- 子猫にカラーを嵌める理由 -



「はい、おみやげ」
何気なくリビングへと通した美咲が、ケーキの箱らしきものを差し出す。
「あ、すみません」
「甘い物が好きだって聞いたから、袖の下よ」
いたずらっぽく笑うと、少女のように見えなくもない。そういうところは、少しだけ里桜の母に似ていると思った。
「あの、たぶんお昼までには帰ると思うんですけど」
「いいのよ、今日は里桜くんに会いたいと思って来たから。里桜くん、男の人が苦手だって聞いたから、話相手になれるんじゃないかと思って」
引きこもりがちな里桜を心配して、義之が気を回してくれたのかもしれない。
「わざわざすみません。俺、お茶を用意してきますね」
「お構いなく」
とりあえず美咲をリビングに待たせて、急いでアイスティを用意する。
「ほんと、里桜くんってこういうことが得意なのね」
美咲の口調は本気で感心しているようだったが、面と向かって言われるのはちょっと恥ずかしい。
「うち、母親が男の子でも料理や掃除くらいできないとモテないわよっていうのが口癖で。ままごとの延長でずっと家事の手伝いみたいなのさせられてて」
「いいお母さんね。私も里桜くんみたいなお嫁さんが欲しいわ」
「え?」
お婿さんじゃなくてお嫁さん?と言外に尋ねる。
「私、家事は苦手なの。なかなか里桜くんや義之さんみたいに家事が苦にならないなんて貴重な男の人はいないのよねえ」
女らしく見える美咲が、実は家事が苦手だなんて意外だった。謙遜しているのかもしれないとも思ったが、深刻そうな表情からはそうではないことが窺えた。
「今は女の人が家事をしなくちゃいけないって時代でもないし、気にしなくてもいいんじゃないですか?」
「そういう風に言ってくれる人ばかりだといいんだけど」
「美咲さん、美人だし、大丈夫ですって」
「それがなかなかいないのよ。慎哉くんみたいに男前で、里桜くんみたいに家庭的な男の子はいないかしら」
鈍い里桜にも、その違和感に気が付いた。
「えっと、美咲さん、慎を口説いてるんじゃなかったっけ……?」
「きっぱり振られちゃったわ。慎哉くん、よっぽど里桜くんのことが好きなのね。ずっと待ってるとか言われなかった?」
「ううん、俺には義之さんと幸せになるよう祈ってるって言ってくれたけど……」
思い返すと、また鼻の先がツンと痛くなってくる。
「慎哉くんに引き止められなかった?」
「っていうか、俺、義之さんがいないと死んじゃうって言ったんです」
「そんなに義之さんが好きなの?」
「うん」
何気に答えてしまってからハッとした。気安く前妻に言うようなことではなかったかもしれない。
「熱いわねえ。義之さんも暑苦しいけど、里桜くんも相当ね」
「いえ、あの、義之さんには今の言わないでください」
「私が言わなくても知ってるでしょう?」
「ううん……俺、慎にはちゃんと言わなきゃと思っただけだから、今の聞かなかったことにしてください」
騒いでいたせいで気が付かなかった。すぐ傍に、義之が立っていたことに。
「う、わ!」
思わず大声を上げて飛び退った里桜に、義之が不機嫌そうな表情を向ける。
「里桜?僕に聞かれたくないことって何?」
「な、何でもないし!」
「そんな怖い顔してたら一生言ってくれないわよ?」
「君も、僕に断りなく里桜に会うのはやめてくれないか」
「里桜くんの自由でしょう?そこまで束縛してたら嫌われるわよ」
軽口に過ぎないと思ったが、義之は露骨に嫌な顔をして見せた。
義之は他人に対してはあまり感情をダイレクトに面に出すタイプではないと思っていたが、前妻が相手だとその限りではないらしい。尤も、一度は身内になった相手なのだから他人とは言えないのかもしれないが。
「で、里桜くんのことが心配で、毎日こんな時間に帰ってきているってわけ?」
これだけ空気が張り詰めていても、美咲は義之を怒らせることに何の躊躇いもないらしい。里桜は怒りのオーラの片鱗に触れただけでビクビクしているというのに。
「……そうだよ」
どうやら、元夫婦の喧嘩は義之の方が分が悪いらしかった。
「それにしたってまだ11時よ。そんなに一人で置いておくのが心配なの?」
「あまり自由にさせない方がいいって学んだからね」
義之の反論にも美咲はちっとも動じた風もない。
「あんまり束縛すると逃げられるわよ」
「逃がさないよ。必要なら繋いででもね」
