- 仔猫は一途に、わがままを貫く -



「こんな時間に子供連れで大丈夫なのか?」
急な電話で淳史の家を訪れた里桜は、玄関先での一言にカチンときた。
義之に向けられた言葉だったのだろうが、思わず言い返してしまう。
「あっくん、俺は子供っぽいけど、本当に子供じゃないんだからね」
「おまえは“子供っぽい”んじゃなくて“子供”なんだろうが」
「違うの、俺はまだ大人じゃないかもしれないけど、もう子供でもないの。意地悪言うと、お土産あげないよ?」
「くれと言った覚えもないが?」
里桜の抱えてきた地酒の一升瓶にも、淳史は興味を引かれた風でもなかった。義之からの情報では、淳史の一番好きな酒のはずだったのだが。
「淳史、少しは嬉しそうにしてやってくれないかな?いつももらうばっかりだからって、里桜も気を遣っているのに」
「酒一本じゃ割に合わないような気がするが」
それほども、押しかけられたことが気に入らなかったのか、淳史は厳しい顔を崩さなかった。
それでも、どうしても淳史にお願いのある里桜は、ヘコんだ顔を見せず明るく返す。
「あっくんと義くんはコーヒーでいいんだよね?淹れてくるねー」
淳史の返事を待たずに、勝手にキッチンの方へ向かう。さすがに掃除のプロが入っているというだけあって、水回りもIHも新居のようにキレイだった。といっても、実際の所は、単に使っていないだけなのかもしれなかったが。
コーヒーメーカーは普段使いしているらしく、シンクの水切り棚に伏せられていた。見回すと、すぐに豆も見つかった。
淳史の所にはないだろうと持参した小さなパックの牛乳を、数少ない調理器具の一つのミルクパンに移す。
コーヒーが入るまでの間に、こっそりキッチンの物色などもしてみた。冷蔵庫やシンクの下やパントリーの中を、手を触れるのは我慢して覗く。義之に聞いていた通り、淳史の家には食料品は殆どなさそうだった。シンク下に積み上げられた、包装されたままの進物品らしい箱の中には、食品も入っているのかもしれないが、もしあったとしても賞味期限は怪しいだろう。
そうこうしているうちに出来上がったコーヒーを、かろうじて3つあったマグカップに注ぎ、一つだけに砂糖と温めたミルクを入れた。
トレーが見つからず、先に二人分のカップを運ぶ。
「二人は何も入れなくていいんだよね?」
ほぼ同時に顔を上げる義之と淳史は、詰めてソファに並んでいて、いかにも密談でもしていたといった風だった。
「悪いな、押し掛けてきたとはいえ、一応は客にやらせて」
「あっくん、今日は意地悪言わないでくれない?聞いたんでしょ、俺がヘコんでるの」
「俺には、いつもと変わらないように見えるんだが?」
意識してテンションを高めに保っている里桜の苦労は、淳史には見抜いてもらえないらしい。
「あっくん、ちょっとじっとしてて」
「なんだ?」
不審げな視線は向けられたが、里桜の願い通り動かずに座ったままの淳史の隣に、ちょこんと腰掛ける。そっと、肩の辺りへ抱きついてみた。
「……おい」
傍らの義之に気を遣ってか、淳史は非難するような口調だったが、引き離されることはなかった。
「よかった、大丈夫みたい」
「何だ?」
「聞いたんでしょ?ちょっと怖い思いをしたから、あっくんのこともダメになっちゃったかもと思ってたんだ」
「俺の週末を、またリハビリに使うつもりだったのか?」
「ごめんね、もしダメになってたら、そうしてもらおうかなって思ってた」
やれやれ、と言いたそうに首を振る淳史から、そっと離れて、義之の隣に回る。
招かれたわけでなく押しかけた形となったが、初めて淳史のマンションに訪れることが出来たことに違いはなかった。以前の義之の口ぶりから考えると、里桜にどんな事情があったとしても、淳史の気が向かなければ入れてもらえないはずだったのだから。
「難儀だな。男に触られる度にそれじゃ、おちおち学校にも通えないだろう?」
「そんなことないよ。一時的なものだったし、もう大丈夫みたい。それに、慣れるために、あっくんに通ってもらってたんだし」
「俺にはよくわからないが、パニック起こしたりするんじゃないのか?」
「うーん……そうかもしれないけど、その時はすぐ納まった」
義之には見抜かれていたようだったが、里桜は慎哉に甘えることでパニックに陥ってしまわずに済んでいた。もし、慎哉がいなかったらどうなっていたのかを考えるのは怖いのでやめている。
「それにしたって、よくまあ、こんな発育不良のガキをどうかしようなんて気になるもんだな」
「淳史の好みに合っていないというだけで、里桜は意外と色っぽかったりするんだよ」
「俺には理解できないが。まあ、現に被害に遭っているということは、そういう風に思う奴がいるということなんだろうな」
この状況で口を挟むのはひどく勇気が入ったが、里桜はずっと訂正しそびれていたことを話すことにした。
「あ、あの、ね、もしかして勘違いかもしれないんだ。俺、抱きしめられたからパニクっちゃって……相手も凄い緊張してたし、こう勢い余ってギュッとされただけかも」
時間が経って落ち着くと、襲われると思い込んでしまったのは里桜の被害妄想に過ぎないかもしれず、阿部は告白することに力が入り過ぎてしまっただけだったのかもしれないと思うようになった。阿部は、極度に緊張する余り少し強引になってしまっただけで、決して乱暴なことをしようとしていたわけではなかったような気がする。思い返してみれば、阿部の眼差しは切羽詰っていたが、決して情欲の色など浮かべてはいなかった。もし、里桜に襲われた経験などなければ、もっと穏便に解決できたことだったのかもしれない。
「大騒ぎしておいて、勘違いだと?」
声を荒げる淳史に、里桜は子供じみた言い訳に逃げることにした。
「俺、襲われそうになったとか言ってないもん。おっきな奴に強引にギュッとされたって言っただけだもん」
「でも、キスされたんだろう?」
忌々しげに反論する義之に慌てた。思い出させてしまうと、また機嫌が悪くなってしまいそうで怖い。
「だから、それも俺の勘違いかもって言ったでしょ。髪の毛にそこまで神経通ってないし」
「髪の毛?」
呆れたような淳史の問いに、自棄気味に答える。
「そうだよ。それも、髪の毛に触ったのが唇かもって言っただけだし」
「それだけのことで、そこまで怒ってるのか?」
里桜のショックよりも、義之の不機嫌の方が、淳史には信じられないらしかった。
「それだけ?髪の毛一本たりとも、僕の里桜に勝手に触るなんて許せるわけがないだろう?」
大きな手で額を押さえる淳史が、ひどく疲れた声を出す。
「痴話喧嘩は帰ってからやってくれ」
そのまま帰れと言われそうな気がして、話を変えるきっかけを探した。
「そうだ、俺もコーヒー取って来なきゃ。せっかくカフェオレにしたのに」
急いでキッチンに戻ってカップに触ると、もう冷めてしまっていた。かといって、自分の分だけ温め直すわけにもいかず、そのまま手にしてリビングに戻る。
「なに?」
差し出された薄い箱に、我知らず目が輝いてしまう。
「京都土産だと言ってもらったんだが。俺は食わないし丁度良かったな」
「ありがとー。あっくん大好き」
軽く“好き”と口にした里桜に、義之が露骨に嫌そうな顔をする。
「里桜、他の男に軽々しくそういうことを言っちゃ駄目だよ」
「そう目くじら立てて怒らなくても、八つ橋のことだろうが」
「八つ橋だろうが何だろうが、里桜が他の男に向かって“好き”だと言うなんて有り得ないよ。僕にも滅多に言ってくれないのに」
「……そう思うんなら、さっさと帰れ。もう用は済んだんだろうが」
度重なる淳史を疲れさせる発言に、本気で嫌気がさしてしまったらしい。
「まだ食べてないもん」
「持って帰って食え」
「やだ。まだコーヒーも飲んでないし」
「さっさと飲んで早く帰れ」
「ゆっくり飲むもん」
ムキになる里桜に、淳史も冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「そういや、そろそろ眠くなる時間じゃないのか?」
言われた途端に時間を意識してしまい、今にも眠気がやってくるような気がして不安になってしまう。11時前から睡魔と闘わなくてはいけないような里桜の体質は、確かに子供だと言われても仕方ないのかもしれない。
「明日はお休みだから、少し遅くなっても大丈夫だもん。朝ゆっくりするし」
「ここで寝るなよ?」
迷惑そうに眉を顰められると、ちょっと傷付いた。
「心配しなくても、里桜が寝てしまっても、ちゃんと連れて帰るから大丈夫だよ」
「明日は土曜なんだし、泊めてくれるでしょ?」
「悪いな、俺は出勤だ」
「えー、あっくん明日お仕事なの?せっかく遊べると思ってたのに」
「仮に休みだったとしても、子守をする気はないからな」
里桜にではなく義之に返すのは、本気で断るつもりなのだろう。リハビリという名目で通って来てくれていた頃は、里桜に優しくしてくれていたような気がするのに、淳史はだんだん素っ気無くなってしまったような気がする。
「お仕事終わったらカラオケ行こうよ?」
「俺はそういうのには疎いんだ」
「そんな年寄りくさいこと言わないで行こ?」
「悪かったな、年寄りくさくて」
軽く流せばいいのに、淳史はいつも年齢のことになると本気で気を悪くしてしまうような所がある。それとも、断るためにわざと怒った振りをしているのだろうか。
「里桜、あまり我儘を言ってると本当に出禁になってしまうよ?」
もう少し食い下がろうと思っていたのに、義之に止められてしまった。まだまだ、里桜は淳史の特別にはなれそうにないらしい。
初めて来たばかりなのに早々に出入り禁止にされないよう、今回はおとなしく引くことにした。





