかったが、義之の胸に倒れ込むように眠りに落ちる時にも、不安に支配されてはいなかった。



当初の約束通り、今日は淳史と夕食を一緒することになっていた。
メニューは、義之と相談しながら和食党らしい淳史に合わせて決めた。さばの味噌煮に切り干し大根の煮物とほうれん草としめじの白和え、それに大根の味噌汁。何とも渋い取り合わせだと思ったが、淳史の気に入るのならそれでいいのだろう。こちらは協力してもらう立場だ。
インターフォンの音に、今日は里桜が玄関まで出迎えに行った。
「こ、こんばんは」
緊張する里桜に、淳史がオレンジがかった格子柄の包装紙に包まれた大きな箱の入った袋を差し出した。見覚えのあるそれはたぶん里桜の大好きなものだ。だからというわけではないが、今日は頑張って両手でそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「そんなに畏まらなくていいぞ、普通にしてろ」
普通に、の意味が掴めず迷う。緊張するなということだろうか。それとも、タメ口をきいてもいいということかもしれない。確かめようと思った時には、もう淳史に先にリビングの方へ行ってしまっていた。
「悪いね、度々」
義之がソファに座ったままで淳史に声をかける。何か言いたげな顔をしていたが、淳史は短く答えただけでソファに深く座り込こんだ。疲れているのかもしれない。
「あの、すぐにご飯にします?お酒飲むって聞いてますけど」
「おまえもまだなんだろう?飲むのは後でいい」
「じゃ、すぐに用意しますね」
「普通に喋れよ?」
「あ、はい」
やはり、固い言葉遣いはしなくてもいいようだ。どちらかといえば上からものを言っているような淳史に、つい遜ってしまうのだったが。
キッチンへ向かう里桜を追うように義之がついてくる。
「だいぶお疲れのようだから、食事を出したら機嫌が治るよ」
「そうなの?」
「まちがいないよ」
義之の予想通り、淳史は食事が進むにつれて、少しずつ喋るようになった。本当に、ただのエネルギー切れだったのかもしれない。
「9月から義之もそっちの家に行くんだろう?ずいぶん理解のある親なんだな」
「ここからだと学校が遠いし、元々夏休みの間はお試し期間だったんです」
「そうなのか?」
「様子見というかね、里桜が学校の勉強と家のことをちゃんとできたらそのまま一緒に住んでいいという約束だったんだよ。でも、距離の問題は如何ともし難くてね」
「他人と一緒に住むというだけでもきついのに尊敬するよ」
「僕は全然苦じゃないよ。それに、里桜のお義母さんとは話も合うしね」
ピク、と耳が立ってしまいそうになる。里桜の思い過ごしではなく、やはり義之も母と気が合うと思っていたらしい。
「こいつの親っていくつくらいなんだ?」
「確か37歳だって言ってたかな」
「親の方が年が近いんだな……」
淳史も多少のショックを受けたらしい。そんな風に言われるたびに、義之も里桜との距離を感じているのだろうと思って辛くなる。
「里桜?」
黙って席を立つ里桜に、義之が声をかけた。
「先に片付けてくるね」
二人が飲んでいる間に片付けて、里桜はお茶の用意をしようと思った。余計なことを聞いて、また落ち込んだりしたくない。
里桜の予想通り、淳史が持ってきてくれたのはカットされていないバウムクーヘンだった。こんな大きなものをもらうのは初めてかもしれない。
「里桜、片付けが終わったらこっちへおいで」
「うん」
アイスティーと、自分でカットしたバウムクーヘンを持ってテーブルに戻る。おとなしく義之の傍に戻り、邪魔にならないようにちょこんと腰掛けた。さっそくバウムクーヘンに手を伸ばそうと思っていたのに、義之の腕に引きよせられて阻まれてしまう。いつものように膝へと抱き上げられて腰の辺りに腕を回されると、もう届かなくなってしまった。
「義之、それじゃ食えないだろう?」
里桜の思っていたことを、淳史が代わりに言ってくれた。すぐに、里桜の動きを妨げる腕が緩められて、テーブルに手が届くようになった。
