- 仔猫の降伏 -



寝返りを打とうとした体が、強い力に引き寄せられた。
浅い眠りが破られて、里桜の視界に見慣れた淡いブルーのパジャマが写る。一番好きな甘い声が耳元をかすめた。
「危ないよ」
ギュッと抱きしめられた腕の中で、昨夜は里桜の部屋に泊まったことを思い出した。
「里桜の寝相が悪いとは思わないけど、ダブルサイズ以上のベッドを入れないと落ちそうだよ?」
「そうかも」
シングルベッドでは、細身とはいえ長身の義之が一人で使うとしても窮屈そうに感じるのに、そこに里桜も一緒に寝るのはやはり無理があった。
「で、君はいつまでこっちにいるつもり?」
「どうしようかな……」
それは里桜にもわからないことだった。
「まだ怒ってるの?」
「え?」
怒っているわけではない。突然の里帰りの衝動は自分でも説明がつけ難く、怒っているというより、むしろ悲しいと言った方が近いと思う。
「先に起きるよ」
里桜の返事を待たずに、義之がベッドを抜け出す。時計を確認するとまだ6時前だった。
「何時に出るの?」
「できたら7時前に。お義母さんには昨日話してあるから、里桜はゆっくりしててもいいよ?」
「え」
「お義父さんの出る時間に合わせた方が、食事を用意してもらうのにも気を遣わなくていいしね」
なぜ、里桜が起きている間に話してくれなかったのだろう。母には相談したようなのに。義之とつき合っているのは里桜のはずなのに。
呆然としている里桜の顔を覗き込むように、義之が身を屈めてくる。そういえば、“おはよう”のキスをしていない。
条件反射で瞼が自然に閉じていた。からかうような声が耳元で囁く。
「でも、あまりゆっくりしてるとお義母さんに叱られるよ?」
「俺も起きる」
義之の肩へ手を伸ばして、体を起こすのを手伝ってもらう。そのまま首筋に抱きつく里桜の髪を撫でる手に、またうっとりと目を閉じる。いつも通りの一日が始まるのだと思っていた。
「里桜、僕はゆっくりしてる時間はないんだよ?」
「ごめんなさい」
慌てて身を離すと、もう一度、義之の手の平が里桜の頭を撫でた。
「ちゃんと着替えてからおいで」
「うん」
先に部屋を出る義之の背中を見ながら、里桜はいつも以上に子供扱いされていることに気が付いた。


慌しく一家の大黒柱二人が出勤すると、里桜は母を手伝って朝食の後片付けを済ませた。
他の家事はまだ何もしていなかったが、とりあえずコーヒーを入れてテーブルに着くよう母を誘う。いろいろ、母に聞きたいことがあった。
「お父さん、二日酔いみたいじゃなかった?」
「そうね。思うところがあったんじゃないの?お父さんが晩酌なんて珍しいもの」
「そうだよね、家でお酒飲んでるのあんまり見たことないもんね」
里桜の父はあまりアルコールは好きではなく、強い方でもなかった。仕事の関係で飲む時にも、いつも乾杯につき合う程度だと言っている。なのに、昨夜は自分から義之を誘って飲み始めた。いわゆる、素面では話せないことでもあったのかもしれない。父と義之が飲んでいる傍にはいなかった里桜には、話の内容は把握できていなかったが。
「義之さんが転勤でもするんじゃないかと思ったんじゃないの?お父さんは里桜が帰ってきた時の顔を見てないから。義之さんと喧嘩して泣きついてきたなんて想像もしてないわよ?」
「別に、泣きついてきたわけじゃないもん」
「でも泣きそうな顔してたわよ。義之さんがすぐにこっちに来てくれてなかったら、里桜は落ち込んだ顔をお父さんに見られて、昨夜のうちに別れさせるって話になってたかもしれないわね」
痛い所を突かれて、里桜は返す言葉を悩んだ。自分でも解析しかねる感情をどうやって説明したらいいのかわからない。
「お母さんって、お父さんと恋愛結婚だよね?結婚するまでにいろんな人とつき合ったりした?」
「え、里桜ったらあんなに義之さんじゃないとダメとか言ってたくせに、他の人とつき合ってみたくなったの?」
「ちがっ……俺じゃなくて、お父さん、お母さんとつき合う前に大恋愛した人とかいないの?」
「あ、そういうことね。いたわよ。別れた後はそれはもう落ち込んじゃって病気にまでなって大変だったのよ」
「え?」
思えば、今まで両親の過去の話を深く聞いたことはなかった。里桜から見て、二人はラブラブというほどではないが、仲の良い友達みたいに写っていた。
