- 子猫の逆襲 -



「里桜?」
泣き出した里桜に、義之がインターバルを取る。
何か言おうとするともっと涙が溢れてきそうで、小さく首を振った。里桜の涙など気にせずさっさと抱いてしまえばいいのにと思う自分は相当なげやりになっている。
結局、義之がやさしくてもそうでなくても大して意味はないのだとわかってしまった。あの日、里桜の胸に刺さった言葉は、時間が経つほどに深く沁みていくような気がする。
義之が一生を共にしようと思っていたのは里桜ではなく美咲だった。里桜の目の前で、美咲を責めるように義之が告げた言葉を聞いてから、頭と体が上手く連動しなくなってしまっていた。
里桜を一生かけて幸せにすると言ってくれたのは、いわば繰り上げ当選のようなものだった。もし美咲が棄権していなかったら、里桜には回って来なかったのだろう。
目元を拭う指のやさしさも、唇の熱っぽさも、今の里桜には辛いだけだった。自分で思っていた以上に自惚れていたことに今更ながら気付く。義之があまりにも里桜を束縛しようとするから、過剰なくらいに求められるのも、愛されているからだと思い込んでいた。
「里桜?目を開けて見せて?」
心配げな声に小さく首を振る。何でもないと言うことさえできない自分に腹が立つのに、声を出そうとするとまた涙に負けてしまう。
「この頃ずっと元気がなかったね。どうしたの?」
里桜のことなら何でも見透かしているような義之にしては珍しく、理由に思い当たらないらしい。いくら里桜が鈍いといっても、聞き流すことはできなかった。 あの時、里桜の中に芽生えた不安は日毎に育っていって、どうしても、義之の言葉が頭から離れない。
ただ首を振る里桜に、やさしく口付けてくることにさえ腹が立つ。きっと、そんなキスひとつで里桜を宥められると思っているのだろう。実際、殆どの事ならそれで忘れてしまうのだけれども。
「里桜?ちゃんと言わないと嫌なことをするよ?」
そんな脅しさえ、今はどうでもいいことに思えるほどに。
「もしかして、僕が勝手に指輪を選んだから怒ってる?」
そんなこと、思いもしなかった。もし、美咲に対する言葉を聞く前だったら、と想像してみる。一緒に選んだ方がもっと嬉しかっただろうか。たぶん、人目を気にする里桜にはまともに選んだりなどできなかったに違いない。きっと、突然もらった方が、驚かされたぶんもっと嬉しかったに違いない。
「そういうことでもないみたいだね?じゃ、美咲?」
美咲、と言っただけなのに、ドキリとしてしまった。
「もしかして、まだ美咲とのことを疑ってる?」
義之がどう思っていたとしても、美咲にはやり直す気がないことを里桜は知っている。問題なのは二人の仲が戻るかもしれないことではなく、義之にその気があるということだ。
「里桜?何か言ってくれないとわからないよ?」
どう言えば、里桜のダメージを上手く伝えられるのだろうか。
「俺も……もうやめるって言ったら、義之さんはまた他の人を好きになるんだよね」
「それは、僕がきみを諦めて他の人を好きになるっていう風に聞こえるよ?」
やっぱり完解だ。義之には、里桜の思っていることなどすぐに見抜かれてしまう。
「まだ、僕から逃げられると思ってるのかな……」
義之の返事は、里桜が思っていたものとは全然違っていた。里桜はまだまだ義之を理解できていないらしい。
もう言葉での攻防を諦めたのか、義之が里桜の唇を塞いだ。舌先になぞられる唇が自然と開いて、義之を受け入れる。やさしく絡んでくる舌に合わせていれば、里桜の思考などすぐに飛ぶ。うっとりと目を閉じて、流されるのに任せているだけで。


「きみにそんな顔をさせているのは僕なのかな?」
さりげなさを装った言葉を紡いだ唇が瞼や目尻に触れる。やさしい指が髪を梳いて、里桜に無言の圧力をかけてくる。
問い詰められると隠し通しせない自分を情けないと思うのに、いつも白状させられてしまう。
「……何で、美咲さんを諦めちゃったの?」
美咲をあっさり手離したのだとしたら、しつこいくらいに里桜を離さないと言う言葉は嘘だということになる。
「美咲は頑固というか、一度決めたことは曲げない人なんだよ。だから、他に好きな人がいるって言い出した時点でもうムリだとわかってたよ。僕が許すって言ったところで思い留まるような人じゃないんだ」