「里桜を見るとつい膝に乗せたくなるんだ」
「猫は抱かれるのは嫌いなんじゃないのか?」
「里桜はまだ仔猫だから大丈夫だよ」
もう何度目かわからない、お決まりの言葉を返す。
「だから、俺は仔猫じゃないの」
「膝に乗るのが嫌なの?」
「そうじゃなくてね、ふつう人前でそういうことしないでしょ」
「ほら、やっぱり膝に乗るのは好きなんだよ」
嬉しそうに淳史を見る義之にそれ以上の反論をするのはやめて、バウムクーヘンの方に集中することにした。どうせ、都合の良いようにしか聞いてくれないのだから。
「同居を始めたらここはどうするんだ?」
「同居と言っても週末はこっちで過ごすつもりだよ。さすがに父兄同伴じゃ良いことも悪いことも難しいからね」
その意味を深く考えると頬が熱くなってくる。里桜の父親に遠慮しているという義之の言葉を信用するなら、実家にいる間は対処に困るような事態に陥る心配はないのだろう。
「休出が掛かることだってあるだろう?」
「僕は基本的には土日祝は仕事しないんだよ。知ってるだろう?」
「そうそう我儘が通るのか?」
「売り上げに貢献してくれる人がいるおかげでね」
二人の話を聞いていると自然に瞼が落ちてきそうになる。話し声が子守唄のようになるとは知らなかった。だから授業中も眠くなってしまうのだろうか。そうでなくても、里桜が眠くなっても仕方がないような時間になっていたが。
「そういう所は拒否しないんだな」
「親孝行のうちだよ」
義之の言っていることの意味がわからない。なにやら変なことを言っているような気がするが、思考力が鈍ってきて理解できそうになかった。
義之に引きよせられるまま肩に凭れかかると睡魔が加速する。
「里桜?」
義之の呼びかけに生返事をしながらも、思考は殆ど働いていない。
抱きよせられる体を無防備に任せたまま、すっかり夢見心地になっていた。時折、二人の会話に出てくる仔猫というのが自分を指していることに抗議しようと思いつつ、喋るのも億劫でできなかった。
こんなに近くに淳史がいるのに。義之が一緒だからか、淳史が美味しい物を持って来てくれる“いい人”だからかわからなかったが、最初ほどは怖いと思わなくなっていた。
甘い物の威力は凄いと義之に思われているなどとは知る由もなく。


目が覚めるとベッドの中だった。
しかも、もうそろそろ起きなければいけないような時間になっていた。
「おはよう」
義之が枕にしていた腕を引きよせるようにして里桜に口付ける。
「おはよ……俺、昨日、あのまま寝ちゃったの?」
淳史が持ってきてくれたバウムクーヘンを一人で半分近く食べてしまった所までは覚えている。美味しくてつい食べ過ぎてしまい、満腹感で急速に訪れた睡魔にあっさり負けてしまったのだと思う。
「そうだよ。おかげで淳史に寝顔を拝ませてあげたよ。ちょっと勿体無かったけどね」
義之のテンションの異常さにはついていけそうにない。話題を変えるために今夜の予定を尋ねる。
「今日も一緒にごはん食べるのかな?」
「どうかな。また夕方までには連絡があると思うから、わかったら知らせるよ」
「どっちになってもいいように今日も煮物いっぱい用意しとこうかな」
「そうだね。淳史は年のわりに渋好みだからね」
年のわりにといっても、もう30才近いのだからそう若いとは思わなかったが。
「今、おじさんぽいって思ったんだろう?」
「そんなこと……」
どうも里桜は顔に出やすいらしく、思っていることをすぐに義之に読まれてしまう。
「僕も同じ年齢だからね、里桜にそういう風に思われてたのかな」
「ちがっ……義之さんは全然おじさんぽくないよ」
「どうかな」
疑り深そうな眼差しを里桜に向けて弁解を待つ義之に、必死に言葉を探す。
「男前だし、優しいし、とても俺の倍近い年齢だなんて思えないよ」
「里桜、言ってることが滅茶苦茶だよ……とても褒められているようには思えないんだけどね?」
「ごめんなさい、ホントに悪気はないんだ」
「わかってるけどね」