「あ……」
すれ違いざまに何気なく見上げた人影と目が合った瞬間、里桜は声を上げてしまった。
胸元の広く開いた、ごく淡いライトブルーのイタリアンカラーのシャツにベージュのチノパン。ネイビーのジャケットを羽織っていても、どこか退廃的な雰囲気が漂う。
軽く首を傾げる背の高い相手の、整い過ぎた顔は恋人のそれに似ているような気がして目が逸らせなくなる。
困ったように笑いかけられて、ハッと我に返った。
「ご、ごめんなさい」
「誰かに似てると思ったかな?」
「え、ええ……」
よくわかりやすいと言われる里桜の表情に、恋人に似ていると書いてあったのだろうか。
「もしかして義之かな?」
「あ、それじゃ義くんの親戚とか……って、でも」
面影が被るということは義之の血縁の人なのだろうかと思いかけて、けれども身よりはいないと言っていた義之の言葉を思い出してパニックを起こしそうになる。それでも、赤の他人にしては似過ぎているように思えた。
「義之の母親と結婚していなかったから、どうしても認知させてくれなくてね」
認知させてくれなかったということは、この秀麗な男が義之の父親だということだろうか。シングルマザーだったとは聞いているが、父親がいないはずはないのだから、現れてもおかしくはない。それ以前に、義之の生い立ちについてあまり突っ込んで尋ねたことがなかったから、俄かには真実だとも嘘だとも判断し難かった。
「あ、あの、じゃ、義くんのお父さんなんですか?」
「間違いないと思ってるよ」
「でも、義くんは父親はいないって……」
「私が他の人と結婚したものだから、どうしても許してくれなくてね。いまだに仕事以外では父親だと言ってくれないんだよ」
「すみません、お仕事って……?」
「清水外科って知らないかな?そこの医者なんだけど」
「あ、じゃ、義くんのお得意さん?」
「まあ、そんなところかな。もう少しゆっくり話したいけど、時間はある?」
「え、と、知らない人について行っちゃダメって言われてるので……」
「確か高校生だと聞いていたと思ったけど、小学生なんてことはないだろうね?」
中学生と言われたことは何度もあるが、さすがに小学生に間違われたことはない。
「一応、高校生ですけど」
いつになくムキになって返した里桜は、可笑しそうに見つめられて、それが冗談だったことに気付いてますます顔を赤くした。
「義之が紹介してくれるのを待っていることにするよ」
あっさりと引こうとする相手を思わず引き止めた。
「あの、義くんから、俺のことを聞いてるんですか?」
「結婚したい相手がいて、そちらでお世話になっていると聞いているよ」
「そうなんですか……」
確かに、義之ならそのくらい言いそうだ。容姿も、話の内容も、おそらく嘘ではないのだろう。それでも、義之の了承を得ずについてゆくのはためらわれた。
「義之に、私が会いたがっていたと伝えてくれるかな?」
「はい……あ、でも何て言えば」
「清水義貴(しみず よしたか)、連絡先も知らせておこうか?」
「あ、じゃ、俺も」
渡された名刺と交換する代わりに何気なく携帯を開いた里桜に、義貴は苦笑した。
「知らない人についていっちゃダメだと言われるはずだね。初対面の相手に、そんなに簡単に携帯を見せちゃダメとは言われなかったの?」
「あ……」
ついこの間痛い目に遭いそうになったばかりだというのに、また同じようなことをくり返しそうになった自分が情けない。でも、どうしても悪い人には思えなかった。確かめるように義貴を見上げた。
「8時以降なら空けておくよ、連絡先は義之も知っているからね」
「はい、じゃ、そういう風に言っておきます」
里桜の無防備さにつけ込んだりしない義貴は、それだけで信用できるいい人に見えた。



「義くん、今日ねえ、すごい男前に会ったんだよ。あんまり綺麗だから思わず見惚れちゃって、なんか義くんと……」
義之を出迎えた玄関先で、里桜は興奮のあまり、“おかえり”を言うのも忘れてまくし立てた。いつになく乱暴な腕に抱き寄せられて、最後まで言い終えないうちに言葉を止められる。
「聞き捨てならないことを嬉しそうに言うね?」
日頃は穏やかな目元に剣呑な色を浮かべていることも気にならないくらい、里桜は自分の感情でいっぱいだった。肩を抱くように回されていた手が下がり、腰を引き寄せられるのに任せて、間近から見上げる。
「義くんのお父さん、お医者さんなんだねー。学校の帰りに偶然会ったんだけど、ビックリしちゃった」
「会ったって……どこで?」
「初めて義くんに会った辺りかな?そうそう、初めて会う場所が一緒なんてすごくない?」
「待ち伏せしてたの?」
「ううん。すれ違う時、何となく見たら目が合って、そしたら義くんに似てたからじーっと見ちゃった」
里桜の腰を抱く腕が、痛いほどに強くなる。
「そういえば、君はこういう顔に弱いんだったね」
独り言のように義之が呟くのを聞いて、慌てて訂正する。
「義くんに似てたから見たんだよ?義くんて、お父さん似だよね」
「どちらかと言うと母親似だよ、年齢と共に父に似てきたかもしれないけどね」
はっきりと父という言葉を使った義之に、深く考えずに尋ねる。
「あんなカッコイイお父さんがいるって、どうして教えてくれなかったの?」
「認知されていないからね、戸籍上では赤の他人だよ」
「でも、お父さんは義くんが認知させてくれないって言ってたけど」
「他に家族のいる人だからね、籍を入れると相続問題とか起きるだろうと思って遠慮したんだよ。余計な心配のタネは増やさない方がお互いのためだからね」
「ふーん……でも、お父さんがいることくらいは言ってくれても良かったんじゃない?俺、結婚申し込まれたよね?」
珍しく、言い淀む義之をつい追及してしまう。
「ずっと隠しておくつもりだったの?」
「できることなら、そうしたかったよ」
「……そうなんだ」
書類上はどうであれ、お互い親子だと認めているのに、里桜には隠し通したいと思っていたらしい。里桜と結婚したいと言った言葉は嘘でなくとも、いつまで続くとも知れないような相手に、そこまで明かす必要はないと考えていたのだろうか。里桜にはひどく重要なことに思えたが、義之にとっては誰も入れたくないテリトリーなのかもしれない。
“愛している”とか“離さない”という言葉の効力は、その場限りのものだと思う。真実はその一瞬だけのもので、時間の経過とともに移り変わってゆき、少なくとも一生添い遂げようと思っていた相手とさえ僅か二年で別れてしまうような義之とは、もしかしたら籍を入れる以前に終わってしまうくらい儚い関係なのかもしれない。疑うわけではなく、気持ちが移ろうことを身を持って知っているだけに、それはどうしようもないことなのだと思った。
「それで、何の話をしたの?」
「話っていうほどは……もしかして悪い人だったらいけないと思ったし」
「偉いな、里桜も進歩したね。本当に悪い人だから近付いちゃダメだよ?」
どんな事情があるにしても、自分の父親をそんな風に言う義之に驚いた。それに、これまで身内はいないと言っていたことで里桜に嘘を吐いていたと思っている風でもないようだ。不意に、自分がとんでもなく薄っぺらな価値しかない存在に思えてきてしまった。
何度否定されても、やはり好きになったのは里桜の方で、こんなにも好きなのは自分だけなのかもしれないと、卑下してしまいそうになる。
「……そういえば、義くんに会いたがってたよ。8時以降なら空けとくって」
「僕に、じゃなくて、里桜に、だろう?」
「え?でも、俺とはもう会ったし……」
「うっかり紹介すると言ってしまったからね、待ちくたびれたんじゃないかな」
うっかり、ということは本当は紹介したくなかったのだろうか。考え始めると、際限なくネガティブに受け取ってしまう。
携帯を開いて操作し始めた義之が電話をする相手が、義貴なのなら止めた方がいいのかと思ったが、確認する間もなく相手が出てしまったらしかった。
「すみません、診察中でしたか?8時以降が都合がいいと聞いてますけど?あまり遅くなると困りますので……ええ、じゃ、8時に伺います」
義之の言葉は簡潔過ぎて用件はわからなかったが、相手が義貴なのは間違いなさそうだった。
義之は携帯を閉じて里桜に向き直ると、思いがけないことを言った。
「もうちょっとしたら出掛けるから着替えておいで」
「出掛けるって、どこに?」
「食事くらいつき合ってくれないかな?元はといえば君が約束してきたんだからね」
「でも、会わせたくないんじゃなかったの?」
「また僕に黙って会われるくらいなら、ちゃんと紹介しておくよ」
“また”が何を指すのかすぐにはわからなかったが、里桜を非難されていることは何となく察してしまった。
「義くん、こんな急にはムリだよ。お母さんに何も言ってないし、ご飯も作らないといけないんだから」
安静を強いられている母の代わりに食事の用意をしている里桜は、急な外出や外食につき合うことは出来ない。それは義之も承知していることのはずだった。
「今日だけだよ、なるべく早く切り上げてくるしね」
「お父さんが帰るまでに戻れる?今日は9時くらいになるって言ってたけど」
「いくらなんでも、それはちょっと厳しいよ。お義父さんに無理を言えないかな?10時には戻れるようにするから」
「じゃ、メールしとくね。でも、ホント早く終わらせてね?」
「僕だって長居はしたくないよ」
義之が何か言う度に里桜は気が進まなくなってしまう。紹介したくないのなら、しなければいいし、して欲しくもないと思った。