「熱いのは結構だけど、過ぎれば犯罪よ?」
「何とでも」
ハラハラしているのは里桜だけだということに、しばらく気が付かなかった。この元夫婦のコミュニケーションの取り方は、そうと知らない者にとっては、かなり心臓に悪い。
「おジャマなら帰りましょうか?」
たぶん、気を遣っているわけではない美咲の言葉を、義之が実行させる前に里桜は慌てて間に割って入った。
「あの、よかったら、お昼ごはん一緒にどうですか?」
「里桜くんはいい子ねえ。じゃ、遠慮なく」
おそらく、美咲には最初から帰る気などなかったのだろうが、気まずくなるのは避けたかったからホッとした。
「里桜」
少し怖い顔をしてみせる義之に気付かない振りでキッチンに逃げる。
「美咲さん、嫌いなものとか食べられないものってあります?」
「そうねえ……たいていのものは大丈夫だけど、サラダに入ってるりんごとかみかんが許せないタイプかしら」
「ああ、酢豚にパイナップルふざけんなってやつ」
「そうそう!里桜くんもそう?」
「ううん、俺は全然オッケーです。さつまいもにパイナップルも大好きだし」
「……義之さんと気が合うわけね」
美咲は変な所で納得していた。確かに、好みの一致というのは便利だとは思う。でも、必須条件ではないと思うのだが。



少々気まずい昼食を終えると美咲は帰っていった。
玄関まで見送り、“またね”という言葉に頷いた里桜に、義之が露骨に不機嫌な顔をしていたことにすぐには気が付かなかった。
「里桜」
振り向くのが怖いくらい、声に棘がある。
「どうして美咲を家に入れたんだい?」
「どうしてって……ダメなの?」
それまでの会話から、義之が里桜を気遣って美咲を招いたわけではないことはわかっていたが、かといって断る理由もないと思う。
背中を促されて、ひとまずリビングに戻る。義之に腕を引かれるままソファに腰を下ろした。
「こういうことは言いたくないけど、美咲は僕と結婚していた人だよ?どうして平気で仲良くできるのかな?」
そんな風に思ったのは、以前電話をもらって会うことになった時だけだった。美咲が義之に全く未練がないことも悪意がないこともわかるから、断る必要性を感じない。
「うーん……強いて言えば、お母さんみたいだから?」
パワフルで可愛らしいところは、里桜の母と通じるものがあると思う。
「お母さんって……じゃ、僕はお父さんみたいなのかな」
「え?え?」
義之の嘆息は、里桜には意味不明だ。
「確かに一回り以上も上だとそんな風に思われても仕方がないのかもしれないけど」
「そんな風って、別にお父さんみたいだなんて思ってないよ」
里桜の言葉を完全に無視して、義之が話を戻す。
「で、僕に聞かれたくないことって何だったの?」
「え?」
すぐには思い出せない里桜を追い詰めるように、義之が覆い被さってくる。
「美咲には話せても、僕には言えないことって何だろうね?」
「え、と」
ただでさえ機嫌の悪そうな義之に、慎哉の話をするのは気が進まなかったが、かといって里桜の言葉をそのまま伝えるのもテレくさい。
「美咲さん、慎のこと諦めたんだって」
「それと、きみが隠し事をすることに何の関係があるのかな?」
案の定、義之の表情が一層険しくなる。ここで慎哉はまだ里桜が好きらしいなんて言うのは自殺行為だ。
「慎と話した時のことを聞かれたから、義之さんと幸せになるよう祈ってるって言ってくれたって話をしてたんだ」
「まさか」
「ほんとだもん」
「それを僕に隠さなければいけない理由は何?」
「義之さん、慎の名前が出ただけで機嫌悪いでしょ?」
「それは否定しないけど」
珍しく、里桜の小細工が通用したらしい。できればこのまま話題を変えてしまいたかった。
「ゆっくりしてて大丈夫なの?」
「そうもいかないんだ。美咲が来ていたからすっかり予定が狂ってしまったよ。きみに元気をもらおうと思っていたのに」
言うなり、義之は里桜の唇を塞いだ。急かすように唇を割って舌が滑り込む。触れ合いたいと思う里桜の甘い期待は叶わず、捕えられて一方的に貪られる。義之はひどく性急だった。
「ん、んっ」
首を振ろうとした里桜の髪に指を絡めるように、義之の手の平が後頭部から抱きよせる。息苦しさに胸元を叩く里桜の拳など気にもかけてくれない。もう、どこまでが自分の舌なのか義之のものなのかもわからないくらい絡み合って蕩けてしまっているような気がする。