里桜を引き寄せて、義之が唇を塞ぐのをおとなしく待つ。何か言ったりしたりするほど深みに嵌ってしまいそうだった。
短いキスで義之が体を起こす。
「晩ご飯の前に、朝ご飯の用意をしてくれないかな?」
「ごめん、すぐに起きるね」
昨夜は着替えた覚えもなかったのに、いつの間にかパジャマを着ていることに今更ながら気が付いた。かといって、それを追求しているような時間もなく、とりあえずキッチンに急いだ。



淳史は土日以外のほぼ毎日、手土産を持って訪れた。
申し訳ないと思いつつ、差し出される薄い箱に手を伸ばして受け取った。持ってきたものに遠慮しても気を悪くさせてしまうだけだということくらいはわかっている。ただ、そんなに気を遣わないでいいと断るタイミングと言葉が難しくて、なかなか言い出せずにいた。
「渋好みだって聞いてたから今日も渋いメニューだよ」
良かれと思って言ったつもりが、言葉選びを間違えたらしかった。
「年寄りくさいと言いたいのか?」
低めの声で返す淳史が、少し目元を眇めただけで迫力が増す。
「淳史」
義之が窘めるように名前を呼ぶ。見た目の印象ほど怖くないことも、美味しいものを持ってきてくれるいい人だということもわかっていたが、まだ怖いという気持ちを消してしまうことはできずにいた。こんな風に声を荒げられたりすると、体が竦んで固まってしまう。
やれやれ、と言いたげな顔で里桜に言い直す。
「気を遣わせたな。特に好き嫌いはないから合わせてくれなくてもいいぞ」
「でも、トマトは出しちゃダメだからね」
淳史の殊勝な言葉に、義之が口を挟んだ。
「トマト、嫌いなの?」
聞くまでもないのに、つい尋ねてしまっていた。
「生魚もな」
開き直ったように告げる言葉に、茶化すのはやめた。
「じゃ、お刺身とかもダメなんだよね。気を付けとくね」
「そんなに気にしなくていい。傍で食われるぶんには平気だからな」
確かに、里桜は毎回、甘い物が苦手ならしい淳史の前でお菓子を食べているが、嫌な顔をされたことはなかった。
「すぐご飯にしていいんだよね?」
一応、淳史に確かめてからキッチンに急ぐ。いつものように、義之が手伝いについてきた。
キッチンの一番奥まった場所で、グリルと煮物の鍋に火を入れながら小声で義之に抗議する。
「義之さんが渋好みって言ってたのに、怒らせちゃったよ?」
「僕が言うのと里桜に言われるのとじゃ全然違うからね」
「何で?」
「里桜が僕たちの半分くらいの年齢だからかな」
わかったような、わからないような微妙な答えだった。里桜が子供だから気が悪いということだろうか。
用意できるものから先に義之が運んでくれる間に、鍋の様子を見守りながら考える。
結局のところ、淳史はどう思っているのだろう。里桜をまさしく猫可愛がりする義之との関係は、ままごとのようにしか写っていないのだろうか。ことある度に仔猫と呼ぶあたり、里桜を一人前に思ってくれていないことは間違いない。
「里桜?」
「あ、うん」
「もういいんじゃないかな?」
義之の目線の先にある煮物の鍋は2つともふつふつと沸いていた。
「ごめんなさい、ボーっとしてた」
急いでスイッチを切ると、義之が中身を深皿に移すのを手伝う。その間に里桜は赤だしを注ぎ分けて、グリルを覗いた。
「こっちはもう少しかな」
今日のメニューは、スズキの塩焼きにきんぴらごぼう、オクラと山芋の和え物になめこの赤だしだ。しょっちゅう、お祖母ちゃんの家に遊びに行っていたような里桜にとってはそう珍しくないものばかりだが、おそらく同年代の友達には引かれてしまうようなメニューなのだろう。
一通り揃ってから里桜もダイニングテーブルの自分の席についた。軽く両手を合わせて食事が始まる。
淳史の視線が、小口切りにした赤唐辛子が映えるきんぴらに止まる。
「おまえは辛いのが好きなのか?」
「ごめんなさい、濃いかな?」
「いや、そうじゃないが、いつも香辛料がよく効いているだろう?」
なんとなく、淳史はそういう方が好みだと思って、意識して少し多めに使っていたかもしれない。