「すみませんが、急な話でしたので手短にお願いします」
勝手知ったる風にその病院の院長室へ直行した義之は、上機嫌の義貴を見るなり、愛想の欠片もなく切り出した。あからさまに好戦的な視線を向けるなど、普段の義之からは考えられないだけに、いかに里桜を連れて来たくなかったのかが推し量れる気がする。
「わかっているよ、今日は一緒に食事ができれば充分だと思っているよ」
「いいえ。申し訳ないんですけど、本当に時間がないんです。紹介だけしたらすぐ失礼させていただきますので」
「それはまた随分せっかちな話だね。無理に都合をつけて来てくれたのかな?どうしても今日会いたいと言ったつもりではなかったんだけれど」
穏やかに返す義貴に対して、義之は常にないほど横柄に見える。
「僕に断りもなく里桜に会いに行ったと知って、放っておけるわけがないでしょう?」
「それは、義之がなかなか会わせてくれないからだよ。いつまで待たせるつもりだったのかな?」
「あなたの日頃の行いを顧みれば、僕が里桜に会わせたがらないことくらいわかるでしょう?」
「いくら私でも、義之の恋人には何もできないよ」
「信用できませんね」
容姿は血縁者にしか見えないのに、里桜には理解不可能なほどに義之の態度は他人行儀だった。しかも、いつまで経っても紹介する気配も感じられない。身の置き場のない里桜に気付かないかのように、二人だけの会話が続いてゆく。
「元はといえば、義之が会わせてくれると言い出したんだよ?」
「それは……ちょっとした腹いせで、本気じゃなかったんです」
端正な顔を歪めて怒りを露にする義之に、里桜はいたたまれなくなった。そんなにも会わせたくなかったのなら、連れてこなければ良かったのだと思う。父親がいたことを何故黙っていたのかは尋ねたかもしれないが、紹介してくれと言った覚えはなかった。
「いつまでも立ってないで、こっちへおいで?」
所在無く立ち尽くす里桜に向けられた極上の笑顔に、また義之のオーラが怒りの色を増す。腹立たしいのはむしろ里桜の方で、義之を通り越して義貴の方へ近付こうとした体が強い力で抱き止められた。
驚いて振り仰ぐと、義之の機嫌の悪さがピークを迎えているらしいことに気付いた。
「……紹介しなくてもご存知なんでしょうけど、この子が鈴木里桜、僕の最愛の人ですよ。里桜、一応、僕の父で清水義貴」
里桜が挨拶をする前に、義貴が拗ねたような顔で義之を見る。
「義之、一応というのはひどいんじゃないかな?」
「戸籍上は赤の他人ですからね」
義之はすげなく、まるで義貴に里桜を見せるのさえ嫌だと言いたげに腕に閉じ込めたまま、僅かも離そうとはしなかった。
「本当につれないな……あまり隠されると、攫ってでも親睦を深めたくなってしまうよ?」
初めて見せた義貴の反撃に、義之の顔色が変わる。
「そんなことをしたら僕だって何をするかわかりませんよ。僕を犯罪者にするつもりですか?」
「大げさだね。そんなに警戒しなくても、義之が選ぶ相手がどんな人なのか知りたいだけなのに」
「あなたの興味を引くような子じゃありませんよ。まだ未熟な仔猫ですからね。今度待ち伏せなんてしたら絶縁しますよ。たとえ仕事でも会いませんからね」
「……ほんと、義之は厳しいな」
険しい表情を崩さない義之に、義貴は年甲斐もなく、しゅんとなってしまった。義之につれなくされるのが余程辛いのだろう。
「ともかく、紹介だけはしましたからね。里桜も、あなたと食事するのは嫌だと言ってますから」
「ちがっ……今日はダメって言っただけで……」
義之の言葉を訂正しようと口を挟んだ里桜の、声を止めさせるほど強い視線に怯んでしまう。話が拗れることを危ぶんだのだろうが、義之にそんな風に見られるとは思いもしなかった。
「義之がそんなに独占欲が強いとは知らなかったよ。あまり可愛い人を困らせるのは本意ではないし、落ち着くのを待っているよ」
がっかりした様子だったが、義貴が大人らしく引いてくれたおかげで、思いのほか早く切り上げることになった。
車に戻り、すぐに発進させる義之をそっと窺う。表情がいくらか和らいだように見えるのは、義貴に言いたい放題で少しは気が晴れたのだろうか。それにしても、いくら里桜が早く帰りたいと言ったからといって、義之の仕打ちは酷いような気がした。
「……可愛い人って、義くんのこと?」
「まさか。里桜のことに決まってるだろう?あの人にはモラルや良識の欠片もないし、優しそうに見えても中身は悪魔だからね。甘い言葉をかけられても、絶対に近付いちゃダメだよ?」
もし義貴が義之の言う通りの人物なのだとしたら、似た者親子だということに気付いていないのだろうか。口に出して指摘する勇気はなかったが、義之の言葉は父親のことを話しているようでいて、結局は自身のことを語っているようだった。
「里桜?」
「……義くんて、お父さんのことが嫌いなの?」
「尊敬はしていないよ、息子の恋人でも構わず口説くような人だからね」
「俺は口説かれてないよ?」
里桜の返事に、義之の表情がまた曇る。その意味も理由もわからない里桜は、義之の心配がどうしても理解できなかった。
「里桜は何歳まで許容範囲なの?」
「え……別に何歳までとか考えたことないけど……」
「若く見えるけど、もう還暦近いんだからね」
「還暦っていくつ?」
「60才」
「ウソ……めっちゃ若く見えるよね」
とても、里桜の祖父母に近い年齢には思えなかった。
純粋な驚きを口にしたに過ぎなかったが、義之の気に障ったらしく、また厳しい表情になってしまう。
「もう二度と会わせるつもりはないから、里桜も勝手にコンタクトを取ったりしちゃダメだよ?」
鈍い里桜にも、義之が会わせたがらなかった理由を思い違えていたらしいことに気が付いた。
「義くん……もしかして、俺が浮気するとか思ってる?」
「浮気するかもしれないという以前に、里桜は隙だらけだからね。気の休まる暇がないよ」
きつい言葉に、また落ち込みそうになる。そんなにも、里桜は軽く見えるのだろうか。
「……俺、そんなに信用ないの?」
「自分がしたことを思えば、里桜を繋ぎ留めておくのは簡単なことじゃないとわかっているからね」
返す言葉のない里桜に、義之は脅し文句を忘れなかった。
「だからといって、僕から逃げられると思わないようにね?」
「別に、そんなこと思ってないし……」
ただ、時々どうしようもなく不安になってしまうだけで。
少し気まずい雰囲気を引き摺ったまま家へ着いた。いくら急いでいたとはいえ、里桜の家を出てから、まだ1時間半ほどしか経っていなかった。義之のマンションに車を取りに寄ったことを考えると、いかに義貴の所にいた時間が短かったのかがわかる。
路上駐車をすると車を傷付けられるかもしれないと気にしている義之は、普段はいちいちマンションの駐車場まで車を取りに行ったり戻しに行ったりしていたが、今日は里桜の家に直行で帰ってきた。車を置きにマンションに寄ったら、義之に言いくるめられて泊まることになってしまいそうだと思っていただけに、正直ホッとした。



