- Do Me More -



まだ夜明け前だというのに、目が冴えて眠りに戻れない。
硬い胸に乗せた頭をそっと上げ、淳史の寝顔を窺う。
意図せず寝息を掠めた唇が、キスしたい誘惑に負けそうになる。

それでも、疾うに許されていることとはいえ未だ自分から淳史に触れるのは抵抗があり、ましてや寝入っている隙に密かに愉しむなど恐れ多かった。
それなら腕枕だけで満足していればいいものを、触れたい欲求はどうにも抑え難く、行動を起こしかけては躊躇するという堂々巡りが延々と続いている。

おそるおそる、裸の胸元へと手を伸ばす。できるなら触れているだけの下肢を絡めたいと思いながら、背を押す何かが足りなかった。
今日は休出は入っていないから睡眠の邪魔をしてもさほど迷惑にはならないはずだとか、昨夜は淳史が風呂を上がるのを待っている間に寝入ってしまったからスキンシップが足りていないとか、それなりの言い訳は頭の中をぐるぐる回るばかりで、いずれも決定打にはなり得ず。

「……やるのかやらないのか、さっさと決めろ」
突然かけられた低い声に、文字通り飛び上がりそうになった。
「ご、ごめんなさい」
驚いて引っ込めようとした腕を取られ、強い力で淳史の胸元へと抱き寄せられる。
顔を伏せることは許されず、頬にかけられた手に促され、あんなに遠いと思った唇に、いとも容易く辿り付いた。
どこか楽しげな淳史と違って、優生は寝込みを襲おうとしていたことを知られたショックと恥ずかしさで消えてしまいたいくらいなのに。

優生の心情など淳史にとっては取るに足らないことのようで、頬を包む手のひらに力を籠められ、キスが深められてゆく。
上半身を乗り上げたような態勢になっているからといって優生が能動的になれるはずもなく、ただ淳史のくれる甘い感覚に身を任せるばかりだ。
「……遠慮しなくていいと言っただろうが」
合間に囁かれる言葉がどんなに優しく響いても、小さく首を振ることしかできず、大それたことを思わなければよかったと、触れ合った満足感と同じくらいの後悔が優生を苛む。

微かな嘆息のあと、徐に手首を掴まれ、下方へ引かれた。
「えっ……」
思いがけない場所へと導かれ、生地越しに伝わる硬い感触に驚く。モヤモヤしているのは優生だけだと思っていたのに。
「恥らってる暇があったら早く抱かせろ。俺はおまえみたいに気が長くないんだ」
焦れたように見つめられ、腰を抱く手の力強さに促され、優生は漸く身構えていた体から力を抜くことができた。
腕に抱き寄せられたまま軽く反転させられ、二人の体勢が入れ替わる。
ほどなく体をまさぐってくる手に応え、淳史の首へと腕を回した。肌を吸い、キスを振り撒く唇を、喉を反らして受け止める。
やはり、優生は淳史の下へ納まっている方が居心地が良く、求めるより求められる方が合っているようだと、甘い感覚の中で思った。




以前にも増して、依存し過ぎだと自分でもわかっている。
凡そ甘ったるい恋愛とは無縁そうな厳つい外見からは想像できないくらい、淳史はいつも優生を大切に扱う。仕事から戻ればすぐに優生を膝に乗せ、眠るときには腕に抱き、片時も離したくないと言わんばかりに密着して過ごす。
淳史の言うところの“新婚”で“蜜月中”だと思えばそれほど特異なことではないのかもしれないが、過剰に摂取し過ぎた愛情で優生はすっかり中毒患者になってしまっている。

19年あまり無害を装いながら流されるままに生きてきたのに、淳史のことは諦め切れないと自覚させられた瞬間、それまでの投げやりな人生観は覆されてしまった。叶うものなら、幼い子供のようにずっと胸に包まれていたいと本気で考えてしまうほど。
家事をこなす以外に課せられた務めはなく、ただ淳史のことを思っているだけの毎日は幸せ過ぎて、まるで現実逃避の果ての夢の中にいるような錯覚を起こすこともあった。
それほども今の優生の生活は平穏で、買い物に出る程度の必要最小限の外出と、時々訪れる可愛い隣人と接する以外には、友人とメールや電話をするだけの引きこもりのような状態が依然として続いている。
淳史が甘やかすから(或いは許可しないから)、アルバイトひとつせずに過ごす優生は、すっかりニートが板についてしまった。いつか、自立しなければならない事態に陥ったとしても、もう一人で生きてゆくことはできないような気がする。

そんな生活で唯一の気掛かりは淳史の母親との関係で、元から優生の存在は認められていなかったのに、家出騒ぎ以降すっかり疎遠になってしまっていることだった。
優生が思う以上に、淳史の母親に対する蟠りは根深く、話題に上ることにも気を悪くさせてしまうことがあり、ひどく神経を遣う。このままではいけないと思ってはいるが、とてつもなく淳史は頑固で、どうあっても連絡を取ろうとはしなかった。
仲を取り持とうにも、淳史の母親からすれば諸悪の根源とも言うべき優生が間に入れるはずもなく、かといって何の気遣いもしないほど厚顔だと思われるのも辛い。
通常の嫁姑に準えるなら、淳史が上手く立ち回ってくれればいいようなものだが、絶縁しても構わないとまで思い詰めさせてしまった経緯はそう簡単に流せるものではないらしく、歩み寄る気配もなかった。

その一点を除けば、怖いほどに幸せな日々を過ごしている。
長く続いた優生の体調不良は義之の推察通り心因性のものだったようで、臥せってばかりいたのが嘘のように全快していた。
だからなのか、淳史が規制をかけたのか、優生が一人でいる時に義之が部屋を訪れることがなくなって久しい。その代わりというわけでもないのだろうが、どちらかの、或いは両方の世帯主の帰りが遅い夜には里桜がこちらへ来るようになった。
元からそういう目的で隣合わせて住むことにしたのだったが、淳史は誰が来て居ようとも行き過ぎたスキンシップを控えようとはせず、時として里桜にまで茶化されるのは居た堪れなかった。
それでも、順風満帆を絵に描いたような隣のカップルは人目も憚らずベタベタする二人をやっかむ必要はないようで、からかわれはしても迷惑がられないことだけが救いだった。






「……今頃言う?」
責めるような言い方をしてしまったのは、優生が淳史の許へ戻ってほどなく、勇士に彼女ができていたことを今になって報告されたからだ。
『おまえだって、俺に黙って男作ったり失踪したりしただろう?』
優生のリアクションに、電話の向こうでほくそ笑む姿が見えるような気がする。これは“仕返し”というやつだろうか。
「だって、俺は相手が男の人だから言い出しにくかったし……家出みたいになったのだって、すぐには連絡できない事情があったの知ってるだろ」
『俺も、ある程度メドが立ってからじゃないと、話してもムダになるかもしれなかったからな』
つまりは、明かしても差し支えないくらい本気になっているということなのだろう。
最近では頻繁に会っていたわけではなかったし、これで優生との関係が変わってしまうということはないだろうが、勇士の優しさが全て彼女のものになったのだと思うと内心では複雑だった。
「今度は、しつこくされてもいいって思えるような人?」
かつての会話を思い出し、知らずに追及するようなことを言ってしまう。
『いや、頼りないというか、放っておけないような感じかな。気になって、ついつい構い過ぎてる』
「そっか……勇士は世話焼きだもんな」
高校時代は、大事にされ過ぎて憧れを通り越して恋に発展してしまうほども優生の面倒を見てくれた。もし、優生が勇士の恋愛対象になれるものなら、とっくに幸せになっていたと思う。
『おまえの世話を焼けなくなったからかもな』
優生の心情を知ってか知らずかそんな風に言われ、嬉しいと思う反面、ふと、こういう処が淳史の気を逆撫でしているのかもしれないと気付く。
もう淳史以外の誰にも気持ちが揺らぐことはないと、やっと思えるようになったのに。
『工藤さんにもそう言っといてくれ。喜ばしてやるのは癪だけど、安心すれば少しは束縛も緩むだろう?』
前から淳史は勇士を敵視するようなところがあったが、もう優生に構う余裕はなくなったと知れば、安全圏になったと認識を改めてくれるだろうか。
元より勇士が危険なはずがないのに、過剰な警戒をする心理は今もなお理解不能なままだったが。