「里桜はすごい辛党なんだよ。初めてカレーを出された時には驚かされたよ」
「意外だな」
「そうなんだよ。見た目がすごい可愛い感じだったしね、まさか激辛だとは思わなくて何気に食べてしまったよ」
やはり、里桜のカレーは義之には不評だったようだ。
「それは食ってみたいな」
だから、淳史がそんな風に言ってくれたのは嬉しかった。
「ほんと?明日にでも作っていい?義之さん、辛口までしかダメって言うから」
「里桜、僕の感覚は普通だよ?きみの味覚が両極端なんだよ」
「そりゃ楽しみだな」
「じゃ、頑張って辛いの作るね」
淳史の了承がもらえたから明日は久しぶりに激辛カレーが食べられそうだった。


後片付けが終わり、大人二人が飲み始めると、里桜は手持ち無沙汰になってしまう。お酒につき合えない里桜は、カウンターに置いてあったお土産の包みを解いて、箱ごと持ってソファに移った。
義之はいつものように、隣に腰を下ろそうとした里桜を膝へと引き上げようとする。どう考えても、お酒の相手にならない里桜には不適切な体勢だ。
「義之さん」
責めるように声を強めた里桜にも、義之はちっとも悪びれない。
「ちょっと腕が冷たいね、寒い?」
「クーラーを効かせ過ぎなんじゃないのか?」
「淳史も暑いのは苦手だろう?」
「そりゃそうだが、効き過ぎだと思うぞ」
淳史が暑がりだと聞いていたから何も言わずにいたのだったが、やはり効き過ぎているようだ。
「やっぱり、涼し過ぎるよね……?」
淳史に同意を求めると、少し驚いたように頷いた。
「猫だけに寒がりなんだな」
「くっついているとちょうどいいんだよ」
体に回された腕に力を籠められて、今更のように寒いほどクーラーを効かせている理由を知った。
「わざわざ寒いほどクーラーを効かせなくても、いつもくっついてるんだろうが」
「でも暑いと里桜が離れたくなるかもしれないしね」
呆れてものが言えないと思ったのは淳史も同じらしかった。
話を変えるためにも、里桜は敢えてわざとらしいくらい丁寧に両手を合わせて挨拶をすることにした。
「いただきます」
個包装を破いて、ナッツチョコレートのようなそれを口にする。
「あ」
「どうかしたか?」
不良品にでも当たったのかというような心配をしたらしい淳史に、慌てて訂正する。
「ごめんなさい、ナッツかと思ってたから、違ってたからビックリして」
よく見れば、包装にもあられクランチチョコと書かれていた。どうやら、ナッツの代わりにあられが入っているらしい。
「何か変わったものがないか聞いたらそれを勧められたんだ。あとポテトチップにチョコレートのかかったのとかもあるらしいぞ」
「おいしそう」
思わず言ってしまった言葉に一瞬の間を置いて淳史が答える。
「明日にでも買ってくるよ」
「ごめんなさい、そういうつもりじゃ」
催促になってしまったことに謝ったが、淳史は可笑しそうに笑うだけだった。
「何を持って来るか悩まなくてすむんだから、里桜が食べたいものを言った方が親切だよ?」
「そうだな」
「食事させてるんだから、それくらい気にしなくていいんだよ」
厚かましいような義之の言葉にも、淳史は肯定的だった。だからといって、甘えてもいいとは思えなかったが。
食事をさせているのは義之で、里桜はただ用意をしているだけだ。なのに、もらっているのはいつも里桜ばかりで。
気後れする思いに伏せた目が、里桜の目の前にかざされていたグラスに気付いた。何となく、それに手を添えて口元に近付けてみた。
「里桜?」
ほんの一口飲んだだけだったが、喉から胃までがじわりと熱を帯びた。
「にが」
何でこんなものをわざわざ飲みたいなんて思うのだろう。きっと、里桜は大人になってもこんなものは好きにならない気がした。
「里桜?顔が赤いよ?そんなに飲んだようには見えなかったんだけどな」
心配げに里桜の頬を撫でる手が気持ちいい。
「酒飲んだことないのか?」
「俺、未成年だもん」
酔ったせいで、口答えしている自覚などなかった。