食事と入浴を済ませると、里桜は早々に自分の部屋に引き上げてきた。
気分が疲れていて早く休みたいと思っていたのに、一緒についてきた義之に抱きしめられると、すぐにベッドに入るのはためらってしまう。促されるまま、とりあえず縁へ腰掛けた。
「里桜?怒ってるの?」
今更な義之の問いに首を横に振る。本心では、里桜を閉じ込める腕から抜け出したいくらい遣り切れない思いでいっぱいだったが。
「眠いから、今日はもう話したくない」
眠気をアピールするように、義之の胸元へ額を擦り付ける。敏い義之に不信を勘付かれてしまわないよう、体温の上がってきた全身で寄りかかった。
「もう少し起きててくれないかな?」
囁くような声が耳を掠める意味に気付いてドキリとする。義之に触れられると流されてしまうのに。
「ダメ、朝起きれなくなっちゃう」
「まだ11時前だよ?無理はさせないから、ね?」
甘い声にも、今日は簡単に頷く気にはなれなかった。
「いや」
近付く唇を避けて顔を背ける方に、義之が回り込んでくる。頬を包む手に逃げ道を塞がれて、唇が捕まった。甘い舌に唇を開かされると拒む気持ちがどこかへ行ってしまう。
頭の後ろへ回された手に支えられた体がゆっくりと後ろへ倒されてゆく。いつも以上に優しいキスと体を撫でる手が、抗い難い強引さで里桜を追い詰めにかかる。
「ぁんっ……」
胸を弄る指に甘い声を上げた里桜に、意地悪な笑いが唇越しに伝わってきた。そんな些細なことまでが里桜を悲しくさせることに、今日の義之は気付いてくれないようだ。
わき腹を伝って背後に回る手が、パジャマと下着をずらすようにして素肌に触れる。びくんと腰を引いた里桜の中へ入ろうとする指は何のためらいもなかった。
「や、いや」
「大きな声を出さないで?」
窘めるように囁かれる声に、里桜の抵抗が殺がれてゆく。
「んっ……あ、ん」
里桜以上に里桜の体を知っている指が、無理矢理に官能を呼び起こす。長い指にかき乱されるたびに、体が引き摺られそうになる。
「や……義くん、ずるい」
涙目で睨む里桜には迫力などないのだろう。愛おしげに見つめられて、目尻に口付けられると自然に瞼が落ちてゆく。
「抱いていい?」
確信めいた問いに、里桜はもう嫌だと言うことは出来なかった。やはり、満足そうに笑う義之には敵いそうにない。
無理はさせないと言っていたくせに、義之が里桜を眠らせてくれたのはとっくに日付が変わってからだった。






「あっくん」
呼び出した里桜より先に来て待っていた淳史の心配げな顔を見つけると、落ち込んだ気分が少し浮上する。
電話をかけて、相談があるから会いたいと言った里桜に、淳史は二つ返事で応じてくれた。出来れば淳史の部屋に行きたいと言っても、驚くほど快く迎えに行くと答えてくれた。あれほど頑なに家には入れないと言っていたのが嘘のようだ。
「ごめんね、待ってくれた?」
「いや、そうでもない。義之の仕事が終わるまで時間潰すか?」
「ううん。先にあっくんのうちに行ってるってメールしてあるし」
「後で誘拐されたとか言われないだろうな?」
冗談ともつかないような口ぶりに曖昧に笑って返す。接待で土曜出勤していった義之からまだ返事は来ていなかったが、伝えたことは間違いない。たとえ、携帯の電源を入れられないような状態なのだとしても、止められたわけではないと、自分の胸の中だけで言い訳した。
淳史の歩調が緩いのは、里桜を気遣ってくれているのだろう。今日に限ったことではなく、淳史にはいつも女の子扱いされているような気がする。
駅の傍の地下駐車場に降りると、淳史のイメージに合いそうな車を想像しながら歩く。見える範囲に思い当たる車はなく、ほどなく黒いアルファードに辿り着いた。外側も磨かれて鏡のように輝いていたが、室内も納車されたばかりかと思うほど綺麗で、マットには砂ひとつ落ちてはいない。一瞬、乗るのを躊躇ってしまうほどだった。すぐにエンジンをかける淳史に置いて行かれないよう、慌てて助手席へ座る。
「あっくん、独身なのにワンボックスなの?」
「悪いか?」
「そうじゃないけど、セダンに乗ってると思い込んでた」
「セダン車はアウトドア向きじゃないからな」
「え、あっくん、釣りとかキャンプとかする人?」
「まあな」
「ええー」
想像できない、と続けようとして、淳史の機嫌を損ねたらしいことに気付いて言葉を変える。
「あっくん、キャンプって義くんとも行くの?俺も一緒に連れてってくれる?」
「義之に聞けよ?俺を余計なトラブルに巻き込むな」
「義くんがいいって言ったら一緒に行っていいの?」
「そうだな、テントが張れて火が起こせるんなら連れていってやってもいいぞ」
まるで断るためのような条件にも、里桜は引かなかった。
「そういうのって、やってるうちに覚えるものなんじゃないの?」
「確かにな。まずは義之に教わってからだな」
「えー」
相変わらず、淳史は里桜を甘やかしてくれそうになく、些細な攻防は目的地に着くまで続いた。