少し遅く帰宅した淳史を出迎えると、すぐに勇士に聞いたままを話してみた。
「それは目出度いな」
目元を細める淳史は、心の底からそう思っているように見える。勿論、祝福するというような類のものではなく、邪魔者がいなくなって清々したと言わんばかりの晴れがましさだった。
「やっと任せる気になったか」
促されるままに淳史の膝に座ったものの、早く食事の用意をしなければと腰を浮かす優生の、背に腕が回される。
「あの、先にご飯の用意してくるね?」
「後でいい」
多忙な淳史がなるべく早く休めるように段取りしたいと思っているが、当の淳史は優生を膝から下ろしてくれないばかりか、背を抱く腕に力を籠めて引き止めた。
今日に限らず、ソファに座る淳史の膝に乗せられてしまえば、簡単に解放されることはない。先に食事と入浴を済ませて貰わなければ、また淳史の眠るのが遅くなってしまうのに。
思案に暮れる優生を覗き込むように、淳史が唇を寄せてくる。
寧ろこういうことを後にするべきだと頭では思っていても、キスが始まると体は勝手に熱を上げ、理性など跡形もなく溶けてしまう。与えられるものならいくらでも欲しいと望む気持ちは依然根強く優生の中にあり、その誘惑に逆らうことなどできるわけがない。
それでも、時に息苦しく感じてしまうほど惜しみなく愛情を傾けられ、満足するということも覚え始めていた。






淳史の肩を枕に眠ったはずが、目覚めたときには優生の頭はシーツの上に落ちていて、伸ばされた腕から離れてしまっていた。
窓の外はまだ暗く、時計を確認するまでもなく寝直す時間はありそうだった。
寝入っているらしい淳史を起こさないよう静かに身を引き上げて、腕を跨ぐように頭を乗せる。なるべく重さをかけないように首を触れたつもりが、すぐに強い腕に肩を抱き寄せられた。
「……どうかしたか?」
状況を理解していないらしい淳史に、身を離そうとしていたと誤解されたのかと思い、焦った。
「抱いて」
優生の下敷きになっていない方の手に頬を撫でられ、乱れた髪をかき上げられる。
「え」
言葉足らずだったと気付いたときにはもう遅かった。
腕に“抱いて”いて欲しいと言ったつもりだったのに。
いきなり深く唇を重ねられ、差し入れられた舌が戯れる間もなく優生に絡む。引き込まれるように吸い上げられ、食われそうな錯覚を覚えて縋るように淳史の首へと腕を回す。
まるで急かされているみたいにシャツをくぐり優生の肌を辿る手のひらも、絡みつく舌も熱っぽく、淳史がもうその気になっていることを知る。
「んっ」
既に硬く凝った胸の先を指の腹で擦られ、体の芯が甘く疼く。
堪らず胸を仰け反らせた姿勢は、もっと強い刺激を欲しがっているように見えたらしい。
「あっ……ん」
突き出した胸の先を濡れた唇に含まれ、舌を絡めて吸われ、痺れるような疼痛に腰が跳ねた。その気になっているのも、余裕が無いのも優生の方なのかもしれない。
腹を撫で下りる手は優生の下着ごとパジャマを脱がせ、ささやかに自己主張するものに触れた。
「や、そっちじゃなくて……っ」
身を捩って逃れようとする腰を両手で掴まれ、淳史の膝へ引き上げられる。
思わず腰を浮かせた優生を引き止めるように背に回された手が、背骨を辿るように下ってゆく。
「あっ、んっ」
自分で望んでおきながら、太い指に粘膜を押し開かれると、無意識に力が入ってしまう。
「優生」
囁かれる声が、心なしか上ずって響く。
前へと伸びてきた手に自身を握られ、脱力した隙に後ろを弄られる。反射的に引きそうになる腰を強い力で引き寄せられ、硬く勃ち上がったものが押し当てられた。
「あぁっ……っ」
きつく締め付けてしまう襞を宥めるように浅いところを掻き回され、馴染むほどに質量を増してゆくものが深く潜り込んでくる。
中を擦られるたびに官能が背を走り、根元まで受け入れさせられた頃には優生の体は快楽に酔い痴れていた。
腿を掴む手に引き寄せられ、より奥まで突き上げられる。
「あっ、あ、あっ……ん……っん」
優生の中に埋められたものに擦りつけるように前後に揺すぶられ、充足感で真っ白に塗り潰された思考がそのままフェイドアウトしたがる。
「……満足したか?」
耳朶をくすぐる甘く掠れた声に、頷いて笑みを返したつもりだったが、眠りに引き込まれそうな意識が間に合ったかどうかは自分ではわからなかった。


きっと、体を繋げている刹那よりも、抱きしめられて過ごす時間の方が優生を安らかな気持ちにさせていると思えるようになったのに。
淳史に抱かれるのは麻薬にも似て、“素面”の時には自重しようと思っているのに、いざ行為が始まれば陶然と流されてしまう。優生がこんなだから、淳史に気を遣わせてしまうのだとわかっているのに。
愛されるというのは優生が思う以上に抗いがたいものらしかった。






平穏な時間は、淳史の携帯にかかってきた一本の電話に中断された。
優生の肩を抱く腕を解き、険しい顔をしてソファを離れていったのは、淳史が快く思っていない相手からということなのだろう。
最初は低めた声で応対していたから何を話しているのかわからなかったが、次第に荒げられてゆく声音と会話の端々から、相手が淳史の母親だということと、かなり緊迫した状態だということが伝わってきた。
「諄いな、優生に俺が必要なんじゃない。俺が、優生がいいんだ。一時の気の迷いで籍まで入れるわけがないだろう? そうやって妨害されたり誰かに奪われないよう“入籍”しておいたんだからな」
淳史が何か話すたびに部屋には怒気が満ちて、優生の息を詰まらせる。許されることなら耳を塞いでしまいたかったが、知らないフリをするわけにはいかなかった。
「……絶縁してもらいたいくらいだと言っただろう?」
不意にトーンを落とす淳史の心情を思うと胸が痛くなる。まるで穏やかな日々がずっと続いていたような錯覚を起こしてしまっていたが、それは淳史の忍耐と配慮の賜物で、本来ならもっと殺伐としていても不思議はなかったのだった。
「今は放っといてくれないか。電話で話してるだけでも、はらわたが煮えくり返りそうなんだ。前にも言ったが、俺に断り無く優生には近付かないでくれ。もしまた勝手なことをされたら、何をするか俺にもわからないからな」
痛烈な口調で一方的に通話を終了させると、淳史は眉間に深い皺を刻んだまま優生の傍に戻ってきた。
投げるように携帯をテーブルに置き、優生の隣へ勢い良く腰を下ろす。口をきかないのは感情を抑えているからなのだろうと思うと、尚更いたたまれなかった。
「……ごめんなさい、俺のことで揉めてるんでしょう?」
「おまえが謝る必要はない」
「でも、俺のせいでお母さんとおかしくなってしまって……」
その話をすれば淳史の気を逆撫でしてしまうとわかっていても、結果的に淳史と母親を仲違いさせてしまったことは優生を心苦しくさせていた。
「おまえのせいじゃない。俺の母親が、おまえを出て行かせるよう仕向けたんだろうが」
「そういうわけじゃ……俺が、弱かっただけで」
たった一人の息子が、一回り近く年下のニートの男に誑かされていると知れば、強硬に反対するのは親として当然のことだと思う。そんな相手に現を抜かさなくても身近に理想的な女性がいるのにとか、自分の余命が短いかもしれないということが発覚したばかりで、早急に優生を排除しなければと考えたのもやむを得ないことだったのだと理解している。
「今にも死にそうだと脅迫紛いの言い方をされて気にしない奴はいないだろう? 相手が親だけに、俺は許す気にはなれないんだ」
「でも、お母さんと絶縁してもいいみたいに言うのはやめて?」
「おまえは俺より母親の方が大事なのか?」
当初は優生に淳史の母親と上手くやって欲しいというような言い方をしていたはずなのに、優生との嫁姑的関係だけでなく淳史との親子関係までおかしくさせてしまったことも、優生には負担になっていた。
「そうじゃないけど……こんな喧嘩別れみたいなのは……」
ふいに、覆い被さるように抱きしめられ、言葉を遮られる。
「あの男の気が変わらなければ、まだおまえを見つけられていなかったかもしれないんだぞ? 俺を犯罪者にしたくなかったら、もうこの話はするな」
「俺のことで腹を立ててるんだから、俺を怒ればいいでしょう? 俺のせいで淳史さんとお母さんがおかしくなるのはイヤだ」
優生を抱く腕に、息苦しいほどに力が籠められる。
「……おまえに負い目を感じさせたくないと思ってる。過ぎたことだと割り切っているつもりだ。でも、母親と話すたびに、おまえがあの男の所にいたと思い知らされるんだ。なかったことにすると言っただろう? もう蒸し返さないでくれ」
「ごめんなさい……でも、お母さんにも言い分があるでしょう? それを聞くくらいはしてあげないといけないと思うんだけど」
「話し合えば解決すると、本気で思ってるのか?」
「え?」
「少しは反省しているようだが、本質は何も変わってないんだ。まだ、他の女と結婚させたいとか孫を見たいとか言ってるんだぞ? いくらおまえに頼まれても、それだけは聞けないからな?」
もしかしたら、優生に悪いことをしたと思ってくれているのではないかと考えていた自分の甘さに嫌気がさす。それどころか、淳史の母親はまだ何も諦めていなかったらしい。