「里桜は箱入りだからね。一度だけチューハイを飲んでたのを見たことがあるけど、日本酒なんて本当に初めてなんじゃないかな」
その一言が里桜の琴線に触れた。義之のせいなのに、また疑われているのかと思った。
「ホントに初めてだったんだもん。義之さんのばか」
初めて、なんて男のくせに拘る方がおかしいのかもしれなかったが。
急速に回るアルコールのせいで、重力を感じないくらいに体が軽い。義之の胸元を掴む手から力が抜けて、頭からふわりと落ちた。


息苦しさにうっすらと目を開いた。
ぼんやりとした視界が何を捕らえたのかすぐにはわからなかった。
「な……んっ」
声が出せないくらい深いキスをされていることに焦って首を振ってみるが、里桜の頬を包む手の平が逃れさせなくさせる。
触れ合う胸も絡む足も体温を共有しているように違和感がなかった。掴んだ肩の生々しさにドキリとする。いつの間に脱いだのか、お互い何も身に付けていなかった。
「ごめん」
謝られている意味はわからなかったが、小さく首を振った。
「や」
膝が高く抱き上げられて、下半身が無防備に晒される。膝を閉じようにも義之の腕に阻まれて果たせない。
「いや、っ、あ、あん」
曲げられた指が的確に里桜の気持ちの良い所を突く。思わず義之の首に歯を立てて耐えようとしたが、緩急を付けて突き上げられると我慢ができなくなる。
「だ、め……」
上擦る声の洩れる唇をそっと塞がれて、紡ごうとする言葉を奪われる。絡んだ舌を甘く吸われると頭の芯が痺れてくる。優しく縺れ合うようなキスに気を取られているうちに、含まされる指が増やされていく。
「は、ん、あっ」
喘ぐように離した唇から零れ落ちそうな唾液が舐め取られて、また唇が重なる。口移しに囁く声がひどく甘く響く。
「いい?」
訳も分からず頷くと、指の代わりに熱い昂ぶりが里桜を貫いた。
「ああ、あ、ん、ああ」
ただ目の前の体にしがみつくしかない里桜は体の深い所まで義之を受け入れながら、夢見心地の中で喘ぎ続けた。



週が明けて、淳史は約束通りポテトチップにチョコレートのかかったお菓子を持ってきてくれた。
ただ、今日は忙しいらしく、コーヒーを飲むくらいの時間しかいられないらしかったが。
「いつもありがとう。でもね、なんか、この10日くらいで凄く体が重くなった気がするんだけど」
体重を計ったわけではないが、明らかに体が丸くなってきたと思う。
「そんなことないだろう?元が細すぎるだけだ」
「そうかな」
「たくさん食って大きくなれよ?」
いっぱい食べれば大きくなるのなら、食欲魔人の里桜はとっくに巨人になっているはずだったが。
「いいんだよ、里桜はそのままで」
コーヒーを用意して戻ってきた義之の、いつもの台詞に淳史が笑う。
「いつまでも仔猫のままではいてくれないぞ?」
「仔猫じゃなくても構わないよ。できれば大猫にはなって欲しくないけどね」
大きくなっても猫から人間に昇格することはないのだろうか。
早速ポテトチップチョコにかぶりつく里桜の方を、淳史が窺う。
「で、少しは慣れたのか?」
不意の問いに答えに詰まったのは食べていたせいではなかった。
「9月からはおまえの実家に行くんだろう?さすがにそこまではつき合えないからな?」
念を押すような淳史の言葉に少し淋しく思った。
確かにお菓子の恩はあるが、やっと仲良くなってきたと思ったのに、9月からは今までのようには会えなくなってしまう。
「でも、週末にこっちに戻って来たらまた来てくれるでしょ?」
「俺の週末まで拘束する気か?」
里桜を覗き込むように顔を近づけられると鼓動が上がる。
「まだ無理か」
鼓動の速まる意味が違うかもしれないと思ったが、そう言うのは怖くてやめた。
「心配しなくても、しばらく里桜の顔を見ないと淋しくなって顔を出すと思うよ」
淳史はそれには答えなかったが、きっとたまには会いに来てくれそうな気がした。なかなか来てくれなければ、里桜の方から出向くのもいいかもしれない。まだ淳史の家に行ったことはないが、義之に頼めば連れて行ってくれるだろう。