「一生添い遂げるつもりだったんじゃなかったの?」
今なら聞き流してくれると思ったのに、義之はひどく驚いた顔をしてみせて、それから少し不謹慎に笑った。
「そんなことを気にしてたのか……たいした意味はないよ。美咲と結婚する時にはそのくらいの覚悟をしていたっていう話をしただけだからね。もちろん、美咲の同意があれば遂行しただろうし、そうしたら君とは出逢ってないんだから恋愛することもなかっただろうと思うよ。でも、僕は美咲と別れて君と出逢って好きになったから一緒に住むことになったんだろう?君に言ったことは本心だし、それだけの覚悟をしているよ」
義之の言うことは難しくて、よく理解できなかった。もし、美咲と別れていなければ里桜と恋愛していなかったということ以外は。
義之の“好き”は、あんなにやさしかった恋人を裏切ってしまった里桜の“好き”とは違う。恋人を騙してまでも会いたいと思っていたのは里桜だけだ。最初から、わかっていたのに。
「ごめん、なさい」
ギュッと抱きしめてくれる腕に身を預けていても、涙は止まりそうになかった。
きっと、里桜が謝った理由など、義之には一生わからない。
やっぱり、恋をしているのは里桜だけだ。殆ど恋愛経験のない里桜にも、恋は理性的にできるものではないとわかるのに。
「そんなに泣かないで、怒ったわけじゃない」
頷く里桜の頭を撫でる手の平は優しくて、また錯覚してしまいそうになる。愛情ゆえの覚悟なのだと。



「ただいま」
口をついた言葉の意味に自分でも気付かなかった。
「里桜?」
ひどく驚いたような母の表情を見たら、また泣けてきた。
今までただの一度も一人では帰らなかった里桜の里帰りに、母も世間一般的な想像をしたのだろう。
一人で外に出ることさえあんなにも怖いと思っていたのに、どうやって帰ってきたのかはっきりとは覚えていなかった。ただ、義之が昼休みを家で過ごして再出社すると、無意識に実家に足が向いてしまっていたのだと思う。
「どうしたの?義之さんと喧嘩でもしたの?」
首を振る里桜の肩を抱く母に促されてソファに座り込む。
「里桜のそんな顔を見たら、お父さん、やっぱりあんな男にはやれないって言い出すわよ?」
母の冗談めかした口調にさえ、今は笑えない。これまでもそうだったように、母は言葉の出ない里桜から無理に聞き出そうとはしなかった。
「やっぱり里桜の手に負えるような相手じゃなかったわね」
微妙に核心をついた母の言葉に頷いた。
手に負えるだなんて考えたこともなかったし、傍にいられるだけで幸せなのだと思っていた。里桜の思いに応えてくれて、傍に置いてくれただけで感謝していたのに。どうして、自分はこんなに我儘になってしまったのだろう。
「……お母さん、俺、しばらくいたらダメ?」
「あんな男前、放っといたら誰かに取られちゃうわよ?」
「俺のでもないもん」
「あらあら。重症ねえ」
あまり動じた風もない母は、本気に取っていないのかもしれない。里桜の我儘で勝手に怒って帰って来たくらいに思っているのだろうか。
「とりあえず今日はこっちに泊まるって電話してくれないかな?」
「お母さんが?」
「うん。俺、寝ちゃったとか何とか言ってよ?」
「しょうがないわねえ。すぐにかける?」
「ううん……夕方、家の留守電に入れといて」
そうすれば、少しでも時間が余分に稼げると思った。
「夕方って言っても、お母さん3時くらいには出ないといけないんだけど、先にかけた方がいい?」
「うん」
里桜の母は児童館に勤めていて、曜日にもよるが、午後遅くから7時くらいまでは家にいない。義之の帰宅時間もバラバラだが、早い時には7時前に帰ってくる。きっと、家に帰った時点で里桜がいなくて何の連絡もないままだったら、心配させてしまうに違いなかった。
「今日は電話しておいてあげるけど、義之さんときちんと話し合わなきゃダメよ?」
「うん……」
渋々頷く里桜を置いて、母がソファを立ち上がる。
「ケーキがあるからお茶にしましょ。里桜、ガトーショコラとチーズケーキどっちがいい?」
「じゃ、チョコ」
これだけ落ち込んでいても、食欲が無くなったりしないのが自分でも不思議だった。
ケーキとアイスティを乗せたトレーを持って母が戻ってくる。
「里桜の元気の元よね」
母のしみじみとした言葉に少し恥ずかしくなる。でも、自分でも母の言葉は当たっていると思った。