「俺はおまえが居ればいいんだ。邪魔をするなら、親だろうが友人だろうが切り捨てて構わない」
きっぱりと言い切る淳史の真意は優生には理解できていなかったが、身に余る幸福だと思う。だからこそ、親子断絶なんて事態は避けたかった。
「俺を取るって言ってくれるのはすごく嬉しいけど、お母さんのことをそんな風に言わないで。俺には無理でも、淳史さんはお母さんと上手くつき合っていけるでしょう?」
少し無理をして告げた優生の背が撓るほどに、回された腕が力を籠める。
「おまえは懲りてないんだな……俺は、おまえをまた他の男の所へやるようなことになるぐらいなら、心中でもした方がマシだ」
頭上から降ってくる声は低く、ただのたとえにしては真に迫っているような気がして戸惑った。
“殺してやる”と言われた時には至福の極みで、本気でそうして欲しいと思ったのに、“一緒に死んでやる”と言われるのは恐ろしかった。
「俺はもうどこにも行かないから……もし出歩くなって言うんならずっと籠もってるし、それでも心配なら軟禁でも監禁でもしておいて?」
「そうすれば、誰にも惑わされないのか? もし再発したとか、余命何ヶ月だとか言われても無視できるのか?」
極論すぎる問いに、咄嗟に答えることができない。淳史がそこまで気を回さなければならないほども、事態は深刻だということなのだろうか。
「わかってると思うが、たとえ相手が親だろうと俺に黙ってここへ通すなよ? 買ったばかりのマンションを手放させたいとは思ってないだろう?」
「でも……」
もしマンションの前で待たれたり、或いは呼び出されたりしたら、優生に断れるとは思えなかった。上手く立ち回れるほど器用なら、そもそも失踪騒ぎなど起こしていない。
だからこそ、噛んで含めるような言い方をされているのだということに、漸く気が付いた。
「俺が禁止していることを、誰に何と言われようと押し切られるなよ? おまえの携帯にしても名義は俺になってるんだからな、誰に聞かれたところで俺の許可なしに教える必要はない」
事も無げに言い切る淳史には一切の迷いもなく、優生を取ると言った言葉は誇張ではなかったらしい。
思えば、淳史はいつも辛抱強く優生を愛そうとしてくれていた。
親にも昔の恋人にも、誰にも憚ることなく紹介してくれたのに、優生の方から歩み寄ることも、認められるよう努力することもしないで逃げ出して、淳史に報いるどころか迷惑をかけただけだった。
相手が友好的ではなかったからと理由をつけて、勝手にいじけて諦めてしまったことが今更ながら悔やまれる。
「俺、初めて淳史さんのお母さんに会ったとき、ものすごく緊張してて……反対されると思ってたから上手く接することができなくて、反感を買うような態度になってしまって……気に入られなかったの、当然だと思う。ほんとに、ごめんなさい」
「おまえの態度がどうだったなんていうのは、こじつけだ。結局はおまえの性別が気に入らないだけなんだからな」
いくら優生が改めようと思っても、今の淳史には“嫁姑”の間に入って仲を取り持つ気はないらしかった。或いは、もう優生の評価を覆すのは無理だということなのだろう。
「もし、俺に愛想を尽かして離れるんなら諦めもつくかもしれないが、俺のためだと思って離れようとするのだけはやめてくれ。本気で立ち直れなくなるからな」
優生の背に回されていた腕が緩み、代わりに髪を撫でる手が顔を上げさせるように促す。
見上げると、穏やかな表情の中に普段の淳史からは想像もつかない弱気が垣間見えて、優生の胸を締め付ける。
優生はいつも愛されることを望み過ぎて、与えられてもなお貪欲に欲しがってばかりだった。望む以上に与えられていたと、満たされるということを覚えた今ならわかるのに。
「……俺、本当に淳史さんが好きだよ。ずっと傍に居させて欲しいと思ってる。この先ほかの誰にも会えなくなっても、淳史さんが居てくれたらいい」
さすがに見つめ合いながら話す勇気はなかったが、思っていることを素直に口にした。
「幻聴じゃないだろうな……」
優生が珍しく殊勝なことを言ったせいか、淳史は自分の耳が信じられなかったらしい。
「淳史さんがお母さんに言ってたの、訂正しとくね。俺には淳史さんが必要だよ」
重ねた言葉はある意味ダメ押しで、強い腕に、加減を忘れたようにきつく抱きしめられる。
叶うなら、ずっとこうして淳史の腕の中に閉じ込めていて欲しいと思いながら、優生は頼りない腕で抱きしめ返した。






淳史をこれ以上心配させないために、優生は家から一歩でも出る時には里桜を誘うようになった。
日々の買い物も、新刊やゲームをチェックするのも、ちょっとコンビニに行くのさえ、一人にならないよう気を付けている。
だから、やっと髪を切る許可が下りたときにも、里桜の下校時間に合わせて付き添って貰うことにしたのだった。

「ゆいさん、美人度が上がってるー」
伸び過ぎた前髪を切り、他は軽くすいた程度だったが、印象はかなり変わったようで、里桜は優生の顔を見るなり嬉しそうな声を上げた。
「顔は変わらないだろ、髪切っただけなんだし」
里桜の大げさな言い様が気恥ずかしくて、素っ気無く返してカウンターに向かう。
急いでいるような素振りで支払いを済ませ、余計な言葉をかけられないうちに背を向けた。すぐ後ろについて来ていた里桜が、待ちかねたように優生の腕を取る。
今日も里桜はシフォンのチュニックブラウスに細身のクロップドパンツという、到底男ものとは思えない格好で、そうでなくても可愛い顔立ちと艶のあるサラサラの長めの髪も相まって女子高生(もしくは女子中学生)にしか見えない。
一見、性別に悩まれることの多々ある優生でも、里桜と連れ立っていると、10センチ近い身長差もあって傍目にはカップルだと思われてしまいそうだった。
「役得ー」
里桜もそう思っているのか、これ見よがしに寄り添い、肘の辺りへと腕を絡めてくる。
「淳史さんや義之さんに見つかったら怒られるよ? ここ、淳史さんの会社の近くなのに」
「腕組んでるだけなのに? あっくんだって、俺に頼むんだからこのくらいのことは想像してるよ、きっと」
「そうかもしれないけど、誤解されかねないようなことをするのはダメ」
「……なんか、ゆいさんマジメになり過ぎちゃってつまんないなあ」
言葉ほど不満げではなかったが、里桜は名残惜しそうに優生の腕から手を解いた。
いつからか里桜は聞き分けが良くなり、少なくとも優生に我儘を言うようなことは無くなっている。だからこそ、つき合って貰っている立場としては少しは機嫌を取っておかなければという下心が働いた。
この辺りで、里桜を連れて行くべき場所は優生には一ヶ所しか思い付かない。
「代わりにケーキでも奢るよ? 近くに美味しいところがあるから」
「ほんと? お店で食べていいの?」
「いいよ。時間はまだ大丈夫なんだよな?」
「うん。義くん遅いって言ってたし」
「じゃ、ゆっくりして帰ろうか。淳史さんも遅くなるみたいだし」
そうして、優生はかなり久しぶりに冬湖の店を訪れることになった。