突然、ぴったりと重なった胸元が震え出した。ゆっくり体を起こした義之が上着の胸元から出したのは携帯電話だった。ディスプレイを覗いてから里桜を見る。
「もうタイムアップだ」
名残惜しげな唇を長い指が拭う。乱れた前髪をかき上げて、義之が立ち上がる。
「行ってくるよ」
腰が抜けたようにすぐには立ち上がれない里桜の唇にもう一度キスをして、義之が部屋を出てゆく。
しばらく、何が起こったのか理解できなかった。
会社から呼び出しがあったのか、アラームをかけていたのか、ともかく義之は仕事に戻っていった。





翌日の朝には、里桜の母親がやって来た。
事前に連絡のない訪問に驚き、差し出されたスイカを無意識に受け取りながら、疑問を口にする。
「どうかしたの?」
「どうしたも何も、里桜ったらちっとも電話してくれないんだもの。ラブラブな所をジャマしちゃったら悪いかなあと思って遠慮してたんだけど、あんまりにも音信不通だから心配になって押しかけてきたのよ」
「ごめんなさい」
自分と新しい生活のことで頭がいっぱいで、とても家に連絡を入れることまで気が回っていなかった。
里桜は母親をリビングに案内してソファを勧めてから、お茶の用意をするためにキッチンに向かった。もちろん、その間も母の話に耳を傾けることは忘れていない。
「ちゃんと勉強してる?お部屋はまあキレイにしてるみたいだけど、お惣菜買ったりしてないでしょうね?」
「約束通りちゃんとやってるってば。課題はとっくに全部終わったし。復習もしてるから心配しないで」
「やっぱり大人がついてるとちゃんとしてるのね。ずーっとベタベタしてるのかと思ってたけど」
その通りだよ、とはさすがに言えなかった。
「義之さん、結構厳しいんだよ?何か、勉強のレベルが俺とは全然違いそうだし。10年の間に城北のレベル下がったのかな?」
「お母さんや義之さんの頃はまだ総合選抜制だったんだもの。それに里桜は余裕で入ったわけじゃないでしょう?」
イタイ所を突かれて返す言葉もない。里桜は勉強はあまり好きではないし、得意ではないのだから。
「……お説教しに来たの?」
「違うわよ。おばあちゃんにね、今年は里桜は行けそうにないって電話したらスイカを送ってくれたのよ。話したいこともあったし、ちょうどいいと思って持ってきたの」
「そうなんだ。ありがとう。おばあちゃんにもよく言っといてね」
「はいはい」
麦茶のポットと氷を入れたコップをトレーに乗せて、リビングに戻る。すかさず母が、お茶を注ぎ分け始めた。
「で、話って何?」
「お金のことを聞いておこうと思って」
「お金って、何の?」
「何のって全部のよ。まだお給料を全部預かったりしてないわよね?里桜も自分の物も買いたいでしょうし、いくらか渡しておいた方がいいでしょ?」
「そういえば、俺、全然使ってないかも」
まだ一人で外出するのが怖い里桜は、常に義之と行動を共にしているから、自分の財布から支払いをしたことがなかった。
「里桜、いつも義之さんに払ってもらってるのね……まあ、義之さんの方が里桜に払わせないんでしょうけどけど」
「やっぱ払ってもらってばっかじゃダメ?」
「そうね。里桜はまだ高校生だし、親としては、いくら“お嫁に出したと思って”って言われても、甘えっぱなしというわけにはいかないでしょう?かといって、義之さんに直接渡しても受け取ってくれないでしょうしね」
里桜は、小さな頃から家事はいろいろと教わってきて知っているつもりでいたが、家計の方はさっぱりだった。母親と一緒に買い物に行くこともあったから、ものの値段はある程度把握しているつもりでいるが、さすがに家計簿をつけたことは一度もない。
「家計簿をつけるとか、何かしないとダメ?」
「家計簿以前に、ここの家計をある程度把握しなくちゃね」
「それは義之さんに聞けばいいの?」
「そうね。まずは家賃とか光熱費とかある程度決まった支出を聞いて、収入に見合った予算を立てなくちゃね。25日はお給料日じゃなかったの?」
少なくとも義之からそういう話はなく、給料日かもしれないという気配を感じたこともなかった。
「……知らない」
「暢気ねえ……まあ、里桜はまだ高校生だし任せられないと思ってるのかもしれないわね。とりあえず、当分はそのままの方がいいかしら。もし里桜が約束を守れなかったら帰ってきてもらうんだし?」