「お父さん、二股かけられてたのよ。全然気が付いてなかったみたいで、ある日突然振られちゃって、ストーカーみたいになっちゃって凄かったのよ」
「お母さん、元々お父さんと知り合いだったの?」
「そうよ。高校の時の先輩で、お父さんがつき合ってた人はお母さんが保育士してた時の同僚だったんだもの」
「じゃ、お母さんは、お父さんと前の人のこと全部知ってたの?」
「まあ大体はね」
知っているぶん、気になることが多かったのではないのだろうか。
「元々、お父さんのこと好きだったの?」
「まさか。あんな女に引っかかっちゃって可哀想とは思ってたけど」
「お父さんに教えてあげなかったの?」
「他人の恋愛に口を出す主義じゃないのよ。それに、あんな風に盲目的に恋愛してる時に周りが何を言ったって無駄だわね。だから夢中って言うんだもの」
「じゃ、なんで、お父さんとつき合うことにしたの?いつの間に好きになっちゃったの?」
「好きとかじゃなくて、騙されてる所を見てたら可哀そうになっちゃったのね。慰めてあげてるうちにいつの間にかつき合ってたみたいなのよ」
「……同情ってこと?」
「そういうんでもないのよ。何ていうか、お母さんは可哀そうな人に弱いのよねえ。それに、お父さんの執着が凄くって」
「執着?」
今の里桜が一番敏感に反応してしまう言葉だった。
「そうよ。前の彼女を取られてるでしょう?もう、お母さんのことは誰にも渡せないって思ってたみたいよ」
「それって、好きとは違うんじゃないの?」
「そうねえ……もう、好きとか越えちゃってたんじゃない?そのうち、お母さんがお迎えの保護者のお父さんとかと喋ってるのを見たってキレてたもの。お母さんは結婚だってもう少し先でって思ってたのに、押し切られちゃうし」
もしかしたら、義之も同じような感じなのかもしれない。
「お母さん、何ともなかったの?お父さん、前の彼女がずっと好きなんじゃないかとか思わなかった?」
「好きというより、恨んでるような感じだったわね。好きだったぶん、許せない気持ちが強かったんじゃないかしら。だから、お母さんは他の人に取られたりしないわよって言ってあげたくてつき合ってたような気がするわね」
わかったような、わからないような、里桜には難し過ぎる話だった。どうやら、母は里桜よりよっぽど強かったようだ。
「里桜は、義之さんが誰か他に好きな人がいるような気がするの?」
「わかんない。でも、結婚する時には相手の人と一生添い遂げるつもりでするんでしょ?」
「恋愛結婚なら、最初から別れるつもりの人なんていないんじゃない?義之さんもそんないい加減な人には見えないし。何か事情があって別れたんでしょう?」
「前の奥さんが他の人を好きになっちゃったんだよ」
「お父さんと同じようなものね」
「だから、本当は別れたくなかったみたいなんだ」
「やっぱりストーカーしてたみたい?」
「ううん。相手が一度言い出したら聞かない性格だってわかってるから、やり直すのは無理みたいに言ってた」
「里桜には、義之さんが引き摺ってるみたいに見えるの?」
引き摺っていると思ったことはなかった。
「そういうんじゃなくて……ただ、今も好きなのかなあって思っただけで」
「お母さんにはそうは見えないわねえ。どっちかっていうと、里桜に物凄く執着してて、それこそ里桜が別れるなんて言い出したらストーカーになっちゃいそうな感じがするんだけど」
「どうして?」
「だって、里桜のことすごく可愛がってるじゃないの。今朝だって、いきなりここから通わせてほしいって頭を下げるからお父さんと二人でビックリしたのよ。里桜の我儘につき合う必要ないのよって言っても、離れたくないって言い張るし。それこそ、あの頃のお父さんみたいだわよ?」
里桜も、最初はそれが好かれているからなのかと思った。でも、今は素直にそう思うことはできなかった。
「だから、それはただの執着でしょ?」
「ただのって何なの?好きだから執着するんでしょう?」
「そうかな?」
「他に何があるの?」
意地とか、プライドとか、一度手折った花は捨て難いとか。考え出したらどれもが尤もらしく思えて信じられなくなってしまう。
「……わかんない」
「わからないのに疑うなんておかしな子ね」
「だって、前の奥さんと一生添い遂げるつもりだったって言ってたもん」