ほぼ14時間ぶりの抱擁は簡単には解かれそうになく、覆い被さるように優生を包む腕の中で、淳史の気がすむのをおとなしく待つ。
帰宅した淳史と、気配に気付いて出迎えに走る優生が落ち合う場所はいつもリビングのドアを出た辺りで、あと数歩、せめて部屋の中に入ってからにした方がいいのではと思いながら、引き伸ばすことはできない。
何度も優生の髪を梳く指は優しく、とりあえず今回は淳史の気に入らないということはなかったようでホッとする。
やがて、頬に移ってきた手に仰向かされ、唇が近付く。
軽く啄ばむようにくり返されるキスは優生が思っていたほど深まりそうにはなく、戯れるように触れるばかりで少し物足りない。ねだるように淳史の首へ腕を回し、すげない唇へ舌先を伸ばす。
優生がその先まで望んでいると知ってか知らずか、淳史は短く舌を擦り合わせただけでキスを終えようとする。
離れがたい唇は、今は優生を蕩かすためではなく、話をするために使いたいらしい。頬を包む手がそっと距離を取り、背を抱く手が部屋の中へ入るように促す。
「今日、里桜を冬湖さんのところに連れて行ったんだってな?“凄く可愛い子と一緒だった”っていうメールが来たんだが、どうも余計な心配をされたみたいで笑えた」
“笑えた”と言いながら淳史はあまり面白くなさそうな表情で、ただ優生を一人にしないために譲歩しているだけで、里桜を誘うことに諸手を上げて賛成しているわけではないようだと気付く。
「里桜は見た目女子だから誤解されるよね。それがわかってて態と腕組んだりするから、傍目にはカップルみたいに見えるのかも」
「この頃ずっと義之が忙しくしてるから、おまえで気を紛らわせているのかもしれないな。そういうことを考慮して隣合わせたんだから多少のことは仕方ないにしても、あまり甘やかし過ぎるなよ?」
「うん」
妬いてくれているのかもしれないと思うと、つい顔が緩んでくる。相手が里桜でも安心できないと思われているのだとすれば、いっそ嬉しかった。
「おまえも里桜を“餌付け”してたのか?」
「餌付けなんて……お礼というかお詫びというか、ちょっと出掛けるだけでも毎回つき合ってもらってるから、たまには里桜の好きなものでも奢ろうと思っただけで」
そういう意味での下心はあったが、幸せそうにスイーツに向かう里桜の顔を見ていると自然と和まされ、周囲が挙って甘やかす気持ちがわかるような気にさせられていた。
尤も、里桜の前に置かれたチョコレートのたっぷり沁み込んだケーキにココアなんて甘ったるい組み合わせを視界に入れなければ、の話だったが。
「おまえは? 何か食ったのか?」
「うん。ブルーベリーのバトンフロマージュ。すごくおいしかった」
身内同然の淳史に気を遣っているわけではなく、冬湖の店のお菓子は、甘いものが苦手な優生にも無理なく食べられるものが多い。チーズケーキやアイスを選ぶなら、頻繁に通っても大丈夫だと思う。
「おまえの口に合うんなら、いつでも買って帰るぞ?」
「それなら、ケーキじゃなくてアイスがいいな。ラムレーズンとかベリー系のカップのやつ」
こういう時には断るよりも何かねだった方がいいと、今では優生も学習済みだ。どういうわけか、大人の男というのは贈ったり奢ったりするのが好きな生きものらしかった。
「明日にでも頼んでおくからな」
「うん。ありがとう」
貰う方以上に、買う方が満足そうに見えるのも、もう不思議だとは思わなかった。






マンションまであと数メートルという辺りまで戻ってきたとき、エントランスの前に見覚えのある人影を認めて、優生は思わず足を止めた。
「ゆいさん?」
並んで歩いていた里桜もつられたように立ち止まり、何事かという風に優生の視線の先を追う。
テスト期間中で早く学校を終えた里桜と出掛けていたのはゲームソフトを買うためで、通信しなければ進んでいかないポータブルゲームの相手をしてもらうべく一緒にハマらせようと目論んでいたのに。
「……淳史さんのお母さんが来てる」
優生が顔を強張らせる理由を里桜は瞬時に悟ったようで、そっと肘の辺りに手を伸ばしてきた。
「ゆいさんに用があって来てるんだよね?」
「たぶん」
「じゃ、行こ? 俺、おばさんは得意だから大丈夫」
それが淳史の母親にも通じるかどうかはともかく、里桜がいてくれたことに心底感謝した。


「こんにちは」
初対面のはずの淳史の母親に怯むことなく、里桜は人懐こい笑みで真っ先に声をかける。
優生の第一印象では、やや神経質そうな、とっつきにくいタイプのように思えたのだったが、里桜は全く気にならないようだった。
「工藤さんのお隣の緒方です。工藤さんにもゆいさんにも、いつもお世話になってます」
ぺこりと頭を下げる里桜はどこから見ても初々しく可愛らしい“若妻”で、少々の至らなさがあっても許されてしまいそうな風情が漂っている。
「こちらこそ、親ししていただいているようで助かっています」
唐突な挨拶にも戸惑った様子はなく、社交辞令にしては好意的で、里桜は本当に“おばさん受け”が良いようだった。ただ会釈を交わすしかできずにいた、一応“嫁”のはずの優生に対する態度とは格段の差があるような気がする。
「工藤さん、今日も遅いみたいですよ? うちもそうなんですけど、とても不景気とは思えないくらい忙しいというか、仕事熱心というか」
「それなら仕方ないのかもしれないけれど……全然電話もくれないし、気になって押しかけて来てしまったんですよ」
「男の人って、電話を面倒くさがりますよね。それに、何も言わなくても親はわかってくれるっていう思い込みがあるから、つい先延ばしにしてしまってるのかも」
淀みなく応対する里桜は井戸端会議に慣れた主婦のようで、優生はただただ感心するばかりで口を挟む機を逸してしまう。


「優生さん、中には入れてくれないの?」
二人のやり取りをぼんやりと眺めていた優生は、不意に名前を呼ばれて焦った。
里桜に向けるのとは違う冷ややかさを含んでいるように感じるのは、優生の被害妄想が過ぎるだろうか。
おそらく、淳史はこういう事態を予測して優生に釘を刺しておいたのだろう。断るとか立ち向かうということが苦手な優生が投げやりになってしまわないよう、根気強く言い聞かせてあったのだとしたら、どうあっても流されるわけにはいかないと思った。
「すみません、俺にはそういう権限はないので……淳史さんのいる時に来ていただけませんか?」
「引っ越してから一度も招いてくれていないと知っているでしょう? あなたから執りなしてくれない限り、淳史の気が変わるとは思えないわ」
そんなことをすればまた淳史の気を逆撫でしてしまうだけで、優生が執りなすのは不可能だと、どう言えばわかってもらうことができるのか。
悩むばかりで答えられない優生が反抗的に写るのか、淳史の母は恨みがましい眼差しで優生を見つめた。
「……どのみち恨まれるのなら、戻って来ないで欲しかったわ。そうすれば、いずれは淳史も諦めたでしょうに」
何と言われても受け止めるしかないとわかっていても、割り切れない思いが優生の胸を刺す。
時間を置いたからといって理解して貰えることはないのだと、優生とは相容れない関係なのだと諦めるしかないのかもしれない。

「あの」
緊迫した空気を破るように、里桜が殊更明るく淳史の母に声をかけた。
「よかったら、うちに寄っていってください。工藤さんのところと間取りは一緒だから部屋の感じは掴めると思うし、甘いものが苦手じゃなかったら、月餅(げっぺい)でも食べながら、みんなでお茶しませんか?」
里桜の気遣いで、先までの重苦しい空気が急速に和らいでゆく。優生には到底為し得ないことが、里桜には簡単にできてしまうのが不思議だった。
「ありがとう。でも、初対面のあなたのところにお邪魔するなんて厚かましくて」
「そんなこと気にしないでください。工藤さんにはすごくお世話になってるし、お母さんと仲良くしても誰にも叱られないと思うし」
少し強引な笑顔に否と言えなかったのか、可愛らしい隣家の“嫁”に興味が湧いたのか、微妙な三人でテーブルを囲むことが確定してしまった。