慌しく仕事に戻っていく淳史を見送ってから、義之に尋ねてみた。
「あっくんの家にも行ってみたいなあ」
「淳史は自分の家に他人が入るのを嫌うんだよ。ちょっと難しいかもしれないな」
そんな風に言われると、余計に行ってみたくなってしまう。
「何で?めっちゃ散らかしてるとか?実は誰かと住んでるとか?」
「そうじゃないよ、淳史はああ見えて意外と神経質なんだ。里桜じゃムリかもしれないな」
里桜ではムリという言葉が引っ掛かった。
「俺、あんまり好かれてないの?」
「そういう意味じゃないよ、里桜にわかるように言うのは難しいな。もう少し親しくなって、向こうから招いてくれるのを待った方がいいと思うよ」
「ふうん」
密かに、絶対に淳史の方からそう言わせようと思った。
過剰に意識しなければ、もう淳史を怖がっていたことなど忘れてしまっていることにまだ気付かないまま。
義之の目論見以上に、淳史に通ってきてもらった成果が出てきているようだった。



「ありがとう」
昨日、お土産はもういいと断ったのだが、淳史は今日もいつものように用意してきてくれていた。
小ぶりの箱は淡いピンクの包装紙に包まれて赤い紙紐が掛かっている。どうやら今日は和菓子らしかった。
「真っ直ぐに持たないと潰れるぞ」
「何かな」
すぐにも開けたいのはやまやまだったが、前回の約束通り、淳史の上着を引っ張ってソファに座らせる。いつもは壁際の席に座る淳史の背後に回るために、今日はその向かい側の方に誘導しておいた。
「肩、凝ってるんでしょ?」
「いや、そうでもない」
辞退するような言い方に、里桜は意地になって淳史の肩に手をかけた。
「うわ」
「なんだ?」
「ううん」
思っていた以上に分厚い肩に驚いてしまった。
不意に、あの日の記憶が甦る。
この体に押え込まれたら、里桜は何もできない。ただ喉の引き攣れるような悲鳴を上げて、真っ二つに引き裂かれて内側から食われてしまうのだろう。
目を閉じて小さく深呼吸をしてみる。そんなことが起こるはずがないことを知っているのに、まだ怖がる自分は何て弱いのだろう。
「どうかしたのか?」
いつの間にか、淳史の背中に凭れかかるように額をくっつけてしまっていたことに気付いた。怖いのは、淳史でもこの体格でもないことを今の里桜はわかっている。
「ごめんなさい、俺、あんま力ないかも」
「鍛えとけって言っただろうが」
言葉ほど厳しくはない口調にホッとする。
「うん、ごめんね」
そっと、淳史の首へ抱きついてみる。もう、体は震えていなかった。
「里桜?」
義之の声にハッと顔を上げると、いつになく厳しい双眸とぶつかる。
決して甘い意味があってしたことではなかったが、里桜から抱きついたのは紛れもない事実だった。
何もなかったことを装うために、当初の目的を果たすことにした。
「あっくん、肩凝ってるよね?」
「いや、それほどは」
昨日から、淳史を愛称で呼び始めた。最初は嫌な顔をされたが、呼んでいるうちに慣れると義之が言った言葉に反論されなかったから通すことにした。実際、今も聞き流していたようだ。
「じゃ、腰は?」
「どういう意味だ?」
「背が高いと屈んだりすることも多いし、腰痛になりやすいんでしょ?」
「だから人を年寄り扱いするなと言ってるだろうが」
淳史は年齢の話題には敏感だ。やっと、自分が三十路近くなっているのに特定の恋人の一人もいないことに焦り始めたのかもしれない。
「そういう意味じゃないってば、腰を踏んであげようかなって思っただけだよ」
「おまえに踏まれるのは不愉快だ。それくらいなら俺が乗ってやるよ」
「やだ、潰れちゃう」
「絶対ダメだよ」
里桜とほぼ同時に口を挟んだ義之の真剣な口調に驚いた。それは淳史も同じだったようだ。
「義之、いくら俺でもおまえの恋人にちょっかい出したりしないからな」
淳史の言葉の意味は里桜には全く理解できなかった。
「わかってるよ、でも、我慢ならないんだ」
いつもと違う義之の雰囲気に、初めて淳史が里桜の手を掴んだ。そのまま、里桜の体を回転させるようにして義之の方へと押しやった。