「里桜にそう言ったの?」
少し驚いたように母が身を乗り出した。やっと、里桜の言葉を信用する気になったらしい。
「ううん、前の奥さんに」
「里桜の前で?どうしてそんな話になったの?」
「前の奥さん、美咲さんって言うんだけど、スイカのおすそ分けしようと思ってうちに来てもらってたんだ。その前からちょっと仲良くなってたし。で、一緒にごはん食べて、俺がうたたねしちゃってる間に義之さんが帰ってきて目が覚めたら怒ってて」
「美咲さんって人が?」
「ううん、義之さんが。自分がいない時に来るのも呼ぶのもダメだって。それから何か言い合いみたいになっちゃって」
「二人でいたのを誤解されたの?」
確かに、美咲と二人でいたことが気に入らなかったようだったが、それはセクシャルな意味合いではなかったと思う。少し曖昧な記憶をたどる。
「そういうんじゃなくて、二人の昔の話になって……確か義之さんは過去のことは気にしないって話をしてたんだ。そしたら美咲さんが、それは本当は好きじゃないからだって。義之さんは俺と慎のことにはすぐキレるのにって。それで、義之さんがそういう風に言ったんだったと思う」
思い返しながら喋る言葉は、里桜にも意味不明だ。きっと、母も話が見えないと思っているだろう。
「……あのねえ、お母さん、物凄く呆れちゃったんだけど」
「え?」
母は、本気で呆れたような顔をしていた。
「里桜って国語は苦手だったかしら?一生添い遂げるつもりだったって、当たり前でしょ。さっきも言ったけど、普通、結婚する時には誰でもそういう風に思ってるものよ」
「でも」
反論しかけた里桜を遮る。
「前の奥さんに対する嫌味だったんじゃないの?」
「……そうかな?」
「お母さんにはそうとしか思えないけど?」
あんなに悩んだのに、里桜の思い込みに過ぎなかったのだろうか。
「それで急に帰って来たの?」
「……うん」
「バカねえ」
母の容赦ない一言にヘコみそうになる。
「だって」
「今度から、悩む前にお母さんに聞きなさいね。何だか、義之さんが気の毒になってきたわ」
「そうかな?」
「そうよ。慣れない所で気を遣わせて、会社だって遠くなって不便でしょうに。その原因が里桜の国語力がないからだなんて、お母さん、情けなくなっちゃったわ」
一方的に非難されて、里桜はつい反抗的な言葉を返してしまう。
「俺がこっちに来てって言ったわけじゃないもん」
「じゃ、もう一緒に住むのはやめるの?」
一緒に住むのをやめるということを、初めてまともに想像してみた。
今朝はなかった“おはよう”や“いってきます”のキス。たった1日でこんなに淋しいと思っているのに、別々に暮らしたらどうなってしまうのだろう。膝に乗せられて甘やかされるのも、夜眠る時の腕枕も、何もかもが無くなってしまうなんて耐えられない。
「ちょっと里帰りしてるだけだもん」
義之が離れたくないからと言った意味が、今頃になって胸に沁みた。
この頃の里桜はずいぶん思い上がっていたことに気付く。いつも、義之は過剰なくらいに甘やかしてくれていたのだとわかった。
「じゃ、お父さんが変に思わないうちにきちんとしなさいね?」
「うん」
「ちょっと洗濯物を干してくるわね」
母が席を立ち、食後の長い休憩を終わらせた。里桜も、マグカップを持ってシンクに向かう。
いつものように、義之は昼休みに帰ってくるのだろうか。義之のマンションではなく、里桜の実家になっても。


母と長話していたせいで、洗濯と掃除がすむともう11時近くになっていた。いつもなら、そろそろ帰ってくるかもしれない義之に合わせて昼食の用意をしている頃だ。そう思うと、だんだんと落ち着かなくなってくる。
「お母さん、そろそろお昼の用意する?」
「え、まだ早いんじゃない?もうお腹すいたの?」
「そんなこと、ないんだけど……麺類にするんなら早めに作って冷やしておいた方がいいかなと思って」
麺類なら、量を多めに用意しても変に思われないだろうし。
「おそうめんでも食べたいの?」
「ううん。ざるにしよ?讃岐うどん、いつもストックたくさん持ってるよね?」
「そうね、それならつゆを先に作っておかなきゃいけないわね」
「うずら卵ある?」
「あるわよ。きつねも作る?」
「うん」