「ずいぶん可愛らしいお部屋ね。あら、お子さんがいらっしゃるの?」
リビングに足を踏み入れると、淳史の母はその可能性に気付いたようで、確認するように部屋に視線を巡らせた。
淡いピンクとグリーンに彩られた部屋はカントリー風で、とても男二人の住居とは思えない可愛らしさだ。
揃いのアンティークホワイトの家具のひとつはチェスト型のおもちゃ箱で、電車のレールがプリントされたプレイマットが掛かっている。6人掛けのダイニングテーブルの一席にはベビーチェアーが収められていた。
他にも、コンセントキャップやコーナーガードなど、小さな子供が居る家庭なのだろうと思わせるようなアイテムが次々に目に付く。
「うちの子じゃなくて、年の離れた弟なんですけど……義くん、俺の弟にすっかりハマっちゃって、たまに遊びに来るだけなのにリビングを子供部屋みたいにしてしまって、最近じゃ養子に欲しいとまで言ってるんです」
「まあ……ごめんなさい、失礼なことを言ってしまって」
どうやら淳史の母は、養子という言葉で、里桜のことを“子供ができない女性”と思ったようだった。
「そんなことないです。俺には子供産めないし、でも義くんが本当は子供欲しいと思ってるみたいなの知ってるし、他所の子じゃなくて弟だし、恵まれてると思ってます」
「お若いのに偉いのね。でも、ご養子を迎えるというのはいい考えかもしれないわね。“子はかすがい”と言うし、血の繋がった子なら後々面倒なことにもなりにくいでしょうし」
「じゃ、養子に貰った方がいいんでしょうか?」
カウンターの前で立ち止まったまま、お茶の用意をしに行くのも忘れ真剣な顔で問う里桜は、本気で相談に乗って貰おうとしているように見える。
「そうね、一概には言えないけれど、ご主人が子供を欲しいと思っているのなら、それが一番いい方法なのかもしれないわね」
それなりに盛り上がってゆく会話に入る勇気はなく、その矛先が優生に向かってきたらと思うと、早く話題が変わって欲しいと願わずにはいられない。
優生はダイニングテーブルの横で話し込み始めた二人の後ろをそっと通り抜け、キッチンに向かった。勝手知ったる、というほどではないが、お茶を淹れてお菓子を出せる程度には通って来ている。
湯が沸くのを待つ間に、茶托と茶器を用意して、里桜が話していた木の実と小豆の月餅を適当な器を見繕って移しておく。

トレーを手にリビングに戻ると、二人はダイニングテーブルに向かい合って座っていて、すっかり打ち解けた様子で話し続けていた。
静かにお茶を出す優生に、里桜は会話を中断して、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ゆいさん、ごめんなさい、俺がしないといけないのに座り込んじゃって」
「ううん、こっちこそ押し掛けてごめん」
本来なら優生が家に招くべきところを、里桜が気を回してくれたことは有難く思っている。もし優生だけだったら、更に怒りを煽ることになっていたに違いないのだから。


「あの、里桜さん? 初対面のあなたにこんなことを言うのはどうかと思うけれど、やっぱり気になって……女性が“俺”というのは感心しないわ」
控えめながら、きっぱりと意見されても、里桜は全く動じた様子はなく、あっけらかんと返す。
「あ、やっぱり、女子だと思われてたんですね。俺、こう見えて男なんです」
「ええっ……本当に?」
「はい。男性ホルモンが著しく不足してるらしくて、見た目も中身も全然男っぽくならなくて」
寧ろ誇らしげに、にっこりと笑う里桜は掛け値なしに女子にしか見えない。
戸惑いを露にする淳史の母は、まだ信じられないと言いたげに問いを重ねた。
「……それじゃ、あなたも緒方さんも“そう”ということ?」
眉を顰める心情に気付かないのか、他人にどう思われようとも揺らがないほどの信念を持っているのか、里桜は疚しさの欠片も窺わせずに答える。
「俺はそうだけど、義くんは違うと思います。男は俺だけっていうか、俺は特別っていうか。工藤さんもそうでしょう? ゆいさんだけが特別なんですよね」
愕然として、暫く言葉を失くしていた淳史の母は、やがて絞り出すように言葉を継いだ。
「そうね……淳史も、優生さんに出逢わなければ……」
「そしたら、まだまだ結婚なんて考えもしなかったんじゃないですか? 工藤さん、他人が自分のテリトリーに入って来たり、束縛されたり気を遣ったりするのは我慢ならないって言ってたから」
「そんなこと……」
否定しかけた言葉を止め、ついには観念したように弱々しく言葉を翻す。
「そうね、私の再婚を機に独り立ちしたのだって、結局はそういう理由だったようだし、一生独身を貫くつもりだったのかもしれないわね」
「一生独りなんて淋し過ぎるし、ポリシーとかプライドとかどうでもいいって思えるような相手に出逢えたのは、すごく幸せなことですよね」
「……そうなのかもしれないわね。誰とも寄り添わずに生きていくよりは、気兼ねのない人と一緒の方がいいのかも」
力説する里桜に、頑なだったはずの人が肯定的な反応を見せた。
迷いながらも容認するような態度に変わったのは、端から説得を諦めていた優生には信じ難い光景だった。



「俺、世界で一番、里桜のこと尊敬する」
誇張ではなく、今の優生の本音だ。
淳史の母が帰ったあとも優生は里桜のところに残り、瞬くうちに親しくなっていった二人のやりとりを思い返しては感心する。
「ゆいさんは気を遣いすぎなんだよね。それに、あのくらいの年代の人って、頭固いっていうか、古い考えがしみついててなかなか改められないから、言っても仕方ないって思っちゃうのもわからないでもないけど。でも、やっぱり根気強く話し合った方がいいと思う」
「うん。そうだよな。里桜を見てたら、ちょっと反省させられた」
否定的な言葉も一先ずやんわりと受け止め、でも、自分の言い分も臆さず話す。卑屈になることなく言葉を尽くし、いつの間にか淳史の母を懐柔してしまったことには軽く感動してしまった。
似たような立場のはずの里桜と親しく言葉を交わす姿に、改めて、優生はわかってもらうための努力をしていなかったことを悔やんだ。
けれども、思わぬ仲立ちを得て、最悪な関係が少しは改善されるかもしれないという期待が持てそうな気がした。






「戻る前に母親から電話があったんだが」
上着の袖を抜きながら、複雑な面持ちで切り出す淳史に、伸ばしかけた腕が固まる。
淳史は優生の動揺など意にも介した様子はなく、脱いだ上着を軽くたたんで肘掛に置き、ソファに腰を落ち着けた。
あまり良い話ではないのかと思い、返事に迷う優生の腕が引かれ、膝へと促される。
「何でわざわざ“隣”に行くことになったんだ?」
「えっと……午後から里桜と出掛けてたんだけど、帰ったらお母さんが下で待ってて。うちに来たいって言われたのを、俺が淳史さんの居るときじゃないとって断ったから、里桜がそれならうちにって言ってくれて、何か隣でお茶することになって……気を悪くさせたんだったら、ごめんなさい」
「いや、うちに入れるなと言ったのは俺だから、おまえが気にすることはない。うちに来てたら、またややこしいことになっていただろうしな。それより、里桜は一体、何をやったんだ?」
漠然とした問いには思い当たることがあり過ぎて、どれを指しているのかわからない。
優生は努めて平静を装って、問い返してみた。
「何って……お母さん、何か言ってた?」
「ああ、いきなり養子を貰えときた。里桜に諭されて、相手が女だからといって子供ができるとは限らないとか、寛げない家庭なら意味がないということに気が付いたと言うんだ。それで、うちも義之のところを倣って養子を貰えばいいと考えたらしいんだが……里桜がそんなことを言ったのか?」
「ううん、たまたま義之さんが里桜の弟をすごく可愛がってて、養子に欲しがってるって話になったんだよ。で、里桜が自分には子供は産めないし、そうした方がいいのかなって、お母さんに相談した感じで……話してるうちに、お母さんの方がそういう結論に至ったっていうか」
「それで、うちも養子を貰えばいいいと思ったのか。全く、俺がどれだけ説得しても聞く耳持たなかったものを、里桜と話しただけで気が変わるとはな」
「うん。俺も、里桜がお母さんをさりげなく“洗脳”するの見て感心しちゃったよ。やっぱり、可愛いと得だよね」
「単に女に見えただけなのかもしれないが、少なくとも俺の親には気に入られたようだな」
そうと知ってはいても、淳史から言われるのはショックだった。
もしかしたら、そもそも里桜が淳史の相手だったら反対されなかったのだろうか。
「優生?」
黙り込んでしまった優生の頬を、大きな手のひらが包み、俯こうとするのを止められる。
「……ごめんなさい、俺は可愛くなかったから」
微かに笑う気配を、目を伏せていてもごく近くに感じた。
「俺は、おまえの方が可愛いと思うが」
そんなわけがないのに、思わず見上げた優生と目が合う淳史は、とても嘘など吐いているようには見えない。
主観の違いでしかなくても、そう思ってもらえるのは優生には途方もなく幸せなことだった。