遠慮なく抱きしめる義之にちょっとテレた。
「ごめんね」
小さく呟いた里桜の体がギュッと抱きしめられて、耳元へ唇が滑ってきた。
「今度、僕以外の男にそういうことをしたら何をするかわからないよ?」
囁く声はゾッとするほど甘く響いて、里桜を震えさせた。やはり、本当に怖がるべき相手は目の前の綺麗な顔をした、時々悪魔のようになってしまう恋人の方なのだろう。やっと、里桜は自分の間違いに気が付いた。
「あ」
まだ淳史のお土産を開けていなかったことを思い出した。義之の腕を外して身を乗り出そうとする里桜の体が引き戻される。
「座っていい?」
仕方がないのでソファに腰掛けていいか尋ねる。予想はしていたが、やはり義之の膝に乗せられた姿勢でソファへ座ることになった。
淳史のくれた箱に手を伸ばす。
「わ」
箱を開けると、淡いピンクの丸い求肥の和菓子が並んでいた。甘酸っぱい香りでいちごだとわかる。
「おいしそう……いつもありがとう」
改めて淳史の方に向いて頭を下げた。何をもらっても嬉しいが、フルーツ系には特に目がない。
「里桜、一応言っておくけど、何か買ってくれるとか奢ってくれるとか言う人についていったりしちゃダメだよ?」
「うん?」
そんなこと、今時の幼稚園児だって知っている。
「怪しいな。じゃ、クラブハリエのケーキバイキングに誘われたらどうする?」
「行く行く」
淳史の誘いなら二つ返事で了解だ。
「里桜……ちゃんと人の話を聞いてたのかな?」
「だって、あっくんはいいでしょ」
「淳史がケーキなんて食べるわけないだろう?本当に里桜が誘拐されそうで心配だよ」
淳史が来てくれる最終日だったというのに、義之は始終そんな調子で里桜に別れを惜しむ時間をくれなかった。


淳史が帰ると、義之はまた里桜を膝に乗せた。
里桜の顔を覗きこむ義之を不思議に思って見つめると、不意に強く抱きしめられる。
「どうかしたの?」
尋ねる里桜の頭を包む手の平が上へと向かせる。唇が触れるとすぐに舌が中へと割って入った。思わず腕を突っ張って逃れようとした体が強く引きよせられる。絡んだ舌を吸う音が耳に付いて、ひどく恥ずかしい。
抗うと逆効果だと思って、おとなしく義之の気が済むのを待った。
「……里桜」
焦れたような声を出されても、義之が何故そんなに切羽詰ったような顔をしているのかわからなかった。
「うん?」
「どうして僕には他人行儀なのかな」
義之の言い分は間違っていると思った。こんな恥ずかしいことを他人行儀な相手とするはずがないのに。
「……どうかしたの?」
「僕はいつまで“義之さん”なのかな?」
いつまでと言われても、苗字でもない名前を変えるなどあまり聞いたことがなかったが。
答えられない里桜に、また不満げに囁く。
「淳史のことは親しげに呼ぶのに」
やっと、里桜にもわかった。まさか、そんなつまらないことで義之が機嫌を損ねていたとは思いもしなかった。
「でも、ヨシユキくんなんて友達いなかったしなあ……タカユキくんとかナオユキくんはいたけど、タカちゃんとかナオくんて呼ばれてたし……じゃ、義くん?」
複雑な顔で里桜を見ている義之は全然大人らしくなかった。
「里桜が親しみを込めて呼んでくれたら何でもいいんだけどね」
じゃ、義之さんでいいんじゃないの?
ツッコミたい気持ちを抑えて、甘い声で義之を呼ぶ。
「義くん」
嬉しそうに顔を綻ばせる29歳を、里桜は初めて子供っぽいと思った。



- 仔猫の人見知りを治す薬 - Fin

【 仔猫の降伏 】     Novel       【 仔猫の依存症に効く薬 】


従弟に似たような名前の人がいまして、通称“よっくん”
なので、自主規制(?)で“義くん”。里桜には呼び捨てなんて一生ムリかも。

淳史が持ってきたのは、ケーキの他はもち吉のあられクランチチョコに
ロイズのポテトチップチョコに、クラブハリエのバウムクーヘンですw
残念ながらフルーツ餅が入手できなかったのでいちご大福系で妥協しました(^^ゞ
通販してくれないかなあ。