どさくさに紛れて、話がすり替えられてしまいそうで怖い。
「だから、ちゃんとやってるってば……あ」
玄関先で物音がしたのに気付いて慌てた。
「帰ってきたかも。ちょっと待ってて」
きっと、義之なら母の靴を見て誰が来ているのか気付くだろうが、念のため玄関へダッシュした。
「ただいま」
出迎えに行った里桜に、義之は“ただいま”の挨拶とは思えないほどキスの雨を降らせてくる。
「も、ダメだってば。それどころじゃないから!」
「キスするより大事なことがあるの?」
また義之の機嫌を損なってしまいそうだったが、今はそれどころではなかった。
「お母さんが来てるの!」
「え、美咲じゃなくて?」
どうやら、母のミュールを美咲のものだと思って、当て付けがましいことをしていたらしい。
「うん。スイカ持ってきてくれたんだよ」
「それは大変だ」
さすがに、義之も里桜の親の前では体裁を気にするらしい。
結局、義之は今日も里桜と甘い時間を過ごすことなく再び出社していった。



珍しく、その夜は義之の帰宅が遅かった。職場の飲み会を断り切れなかったらしく、もうそろそろ里桜の瞼が塞がってきそうな時間になってようやく帰ってきた。
「なんだか運命の悪意を感じてしまうよ」
「何で?」
「2日続けて昼休みは来客にジャマされるし、普通なら断れるはずの飲み会が強制参加になってるし、急いで帰って来たのに、きみは今にも寝てしまいそうな顔をしているしね?」
「俺、もうちょっと起きてるから」
もしかしたら、義之が入浴してる間に睡魔に負けてしまうかもしれないが。
「寝てたら襲うよ?」
いつになく、義之が直接的な言葉で宣言した。
「わかったから早く行ってきて」
脅し文句はかなり本気が混じっているようで、里桜は義之を風呂場に追い立てた。後になるほど、里桜が眠ってしまう確率が高くなる。
ベッドに入ったら我慢できずに眠ってしまうと思い、チェストの前に移動した。時間潰しにDVDのタイトルを眺めたり手に取って中身を確認したりしているうちに、もう義之が戻って来た。きっと、シャワーで簡単にすませてきたのだろう。
「寝ててもよかったんだよ?」
里桜が起きているのを見ると、義之は少し残念そうに笑った。
「寝てられないでしょ?」
あんな宣言をされたというのに。
背後から里桜を抱きしめられ、ベッドへと誘われる。おとなしく身を任せたのは、やっと眠れると思ったからだ。
長いキスと、シャツの下の肌に触れてくる手に、まさかと思いつつ抗議した。
「俺、ちゃんと起きてたよ?」
「寝てたら寝込みを襲うって言ったのは、起きていたら抱かないということじゃないよ?」
「サギだ……」
「昨日からジャマされっぱなしなんだよ?きみは僕が足りないと思わないの?僕なんて禁断症状が出そうなくらいなのに」
キスなら毎日くどいほどしていると思う。まさか、昼休みとはいえ仕事中にコトに及ぼうとしていたのだろうか。
「里桜?」
答えを催促されて、正直に答えた。
「……俺は足りてるよ」
こうして一緒に住むようになったことが既に、里桜にとっては身に余る幸せなのだから。
「里桜は食欲と睡眠欲以外は旺盛じゃないようだね」
不満げにキスをされても、今一番欲しているのは睡眠なのだから仕方がない。
おそらく、日頃から過剰に甘やかされているぶん、義之が足りないと感じる暇がないのだと思う。 そんな風に思う前に義之に満たされているから。義之は、ちょっと飽和気味なくらいに里桜を貪欲に求めてくるから。
いつも里桜が眠りに就く時間はとうに過ぎていたが、今寝てしまったらきっとひどい目に遭ってしまう。一緒に住み始めてすぐの頃ならともかく、今は義之が寝込みを襲うくらい何の躊躇いもないということを知っている。それくらいなら、おとなしく身を任せた方がずっといい。
この頃の義之は、最初ほどには里桜を丁寧に扱わなくなった。里桜が慣れたからか、義之のものになったからなのかはわからないが、もうそんな手順を踏む必要はないと思っているのだろう。実際、少々手荒に扱われたくらいではあの時のショックを思い出さなくなった。あの時の希望通り、すっかり義之に上書きされたと思う。まるで、最初から義之しか知らなかったような錯覚を起こすくらいには。





「また義之さんの機嫌を損ねないかしら」