「……ねえ、ゆいさん? 昼間とか、義くんがこっちに来ることある?」
遠慮がちな問いかけに、里桜が来ていたことも忘れて集中していたポータブルゲーム機から顔を上げる。
ダイニングテーブルで課題と格闘する里桜と、ソファに浅く腰掛けて画面の中でモンスターと格闘する優生との間はそう遠くはないが、自分の世界に没頭するには十分な距離があった。
だから、話すタイミングを窺う里桜の手元が一向に捗っていないとは気付く余裕もなく。
「義之さんなら里桜と一緒の時しか来てないけど? 何かあった?」
「ううん、何かあったとかいうんじゃないんだけど……そんな忙しい時期でもないのに帰るのが遅いことが多いから、昼間サボってんのかと思ったんだけど……やっぱり、ただ忙しいだけなのかな」
優生が臥せっていた間、毎日のように訪れていたのが嘘のように、義之が昼間のうちに様子を伺いに来ることはなくなっている。
淳史が快く思っていないと知ってから、優生の方から連絡を取ることも控えていた。
「ああいう職業って、業務だけじゃなくて、接待とか呼び出しとか、時間外のつき合いがいろいろあるんだろ? 前の奥さんとはそれで擦れ違って離婚したって言ってなかったっけ?」
「そうだけど……ゆいさん、よく知ってるね?」
安心させてやるつもりが、余計なことを言ってしまったかもしれない。
「よくは知らないよ、淳史さんがそういうようなことを言ってたから……だから、遅くなっても日付が変わる前には帰るし、休出も土曜か日曜の片方だけにしてるっていう風に聞いたけど?」
「それはそうなんだけど、でも12時近くなることなんて今まで滅多になかったのに、この頃よくあるし、俺、夜が弱いから先に寝ちゃってて顔も見えない日もあるし……そうかと思えば、平日はヤだって言ってるのに、たまに早く帰った日は凄くしつこくセマってきたりして、訳わかんないよ」
顔を伏せる里桜が泣き出しそうに思えて、手にしたゲーム機を前のテーブルに置いて立ち上がる。
里桜の傍に移動して、覗き込むように顔を近付けた。
「一緒に居られる時間が短いぶん、焦ってるんじゃないかな? 義之さんて、元々激しい方なんだろ? 淳史さんだって、俺が毎日でもして欲しいの知ってるから、俺が物欲しそうな顔してたら絶対つき合ってくれるよ」
「そうなんだ……でも、あっくんは体力ありそうだからいいけど、ゆいさんは次の日大丈夫なの?」
「うん。淳史さん、すごく優しいから大丈夫。それに、俺はずっと家に居るから、少々ダルくても問題ないし。里桜も義之さんとは長いんだし、いい加減、義之さんのペースに慣れてあげたらいいのに」
具体的な何かを想像したのか、みるみる頬を赤く染める里桜は、時として見た目に違わぬ初心な少女のようなリアクションをとる。中身が外見を裏切っていることなど、疾うに知っているのに。
返事もできないらしい里桜の肘を取って、ソファへ誘う。
先に腰を下ろす優生に続いて、里桜も隣へと並んだ。
「一緒にいられる時間が減って淋しい? それより、浮気でもしてるんじゃないかって心配?」
意地悪な問いに、里桜は小首を傾げた。
純粋に、自分の気持ちがわからない、といったように考え込む。
少し強めに里桜の腕を引っ張り、バランスを崩した体を引き寄せ、ぎゅっと腕に抱きしめる。
くっついた胸から伝わる鼓動が里桜の動揺を伝え、あからさまな抵抗は見せなかったものの、身を固くしたのがわかった。
「俺は、淋しいと猜疑心が強くなっちゃうんだ。だから、とりあえず他の人に甘やかして貰うのが一番かなって思うんだけど?」
一応、他意も悪戯心もないことをアピールしておく。今の優生は、不謹慎な衝動で里桜を誘惑しようと考えているわけではなかった。
「……そうかも」
それまで強張っていた体が、短く吐かれる息とともに脱力する。
優生が義之の腕に癒されたように、少しでも里桜を慰められたらと思った。


指にかからずサラサラと流れ落ちてゆく黒い髪を、何度も撫でる。
里桜は髪に触れられるのは嫌ではないようで、気持ち良さげにされるがままになっていた。
「……何かね、義くん、この頃ちょっとヘンなんだ。考え事とかしてるんだろうけど、話しかけてるのに気付かないことがよくあるし、何か悩みでもあるのかな?」
「仕事が忙しいんなら、ただ疲れてるだけだろ?」
敢えて素っ気無く、無難な言葉で流す。
気のせいだと思いたいが、どうにも嫌な予感のようなものが胸に湧き、それに自分が無関係ではないような感じが何とはなしに不安だった。
たとえ優生の預かり知らぬところで起きていることだとしても、傷付ける側には回りたくない。ましてや、それが近しい人なら尚のこと。
「ゆいさんにも迷惑かけてごめんね? なんか、二人のジャマしてばっかで申し訳ないなあって思ってるんだけど……」
項垂れた、と言うと大げさかもしれないが、小柄な里桜が萎縮するような姿勢を取ると、ひどく頼りなく感じて対応に困る。
初対面の頃の慣れ慣れしさが嘘のように、親しくなるほどに里桜は気遣いをするようになったと思う。
「お互いさまって思うことにしようって決めただろ? “旦那”が二人して超心配性なんだから、俺らが大人になって合わせるしかないんだから」
こうなる前に話し合ってあったにも拘らず、里桜は自分が世話になる機会の方が多いことを気にしている。
過保護な保護者二人の勝手な取り決めで(少なくとも優生や里桜には事後承諾で)、泊まりの仕事や夜10時までに帰れない時には隣家に預けるということになっていた。但し、淳史と里桜もしくは義之と優生の二人きりにはならないという注釈つきだ。
おそらく、それは昼間の義之と優生の関係にも準じることになったのだと思う。そう考えれば、いくら優生の体調が良くなったといっても、毎日のようにバイタルチェックに訪れていた義之がぱったり現れなくなったことにも納得がいく。
「もし、義くんが続けて遅くなるようだったら、俺は実家に行くようにするから……」
「こっちこそ、見苦しいっていうか、居づらくさせてたらごめん」
里桜に最後まで言わせないように言葉を被せる。
もしかしたら、淳史と優生が里桜の目の前でも構わずハグしたりするから気まずいのかもしれないと思ったのだった。
「それは全然……っていうか、眼福って言うんだっけ? なかなか他の人のラブラブなところなんて見る機会なんてないし、あっくんとゆいさんってどんな感じなのかなあとか、ちょっと興味あったし」
薄っすら頬を染める里桜は本気でそう思っているようで、嫌な思いをさせていなかったことには安堵したが、淳史と優生が傍目にはどう見えているのかを思うと今更のように恥ずかしくなる。
「それなら、実家行くとか言うなよ? 俺には帰るところはないんだから」
「うん……じゃ、甘えさせてもらうね」
納得したのか、気持ちを切り替えたのか、里桜は前言を撤回すると、似つかわしくないほど神妙な顔をして課題に戻った。


いつになく遅く保護者が迎えに来たときには里桜はとっくに夢の中で、連れ帰るために義之に抱き上げられても目を覚ますことはなかった。






深く、沈み込むようにソファへと凭れかかった淳史は、ひどく疲れているように見える。
淳史を気疲れさせるような事態を想定してみれば、優生が思い付く原因はひとつしかなく、尋ねたくないというのが本音だった。
かといって、見て見ぬふりなどできるはずもなく。
「淳史さん、何かあったの……?」
淳史の隣へ腰掛けるつもりが腕を引かれ、優生の体はすっかり定位置となった膝の上へと乗せられた。
目を合わせる間もなく淳史の胸に押し付けるように抱き寄せられ、低い声が思いもかけない人の名前を呟く。
「後藤がな……」
言いかけたものの、淳史は続ける言葉を迷っているのか、なかなか本題に入ろうとしない。
そっと淳史の胸を押し、腕が緩められるのを待って頭を上げる。
「紫さんがどうかしたの? そういえば、しばらくメールも電話も来てないけど」
急かすつもりはなかったが、先を促す言い方をした優生に、淳史の表情が険しくなる。
「おまえは後藤の相手を知っていたのか?」
心なしか責めるような響きに、優生が心配していたのとは別の意味で最悪の事態かもしれないことに気が付いた。
優生が淳史の元を離れていた時に身を寄せていた相手のことは一切がっさい禁句だと心得ている。たとえ世間話程度であっても、迂闊に口にすれば淳史の逆鱗に触れるとわかっていたから、紫が黒田とつき合うことになったと聞いたときにも敢えて話さずにいたのだった。
それを、淳史が後から知れば気を悪くするだろうと思わなかったわけではなかったが。
「……一応」
「それは後藤から聞いたのか?」
「うん」
「後藤は、おまえの代わりにあの男とつき合うことになったというような言い方をしていたんだが……それは、おまえに手出しさせないために犠牲になっているということか?」
淳史が不機嫌になっていた理由がわかると、優生は少なからず安堵した。
「そういうんじゃないと思うよ。たぶん、きっかけは俺を心配してくれたからだったんだろうけど……その後もつき合ってるのは俺のせいじゃないはずだよ? 紫さん、自分が受身になったことを認めたくないみたいっていうか、テレてるだけっていうか……態とそういう言い方をしてるだけなんじゃないのかな?」
紫とは暫く疎遠になっているから確認はできていないが、おそらく優生の想像は外れていないはずだ。未だに、紫は現状を素直に受け入れていないのだろう。