淳史の部屋に着くと、お客さま気分ではないというアピール代わりにまずキッチンの方へ行く。コーヒーを淹れるのは里桜の役割だというくらいの自覚はあった。
先にソファで寛ぐ淳史の元へ、マグカップを2つ持っていく。もちろん、里桜のカップには砂糖とミルクが入っている。
「それで?今度はどうしたんだ?」
落ち着いて話せる環境になったからか、淳史は本題に入ることにしたらしかった。
「あっくんは、義くんのお父さんを知ってる?」
「知らないこともないが」
歯切れの悪い返事に、義之の隠したがる事情を淳史も知っているのだと確信した。
「この間、学校の帰りにすっごい男前の人に会ってね、義くんに似てるなあと思って見てたら、本当にお父さんだったんだ。少しだけ話して別れたんだけど、義くんが帰って来てその話をしたら機嫌悪くなっちゃって。その後、凄い嫌そうにその人の所に連れて行ってくれたんだけど、ほんと顔見ただけって感じですぐ帰ってきて。俺、義くんは天涯孤独だって聞いてたから、ウソ吐かれてたみたいな気がするんだけど、認知されてないから戸籍上は赤の他人だって言うんだ。なんか、納得いかないんだけど、あっくんどう思う?」
「何も聞いてないのか?」
「何もって?」
「逆か……何を知ってる?」
「えっと、先生が60歳近いとか、義くんのお母さんと籍を入れてなかったとか……」
言葉にすると改めて、里桜は本当に何も知らなかったことに気が付いた。義之のせいだけではなく、里桜が無関心過ぎたのかもしれない。
「部分的なことだけか」
迷うような表情に、淳史からも情報は貰えそうにないことが窺えた。
「……やっぱり、あっくんは義くんの味方なんだよね?」
「まあ、義之に不利になりそうなことは言い難いな」
はっきり言われると落ち込む。つき合いの長さや深さから考えても、淳史が義之の肩を持つのは当然だったが、少しくらい里桜の心情を思いやってくれるかもしれないと思っていたのだった。
「誰に聞けば教えてくれるのかな……」
「本人に聞けばいいだろうが。他から聞いたと知れば、また機嫌を損ねるんじゃないのか?」
「それはそうだけど……でも、聞いて答えてくれるくらいだったら、その時に話してくれてたと思うんだ。きっと俺に言う気はないんだよ。できれば一生隠しておきたかったって言ってたし」
「父親がいるってことを、か?」
「うん」
「それなら気にしなくていいぞ?義之は父親のことを認めてないんだ。母親が若く亡くなったことも義貴先生のせいだと思っているような所があるからな」
「でも、俺は結婚申し込まれたんだよ?本気の相手にだったら、隠したままでいようとは思わないよね?」
「本気じゃなかったら“一生”なんて言わないだろうが」
里桜が話したわけではない言葉を、淳史が知っていることに何の疑問も抱く余裕はなかった。落ち込んでゆく里桜を浮上させることは、今は誰にも出来ないような気さえしてくる。
「俺を子供だと思って言ってるんだから、ままごとみたいな意味なんだよ、きっと」
自分で言いながら、その真実味を帯びた言葉に涙が滲んできた。義之との年の差を埋めることは出来るはずもなく、里桜のレベルで恋愛をしてくれるのでなければ、本気にはほど遠い。
体ひとつ離れた位置に腰掛ける淳史の、頭を撫でてくれるかに思えた掌はソファの背で止まってしまった。里桜の後遺症を気にしてか、淳史から触れられたことは一度もない。もう大丈夫だと、何度となく言ったはずなのに。
「義之が生半可な覚悟でおまえとつき合ってるわけじゃないことくらいわからないのか?そうじゃなけりゃ、おまえの親元に同居なんて出来るわけないだろうが」
「でも、義くんは二年で離婚しちゃうような人だもん。俺とも続かなくてもいいと思ってるんだよ」
「そんなわけないだろうが。どっちかといえば、もしおまえが別れたいと思っても簡単には別れてくれない覚悟をしておいた方がいいと思うぞ?」
「いつ別れもいいように、お父さんにも黙っていたかったんでしょ」
「前の相手は紹介もしてなかったはずだが」
「え……」
「義之は父親のことを信用してないからな。先生は女グセが悪いというか、“人のもの”でも気にしない人なんだ。もしも先生の気に入ったらと思うと、紹介する気にはなれないだろうな」
里桜には、義貴がそんな悪い人には見えなかった。むしろ、義之の機嫌を取ることの方が大事だと全身で訴えていたような気がする。もし里桜が義之の恋人でなければ、親しげな顔を向けてくれることもなかっただろうと思った。
「お父さんじゃなくて、俺が浮気すると思ってるんだよ。俺、カレ氏がいた時から義くんと会ってたから」
「そうなのか?」
「うん。義くんに誘われて断ったことは一度もなかったし……俺のこと、軽いと思ってるみたいだし」
義之だったから会いに行ったのだとは、当事者だけにわかってもらえないのだろう。そのくせ、里桜は相手の下心にも気付かないほど鈍感で。義之に信用できないと思われるのは仕方のないことなのかもしれないと自分でも思う。
「おまえが軽いとは思わないが、危なっかしい感じはするかもしれないな。俺にも最初はあんなに警戒していたくせに、慣れたら随分懐こくなったしな」
「だって、あっくんは俺に悪いことしないでしょ。せっかく大丈夫になったのに、離れてたらまた戻っちゃいそうだし」
淳史に親しみを感じているのは事実だが、同時に、インターバルを長く置くと恐怖症が復活してしまいそうで、なるべく免疫を付け続けておきたいと思っているのも懐こく振舞ってしまう理由だった。
「義之にもそう言ったか?たぶん、おまえが思う以上に義之はおまえに振り回されていると思うが」
「振り回されてるのは俺の方だもん。俺は親にも友達にも義くんのこと話してるのに、義くんは親がいることさえ俺に言ってくれてなかったんだから」
「俺には話してるだろうが。そう目くじら立てなくても、タイミングを逸して話せなくなってるだけなんじゃないのか?」
「……そうかな?」
「もう少し信用してやれ」
淳史の言葉に慰められて穏やかな気分になれたのは、血相を変えた義之が現れるまでのことだった。



「どうして他の男と二人っきりになるかな?しかも男の部屋で」
呼吸と前髪を乱した義之が淳史の部屋を訪れたのは、里桜が来た午後過ぎから2時間余り経ってからだった。
玄関先で出迎えた里桜の体が、答える間もなく長い腕に抱き取られる。まるで遠距離恋愛の恋人同士が何ヶ月ぶりかに会った時のような強い抱擁に、つい弱気になってしまう。
「どうしてって……そんなに心配しなくても、あっくんでしょ」
「淳史だからって信用しちゃダメだよ。里桜は自分が可愛いことを知らな過ぎるよ」
リビングに向かいながらの会話は筒抜けで、里桜の腰を抱いて近付く義之に、淳史はウンザリしたように首を振って見せた。
「俺がこんな色気の欠片もない乳臭いガキに血迷うわけがないだろう」
「あっくんこそ、本人を目の前にして、そういうこと言う?ひどいよ」
いつものように、里桜は義之の膝に乗せられてソファに腰掛けた迫力の無い格好で、上目遣いに淳史を睨んだ。淳史は二人の傍に座る気はないらしく、カウンターに背を凭れかけさせるようにして佇んだままだ。
「里桜?誰が何と言おうと、他所の男と二人きりになったりしちゃダメだからね。特に淳史には同居家族がいるわけでもないし、何かのはずみでおかしな雰囲気になったらどうするの?」
三人三様の言い分はかみ合わないばかりか、義之のただならぬ気配に淳史がため息を吐く。もう反論するより呆れてしまっているのかもしれない。
「義くん、他の人はともかく、あっくんは心配ないんじゃないの?俺みたいなのには興味ないって言ってるし、義くんとは友達なんだし」
「……淳史には前科があるからね」
意味有りげな言い方がどういうことを指すのか、鈍い里桜にも察しがついてしまった。
「だから、あれは俺の方が先だったと言ってるだろうが」
「でも、それを黙ったままでつき合い続けるのは、俊明を裏切っていたのと同じことだよ?」
「しょうがないだろう、彩華が黙っていて欲しいと言ったんだ」
「淳史の趣味の悪さには本当に呆れるよ。どうして、あんな人に弱いんだか」
「いい女だぞ。まあ、性格には多少の問題があるかもしれないが」
「多少なんてレベルじゃないだろう?僕は寛容な方だと思うけど、あの人だけは論外だからね」
「そこまで言うか」
発端は里桜との痴話喧嘩だったはずが、いつの間にか相手と話がすり替わってしまったようだ。かといって、二人にしかわからない会話に口を挟んでもいいものかどうか迷ってしまう。
里桜の戸惑いに気付いた義之が、淳史と言い合うのを中断して説明を始めた。
「俊明というのは淳史の古くからの友人で、父の正式な息子だよ。僕の義兄に当たるわけだけど、誕生日が3ヶ月ほど違うだけの同級生で、学生時代は三人で親しくしていたんだ」
新たな事実の発覚に、里桜はすぐには反応できなかった。少し考えれば、父親だけでなく兄弟姉妹のいる可能性にも気が付いたのだろうが、初めて父親がいると聞いた時のショックが大き過ぎて、そこまで頭が回っていなかった。
「俊明はその人と結婚したから、彩華さんは僕の義姉になったというべきなのかな?」
「じゃ、義くんにはお兄さんとお姉さんもいるんだ……」
「何度も言うけど、法的には他人だよ?しかも、お義姉さんには何度もアプローチされるくらい、身内扱いされてないしね」
義之の目線は里桜にはなく、どうやら喧嘩を売っている相手は淳史らしかった。
「それは初耳だな?」
「わざわざ報告して揉めさせることもないだろう?それに、結婚前のことだから自由だと言えなくもないしね」
「……なんか、俺の神経がまともなのかどうか自信なくなってきちゃった……」
つき合っている相手がいるのに義之と会っていた里桜は、相手にも人としても大変なことをしてしまったと思っていたのに、この大人たちの会話を聞いていると、たいしたことではなかったような気がしてきてしまう。
「義之よりは、おまえの方がよっぽどまともだから心配するな」
淳史の言葉も、里桜を擁護しているというよりは、義之に対する嫌味のようにしか聞こえない。
「僕と比べるまでもなく里桜は普通だよ。少し晩熟なくらいで」
義之とつき合うようになって、一足飛びにいろいろな経験をしてきた里桜は、もう晩熟とは言えないような気がしていたが、それでもこの大人たちから見れば、まだまだ子供だということなのだろう。
「その晩熟な子供に現を抜かしてるおまえの方が、俺にはよっぽど危険人物に見えるんだが」
「僕は大切な人を誰にも取られたくないと思っているだけだよ。大人だと思っていた美咲にさえ誤解されたんだ。くどいくらいに伝えていても、若い里桜を繋ぎとめておくことは難しいとわかっているよ」
「誤解って、どういうこと?」
「初めて会った日に話しただろう?僕が仕事に一生懸命になり過ぎて、美咲のことをないがしろにしていたと思われてしまったことだよ。里桜には同じ思いをさせたくないし、誰かに付け入る隙を与えたくないんだ。だから、僕は仕事より里桜を優先するし、出来る限り一緒にいるよ」
つき合い始めてからずっと、まるで仕事をサボっているかのような義之の行動に呆れたり心配したりしていたが、まさかそんなにも大事にされていたとは想像もしなかった。
「これだけ思われてて、まだ疑うか?」
ぼそりと呟く淳史の、それみたことかとでも言いたげな口調に、小さく首を振る。
隠し事をされていたという事実は消えていないのに、里桜の悩みは殆ど解決したも同然らしかった。