里桜の母は、いつも刻んだ油揚げを炊いて、うずら卵と薬味を添えていた。ざるというより、冷やしきつねうどんに近いかもしれない。
「俺、何しよ?」
「座ってていいわよ。ただの里帰り中なんでしょ?お客様みたいなものじゃないの」
「そうなの?」
「お母さんだって、実家に帰ったら何もしないでしょ?お父さんの実家じゃ、そうはいかないけど」
あまり気にしたことはなかったが、そう言われてみればそうかもしれない。よく、上げ膳据え膳で楽だわ、なんて言っていたのを思い出す。
テーブルに着いて、カウンター越しに母に話しかける。
「お母さん、いっぱい作って残しといてくれる?」
「そうね、また小腹がすいたら食べるわよね」
「うん。ありがと」
「いつも一人でもお昼ごはんちゃんと作ってるの?」
「うん」
本当は、一人になったことなど殆どなかったが。義之が帰ってこなかった日に、たまたま美咲が来ていたこともあった。おかげで、淋しい食卓にならずにすんだのだった。
母が用意をしている間もたわいない話を続けていた。もしかしたら、里桜に足りなかったのは誰かとコミュニケーションを取ることだったのかもしれない。人込みや大人の男性に対する恐怖心を気にするあまり、内向的になり過ぎていたのかもしれなかった。だから、悪い方にばかり思考が向いてしまっていたのだろう。
12時過ぎにテーブルに並べられた昼食を前に、里桜は食事を始めるのをためらった。
「里桜?お腹すいてたんじゃなかったの?」
「え、ううん」
いつもなら、早ければ11時過ぎに帰ってくる義之の今日の予定が気になっていた。出掛ける前にも何も言ってなかったのに、まだ一度も電話もメールも入っていない。
いつ帰ってきても大丈夫なくらい多い量を用意してもらっていたが、帰るかどうかわからない義之のことを母に言うかどうか迷った。以前、母が義之のマンションにスイカを届けてくれた時のことを思い出す。母は、昼前に義之が帰ってきたことに少し驚いていた。近くまで来たから寄ったという義之に、会社が近いと便利ねと言っていたが、そうしょっちゅう帰っていることを知ったら呆れられるかもしれない。
そのせいか、義之は結局夕方まで帰らず、連絡もないままだった。


「ただいま」
「おかえり」
チャイムの音に玄関まで出迎えに行った里桜の頭を撫でると、義之はすぐにリビングの方へと向かった。呆然とする里桜に気付かないように先に行ってしまう。
ただいまのキスを忘れていることに気が付いていないのだろうか。せっかく、里桜のモヤモヤが消えかけていたのに。
「ただいま」
もう一度、今度は母に挨拶をしていた。そんな言葉で里桜の実家へ馴染んでくる義之に違和感を感じる。里桜と二人だけの睦言ではなかったのだろうか。
「里桜?どうしたの?」
考え事をしていた里桜は、母に呆れ顔で声をかけられてハッとした。母の腕には義之の上着がある。
「里桜、どうかしたの?ちゃんとしなきゃダメでしょ」
「ごめん」
戸惑う里桜に、母も困惑顔だ。
「晩ご飯はお父さんが帰ってからにしようと思うから、先にお風呂に行ってもらったら?」
不要だと思いつつ、義之に取り次いだ。
「義之さん、先にお風呂入る?」
「じゃ、そうさせてもらおうかな。里桜はもう入ってるようだし」
「うん。俺はいつも夕方入るから」
それは義之の所で暮らすようになってからついた習慣だった。
最初こそ気を遣って義之の後からと思っていたが、そのたび一緒に入るように誘われるうちに待つのをやめることにした。一緒に入るのが嫌というわけではないが、ともかくテレてしまうからだ。
「背中でも流してあげたら?」
「いえ、一人でゆっくり入らせてもらう方がいいので」
母の提案を義之はあっさりと断った。
「着替え、持ってこようか」
少しは、恋人らしいことをしようと思った里桜に、義之はそっけない。
「いいよ、自分で用意するからね」
すぐに風呂に向かう義之の背中がドアの向こうに消えても、しばらく呆然と見つめていた。自分でできることでも、里桜にしてもらいたいとは思わないのだろうか。それとも、里桜の実家だから気を遣っているのだろうか。
もしかしたら、義之にとってはアウェイではなかったのかもしれない。



いつもの過剰なほどのスキンシップが嘘だったかのように、義之は里桜と一定の距離を保っているようだった。