「里桜、お父さんには何て言うつもりなの?」
「え、と、久しぶりだから帰ってきたって言う」
「まあ、お父さんなら騙されるかもしれないでしょうけど。落ち込んだ顔を見せちゃダメよ?」
「うん、わかってる」
「もう少ししたらお仕事に行くけど、里桜はゆっくりしててね」
「ごはん、用意しとこうか?」
「たまの里帰りなんだから、ゆっくりしてなさいね」
「じゃ、甘えるね」
間もなく仕事に出た母を見送り、後片付けをしてから、シャワーを使うことにした。久しぶりに炎天下に出たせいでかいた汗を流して、少し休息を取りたいと思っていた。


シャワーを終えると自分の部屋に上がった。
帰ってくる可能性が高いと思われているのか、部屋は里桜が出て行った時のままにしてくれていた。ついこの間までここで生活していたはずなのに、ひどく懐かしい感じがする。
ベッドに座り、携帯を開いた。とりあえず家に帰ってきていることを電話で友人に伝えておくことにした。
すぐに電話はつながり、たわいない話を少ししてから本題に入った。義之に、一度会わせるよう言われていた件だ。とはいえ、もし実家に帰っている状態が続けば、それが実現するのはいつになることやらわからなかったが。
通話を終えると、携帯電話のミュージックプレイヤーの設定をして枕元に投げ出した。音楽を聞きたいからというよりは、電力消費を早めるためだ。充電器は持ってきていない。ちゃちな言い訳だが、直接義之との連絡を取らない理由になるはずだった。
ベッドへ倒れこむと、なぜか慎哉のことを思い出した。里桜の部屋なのに、慎哉との思い出ばかりが詰まっているような気がする。毎日、一緒に学校から帰ってきて殆どの時間を里桜の部屋で過ごしていた。一緒に宿題をしたり、ゲームをしたり、慎哉の腕の中でたわいのない話をしたり。最初にキスしたのもここだった。
怖気づく里桜を待ってくれていたから、慎哉とはキス以上のことは殆どしていないに等しい。そのせいか、思い出すのは甘い記憶ばかりだ。何度か流されてしまいたいと思ったことを、本当に慎哉は気付いていなかったのだろうか。
義之に嫌われたと思って落ち込んでいた日に抱きしめられて眠った時には、どうして慎哉を好きにならなかったのだろうと真剣に考えた。今また、慎哉とだったらこんな思いはしなくてすんだのだろうかと考えてしまう。結婚するなら、好きな人より好きになってくれる人の方が幸せだというのは、きっとこういう意味なのだろう。改めて、やさしい慎哉を裏切るようなことばかりしていたことを申し訳なく思った。
きっと、罰が当たったのだろう。あんなに大事にしてくれた慎哉を裏切ったから。
記憶の中の慎哉はいつもやさしい。もう増えることのない思い出は、時間が経つほどに甘いものに変わるものなのかもしれない。


「里桜」
やさしい声に名前を呼ばれて、まどろみから意識が引き上げられる。うっすらと開けた視界に捕らえた景色が、里桜の部屋にいることを認識させた。
正常に働かない思考が、抗い難い眠気に引き摺られるように瞼を伏せさせる。細身の影が里桜の上に被さってくるのに気付いていたが、そのやさしさを知っている体は警戒することなく眠りに戻ろうとする。
頬を撫でた手が髪をかき上げるように額を晒す。気持ちの良い手の平に、知らずに笑みが零れる。
「慎……」
何気なく呼んだ名前が誰のものかなど、意識しているはずもなく。
「い……たっ」
思わず声を上げてしまうくらい、里桜の肩を押さえ込む力が強くて。
唐突に現実に戻されて、里桜は改めて名前を呼んだ。
「義之さん……どうかしたの?」
顰められた眉が何かを耐えているようで。
「誰だと思った?」
「え?」
目を瞬かせて、見つめ返す。何かをやらかしてしまったという自覚はなくても、義之をこんな風に怒らせてしまう理由は慎哉のことしか思い当たらない。
「ここで君に触れるのは高橋だけだということかな」
その意味を考えただけで、頬がカーッと熱くなった。
確かに、慎哉とキスをしたり抱き合ったりするのはここが一番多かったが。
「本当はもっと深い仲だった?」
「なに、言ってる、の」
思わず声が震えるのは、こんな時の義之が見た目以上に怒っていると知っているからで、けして事実を見抜かれたからではない。むしろ、そうでなかったことが心残りなくらいなのだから。