「なんか、義くんのお父さんの話から脱線しちゃったよね」
辿り着いた義之のマンションで、里桜は迷いながらもその話を振ってみた。途端に、義之は一度は納まっていたかに思えた機嫌を悪くしてしまう。
「まだ父のことが気になるの?」
並んで腰掛けていたはずの体は、答える間もなく向かい合うような格好に引き寄せられた。場所は変わっても、やっぱり義之の膝に乗せられてしまう里桜の立場に何の違いもない。
「気にするのが普通でしょ?義くんはお父さんの話をするのは嫌なの?」
「父に限らず、きみが他の男の話をするのは聞きたくないよ」
子供じみた言い方に、淳史の言葉を思い出す。まさかと思うが、義之は本当に里桜が誘惑されるのではないかと心配しているのかもしれない。
「お父さんだけじゃなくて……義くん、お母さんのことも話したくないの?」
「ああ、そういえば、あのままになっていたんだったね」
里桜が悩んでいたことなど知らないらしい義之は、事も無げに話し始めた。
「母は看護師になってすぐに勤めた病院で、勤務医だった父と知り合ってつき合い始めたんだよ。結婚の約束をしていたそうだけど、父はそこの院長の娘だった俊明の母親に気に入られて縁談を持ち掛けられたらしくてね。母はその噂を聞いて黙って姿を消したんだよ。父が結婚してからはまた会っていたそうだけど、暫くして今度こそ消えたんだよ。僕を授かったことを黙ったままで」
義之の話は淡々とし過ぎていて、逆に意味を理解するのに時間がかかってしまった。
「よくわかんないけど……義くんの言い方だと、お父さんは悪くないみたいに聞こえるんだけど?」
「そうだね。母は何も言わずに突然消えてしまったそうだから、むしろ恨んでいるのは父の方かもしれないね」
「じゃ、どうして……」
義之がこんなにも父親を毛嫌いする意味がわからない。
「僕が高校に上がる少し前に、母が末期ガンだとわかってね。元から生活には困ってなかったし、大きな保険に入っていたから経済的な問題はなかったんだけど、母は未成年の僕には後見人が必要だと思ったんだろうね。僕に黙って、別れてから一度も連絡を取ってなかった父に相談したんだよ。寝耳に水だったろうに、父も、横恋慕で別れさせたと気に病んでいたらしい俊明の母親も諸手を挙げて歓迎してくれて、こっちが戸惑うほどだったよ」
「それなのに、お父さんと仲が悪いの?」
「父に連絡した時点で余命3ヶ月と言われていたからね。延命するより痛みを和らげるしかないような状態だったから、父はすぐに自分の病院に入院させて最期まで付きっきりで面倒を見ていたよ。それこそ、人目も憚らずに」
やっぱり、理由がわからない。
首を傾げる里桜に、義之は今までに一度として見た事のない、拗ねたような顔で答えた。
「それまで、ずっと母と二人で生きてきたのに、よりによって最期に取られたんだよ」
「……義くん、もしかして、お父さんにヤキモチ妬いてるの?」
「まあ、そういうことになるのかな」
里桜の肩へ顔を伏せるように凭れ掛かってくるのは、もしかしたら義之は子供っぽい表情を見られたくないと思っているのかもしれない。
こんな義之を見るのは初めてで、里桜は少しくすぐったいような気持ちで広い背中を抱きしめた。これで頭を撫でたりしたら、形勢逆転も可能かもしれない。
迷いながら、もうひとつの疑問を口にする。
「義くんのお父さんって、最初から女グセの悪い人だったの?」
言い終わらないうちに顔を上げた義之が、不機嫌そうに眉を顰める。
「まだ父の話をしたいの?」
「そういうわけじゃないけど……なんか、イメージが上手く繋がらなくて。お母さんの最期だけいい人になったの?」
「いい人になったわけじゃなくて、離れていた15年余りを埋めるのに必死だったんじゃないかな。もし母が病気じゃなかったら恨み言も言いたかったんだろうけど、最期まで言わないままだったようだから」
「義くんのお父さんは、ずっとお母さんのことが好きだったんだね」
たぶん、里桜の想像は間違っていないはずだった。義之は、まるでそれが悪いことのように表情を歪ませる。
「父はずっと母に裏切られたと思い込んでいたようだったから、女グセを悪くさせた原因は母なんだろうね。何があっても僕は母の味方だけど、残された者のことを思うと複雑だよ。父の結婚相手も、俊明ももう少し嫌な奴だと良かったんだけどね」
そういう意味でも苦労をしたことのない里桜には、義之の複雑さを本当に理解するのは難しかった。嫌な奴で苦労したというのならともかく、いい人だったから敬遠したくなるというような言い方には同意しにくい。掛ける言葉は見つからず、ただ身を預けたままで義之の気の納まるのを待つ。
「里桜」
きつく抱きしめられると泣きたいような気持ちになる。せつなげに名前を呼ばれる度に、胸が痛くて。
求められているとわかっていても、確かめ合うような時間はなかった。もう夕方近い時間で、なるべく義之を刺激しないように腕を解く。家を出る前から、休日出勤の父が定時で帰宅する前には帰って食事の用意をしておきたいと思っていた。
「義くん、そろそろ帰らないと……ご飯の用意しないで来ちゃったから」
「里桜は僕よりお義父さんの方が大事なの?」
答えられない里桜を抱く腕に、真綿のように締め付けられていくような錯覚を起こしそうになる。
「僕は君を誰かに取られそうで不安だよ」
囁くような声が切迫して聞こえて、里桜ははっきりと首を振った。誰にも、揺れるはずがないのに。
「里桜は若いから、そのうち僕より好きな相手が出来て、もう終わりだと言われそうな気がするよ」
そんな心配げな顔を見せる義之より、里桜の方が何倍も好きだと思う。優しい人を傷付けることを厭わないほど、好きになってしまったから義之の所へ来たのに。
「そんな心配するくらなら、ちゃんと捕まえておけばいいのに」
「どうすれば捕まえておけるのかな……」
「俺は子供かもしれないけど、義くんが思ってるほど鈍感じゃないよ」
「……里桜?」
もしかしたら、鈍感なのは義之の方なのかもしれない。里桜を独占することが難しいわけがないのに。
「頼りないかもしれないけど、大事なことはちゃんと話して?そうじゃないと、義くんは俺のことはどうでもいいんだなって思ってしまうから」
「里桜を失くしたくないから話すのを躊躇ってたんだよ。里桜は優しくて秀麗な人がタイプだし、父は人当たりがいいし、仲良くなっても不思議じゃない」
「そりゃお父さんのことは嫌いじゃないけど、だからって浮気するわけがないでしょ?俺が好きなのは義くんだよ。他の誰に会っても、変わるわけないのに」
「本当に?」
「うん」
疑うような言い方をする義之を少し悲しく思いながら、信用されない理由のひとつは自分にあることを再認識する。
慎哉とつき合っていた頃は、里桜にはまだ“好き”がよくわかっていなくて、抗いようのない感情の赴くままに義之と会い続けてしまっていた。いざ自覚して、恋人がいる自分は義之と会っていてはいけないと思った矢先に斎藤とのことが起こり、うやむやのうちに一緒に過ごし始めてしまった。
何も起こらないうちにもう少し時間があれば、義之と会うのをやめるか、慎哉に話すか出来ていたかもしれないと思うのは結果論なのだろうか。もし、そう出来ていたら、疚しさを覚えることもなかったかもしれないのに。