今日はスイカのお裾分けを受け取りに訪れた美咲が、頻りに時計を気にする。
「そういう所は、義之さんって子供っぽいよね」
「里桜くんに子供っぽいなんて言われるようじゃ、義之さんもかなり終わってるわね」
同意するのはやめておいた。きっと、美咲が言ったのと里桜が思ったのは別の意味だろう。
「そういえば、美咲さんて義之さんとは長いつき合いなんでしょ?やっぱり厳しかったの?」
「全然。すごく自由にさせてくれたわよ。まあ、そうじゃなかったらもっと早く別れてるでしょうけど」
美咲のそういう所は理解できない。客観的に考えても、義之は理想に近い結婚相手だと思う。容姿も申し分なく、大きな企業に就職していて収入も安定している。性格はややクセはあるかもしれないが、破綻しているというほどではない。それでも不満だと言うなら、美咲と結婚できる男などいないと思う。
少し気心が知れてきたせいで、尋ねるべきではない疑問がつい口をついてしまった。
「美咲さん、どうして義之さんと別れちゃったの?今もすごく気が合ってるみたいなのに」
「じゃ、里桜くんはどうして慎哉くんと別れちゃったの?慎哉くん、里桜くんにベタ甘だったでしょう?」
答えられない里桜に、美咲が追い討ちをかける。
「それとも、私が義之さんを取っちゃってもいいの?」
唐突な悪意に里桜の心臓が鷲掴みにされたような衝撃を受けた。美咲が義之に未練があるような素振りなど、微塵も見せたことがなかったのに。
「……やだ、取らないで」
泣き出しそうな里桜に、美咲が厳しい顔をする。
「じゃ、そういうことを言っちゃダメ。義之さんが聞いたらキレるわよ?私もまかり間違ってもやり直そうなんて思わないけど、万が一揺らいだら困るでしょう?」
「でも、俺がいなかったらそうなってたかもしれないんだよね」
「そしたら、里桜くんは慎哉くんの所へ戻るの?慎哉くんは大歓迎でしょうけど」
「それは……ムリかも」
それができるなら、最初から義之の所に置いて欲しいとは言っていないと思う。もし慎哉が受け入れてくれたとしても、義之に惹かれる気持ちは変わらない。きっと、また慎哉を傷つけてしまう結果にしかならないだろう。
「里桜くんが他の人を好きでも、慎哉くんは受け入れてくれるでしょうね」
もし義之に拒絶されていたら、あのあと慎哉の許へ行っただろうか。里桜の身に起きたことを知って衝撃を受けている慎哉に、同じように上書きして欲しいと言うことができただろうか。
「ダメ。やっぱりムリ」
「そうでしょう?私もムリなの。義之さんとは友人期間が長過ぎて恋愛できないの。結婚するにはいい相手だと思ったんだけど、他の人に気持ちがいっちゃうのよ」
「それは慎のせい?」
「慎哉くんのせいじゃないわ。私が別れるって決めたんだから、私以外の誰のせいでもないの。それに、義之さんとはたとえやり直したとしても、いつかまた同じことをくり返すだけよ」
「美咲さん……もう、慎のことは吹っ切れたの?」
ずいぶん不躾なことばかり尋ねているとわかっているのに、尋ねずにいられない。それは好奇心などではなく、純粋に気がかりだからだ。
「吹っ切れたっていうより、私とはムリだってわかったのよ」
さすがに、どうして、とは聞けなかったが、美咲は答えてくれる気らしかった。
「ごめんね。本当は里桜くんに何があったのか、慎哉くんに聞いたの。剛紀のせいで里桜くんは不安障害になっちゃったのよね」
頭では否定しなければと思うのに、言葉にするのには少し時間がかかった。
「……美咲さんは関係ないよ」
「でも、原因は私にもあるでしょう」
「逆恨みだよ、俺は美咲さんが悪いとは思ってないもん」
つき合っている相手がいるのに他の人に気持ちがいってしまうことがあると、里桜も身を持って知っている。
「でも、ダメなの。慎哉くんも私も責任を感じてるの。二人でいたら、ずっと気まずいままだと思うのよ」
「……ごめんなさい」
「どうして里桜くんが謝るの?私や慎哉くんを怒ればいいのよ?」
本当は、慎哉にも美咲にも関係ない所で、とっくに里桜の気持ちは裏切っていたと告白することはできない。きっと、言ってしまえば楽になるのは里桜だけで、他の人をもっと傷つけるだけだった。
「里桜くんはいい子ね。ほんと義之さんにはもったいないわ」
頭を撫でられると思わず涙ぐみそうになった。