周りから見れば、決して距離を置いているというようなことはなかったのだろうが、甘やかされることに慣れた里桜にはひどく淋しく感じられた。並んで腰掛けていても、肩を抱かれるわけでもなく、髪を撫でられるわけでもなかった。今日はまだ一度も唇に触れてさえいない。あんなに事ある毎にキスに拘っていた義之らしくない。キスをするより大事なことがあるのかとさえ言ったくせに。
両親と談笑している義之を見ていると、執着されていると思っていたことさえ思い込みだったような気がしてくる。やっと、誤解だったかもしれないと思い始めたところだったのに。
「里桜もそろそろ部屋に行った方がいいよ?」
11時を回って父が寝室に向かった時、義之に肩を揺すられた。
少し前から頭が前後に揺れているような状態の里桜の睡魔はまさにピークを迎えている。
けれども、夕食後からずっと会話の途切れない母と義之はまだ眠りそうになく、里桜だけが自分の部屋に行くのはためらわれた。
そもそも、いつまでもリビングに残っているのがおかしいと思う。食事が済み、片付け終わった時点で、義之にも里桜の部屋に引き上げて欲しかった。そのまま家族の団欒に馴染んでいる義之を連れていくことができなくて、仕方なく里桜もつき合っていた。
「まだ寝ないの?」
「こんな時間から眠れないよ?」
今までにも何度となく交わされてきた会話だ。でも、義之の所にいる時には、里桜が眠るまで傍にいてくれたのに。
「里桜の部屋だと不便でしょう?里桜が寝るんなら電気を点けるのにも気を遣うじゃない。テレビもつけられないし、パソコンもできないでしょ」
「別に、寝ちゃったら気にならないけど」
「里桜は眠りが深いからね」
「そうなのよ。寝入ったら並大抵のことじゃ起きないのよね。小学生並みに睡眠時間が必要だし、ほんと子供なのよねえ」
また、二人の会話が盛り上がる。里桜はもう反論する気を失くして、黙って膝を抱えてソファで小さくなった。自分でもふてくされている自覚がある。
意地になって自分の部屋に行こうとしない里桜に、もう二人とも何も言わなかった。
眠いのに、気になって眠れない里桜に気付いてか、義之がそっと頭を引き寄せて肩に凭れかけさせてくれた。義之が帰ってきてから、初めて触れ合ったような気がする。そっと、義之の首へ片手を回して、胸元に頬を押し付けた。たった一日離れていただけなのに、懐かしくてたまらない気がする。義之の言う禁断症状とはこういうことだろうか。
昨夜、義之は里桜に宣言していたことを実行した。でも、里桜が心配していたようなひどいことは何一つされなかった。いつもより時間をかけて、静かに夜を過ごしたと思う。脅かされていたほど対応に困るようなことは何もなく、むしろ物足りないくらい穏やかだった。
とことん上書きすると脅かしたくせに、今夜も義之はそれを実行する気はなさそうだった。



「里桜?」
まだ眠っていたい里桜は、何度か呼ばれていることに気付いていたが目を開けることができずにいた。
「里桜?もう行くよ」
その言葉が脳に届くまで少しかかり、理解した途端に一気に目が覚めた。寝過ごしたらしい。慌てて体を起こして時計を探す。
「ごめん、何時?」
「7時前かな?里桜もそろそろ起きないとお母さんに叱られるよ?」
「も、行くの?」
「ここからだと少し遠いからね」
思わず縋るように見上げた里桜に、義之はちょっと困ったような顔をした。
ベッドに半身を起こしたままの里桜に、義之が身を屈めてくる。ここへ来て初めての“いってきます”のキスに瞼が落ちる。
「お義母さんにも言ってあるけど、今日は少し遅くなるよ」
「……うん」
パジャマのまま、義之の見送りに行くこともできたのに、そうしなかった。ついて行けば、早く帰ってきて、と言ってしまいそうで。
ゆっくり着替えてから階下に降りた里桜に、母が怖い顔をする。
「里桜、朝はちゃんと起きなきゃダメでしょ」
「ごめん、いつも7時前に起きたら間に合うから……寝過ごしちゃった」
「ちゃんとしないと本当に連れ戻すわよ?」
普段は優しげな母の言葉がただの脅しではないことは、15年の間で嫌というほど身に沁みてわかっている。
「ごめん、わかってるから……明日からちゃんとアラームかけるし」
「うちのことはいいけど、仮にも旦那さんのことくらいちゃんとしなさいね」
「旦那さんって」