「秀が会って話したいって言ってたんだけど、これから出られる?」
帰宅した義之を軽いキスと抱擁で出迎えると、里桜はすぐに切り出した。
「僕は構わないけど、ここに来てもらうのは都合が悪いのかな?」
「たぶん」
都合が悪いのは秀明の事情で、里桜の母の体調を気遣ってのことではなかったが、義之は良い方に解釈したようだった。いつもの里桜なら、義之が帰宅する前に電話かメールで知らせているところだが、追求されたら答えに詰まってしまいそうな気がして言えないまま今に至っている。
「これからだと遅くなりそうだけど、お義父さんやお義母さんはいいのかな?」
「うん。晩ご飯の用意はしてあるし、秀と会うから遅くなるって言ってあるから」
「すぐに出た方がいいのかな?」
「できたら」
「じゃ、このまま行こうか?」
「いいの?ごめんね、戻ったばっかなのに」
貴重な金曜の夜を潰されることを嫌うのではないかと思ったが、義之の快い返事にホッとした。
さっき脱いだばかりの靴に足を戻す義之の横を、里桜はサンダルを引っ掛けて先にドアに向かう。
「車を持って来てないけど、近く?」
「秀の所は7、8分かな?ごめんね、先に電話入れとかないと」
携帯を操作しながら外へ出る。待っていたようにワンコールで応答する秀明に、義之が戻って来たことと、これから向かうことを知らせてすぐに通話を終えた。
それから慎哉の所へ行くことになっていることを話せば、義之は来てくれないかもしれないと思ったが、黙り通すことは出来そうになかった。きっと、わかりやすいと言われる里桜の顔や態度に表れる不安に気付かれてしまう。
「あのね、義くん」
里桜の隣に並んだ義之が、小さな子にするみたいにそっと頭を撫でる。里桜の様子がおかしいことなど、とっくに義之は気が付いていたようだった。
「何か困ったことになってるの?」
「そうじゃないけど……秀と会ったら、慎の所に行くことになってるんだ」
進みかけた足が止まる。
訝しげな顔で、義之は里桜の肩を引いた。
「何の話かな?まさか、やっぱり君を諦められないなんて話じゃないだろうね?」
「俺も、義くんに用があるとしか聞いてないんだ。ただ、秀が怖かったから、あんまりいい話じゃないんだろうなって思ってるだけで」
「ふうん……まあ、何て言われても離すつもりはないけど」
険しい顔の義之が、里桜をギュッと抱きしめる。
里桜も用件は聞いていないが、秀明の態度から、義之に厳しい内容だろうということだけはわかっていた。