しばらくの沈黙のあと、美咲が時計に目をやりながら話題を変えた。
「義之さん、今日は遅いわね」
「ほんとだ……もう12時回ってる。すぐお昼の用意するね」
「手伝うわ。もしかしたらジャマになるだけかもしれないけど」
「そんなことないよ。暑いし、そうめんとかどう?」
「それくらいなら私でも大丈夫だわ」
「エプロン、俺のじゃ小さいよね。義之さんのがいいかな」
「里桜くんので構わないわよ?」
「でも美咲さん、背高いし……俺、157センチしかないんです」
「小さい方がかわいいわよ?これから伸びるでしょうし、そんなに心配することないわ」
そう言われ続けて15年余り。いつか急に伸びる時期があると言われて待ち続けているが、一向に大きく育つ気配がないのだったが。
「でも、義之さんって本当はもっと大人っぽい人が好きなんでしょ?」
「そうね……でも、里桜くんみたいなタイプには免疫がないから見事にハマってるみたいよ?」
「猫とかハムスターとかそういう感じでしょ?いつか人間に昇格するのかな」
「人間だと思ってるから、責任取ろうって気になったんでしょ?」
「……だよね」
美咲も、義之が里桜と一緒にいるのは責任感からだと思っているらしい。義之に何度否定されても、不安が拭い切れないのはこういうことかもしれない。
「美咲さん、お湯沸かしてもらっていい?」
「どのくらい作るの?」
「5〜6人前くらい?俺、いっぱい食べるし」
「そうなの?」
「うん。俺、燃費悪くって。たぶんあまり食べないみたいに見えるんだろうけど、すごい大食いなんだ」
「やっぱり男の子なのねえ」
「それが身に付かないのが悲しいところなんだけど」
たわいない話をしながら料理をするのは結構楽しい。家にいる時にも、よく母と並んで食事の用意をしたものだった。
美咲がそうめんを茹でている横で里桜は薄焼き卵を焼いた。冷ましている間にハムときゅうりと葱を刻む。
「やっぱり全部里桜くんにさせてしまってるわね」
「そんなことないって。じゃ、手が空いたら生姜をおろしてもらっていい?」
「皮は剥かないんだったかしら」
「うん、そのままで」
少し遅めの昼食の用意が出来た頃、義之からメールが来た。
「義之さん、今日はお昼いらないんだって。二人で食べよう」
「もっと早く連絡くれればいいのにねえ。たくさん残っちゃうわね」
「ううん。また小腹がすいた時に食べるから。足りないよりは多めの方がいいんだ」
美咲のおかげで一人で食事を摂らずにすんだことを胸の中で感謝する。
食事を終え、後片付けを済ませると、急速に瞼が重くなってきた。
「お昼寝の時間?」
「ううん」
からかうような美咲の言葉を否定してみたが、ソファに凭れた体は今にも倒れてしまいそうだ。
「私はそろそろ帰るわね」
美咲の言葉に首を振る。一人になるのは嫌だった。
「もうちょっといて?」
微笑みながら里桜の髪を撫でる手には、義之のとは違う優しさがある。
「俺、やっぱマザコンなのかな……」
自分でも訳のわからないことを言いながら、意識が遠のいていくのを止めることができなくなった。



「……大きな声を出さないで、里桜くんが起きちゃうでしょう」
その声が里桜の意識を呼び起こした。
ゆっくり目を開けると、怖い顔をした義之が目の前にいた。
「う、わ」
飛び起きた里桜の視界が塞がれる。
「ただいま」
キスされたのだと理解するまでに、ちょっと時間がかかってしまった。
状況に気付いて抵抗する前に唇が離れる。
「お、おかえり」
とりあえず、無難な言葉をかけてみる。
「で、どうして美咲がいて、君は眠り込んでるのかな?」
「ごめんなさい、お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって。美咲さんは、俺がもうちょっといてって言ったから待っててくれたんだよ」
「どうして美咲にそういうことを言うんだろうね」
「お母さんみたいだからって言ったら怒る?」
「昨日お母さんの顔を見たからホームシックになったの?」
「そういうんじゃないけど……」
言葉に詰まる里桜に、美咲が助け舟を出す。
「母性があるって言われてるんなら嬉しいわよ?母親になり損ねた身としてはね」
少し淋しげな美咲の口調に、いつか義之が言っていた言葉を思い出した。まるで、美咲が産むのを拒否したような言い方だったと思う。
「美咲さん?」
