- Do Me More(5) -



人の気配がしたような気がして、ふっと微睡みから覚める。
今日は淳史は遅くなるはずで、里桜も弟の面倒を実家に見に行くと言っていたから誰も居るはずがないのだったが。
朧気な記憶は、夕方早いうちに入浴を済ませ、冷蔵庫に入れっぱなしになっていた青りんごの酎ハイを空けたあと、急速に襲ってきた睡魔に誘われるままソファに倒れ込んだところで途切れている。
もしかしたら、久しぶりに摂ったアルコールのせいで、優生は自分で思っているよりも長く眠ってしまっていたのだろうか。
唇に触れた感触は馴染みのあるもので、その正体を確かめようと重い瞼をぼんやりと開いた。
視界に捕らえた顔はおそろしいほどに整っていて、寝起きの優生の鼓動を逸らせる。
どこか冷たさを孕んだ切れ長の瞳は見入られそうに深く、薄い唇は心なしか濡れて、官能的な気配を醸し出す。
「……義之さん?」
ソファで横になる優生の傍に浅く腰掛け、上体を倒すようにして至近距離から心配げに覗き込んでいるのは義之で、他に誰かが居るようすは感じられなかった。二人きりにはならないという決まりごとは、もう破られてしまったらしい。
理由を問うように見つめる優生の視線は、覆い被さるように抱きしめてくる肩に遮られた。
尋常ではない雰囲気に驚いて身を離そうとすれば、優生を抱く腕に力が籠められる。
「……湯あたりでもしたの? 声をかけても目を覚まさないし、救急車を呼ぶところだったよ」
少し険のあるもの言いから、心配させてしまったことが窺えた。
「ごめんなさい、久しぶりに酎ハイ飲んだらすごく眠くなって、ついそのまま横になってしまって」
「具合が悪かったわけじゃないんだね?」
念を押す語気の強さに気圧されながら頷くと、義之は更に表情を厳しくさせた。
「それなら寝室に行っておいて欲しかったよ。驚かさないでくれないか」
連絡もなくやって来て、勝手な思い込みで心配しておいてなんて言い草だと思ったが、しょっちゅう体調を崩しているところを見られたり、さんざん世話をかけたりしてきただけに反論はできなかった。行き倒れたように横たわる優生を見たら、ただ眠っているだけだとは思えなかったのだろう。
「ごめんなさい。人が来るとは思ってなかったから……義之さん?」
事情はわかったはずなのに、尚も優生を離そうとしない義之に、覚えのある嫌な予感が胸を過った。
「……離れていれば納まると思っていたのに」
義之にしては珍しく、低めた声が聞き取れないほど小さな呟きを洩らす。
「どうかしたの?」
「動かないで」
その切迫した空気の意味がわからず、義之の顔を見ようと身を捩った優生の体がいっそう強く抱きしめられた。

「まだ動かないで」
苦しげに、搾り出すような声が優生の髪を揺らす。
抗おうにも、義之の体に押さえ込まれているような体勢では身じろぐことさえままならない。
「ゆい」
張り詰めた声に、逆らうと良からぬことが起きそうだと察して身を硬くした。
優生の認識では、義之は里桜が絡まないかぎり理性を飛ばしたり余裕を失くしたりすることはないのだと思っていたが、例外もあるようだ。
とりあえず、義之の気が済むまで、おとなしく待つしかないのだろう。
「……僕は里桜を愛しているよ。泣かせたくないし、失くしたくないと思ってる。嘘偽りのない、本心だよ」
「うん……?」
何を今更、と思いながら相槌を打つ。
改めて宣言されるまでもなく、日頃の義之の里桜への接し方を見ていれば、嫌でもそうと知れるというのに。
「なのに、きみのことが気にかかって仕方ないんだ」
「え?」
思いがけなさに、聞き返すような声を上げてしまったのが間違いだった。
義之は優生の顔の傍に手を置くと、重ね合わせた胸を離し、ほぼ真上から見つめてきた。
「毎日、きみの顔を見て、熱を測って、体調を確認しないと、心配で仕事にも支障が出るくらいなんだよ」
「え……と……」
とんでもない告白をされているというのに、義之の腕から抜け出すこともできず、気を逸らすようなことも言えない。それどころか、根底にある感情を推察して、嬉しいと思ってしまいそうになる。
「淳史と拗れていたときには、見ていて歯痒かったよ。僕なら、ゆいをそんなに悩ませないし、もっと上手く愛せるのにと思ってしまったりね。僕は、少しきみと深く関わり過ぎてしまったのかもしれないな」
驚きのあまり否定することも忘れ、優生は呆然と、その端正な顔を見つめた。
先に目を逸らしたのは義之の方で、不似合いな弱気を覗かせる。
「……そんなに淳史がいいなら他には見向きもしなければいいのに、無防備に寄りかかってくるから惑わされてしまうんだ」
責任転嫁とも取れる言い様だったが、前に淳史にも同様の指摘をされたことを思い出し、尤もな言い分なのかもしれないと思った。
優生は優しい相手に弱くて、つい越えてはいけない境界を見誤ってしまっていたのだろう。