「慎って、まさか一人で住んでるとか……?」
慎哉の家を訪ねるのは初めてだった。
つき合っている時には、学校帰りに里桜の部屋に行くのが暗黙の了解のようになっていて、わざわざ慎哉の部屋に行きたいと言うのは深い意味があるような気がしていたからだ。
通された部屋は、ソファとローチェストを置いただけのシンプルさで生活感は全くない。初めて淳史の部屋に行った時に感じた同じような感想が比にならないくらい、殺風景な空間だった。余計なものだけでなく必要なものも足りないような、神経質なほどに整えられた部屋はモデルルーム以上に素っ気無く、とても誰かが住んでいるようには思えない。
「まあ、そんな感じかな」
言葉を濁す慎哉に、それ以上尋ねることは躊躇われた。もうつき合っているわけではない里桜には、深く立ち入る権利はないはずだ。
「適当に座ってもらっていいかな?何か入れるよ。里桜はアイスティーの方がいい?」
「あ、俺、コーヒーでも大丈夫になったんだ。でもカフェオレにしてくれる?」
驚いたような顔を見せる慎哉は、里桜がまだコーヒーは苦手だと思っていたのだろう。元から飲めなかったというわけではないが、好んで飲もうと思ったことはなかった。けれども、朝はコーヒー派の義之と過ごすうちに慣れたのだと思う。
当初の目的を忘れてしまうくらい穏やかな気持ちでいられたのはここまでだった。
「コーヒーなんか淹れなくていい、俺は和やかに休憩しに来たわけじゃないんだ」
軽く慎哉を睨んだ秀明は、その視線を更に強めて義之を見据えた。長いつき合いの里桜でも、秀明がそんなに怒っているところは殆ど見たことがない。
「緒方さん、里桜を襲わせる手引きをしたっていうのは本当ですか?」
言葉に反して質問口調ではなかった。ある程度の予測をしていたのか、義之は驚いた風もなく答える。
「手引きをしたわけではないけれど、たぶん言いたいことは事実だと思うよ」
「秀、どうして急にそんなこと……」
「おまえ、阿部に更衣室で口説かれた後、緒方さんに迎えに来てもらったんだろう?その話を高橋としてるところに斎藤が通りかかって……耳に入ったみたいで、心配そうな顔をするからこっちがキレちまって」
「……どういう、こと?」
斎藤の姿を思い出しただけで、頭の中が真っ白になってしまいそうなくらいに怖いのに。
「いろいろ誤解があったとか言われて、心配されても今更だろ?理由を知ってるみたいな高橋も何も言わないしな。おまえに二度と顔を合わせないようにしろって言われてるけど気になるって言うから、誰にって聞いたんだ」
バクバクと心臓が走り出す。なぜか、嫌な予感に限って外れてくれない。
「秀」
止めようと思う里桜の方に秀明の視線はなく、挑むように真っ直ぐに義之を睨めつけていた。
「あいつ、あんたの別れた奥さんの弟なんだって言ってましたけど?」
義之は里桜ほど驚いた風はなく、静かに息を吐いて秀明を見返した。
「そうだよ」
「里桜の傍にいるのは、少しは罪悪感があったからですか?」
「そうじゃないよ。僕が里桜を好きになって一緒にいたいと思ったからだよ」
義之の答えは秀明を納得させるものではなかったらしく、むしろ激昂させただけのようだった。
「本当は、高橋から里桜を取るのが目的だったんじゃないんですか?」
今までその可能性を思いつきもしなかった里桜と違って、秀明はすぐに義之が別な復讐の形をとったと考えたようだ。
「そういう気持ちがなかったと言えば嘘になるかな。でも、本当に取れるとは思ってなかったよ」
「それなら、どうして里桜と頻繁に会ってたんです?里桜の気を引いて弄ぶつもりだったんじゃないんですか?」
「実際に里桜に会って、もし僕を好きになってくれた時に受け止められると思ったから気を引いたんだよ」
「義くん、それってやっぱり……」
何度否定されても拭いきれない疑惑が、また湧き上がってくる。
「責任感じゃないよ、何度も言ったはずだろう?実際に里桜と出逢って好きになれそうだと思ったからね。無理だと思っていたら、もっと違う接し方をしていたよ」
「俺に合わせてくれたんだ?」
「そうじゃない、君に二度と会えなくなる可能性の方が高かったんだよ?僕が気持ちをセーブせずにいられなかったことを察してくれないかな」
「でも、俺が頼まなかったらそれっきりだったんだよね」
「僕の方から一緒にいて欲しいと言える立場じゃないだろう?」
義之がどんなに言葉を省略しても、何を指しているのか里桜にはわかる。それを理解できるのは自分だけだと思っていたのに。
「里桜が傷物にされても、後は引き受けるつもりだったってことですか?」
秀明がひどく冷たい目で義之を見ていた。一体どこまで知っているのかを確かめるのは怖いのに、抑え切れずに先を促してしまう。
「秀、何でそんなこと」
「緒方さんがおまえを斎藤のところへ連れて行ったんだろう?」
「ちが……義くんが家に帰るって言うから、俺がついて行ったんだ」
「緒方さんは、おまえを連れて来るように言われてたんだろう?」
「そんなことない、会ってる時に電話がかかってきて、義くんは帰るって言っただけだよ」
「ついて来るように言われたんだろ?」
「そうじゃない、俺が勝手に……」
必死に庇おうとする里桜を制して、義之は信じられないことを言った。
「里桜、もういいよ、彼の言ってることは間違ってない」
まるで他人事のような義之の態度に、秀明はますます怒りを募らせる。
「あんたは自分が何したかわかってるんですか?」
「後悔していないと言えば嘘になるけど、結果的にそれで里桜が僕の許に来たわけだしね」
そこまで言われて、漸く里桜にも、義之が庇ってくれていることに気付いた。できれば慎哉には隠しておきたかった真実は、これ以上傷付けたくなかったからなのに。もうそれは叶わないと知ったのは、黙って聞いていた慎哉が辛そうな視線を義之に向けたからだ。
「緒方さん、俺もずっと気になってたんですが……俺のせいで里桜をひどい目に遭わせてしまったことは、本当に後悔してもしきれないと思ってます。でも、その場に居合わせたあなたが、どうしてそんなに平然と里桜の傍にいるんです?」
「平然と、と言われるのは心外だけど……強いて言えば、里桜の望みと僕の望みが一致したということかな」
「とっくに相思相愛だったと言いたいんですか?」
「そうじゃないよ、里桜は最初から恋人がいると言っていたからね。まさか取れるとは思ってなかったよ。剛紀のことがなければ、里桜につけ入る隙はなかっただろうしね」
里桜を庇う言葉は、言うほどに義之を悪役にしてしまう。義之の誘いを一度として断ることなく会い続けていたのは里桜の身勝手だったのに。
「里桜の気持ちが俺にないのは知ってました。里桜は俺と居ても上の空だったり、授業を抜け出したりしていたし、そうかと思えば投げ遣りなくらい無防備になったり……まさか相手が緒方さんだとは思ってもみなかったけど」
「晩熟な里桜を口説くのは、そう難しいことじゃなかったからね」
「……どうして、俺から奪うだけにしてくれなかったんですか?」
辛そうな慎哉を見ると罪悪感で胸が痛くなる。慎哉が里桜を思ってくれていたことも、大切にしてくれていたことも知っていたのに。
「自分が剛紀にしたことと同じことをされたとは思わないのか?」
小さく息を吐いた慎哉が、意を決したように強い瞳を義之に向けた。
「言い訳がましいと思って黙ってましたけど……斎藤がつき合ってた人が学校を休んでたのは、悪阻(つわり)がきつかったのと中絶したからです。もちろん、父親は俺じゃない」
「100%避妊出来ていたと言い切れるものかな?」
「俺が中学の時に遊んでた相手が大学病院に勤めてる人で、ふざけて俺の精液を調べると言って採ったんです。ただの悪戯のはずだったのに、調べてみたら、俺には精子がなかった」
瞬間的に空気が固まった。淡々とした慎哉の態度にひどく違和感を覚える。
「だから、遊んでたのか?」
「遊んでたのは元からですけど……うちの両親は籍が入っているというだけで、お互い別の相手がいるような人たちだったから、当たり前みたいに俺も乱れてたのが、輪をかけて酷くなったというか」
「その話は美咲にもしたのか?」
怖い顔をした義之の声は心なしか掠れていた。
「美咲さんに妊娠しているようだと言われてすぐに同じような話をしました。それに、俺は誰が相手の時でも、生でやったことはないし」
「それで、自分は父親じゃないと言ったのか?」
「そうです。美咲さんから伝わってると思っていたし」
「僕は今初めて聞いたよ。ちゃんと話してくれていれば、拗れずに済んだのに」
そうしたら、義之は今でも美咲と上手くいっていたのだろうか。里桜は義之に出逢うこともなく、慎哉と本当の恋人になっていたのだろうか。
考えれば考えるほど、里桜は最低な人間になってしまいそうだった。他の人の不幸の上に今の自分の幸せがあって、あれほど怖かったはずの経験さえ、そのおかげで義之の傍にいられるのだと思うと必要だったような気さえしてしまう。
「……そのことは剛紀にも?」
「里桜のことで斎藤に呼び出された時に全部話しました。すぐには信じなかったけど、別れた彼女が休んでいた本当の理由とか、美咲さんのことを話してるうちに事実だと認めるしかなくなったんだと思います。里桜に謝りたいとも言ってましたけど、悪いと思ってるなら二度と顔を合わせないように言いました。里桜が恐怖症にかかったようだと聞いていたから」
「慎……ごめん、俺、何も知らなかった」
「謝らないでくれないかな……原因を作ったのは俺なんだから。俺がいい加減なことをしてなかったら、里桜は辛い思いをせずにすんだのに」
今にも和解できそうに思えた雰囲気を、ただひとり好戦的な俊明が壊そうとする。
「要するに、高橋がちゃんと説明してれば、里桜は被害に遭わずに済んだってことだよな」
「秀……」
「それに、高橋の事情を知らなかったからといって、関係ない里桜をそんな風に巻き込んでいいわけないでしょう、緒方さん」
「僕も一生連れ添うつもりだった人を失くしたばかりで、冷静な判断が出来なかったんだよ」
「いい大人が何言ってるんですか。もし里桜が自殺でもしたらどう責任を取るつもりだったんですか」
「正直、そんな事態が起こるかもしれないとは考えもしなかったよ」
恋人がいるのに他の男の誘いに簡単に乗ってしまう里桜を軽いと思っていたらしい義之には、そんな風に思い詰めるかもしれないとは考えられなかったのだろう。そう言われた時のことを思い出すと、また悲しくなってしまう。
「里桜、いい加減に目を覚ませよ?おまえにだって、緒方さんがひどい奴だってわかっただろう?」
「ごめん、秀……でも、何て言われても、俺が義くんを好きなのは変えられないから。もし別れたら死んじゃう」
「落ち着けよ?里桜だって、冷静になれば緒方さんがどれほど狡い奴か気が付くはずだ」
「……ずるいのは、俺の方だもん」
「里桜」
遮ろうとする義之に首を振った。できれば誰も傷付けたくないと思って嘘を重ねてきたが、それで義之を失うくらいなら他の誰を傷つけても構わない。そんな強い感情が自分の中にあるなんて、今まで思いもしなかった。
「慎に黙って義くんと会ってたのは俺の意思だし、あの時だって、俺が部屋についていかなければ何も起こらなかったんだ。いくら俺が子供だからって、一人暮らしの男の人の部屋についていったら何をされても文句言えないってことくらい知ってたよ」
里桜はあの時、いつもの義之とは違う不穏な気配を感じていた。それでも、抗い難い引力に逆らう気にはなれず、義之についていってしまったのだった。もしかしたら、深層心理では、何かが起これば関係を壊せると思っていたのかもしれない。
肘を引かれて、義之の方を振り返った。見つめ合う瞳はこんなにも真摯なのに、どうして周りは非難をくり返すのだろう。
「里桜、それはレイプされる方にも原因があるっていう誤った考え方と一緒だよ。そんなことはないんだ、無防備だったからといって、やっていいことじゃなかった」
「ううん……俺、相手が義くんだったら嫌じゃなかったと思う。あんなことになる前から慎を裏切ってた。だから、罰が当たったんだよ」
「そうじゃない、たとえどんな事情があったとしても、僕も剛紀もやっちゃいけないことをしたんだよ。君は僕を恨むのが当たり前なんだよ」
「でも、俺はその後で義くんにしてって言った。あんな状況じゃ、義くんは断れるわけないのに……帰りたくないって言って家に置いてもらって、恋人にしてもらって、つけこんだのは俺の方だよね」
「そうじゃないよ、どうして里桜はそんなに自分を責めるのかな」
「義くんから見たら俺は子供なんだろうけど、自分で選んだことを人のせいにするほどは子供じゃないよ?」
「どう言えば里桜のせいじゃないってわかってくれるのかな……」
義之の困り果てたような顔を見るのは初めてかもしれない。普段の義之なら簡単に里桜を言いくるめてしまう。でも、里桜には自分にも非があったことがわかっていた。危険だとわかっている事態に近付かなければ傷付かずに済んだのだから。
お互いを庇い合う口論が、更に慎哉を傷付けてしまうことに気遣えないくらい、里桜は義之のことしか考えられなくなっていた。これからも慎哉と普通に接したいと思っていたのに。
「里桜にはまともな判断ができなくなってるんだな」
呆れたような、諦めたような秀明の言葉に、義之以外の誰にも言わないつもりでいた言葉が、堪え切れずに口をつく。義之が酷いのなら、里桜も同罪だった。
「……だって、俺は最初から義くんが好きだったんだ」
「里桜」
信じられないものを見るような秀明に、里桜は覚悟を決めた。
「もし俺と友達でいるのが嫌だったら、そう言ってくれていいよ」
「俺まで捨てる気か?」
「俺じゃなくて、秀が俺のこと嫌になったんだろ?」
どちらか一人しか選べないのなら、義之を取る。それは里桜が自覚する以前から決まっていたことだったような気がした。
「……おまえが急にしおらしくなって、仕草や言葉遣いが綺麗になったのも全部、緒方さんのせいだったんだな」
それが秀明のせいいっぱいの譲歩らしかった。




「義くんも、俺のこと嫌になった?」
慎哉の部屋を後にして義之と二人きりになると、里桜は堪え切れずに小さな声で尋ねてみた。
もしそうだと言われたら、胸が潰れてしまうと思うのに。
「まさか。里桜がそんなに僕を思ってくれていたとは知らなかったから嬉しいよ」
足を止めて里桜を抱きしめる腕の強さは、同じくらいわがままなのかもしれない。
「ありがと」
その優しい人は今は里桜のものだと実感したくて、ギュッと抱きしめ返した。



- 仔猫は一途に、わがままを貫く - Fin

【 仔猫の依存症に効く薬 】     Novel  


これで慎の好感度が下がったらどうしよーと青褪めつつ、当初の予定通りお話を進めてしまいました。
ほんと、うちにはどうしようもないキャラばっかりのような気がします。
一応、これで伏線というか、隠し設定は全部出し終わりました。
というわけで、こちらも本編は一段落します。長らくおつき合いありがとうございました。