「こんな状況で名前を呼ばれて何もなかったとは信じられないね」
「何も、じゃないけど……」
俯く里桜は、その理不尽さに気付かなかった。
「高橋はどういう風に君を抱いたの?」
「な……してないってば」
「最後までは、ってことかい?」
呆れてものも言えないとは、こういうことを言うのだろう。
何も知らない里桜に、義之がくどいくらいにやさしく接してくれていた頃から、まだ1ヶ月と経っていないなのに。
「ここは触らせた?」
わき腹を撫でた手が里桜のハーフパンツの中を探ろうとする。
「いや」
咄嗟に閉ざそうとした膝に、義之の体が乗り上げてくる。
羞恥と不安の狭間で、里桜は必死で義之を止める方法を考えていた。
「高橋はこんなに強引じゃなかったって顔をしているね」
「そんな、こと、っ……」
否定しようと思った言葉が止まる。
「ホームシックじゃなくて元カレが恋しくなったのかな」
「そんなこと、ない」
自分でも、口先だけの否定だと思った。恋しいというのではないが、やさしい記憶に逃げ出したくなったのは事実だ。
「いつになったら君の中から高橋を消せるんだ?」
慎哉を消す?と問いかけて、その意味に愕然とした。
そんなことはできない。初めて、里桜をあれほども好きになってくれて大切にしてくれた慎哉を、里桜の中から消してしまうなんてありえない。
「僕だけじゃ足りない?」
自分だって本当に好きなのは俺じゃないくせに、とはどうしても言えなかった。口に出したら、その言葉に負けてしまう気がして。
横を向いている里桜の頬にかけられた手が義之の方に向けさせる。目が合うのが嫌で瞼を伏せた。
キスを誘ったわけではなかったが、黙りこくる里桜の唇に義之の唇が触れてくる。唇の隙間を舌に撫でられると自然に口角が緩んでしまう。ゆっくりと絡め取られた舌をやさしく吸われると頭の芯がぼんやりと霞んでくる。
結局、拗ねてつっぱねることさえ、里桜にはできないらしかった。
キスに気を取られる里桜の腹の辺りから手の平が滑るように忍んでくる。Tシャツの中を辿る手が硬い突起を撫で上げた。ゆっくりと親指の腹で擦られて指先に摘まれると、体中の血液が一ヶ所に集まっていくようだ。
「だ、め」
義之の頭をどかせようと、髪に手を差し入れて押し返そうとする腕にどうしても力が入らない。顎を伝って首筋へ移る唇が少しきつめに肌を吸う。
「や」
抗おうと上げた右手を引かれて、Tシャツの袖を通される。そのまま首も通されて、小さく丸められたTシャツは左手の中ほどに残された。
胸へと戻る唇がためらいなくその尖りを含む。舌で絡められて、短い音を立てて吸われるとたまらず腰が浮いた。
「いや、今日はやめて……」
里桜が少々暴れたところで、義之にとってはハーフパンツと一緒にアンダーパンツを脱がせることなど容易かったに違いない。
閉じようとする膝を義之の手の平が押える。わざと里桜が嫌がるような体勢を取らされているような気がした。
「お願い、今日はいや」
下手に出て頼んでみたが、義之は首を振った。
「たとえ相手が思い出でも許さないよ」
冷たい声とは裏腹に、里桜に触れる手はひどくやさしくかった。萎縮する里桜を宥めようとするように手の平に包まれて、やんわりと擦られるとびくん、と腰が跳ね上がった。
「や、いや」
「暴れないで、大きな声を出すと階下に聞こえるよ?」
言われてようやく、自分の部屋にいる意味に気付いた。母はもちろん、もしかしたら父だって帰ってきているかもしれない。義之の言う通り、大きな音や声がしたら心配して様子を見に来てもおかしくなかった。
「っん……」
思わず自分の手の平で口元を塞いだ。不思議なもので、我慢しようと思うほど感覚が鋭くなるようだった。
首を振ることしかできない里桜を追い詰めるように、別な指が後ろを探ってくる。
「っふ、ぁん」
里桜の指は頼りなくて、隙間から声が洩れてしまう。無駄だと思いつつ、塞ぐ手にもう片手を重ねた。
「このままじゃお互いつらいかな?」
ぞっとするようなやさしい声が耳元に口付ける。
「でも抱くのは後にするよ。里桜を起こして食事にしようって言ってたからね」
登りつめようとしていた体が唐突に放り出される。呆然とした里桜は、昂ぶったままの体を起こすことができなかった。
「あまり待たせないうちに階下へ行こうか」
「いや」