「でも……まさか、義之さんが俺程度に惑うとは思わないでしょう? 里桜の他は眼中にないって感じなのに」
ささやかな反論は義之を煽ってしまったようで、向けられた眼差しに危うげな色が浮かぶ。
「僕はそんなに無害に見えるかな? そうでないことは、わかりやすく伝えてきたつもりだけど」
優生の頬に触れてきた手が、顔を上向かせるように顎へ滑ってゆく。目が合うと、もう言い逃れの言葉は出てこなかった。
「俺を共犯者にしたいの?」
強張っていく体とうらはらに、内心では諦めの境地に到っている。一旦口に出されたものを、聞かなかったことにはできないのだから。
「……きみがそうやって僕を受け入れるような素振りを見せるから、自制が効かなくなってしまいそうになるんだよ」
寧ろそれを回避するためのように、義之はまた優生の上へと被さってきた。
責めるような言葉は理不尽にも思えたが、放っておけないと思わせるほど心配させてしまった責任は、確かに優生にあったのだった。
そうと自覚してしまえば、窘めるような言葉は言えなくなった。
少し前の優生なら、優しく追い詰められてキスのひとつも許せば、なし崩しに一線を越えてしまっていただろう。好きな男に愛され続けるとはどうしても信じられず、わかりやすい誘惑に流されていたに決まっている。
くどいほどに、優生の不安を突き詰めて思い込みを訂正し、悲観的な思考の誤りを悉く正される前なら。


唐突に抱擁を解くと、義之は振り切るように身を離し、そのままの勢いで立ち上がった。
呆然と見上げる優生を見る瞳にもう迷いはなく、もしかしたら義之は最初から結論を出していたのかもしれないと思った。
「きみのことは忘れるよ。もう、心配もしない」
まるで決別のような言葉を残して、義之は優生に何も言わせず去って行った。


甘え過ぎてしまったのだと気付いても遅過ぎる。
何をしても淳史の気を逆撫でるばかりだった頃、優生は自分のことに手一杯で、優しくされることが心地よくて、義之に無防備に寄りかかり過ぎてしまった。
ともすれば、愛してほしいと望んでいると誤解させてしまうほどに。
だから淳史に止められたのではないかと、今更ながら得心がいった。
妬く、などという単純なものではなく、優しくされればすぐに気持ちを傾ける優生の本質を知っているから、深入りしないうちに釘を刺しておいたのだろう。或いは、もう手遅れだと察していたのかもしれないが。
悔やんだところで、何も始まっていない関係はやり直しようもなく、優生は表面上はこれまで通り義之とつき合ってゆくことになるのだろう。お互いに、さりげなく安全な距離を意識しながら。

喪失感に戸惑う優生には、これが義之に会う最後の日になるとは想像もできなかった。






血相を変えて帰宅した淳史は、玄関先で出迎えた優生の顔を見るなり強く抱きしめ、大きく息を吐いた。
「どうかしたの?」
「それはこっちの台詞だ。何かあったのか?」
心持ち息を乱しながら、抱擁を少し緩め、心配げに優生の顔を覗き込む。
ほんの半時間ほど前に、遅くなると知りながら帰りの予定を尋ねる内容のメールを送った優生に、淳史は間髪入れずに電話をかけてきた。今と同じ問いに『何でもない』と答えた優生に、家に居ることを確認すると、そのまま動くなと言って通話を終え、今に至る。おそらく、淳史は電話のあとすぐ帰って来たのだろう。
今まで優生はそんなメールを淳史に宛てたことは一度もなかったが、だからといって、それほども大層なことだと捉えられるとは思わなかった。
何を心配されたのかは聞かなくても想像がついたから、電話で言ったことをもう一度くり返してみる。
「何時くらいになるのかなって思っただけだよ?」
「何かあったから、そう思ったんじゃないのか?」
「ううん。ただ、急に会いたくなって、つい」
何気なく口にしてから、途端に恥ずかしくなって視線を落とす。
それを妨げるように頬を包んだ手のひらに促され、上げた目が合うと、同じことをしたいと思っていたようだと知る。
身を屈めた淳史の首へと腕を回したときには、もう唇を塞がれていた。
軽く啄ばんだだけでもどかしげに押し入ってくる舌に捕らわれ、息もつかせぬほどに深く絡み合う。きつく吸われ、堪らず仰け反らせた喉が鳴った。
頭の芯が甘く痺れるような感覚にうっとりと身を任せ、自分が満ち足りていることを改めて実感する。
もっと、と思う舌をそっと解かれ、濡れた音を立てて離れた唇が耳元へ移ってゆく。
「……すぐに抱きたい」
掠れた声でそんなことを言う淳史につられ、言葉は素直に出てきた。
「俺も、して欲しい」
その答えが効いたのか、疾うにそうだったのか、淳史は急かされたように少し荒い動作で優生を抱き上げた。


淳史に連絡したのは、本当は抱き止めていて欲しいと思ったからなのかもしれない。
もう揺らがないつもりでいたのに、義之を失くすような不安に乱れた気持ちを、淳史だけに向けていられるように。
「ずっと、抱いていて?」
思わず零した弱音に、淳史の目元が優しく細められる。
その言葉の効果は思った以上に強く、優生を淳史の許にしっかりと縛り付けてくれることになった。



- Do Me More(5) - Fin

【 Do Me More(4) 】     Novel  


この前提があって、『CHINA ROSE』に続いているのですが……。
そういうわけで、義之は(必要なことまで)全部忘れました、みたいな。

ただ、看護師として患者が気になるだけだって思えば楽なのに、
義之は意外と不器用なようです。