テレる里桜に、母は当たり前のように笑った。
「嫁にくれって言われてるんだから、義之さんは旦那さんでしょ?本当に一緒になるのはもっと先でしょうけど、お嫁に出したと思ってって何度も言われてるから、お母さんはもう里桜は義之さんちの子だと思ってるわよ?」
改めて、母の柔軟性に驚かされる。
今までに義之とそういった話になるたびに反抗してきたが、もしかしたら里桜は少し頭が固いのかもしれない。母のように気楽に考えた方がいいのかもしれないと思った。
今日も、母と家事をしたりお茶をしたりしているうちに、穏やかな一日はのんびりと過ぎてゆく。
今日も、義之から電話もメールもなかった。
当初の里桜の予想では、両親に呆れられるくらい義之がベタベタとしてくると思っていたのに、そんな心配をしたのは初日の夕方だけだった。それ以後、肩透かしを食らわされたように素気なくて、我慢できなくなっているのは里桜の方だった。
執着されているのではなかったのか。たいした意味もないと思っていたくせに、距離を置かれると焦ってしまった。やっぱり、好きなのは里桜だけなのだろうか。
「ただいま」
仕事帰りのはずの義之が、スーツケースを持っていた。
「どうしたの?出張とか?」
「毎日着替えに帰るのも無駄だしね、里桜の部屋に何枚か置かせてもらうよ?」
短い言葉ですぐにリビングへ向かう背中を慌てて追いかける。義之はいちいち着替えに帰っていたらしい。確かに、毎日同じスーツにネクタイというわけにはいかないのだろうが。スーツや着替えを持ってきたということは、本格的に同居する気になっているということなのだろう。
それはともかく、何か忘れてるんじゃない?と言いたかったが、もう義之はリビングに行ってしまっていて、母に挨拶をしていた。
母に妬くなんて、自分でもばかみたいだと思う。でも、腹が立つことを止められない。
急いで傍にいって、義之の腕を掴んで揺さぶる。
「も、帰る」
「里桜?帰るって、どこに?」
「帰るって言ったら義之さんの所でしょ」
ふくれ面の里桜を驚いたように見ていた義之が、さも可笑しそうに笑った。その瞬間に、里桜の完敗が確定してしまった。
「まだ3日だよ?もう気が変わったの?」
「最初からそんなに長くいるつもりじゃなかったもん。2学期になったらこっちから通うって言っただけでしょ」
「帰るって、今から?」
「うん」
義之が自分の着替えを取りに帰ったばかりだと知っていたが、里桜は自分のことで手一杯だった。
急いで着替えて荷物をまとめると、呆れる母に、『お父さんによろしくね』と言ってすぐに家を出た。



やっと帰ってきたという思いは里桜の方が強かったのかもしれない。
義之の開けてくれた玄関のドアを先に入り、サンダルを脱いで一段上がった所で振り返る。
荷物を置いて、靴を脱ごうとしている義之を引き留めるように抱きついた。驚いたように義之が里桜を見る。一段低い所にいても、まだ義之の方が目線が高かった。
「里桜?」
せがむように見上げた里桜の頬へ、義之の手がかけられる。
同じ高さの廊下へと上がってきた義之との身長差を少しでも埋めようとつま先立って背伸びした。
目を閉じて、義之の唇が触れるともう我慢ができなくなった。すぐに唇を開いて舌を誘いに行く。やさしく触れてくる舌に自分から絡ませて、せっかちな音を立てて吸う。義之の仕掛けるやさしいキスではなく、貪るようなキスがしたかった。舐め合って絡み合っているうちにどこまでが自分なのかわからなくなるくらい深く繋がっていたい。
キスに夢中になっているうちにだんだんと所有欲が満たされていくような気がする。いつも義之がキスに拘るのはこういうことなのかもしれない。
痛いほど背を反らせた里桜を抱きしめる腕の力強さに安堵する。禁断症状が出ているのは里桜だけではないと、早く実感させてほしかった。
「して」
キス越しに囁く言葉に、義之が里桜の体を抱き上げようとする。
「や」
場所を移す間も惜しくて、今すぐに義之を感じたかった。
「少し我慢して」
首を振っても聞き入れられず、抱き上げられた体が足早に運ばれていく。里桜の体を抱いたまま、義之は少し乱暴にベッドへ乗り上げた。
里桜を下ろすと、またキスが始まる。
はだけたTシャツの裾から脇腹へと滑っていく手に首を振る。高揚した体を義之に任せるのがもどかしかった。