首を振る里桜の腕が取られる。引き起こされる前にその手を払って、義之の腰の辺りへしがみついた。一瞬驚いたような顔をした義之が、里桜の上体をベッドへ押し戻す。
「やっぱり先に抱いた方がいいかな?」
羞恥に顔を背ける里桜に、また冷たい声をかける。
「ちゃんと言わないと知らないよ?」
「……しないもん」
もう少し部屋にいれば少しは落ち着くはずだ。ここで流されたらまた里桜は負けてしまう。
「まあ、そんなに焦らなくても君が高橋としたこともしてないことも全部、今夜するからね」
「な、ダメだよ、お父さんもお母さんもいるでしょ」
「どうして?高橋ともここでしたんだろう?いつも家の人がいなかったわけじゃないだろう?」
実際には、里桜の母親の職業柄、たいていの場合はいなかったのだったが。それに、慎哉とはそれほど深い仲にはなっていない。何度もそう言ってきたし、義之も信じてくれていると思っていたが、ことあるごとに疑われてきたことに気が付いた。それが、里桜が義之の愛情を疑うのと同じことだとは思いもしなかった。
「……義之さん、ヘンだよ、どうしちゃったの?」
「君が心配させるからだよ。突然、留守電にしばらく実家に泊めますなんて入ってて、側には外しちゃダメだって言ったのに指輪を置いてあるし、君の携帯は電源を落としてて繋がらないし。飛ばしてきてみれば、君は他の男の名前を呼ぶし、穏やかでいられるわけがないだろう?」
「ごめんなさい、指輪なんてしなれないから何か違和感があって、外したまま忘れてただけなんだ。携帯も充電器を持ってきてなかったから……」
義之は、里桜の言い訳を最後まで聞く気はないらしかった。
「どうして急にこっちへ来たの?もしかして一人で来た?」
「うん。何か、ボーッとしてたら着いた」
「思ってることがあるんなら言わないとわからないよ?」
不意に義之が核心に触れる。
でも、何度言ってみても義之の答えは変わらないだろう。里桜が我儘を言いたくなる理由はきっとわかってもらえない。
「何もないよ、ちょっとお母さんに会いたくなっただけ」
「会いたいのはお母さんじゃなくて高橋だろう?」
「そんなことないよ。もう、前みたいに会ったりできないって慎にも言われてるし」
「それで思い出に浸ってたの?」
「別に、そんなのしてないもん」
口先だけの否定に、義之がため息を吐く。
「……本当に君は嘘つきだな」
「そんなことないもん」
「高橋に会えないと思ったら振ったことが惜しくなった?」
「違うってば」
「ふうん」
不満げな義之が、里桜の首筋へ吐息をかける。落ち着きかけていた里桜の体に、また火が灯りそうで身を捩った。
「まだ、覚悟できない?」
意地悪な手が里桜を追い詰める前に、早々にタップした。
「続きはご飯の後にしよ?」
「いいよ。君がちゃんと約束を守れるんならね?」
「わかってるから」
その場しのぎの悪い癖だとわかっているのに、また義之の言葉にいい加減に頷いてしまっていた。
階下へ行くために、義之が里桜の服をきちんと着せて髪を整えてくれた。里桜も、義之の髪と襟元を直すのを手伝う。鏡のない里桜の部屋では、互いの協力が必要だった。


おそらく、里桜のフィールドにいる義之の方が気を遣っているはずだったが、そんな素振りは見せずに和やかに一家団欒に加わっていた。
父親と晩酌を交わす間にも、義之はさりげない牽制をやんわり流し、まるで婿養子にでもなったかのようにそつなくこなしていた。内心どう思っているのかは聞いていないのでわからないが、里桜の両親にも真摯に接してくれているように思う。元々少し人見知り気味の里桜にはとても真似できそうにないだけに、軽い尊敬さえ覚えた。
今更ながら、義之が里桜の両親に挨拶に来た時に、いわゆるシングルマザーだったという母親を数年前に亡くしているから紹介する身内はいないと言っていたことを有難く感じた。いくら好きな相手の身内でも、里桜には、義之のように上手く接することはできそうになかった。一般的に考えて、里桜の両親のように理解があるとは思えないし、反対されたり嫌味の一つも言われたら激しくヘコんでしまいそうだ。
義之は、離婚したとはいえ一度は結婚経験もあり、それまでの人生で一度として男相手に恋愛するような要素はなかったようだから、里桜が誑かしたと言われる可能性だってあるかもしれない。バツイチとはいえ、義之は恋人としても結婚相手としても大層魅力的な人物だろうから。