優生の返事に納得がいかないのか、偏に相手が気に入らないせいか、淳史はいっそう渋い表情になる。
「ずいぶん詳しいんだな? おまえが知っていることを、俺にも最初から全部話せ」
低められた声に潜む怒りが優生に向いているような気がして、知らずに腰が引けてしまう。それが優生のネガティブな思考に拍車をかける。
「……俺が聖人(まさと)さんのところにいたときに、プラトニックな恋愛をする人が理解できないって話になったことがあって、俺が紫さんを引き合いに出して話したから、興味を持ってたみたいだよ。それから淳史さんが迎えに来てくれて俺が戻ったから、たぶん腹いせみたいなのもあって、紫さんに白羽の矢が立ったんだと思う」
今にして思えば、淳史と近しい人間だったというのも、黒田が紫に目を付けた原因のひとつだったのだろう。
「あれが後藤の趣味のわけがないし、こうなった責任は俺にもあるということだな」
忌々しげに呟く淳史の心中を思うと複雑な気持ちになる。淳史の関心が優生にだけ向けられているわけではないと、気付きたくはなかったのに。
「淳史さんは関係ないよ。それに、何だかんだ言ってるけど、紫さんも満更でもないみたいだし」
あれ以来一度も連絡を取っていない黒田の本心はわからないが、少なくとも紫の方は憎からず思っているように感じた。だから、優生とは恋愛関係ではなかったと強調しておくとともに、黒田が前に思い入れていた相手のことも伝えておいたのだった。
「どっちにしても、後藤はあの男に気に入られて別れられなくなっているということだろう?」
「……ごめんなさい、俺が余計なことを言ったせいで、紫さんと聖人さんがくっつくことになってしまって」
「いつまでも他所の男の名前を呼ぶな」
不意に凄んだ淳史の剣幕に驚いて、優生は堪らず項垂れた。
今まで優生が慎重に避けてきていた話題を、先に振ってきたのは淳史の方だったのに。
伏せた頭を包み込むように、淳史の腕が回される。そのまま胸元へと押し付けられ、強く抱きしめられた。
「あの男が誰とつき合おうと、相手がおまえでなければ俺には関係ない。ただ、後藤の様子がおかしいから気になっただけだ」
「……うまくいってないってこと?」
「おまえも知らないのか?」
「この頃メールも来ないし、てっきり順調にいってるって思い込んでたから」
何かあれば紫の方から電話かメールが入りそうなものだが、しばらく連絡は途絶えている。わざわざ優生からコンタクトを取るのは淳史の気に障りそうで、あまり新しい情報は知らないのだった。


「普通、つき合っている相手がいれば枕営業のようなことはしないだろう?」
「淳史さんの職場でも、そんなのあるの?」
「ないとは言い切れないだろうが。俺はそれで結婚させられそうになったんだからな」
すっかり忘れていたが、その話から逃れるために淳史は優生に結婚を迫り、“愛妻弁当”を用意させ、順調な結婚生活をアピールしていた時期もあったのだった。
「淳史さんのときは社命みたいな感じだったんでしょう? そういう体質の会社なら、紫さんも断りにくかったんじゃないの?」
「俺とは契約の規模が違うし、後藤の相手は男なんだ。それも、自分の顧客だけじゃなく、自分には直接関係ない相手にまで“接待”していたようだからな」
「どうして?」
「それがわからないから、おまえに聞いてるんだろうが。後藤はああ見えて意外と真面目なんだ。そんな表沙汰にできないようなことをしてまで契約を取ろうとするタイプじゃないし、そもそも成績には拘ってないからな。だから、あの男のことで自棄になっているくらいしか考えられないんだが」
「じゃ、また明日にでも紫さんにメールしてみるね。愚痴くらいは話してくれるかもしれないし」
さりげなく、淳史の反応を窺ってみる。
かつて優生を口説くような言動を取っていた男が子猫同然だと知って、対象外だと安心しただろうか。それとも、たとえ本人には害がなくても、最も憎悪する相手に繋がっていると知って、ますます警戒を深めただろうか。
「……そうだな、おまえになら話すかもしれないな」
拍子抜けするほどあっさりと頷かれ、会話が途切れる。
ふと、当時は気にもしなかったことを尋ねてみたくなった。
「枕営業って、淳史さんもしたの?」
瞬間、また空気が緊迫を帯びる。
「するわけないだろうが。俺はこういうことには慎重なんだ。もし“既成事実”があったら逃げ切れてないと思うぞ」
優生の肩に手をかけ、見つめ合う距離を取る淳史は、本気で焦っているように見える。
「じゃ、俺はあの人に感謝しないといけないのかな」
「まだ疑ってるのか? 俺は偽装のためにおまえに結婚してくれと言ったんじゃないからな?」
淳史が優生を好いてくれていたのは真実でも、“結婚”を急いだ理由を考えれば、その一件が無関係なはずはなかった。
だからこそ、優生は感謝しないといけないと言ったのだったが。
「疑うも何も、俺は淳史さんの傍に置いて貰えて本当に感謝してるもの。これ以上望んだら罰が当たっちゃうよ」
誇張ではなく、本心からそう思っている。経緯がどうあれ、傍に居られる現状を恨むべくもなかった。
その思いは正しく淳史に伝わったようで、愛おしげに頬を撫でられ、優しい唇が触れてくる。
もう人ごとにかまけている余裕はなく、その愛情が一身に注がれるのを待ちわびるばかりだった。







人の気配がしたような気がして、ふっと微睡みから覚める。
今日は淳史は遅くなるはずで、里桜も弟の面倒を実家に見に行くと言っていたから誰も居るはずがないのだったが。
朧気な記憶は、夕方早いうちに入浴を済ませ、冷蔵庫に入れっぱなしになっていた青りんごの酎ハイを空けたあと、急速に襲ってきた睡魔に誘われるままソファに倒れ込んだところで途切れている。
もしかしたら、久しぶりに摂ったアルコールのせいで、優生は自分で思っているよりも長く眠ってしまっていたのだろうか。
唇に触れた感触は馴染みのあるもので、その正体を確かめようと重い瞼をぼんやりと開いた。
視界に捕らえた顔はおそろしいほどに整っていて、寝起きの優生の鼓動を逸らせる。
どこか冷たさを孕んだ切れ長の瞳は見入られそうに深く、薄い唇は心なしか濡れて、官能的な気配を醸し出す。
「……義之さん?」
ソファで横になる優生の傍に浅く腰掛け、上体を倒すようにして至近距離から心配げに覗き込んでいるのは義之で、他に誰かが居るようすは感じられなかった。二人きりにはならないという決まりごとは、もう破られてしまったらしい。
理由を問うように見つめる優生の視線は、覆い被さるように抱きしめてくる肩に遮られた。
尋常ではない雰囲気に驚いて身を離そうとすれば、優生を抱く腕に力が籠められる。
「……湯あたりでもしたの? 声をかけても目を覚まさないし、救急車を呼ぶところだったよ」
少し険のあるもの言いから、心配させてしまったことが窺えた。
「ごめんなさい、久しぶりに酎ハイ飲んだらすごく眠くなって、ついそのまま横になってしまって」
「具合が悪かったわけじゃないんだね?」
念を押す語気の強さに気圧されながら頷くと、義之は更に表情を厳しくさせた。
「それなら寝室に行っておいて欲しかったよ。驚かさないでくれないか」
連絡もなくやって来て、勝手な思い込みで心配しておいてなんて言い草だと思ったが、しょっちゅう体調を崩しているところを見られたり、さんざん世話をかけたりしてきただけに反論はできなかった。行き倒れたように横たわる優生を見たら、ただ眠っているだけだとは思えなかったのだろう。
「ごめんなさい。人が来るとは思ってなかったから……義之さん?」
事情はわかったはずなのに、尚も優生を離そうとしない義之に、覚えのある嫌な予感が胸を過った。
「……離れていれば納まると思っていたのに」
義之にしては珍しく、低めた声が聞き取れないほど小さな呟きを洩らす。
「どうかしたの?」
「動かないで」
その切迫した空気の意味がわからず、義之の顔を見ようと身を捩った優生の体がいっそう強く抱きしめられた。