「赤ちゃんを授かった時にね、パパがどっちかわからなかったからすごく悩んだの。嬉しいと思う前に戸惑ってしまったの。そしたら、赤ちゃん、気を遣っていなくなっちゃった」
思いがけない告白に、言葉を挟むタイミングを逸してしまう。
「もっと早く決心できていたら、助かってたんじゃないかって思うのよ」
美咲が戻れないと思う理由のひとつはそれなのかもしれない。
「あのね、お母さんが言ってたんだけど、赤ちゃんがいなくなっちゃうのは大抵赤ちゃんの都合なんだって。安静にしてなかったとか、精神状態がどうとかっていうのはあんまり関係なくって、流れちゃうのは元々赤ちゃんが弱かったり適応してなかったりするからなんだって。うちのお母さんなんて2回も赤ちゃんいなくなっちゃったんだよ。だから美咲さんもそんなに気にしないで」
「……里桜くんって本当は子供じゃないのね」
ひどく驚いたように美咲が里桜を見つめた。少しはにかんだように笑うと年齢よりずっと若く見える。
「ありがとう。そんな風に言ってもらったのは初めてよ」
「女の人はみんな自分のせいだって思うんだよね。でもそんなことないからもう気にしないでね」
義之が何も言わないのは里桜に聞かれたくない話をしたいからかもしれないと思い、どちらにともなく声をかける。
「俺、外してようか?」
「気にしないで。何度話し合っても結論は変わらないわ。私はこの人に恋することはないもの」
美咲の言葉に義之が小さくため息を吐く。
「美咲とはつき合っている期間より友人でいた方が長いからね」
「そうね。お互い他の相手とつき合ってる所を嫌ってほど見てきたわね。どうして気が付かなかったのかしら?それが平気だっていうことの意味に」
「過去のことを気にしても仕方ないだろう?」
「気にしなかったんじゃないわ、気にならなかったのよ」
「その時は友人だったんだから当たり前だろう」
里桜も、義之の言葉に違和感を覚えた。少なくとも、里桜に対する義之の態度からは理解できない言い分だと思う。
「じゃ、慎哉くんが里桜くんとどんな風に愛し合っていたかなんて気にならないのね?」
瞬間、体の芯が熱くなるほど動揺したのは里桜だけではなかったようだった。
「こんな小っちゃな子に独占欲むき出しにしちゃって、よくそんなことが言えたものね」
「里桜が高橋とつき合っていたのはそれほど過去のことじゃない」
「私たちはお互いの相手とちゃんと終わり切らないうちにつき合い始めたんじゃなかったかしら」
「昔のことだよ」
傍で聞いてる里桜でさえ、義之の分が悪いことに気付いていた。ただ、その後で義之が言った一言は、里桜の胸に深く突き刺さった。
「でも、僕は一生君と連れ添うつもりでいたよ」
「あなたも私と別れる前に里桜くんに出逢っていたら、私の気持ちが分かってもらえたでしょうね」
もう義之は美咲に反論する気はないようだった。きっと、どれだけ言い合っても、美咲の勝利は揺るがない気がする。
「ずいぶん長居しちゃったわね。あんまりジャマしてたら、義之さんがお仕事をサボってしまいそうだから退散するわ」
「ごめんなさい、引きとめちゃって」
「失業中だから気にしないで。また来ていい?」
「うん」
美咲を玄関まで見送ってから、リビングに戻る。心なしか、義之の顔が少し疲れて見えた。そのせいか、里桜のモヤモヤした気持ちには気付かれていないようだ。
「コーヒーか何か淹れてこようか?」
キッチンの方へ行きかけた里桜を義之が止める。
「いいからこっちへおいで」
「うん」
義之の隣へ腰掛けようとした体を強く引き寄せられる。義之は里桜を膝に乗せるのが好きらしく、油断するとしょっちゅう抱っこされてしまう。義之はかなり気に入っているようだったが、里桜からすると何とも気恥ずかしく抵抗のある体勢だった。
ただ、今日の義之からは甘い雰囲気は感じられず、どちらかと言うと拘束に近い状況なのかもしれない。
背後から里桜の肩口に凭れてくる義之の前髪が項に触れると、くすぐったくてつい首を竦めてしまう。
「里桜は、いつの間に美咲とそんなに仲良くなったの?」
「仲良くなれたかな?」
義之はそれには答えず、腹の辺りへ回した腕に力を籠めた。
「……きみは、女性には母性しか感じないの?」
「うーん……少なくとも恋はしないみたい」
少なくとも、わずか15年余りの里桜の人生では一度もなかった。