「すぐ、して?」
くすりと笑った義之には、きっと里桜の言いたいことは伝わっていない。義之のテンションを確かめようと、そっと指を伸ばしてみた。
「里桜?」
義之がひどく驚いた声を出したのは、きっと今まで里桜から触れたことがなかったからで。見つめられると、気恥ずかしさに視線を逸らした。
「我慢、できないみたい」
それ以上言葉で説明する代わりに、義之の服に手をかける。でも、シャツのボタンを外すことさえ、人の服を脱がせたことなど殆どない里桜には難しかった。
「そんなせっかちだったかな」
やんわりと、義之の指が里桜の手を外させる。
掴み直された手首に力を籠められて、義之の首へと腕を回させられた。気を悪くさせたのかと思って泣きそうになる。
「や」
デニムの上から、窮屈なくらいに発情した自身に触れられる。
「一度抜こうか?」
色気のない言葉でも、甘く響くのは里桜が切羽詰っているからかもしれない。
たやすく奪われてベッドの下へと落ちていく服を目で追いながら、先の言葉を実行しようとする義之の手を引き止める。
「いや」
「里桜?」
里桜の言葉の矛盾に困惑させているとわかっていても、何と言って誘えばいいのかわからない。ただ、義之が里桜のものだと一番深い所で感じたいだけなのに。
「も、して?」
「発情してるの?」
からかうような問いかけを肯定するのは勇気が要る。それでも、乾いた体を潤してもらうために小さく頷いた。
立てさせられた膝を押し上げられると里桜の肌が羞恥で染まる。何度経験しても、全てを曝け出すことには慣れられない。確かめるように後ろに滑ってきた指先に思わず身を捩った。
「や……」
反射的に閉ざそうとする腿を掴まれる。内腿に感じる吐息に背中が震えた。
「や、んっ」
濡れた舌がそこへ触れただけで体が跳ね上がった。少しずつ奥を探る舌のあとを辿るように指が続く。馴染ませるようにぐるりと回される指に焦れて腰が揺れる。瞼の裏に描ける義之の長い指が、里桜の中をどんな風に探っているのかを思っただけで何かが溢れてきそうになる。
「ダメ、も、いや……っん」
堪え性のないジュニアが早々にギブアップする。
「は、あ」
ピークを超えて一気に落ちるはずのテンションは下がらなかった。かすかに、義之が笑ったような気がする。きっと、ちっとももたない里桜が可笑しかったのだろう。
整えようと思う息が乱れるばかりなのは、義之が指と舌を止めてくれないからで。
「……君の中に出してもいいかな?」
ささやかれる言葉の意味が脳に伝わる前に、少しでも早く義之を実感したくて頷いてしまっていた。義之が服を脱ぐのさえもどかしくて。
発情しているというのは適切な表現なのかもしれない。
「んっ……」
ほんの少し義之が身の内に入ってきただけで体の芯に力が籠もった。せわしなく収縮をくり返すのは義之を離したくないからで。
「里桜、それじゃ入れられないよ?息、吐いて?」
義之の声にも余裕は感じられない。性急に体を進めようと里桜の膝を更に開かせようとする。
「は、んっ、あ、ああ」
短く吐く息が喉に絡んで言葉を紡げない。
体の奥深くに迎え入れている時だけは義之が里桜のものだと思える。たとえ、束の間の体だけの所有だったとしても。
「里桜、腕、離して」
苦しげな声に、しがみつく手を何とか緩めた。
しっかりと掴まっていないと崩れそうな体が大きく揺らぐ。もう一度しがみつこうと伸ばしかけた腕をシーツに押えこまれて、いっそう激しく突き上げられる。
弾けそうな自身を庇おうとすることさえ許されず、里桜は何度目かの劣情を吐き出した。
少し遅れて、不意に体が自由になった。里桜の耳元で吐かれる深い息の理由に思い当たって思わず義之の顔を見上げる。魅惑的な瞳を閉じていても、その整った容貌は損なわれないのだと知った。
「里桜?」
思わず見惚れていた里桜に気付いて、義之に名前を呼ばれる。
「……あ、れ」
中で出されるのだと思っていたが、やめてくれたらしい。ホッとするのと同時に疑問に思った。
「中で出されるのは嫌なんだろう?」
何も言わない里桜の心の内など全て見抜いているかのような顔をする。
「うん」
里桜は素直に頷いた。最中はどうでもいいことに思えても、我に返れば、やはりそれが本音だった。
「でも、風呂には行かないとね」