里桜が食事の後片付けを手伝っている間に、義之に風呂に行くことを勧めた。どう見ても飲み過ぎている父を先に風呂に行かせるわけにはいかなかったし、義之が約束を実行させるまで里桜を寝かせない可能性を考えると、あまり遅い時間になると困るという都合もあった。
その短い時間に母が入れ知恵してくれたことは、これから戦いに臨む里桜には心強かった。今度こそ、負けたままでいなくてすむような気がしていた。



何とか義之との約束を果たし、普段の里桜ならとっくに夢の中にいる頃になっていたが、今夜はまだ眠るわけにはいかなかった。
二人では窮屈なシングルベッドで、義之の体に半分寄り掛かったような状態のまま、言い出すタイミングを計っていた。うっかり眠ってしまわずにすんだのは、昼寝をしていたからに違いない。
きっと、一方的な勝利を確信している義之に、最強の攻撃呪文を唱える。
「言うの忘れてたけど、俺、二学期になったらここから学校行くから」
「えっ?」
まさか、という顔の義之に、一応の説得を始める。たとえ、反対されたところで母から提案されたこの話はほぼ決定事項だった。
「義之さんの所から学校通うの大変だもん。俺、ラッシュの時間に電車に乗るの苦手だし」
「送っていくよ」
当たり前のように即答する義之に、本心では申し訳ないと思いつつ、ちょっと冷たく抗議する。
「俺に何時に学校行かすつもりなの?帰りだって困るでしょ」
「里桜」
困惑する義之に更に追い討ちをかける。
「お母さんが、義之さんの所からだと通うのが大変だからここから通ったらって言ってるんだ。金曜の夕方そっちに行って日曜の夕方こっちに来たらどう、だって」
「……どうしてそんな大事なことを勝手に決めてしまうのかな」
「勝手にじゃないもん。お母さんと相談して決めたんだから」
「だからって僕には事後承諾っていうのはひどいと思わないの?何度も言うけど、僕はそんなに寛容じゃないよ?」
「でも、学校を一番優先させるって約束でしょ」
「それは建前だろう?君はそんなに離れてて平気なの?」
「わかんないよ、ずっと一緒だったんだから……でも、少し慣れなきゃダメだと思う」
「どうして急にそんなことを言うのかな」
「だって義之さんは学校まで来れないでしょ?ちゃんと卒業する約束だし、俺は自分で頑張らなきゃね」
それきり黙りこんだ義之の沈黙は、ずいぶん長く感じた。
「わかったよ、僕が君に合わせよう」
「ありがとう」
素直に答えた里桜には、その本当の意味はわかっていなかった。
「今日はもう遅いから、明日にでも僕もここに住まわせてもらってもいいか相談してみるよ。たぶん、ダメだとは言わないだろうと思うけどね」
「え……」
確かに、通勤にそれほど差し支えるとは思えなかったが、それ以前の問題があるように思えた。
「でも、義之さん、不便でしょ?気も遣うだろうし」
「そこまでわかってたのに決めたってことかな?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
まさか、義之がそんな結論を出すとは思っていなかったからだ。
「君と離れるくらいなら、多少の不便は我慢するよ」
「ごめんね?」
義之の機嫌を窺う里桜を抱きしめる腕に力がこもる。この状態のままで眠るのはかなり窮屈そうだと思ったが、義之は母が用意してくれた来客用のふとんを使う気は毛頭ないらしかった。
「いいよ。君の記憶をとことん上書きするいい機会だと思うことにするよ」
「え」
「そのうち、何を見ても僕のことしか思い出せないようにさせるよ」
どうやら、里桜の諸刃の反抗も、義之にたいしたダメージを与えることはできなかったらしい。
それでも、里桜は自分のテリトリーにいるぶん、少しは有利だと思っていた。もちろん、義之の方は不利だと思っていないことなど知る由もなかった。



- 子猫の逆襲 - Fin

【 子猫にカラーを嵌める理由 】     Novel       【 子猫の降伏 】



義之がマスオさん状態になったらイヤかな。
いや、それより夏場にシングルベッドで男二人で寝てる方が問題か……。
とはいえ、夏休み編はまだもう少し続きますので、ベッドくらい買うかもしれませんね。
次回からまた超甘々になる予定ですvv