「やっぱり、警戒するのは男だけで大丈夫かな」
独り言のような義之の呟きに、敢えて返事をするのはやめておいた。
「今度は君の友達を呼んでくれないかな?危険人物がいたらいけないしね」
「義之さん、どうして俺にはそんなに横暴なの?」
「横暴かな?」
呆れたことに、本人に自覚はないらしい。
「美咲さんはすごく自由にさせてくれてたって言ってたのに」
「彼女は大人だしね、奔放な人だって知ってて結婚したんだから仕方ないよ」
「俺だって奔放かもしれないでしょ」
「そういえば、カレに内緒で何度も僕と会ってたんだったね」
どうやら、里桜が相手だと義之の勝利は揺るぎなくなるらしい。
敗北感からか、里桜は自分で言い出したことの矛盾に気が付かないまま、ますます不利になる答えを返してしまう。
「……まだ、それを言う?」
「きみがまた同じことをしないという保障はないしね。僕が安心できないのは当たり前だと思わないか?」
広い意味で、義之は浮気の共犯者だっただけに、反論のしようがない。
「でも、俺の友達に変なこと言わないでね。本気でキレると思うし。そうでなくても義之さんには良い印象を持ってないから」
「心外だな。僕はあまり印象が悪いタイプじゃないんだけど……というか、君の友達に会った覚えはないんだけど?」
「直接は会ってないけど、慎とつき合ってる時に義之さんと会ってたことを知ってるから」
「ああ、授業を抜けさせてたからだね」
「そうだ!もし俺と浮気してた?とか聞かれても、ちゃんと否定してね?」
「わかってるよ」
「じゃ、都合を聞いとくね。平日と週末、どっちがいい?」
「平日の午後はどう?もしかしたら、里桜はまだ他の人に会うのは難しいかもしれないからね。大丈夫そうなら僕が会社に戻れば気を遣わせないですむだろうし」
「ありがとう。あとで電話してみるね」
里桜が2学期から学校に戻るためには、あと一月足らずの間に不安を克服しなければならなかった。そろそろ引き籠るのは終わりにしなければいけないのかもしれない。
あれこれと考えを巡らせていると、里桜の左手の指に義之の左手が絡んできた。振り向こうとした体がきつく抱きしめられる。
「なに?」
義之の指が絡んだ里桜の薬指へ、別な手が重なる。金属質な感触は、里桜の薬指に嵌められた銀色のシンプルな指輪のものだった。
「家に閉じ込めていても安心できないってわかったからね、急いで仕上げてもらったんだ」
「え、と」
思いがけなさ過ぎて、何から尋ねたらいいのかわからない。
「勝手に選んでごめん。本当は君と一緒に見に行こうと思っていたんだけど、一日でも早く嵌めたかったから」
「くれるの?」
「もちろん。外しちゃダメだよ」
「うん?」
「僕のだっていう印だからね。まだマリッジリングというわけにはいかないけど、ちゃんとネームとメッセージも入れてあるよ」
「……ありがとう」
まだ意味をあまり理解できないまま、とりあえずお礼を言ってみる。
「僕の指にも嵌めてくれるかな?」
義之が同じデザインのリングをもう一つ取り出して里桜の手の平に乗せる。さっき義之が里桜にしてくれたようにすればいいのだろうが、ひどく緊張した。
「これで、君も僕を束縛できるっていうことだよ」
「……そうなの?」
「そうだよ。これで余計な誘惑が減るってことだからね」
にっこりと笑う義之の言葉を素直に受け止めることはできなかった。指輪ひとつで束縛できるほど世の中甘くないことくらいは里桜だって知っている。
「もう少し嬉しそうな顔をしてくれないかな」
嬉しくないわけではない。ただ、今の里桜はステディリングにあまり意味を感じられなくて素直に喜ぶことができなかった。
義之の指が里桜の顎を上げさせる。覗きこむように近付く顔が重なる前に、おとなしく目を伏せた。
不安と不信は隠して、今だけ甘いキスに溺れていようと思った。



- 子猫にカラーを嵌める理由 - Fin

【 子猫に鈴が必要な理由 】     Novel       【 子猫の逆襲 】  


カラー(collar)というのは首輪のことです。
前回、義之が似合いそうだと言っていたアレのことではなくて、
ここでは指輪のことです。毎度、蛇足でごめんなさい。

里桜が美咲に言っている赤ちゃんの話は本当です。
但し、いろんな説があるので鵜呑みにはしないでくださいね。