首と膝の裏に腕を差し入れられて慌てた。逃れようと体を捩る。
「俺、夕方入ってるから」
「飛沫がかかってるよ?たまには一緒に入ろうか」
言葉より強引な腕に負けて、風呂につき合うことになった。



風呂から上がると簡単に夕食をすませ、早々に寝室に戻る。
並んで腰掛けたはずが、いつの間にか義之の膝に抱き上げられていた。 向かい合った姿勢で、やさしい指に髪を撫でられて、額からキスが降り始める。一番幸せな時間だ。
「やっと、遠慮しないで里桜にキスできるよ」
まるで義之が我慢していたような言い方に驚いた。
「遠慮してたの?」
「里桜とお義父さんが嫌がると思って我慢していたんだけどね?」
嫌味な言葉に、里桜はまた俯いてしまう。それで、初日にあんなに脅かしたくせに、翌日以降はひどくよそよそしかったのだろうか。
「だって、いろいろするって、言ってたから……」
とことん上書きすると言った義之の言葉に、不安だけでなく覚悟のようなものも感じていた。
「最初はそう思っていたんだけどね。お義父さんと話してるうちに何だか身につまされてしまったんだよ。まるで一人娘を嫁に出す父親みたいな感じだったからね」
「お父さんと飲んだ時にそんな話をしたの?」
「まあ、いろいろね。お母さんがあっけらかんとしてるから、ずいぶん理解のあるご両親だと思ってたけど、本心では複雑だったんだってわかったよ。特に男親の方は、そう簡単に割り切れるものじゃないみたいだね」
何を話したのか気になったが、義之は話してくれる気はないらしかった。
「お父さんに気を遣ってたの?」
「それだけじゃないけど、逆撫でしたくないとは思ったよ」
「でも、キスくらい……」
言ってしまってからハッとした。
「親がいるから嫌だって言ってなかったかな?」
「だからって、急に他人行儀になっちゃうなんて思わなかったからビックリした」
「他人行儀になったなんて言われるとは思わなかったよ。里桜がふてくされてたのはわかってたけどね」
どうして、そんな余裕があるような言い方をするのだろう。里桜は不安で、もしかしたらもう執着さえされなくなったのかと思ったのに。
「今からこんなんじゃ2学期が思いやられるね?」
「やっぱやめようかな」
「お義父さんやお義母さんにも、もう向こうから通うって言ってるんだからダメだよ?」
意地悪な言葉に、今は素直に謝ることにした。
「ごめんね、義之さんは不便になっちゃうけど」
「そんなことは構わないよ。でも、こんな風に過ごせるのは週末だけになるね。たった3日でこんなに甘えん坊になってるのに、一週間も我慢できるのかな?」
長い指が里桜の顎をくすぐる。それを言うなら、こんな甘えん坊にしたのは義之ではなかったのだろうか。まるで親猫から引き離された仔猫のように里桜を四六時中ベタベタと甘やかし、それが当たり前のように刷り込みされたと思う。
もしも里桜が本当に猫なら、今まさに喉をゴロゴロと鳴らしながら、無防備に腹をさらしているだろう。至福と降参をアピールしながら、心地良い眠りに落ちていくのだろう。
「まあ、ずっと一緒に住むようになったら、週に一度や二度くらい出掛ければいいんだよ。普通の同居のカップルのようにね」
「そっか……」
里桜には思いつきもしなかった解決策を、義之はとっくに用意していたらしかった。だから、義之には余裕があったのかもしれない。
「でも、あと半月くらいしかないから、里桜の不安を早く克服しないといけないね」
もっとも大きな問題が残っていたことを思い出して、少し憂鬱になった。
「とりあえず、この間言ってた友達に早く来てもらうね」
「大丈夫そうだったら僕の知り合いにも会ってみる?」
義之の知り合いということは、今の里桜が苦手な大人の男性ということなのだろう。
「大丈夫そうだったら、だよね?」
「もちろんだよ」
まさか、里桜の最も苦手なタイプだとは知らずに頷いた。



- 仔猫の降伏 - Fin

【 仔猫の逆襲 】     Novel       【 仔猫の人見知りを治す薬 】


まさしく三日天下。
やっぱり里桜の反抗期なんてかわいいものですね。
降伏っていうより幸福って感じがします。

次回から、『Rescue Please』のキャラが出てきます。
読んでいなくても問題ないと思うのですが、
お時間が許せば読んでいただけると嬉しいですv