「まだ動かないで」
苦しげに、搾り出すような声が優生の髪を揺らす。
抗おうにも、義之の体に押さえ込まれているような体勢では身じろぐことさえままならない。
「ゆい」
張り詰めた声に、逆らうと良からぬことが起きそうだと察して身を硬くした。
優生の認識では、義之は里桜が絡まないかぎり理性を飛ばしたり余裕を失くしたりすることはないのだと思っていたが、例外もあるようだ。
とりあえず、義之の気が済むまで、おとなしく待つしかないのだろう。
「……僕は里桜を愛しているよ。泣かせたくないし、失くしたくないと思ってる。嘘偽りのない、本心だよ」
「うん……?」
何を今更、と思いながら相槌を打つ。
改めて宣言されるまでもなく、日頃の義之の里桜への接し方を見ていれば、嫌でもそうと知れるというのに。
「なのに、きみのことが気にかかって仕方ないんだ」
「え?」
思いがけなさに、聞き返すような声を上げてしまったのが間違いだった。
義之は優生の顔の傍に手を置くと、重ね合わせた胸を離し、ほぼ真上から見つめてきた。
「毎日、きみの顔を見て、熱を測って、体調を確認しないと、心配で仕事にも支障が出るくらいなんだよ」
「え……と……」
とんでもない告白をされているというのに、義之の腕から抜け出すこともできず、気を逸らすようなことも言えない。それどころか、根底にある感情を推察して、嬉しいと思ってしまいそうになる。
「淳史と拗れていたときには、見ていて歯痒かったよ。僕なら、ゆいをそんなに悩ませないし、もっと上手く愛せるのにと思ってしまったりね。僕は、少しきみと深く関わり過ぎてしまったのかもしれないな」
驚きのあまり否定することも忘れ、優生は呆然と、その端正な顔を見つめた。
先に目を逸らしたのは義之の方で、不似合いな弱気を覗かせる。
「……そんなに淳史がいいなら他には見向きもしなければいいのに、無防備に寄りかかってくるから惑わされてしまうんだ」
責任転嫁とも取れる言い様だったが、前に淳史にも同様の指摘をされたことを思い出し、尤もな言い分なのかもしれないと思った。
優生は優しい相手に弱くて、つい越えてはいけない境界を見誤ってしまっていたのだろう。


「でも……まさか、義之さんが俺程度に惑うとは思わないでしょう? 里桜の他は眼中にないって感じなのに」
ささやかな反論は義之を煽ってしまったようで、向けられた眼差しに危うげな色が浮かぶ。
「僕はそんなに無害に見えるかな? そうでないことは、わかりやすく伝えてきたつもりだけど」
優生の頬に触れてきた手が、顔を上向かせるように顎へ滑ってゆく。目が合うと、もう言い逃れの言葉は出てこなかった。
「俺を共犯者にしたいの?」
強張っていく体とうらはらに、内心では諦めの境地に到っている。一旦口に出されたものを、聞かなかったことにはできないのだから。
「……きみがそうやって僕を受け入れるような素振りを見せるから、自制が効かなくなってしまいそうになるんだよ」
寧ろそれを回避するためのように、義之はまた優生の上へと被さってきた。
責めるような言葉は理不尽にも思えたが、放っておけないと思わせるほど心配させてしまった責任は、確かに優生にあったのだった。
そうと自覚してしまえば、窘めるような言葉は言えなくなった。
少し前の優生なら、優しく追い詰められてキスのひとつも許せば、なし崩しに一線を越えてしまっていただろう。好きな男に愛され続けるとはどうしても信じられず、わかりやすい誘惑に流されていたに決まっている。
くどいほどに、優生の不安を突き詰めて思い込みを訂正し、悲観的な思考の誤りを悉く正される前なら。


唐突に抱擁を解くと、義之は振り切るように身を離し、そのままの勢いで立ち上がった。
呆然と見上げる優生を見る瞳にもう迷いはなく、もしかしたら義之は最初から結論を出していたのかもしれないと思った。
「きみのことは忘れるよ。もう、心配もしない」
まるで決別のような言葉を残して、義之は優生に何も言わせず去って行った。


甘え過ぎてしまったのだと気付いても遅過ぎる。
何をしても淳史の気を逆撫でるばかりだった頃、優生は自分のことに手一杯で、優しくされることが心地よくて、義之に無防備に寄りかかり過ぎてしまった。
ともすれば、愛してほしいと望んでいると誤解させてしまうほどに。
だから淳史に止められたのではないかと、今更ながら得心がいった。
妬く、などという単純なものではなく、優しくされればすぐに気持ちを傾ける優生の本質を知っているから、深入りしないうちに釘を刺しておいたのだろう。或いは、もう手遅れだと察していたのかもしれないが。
悔やんだところで、何も始まっていない関係はやり直しようもなく、優生は表面上はこれまで通り義之とつき合ってゆくことになるのだろう。お互いに、さりげなく安全な距離を意識しながら。

喪失感に戸惑う優生には、これが義之に会う最後の日になるとは想像もできなかった。






血相を変えて帰宅した淳史は、玄関先で出迎えた優生の顔を見るなり強く抱きしめ、大きく息を吐いた。
「どうかしたの?」
「それはこっちの台詞だ。何かあったのか?」
心持ち息を乱しながら、抱擁を少し緩め、心配げに優生の顔を覗き込む。
ほんの半時間ほど前に、遅くなると知りながら帰りの予定を尋ねる内容のメールを送った優生に、淳史は間髪入れずに電話をかけてきた。今と同じ問いに『何でもない』と答えた優生に、家に居ることを確認すると、そのまま動くなと言って通話を終え、今に至る。おそらく、淳史は電話のあとすぐ帰って来たのだろう。
今まで優生はそんなメールを淳史に宛てたことは一度もなかったが、だからといって、それほども大層なことだと捉えられるとは思わなかった。
何を心配されたのかは聞かなくても想像がついたから、電話で言ったことをもう一度くり返してみる。
「何時くらいになるのかなって思っただけだよ?」
「何かあったから、そう思ったんじゃないのか?」
「ううん。ただ、急に会いたくなって、つい」
何気なく口にしてから、途端に恥ずかしくなって視線を落とす。
それを妨げるように頬を包んだ手のひらに促され、上げた目が合うと、同じことをしたいと思っていたようだと知る。
身を屈めた淳史の首へと腕を回したときには、もう唇を塞がれていた。
軽く啄ばんだだけでもどかしげに押し入ってくる舌に捕らわれ、息もつかせぬほどに深く絡み合う。きつく吸われ、堪らず仰け反らせた喉が鳴った。
頭の芯が甘く痺れるような感覚にうっとりと身を任せ、自分が満ち足りていることを改めて実感する。
もっと、と思う舌をそっと解かれ、濡れた音を立てて離れた唇が耳元へ移ってゆく。
「……すぐに抱きたい」
掠れた声でそんなことを言う淳史につられ、言葉は素直に出てきた。
「俺も、して欲しい」
その答えが効いたのか、疾うにそうだったのか、淳史は急かされたように少し荒い動作で優生を抱き上げた。


淳史に連絡したのは、本当は抱き止めていて欲しいと思ったからなのかもしれない。
もう揺らがないつもりでいたのに、義之を失くすような不安に乱れた気持ちを、淳史だけに向けていられるように。
「ずっと、抱いていて?」
思わず零した弱音に、淳史の目元が優しく細められる。
その言葉の効果は思った以上に強く、優生を淳史の許にしっかりと縛り付けてくれることになった。



- Do Me More - Fin

【 Love or Lust 】     Novel      


2009.11.20.update

このあと、『CHINA ROSE』の展開になるわけです……。
両方読んでくださっている方、そういうわけで、義之は(必要なことまで)全部忘れました、みたいな。
未読の方、別に義之が死ぬとか失踪するとかいうわけではないので気にしないでくださいー。

ぶっちゃけ、『どめ』との時間軸は合わせていないので、深く考えないでください……。
軽く『どめ』に浮気しつつ、こちらを書いていたのと、今話で収集つけたいなと思っていたので。

☆タイトルは、安室奈美恵さんの曲からお借りしています。