- ドメスティック.Z -

☆少々痛い展開があるかもしれません。
苦手な方はご注意ください。



「そういや、今日、職場の奴と会うことになってたんだけど……行けないなら連絡しとかないと、面倒なことになるかもしれないんだけど?」
いつの間にかスーツの上着のポケットから消えていた携帯電話を、返して欲しいことを婉曲に黒田に訴えてみる。
会社に於いても紫の立場は弱くなっているのに、約束を反故にすればまた無理難題を押し付けられかねない。
まだ紫の隣りに、つまりはベッドの縁に腰かけたままの黒田は微妙な表情をしながら、自分の上着に手を入れた。
「例の営業の人が相手じゃないでしょうね?」
黒田の鋭い読みに、紫は咄嗟に上手く躱すことができず、やむなく恨み事を洩らしてしまう。
「……あんたが失礼なことするから、フォローが大変なんだろ」
「失礼なのは先方とあなたの同僚の方ですよ。休日までそんな相手に会う必要はありません。断るにしても、工藤さんにでも言伝てて貰えばいいでしょう? もちろん、あなたの携帯は私が預かりますから、手短にお願いしておいてください」
依然として横暴な言いようにムッとしたが、両手を拘束され、真っ裸の状態の紫に反撃する勇気はない。
フラップを開いた状態で差し出された携帯電話を受け取り、指定された相手のナンバーを呼び出す。
早朝だというのに、2コールで出る相手は起き抜けといった風ではなさそうで、可愛い恋人との幸せそうな光景が目に浮かぶ。
「後藤だけど、朝からゴメンな? 今日、笹原と志野家の件で会う予定だったんだけど行けなくなって……悪いけど、伝えてくれないかな? ちょっと、連絡できない事情ができて」
『監禁でもされてるのか?』
“事情”と言っただけなのに、さらりと続けられた言葉の的確さに冷や汗が出る。まんざら冗談でもなさそうなトーンに聞こえるのは紫の被害妄想だろうか。
「そういうこと聞くなよな、シャレになんないから。ともかく、頼むな?」
工藤の声が黒田の耳にも入っているかもしれないと思うと、正直に答えるわけにもいかず、触れられたくないというような態度を取ってしまった。
あっさり、そうか、と流す工藤は紫の居場所を察しているようで、さっさと通話を終わらせてしまう。もう少し心配してくれてもよさそうなものだと思うのだが、二人の世界を邪魔されたくないのか、単に紫の相手が気に入らないのか、ひどく冷たいような気がした。


「そのまま、おとなしく待っていてください」
出掛けに黒田が言い置いた言葉の真意は服を着るなということなのだろうが、いない間まで守る意義は感じられない。
「一日裸で過ごすってのはちょっとなあ……」
裸族でもない紫には、一日ずっと服を着ずに過ごすことには抵抗があり、黒田が帰るまでに脱いでおけば構わないだろうという安易な考えに傾く。
ここで生活することになっても差し支えない程度に増えていった紫の私物の大半を占める洋服を、取りに行こうとして、ふと嫌な可能性に思い至った。
「まさか、隠しカメラを仕込んでたりとか、ないよな……?」
考え過ぎだろうと思いつつ、決してないとは言い切れない。
なにしろ黒田は、紫が眠っている間に人には見せられないような恥ずかしい写真を撮るような男なのだから。(尤も、紫は現物を見たわけではないから実際どんな写真なのかは知り得ないのだが。)
迷った結果、バスタオルを腰に巻いて凌ぐことに決めた。
とりあえずは腹ごしらえを済ませておこうと、キッチンに場所を移す。出勤前に黒田が用意しておいてくれたらしい紫のぶんの朝食に向かいながら、今後の対策を練らなくてはと思った。






結局、いくら考えてみたところで取り立てて良策を思いつくこともなく、つらつらと過ごしているうちに訪れた睡魔に身を任せることにしたのは午後を回ってからだった。
念のため、紫が目を覚まさないうちに黒田が戻って来たとしても気を悪くされないよう、バスタオルを外してからベッドに入る。
短い鎖で繋がった両手では、バスタオルを巻くのも至難の業だったのだが、毛布を被るのも簡単ではなかった。
いつものように右肩を下にして身を丸め、また堂々巡りの思考に戻る。
紫が親離れできていないという以上に子離れできていない母親と、同じく兄離れしようとしない妹をどう説得するか、いや、それ以前に自分は本当に黒田と生活を共にするなどということができるのか、考えれば考えるほどに答えは遠ざかっていくような気がする。
紫には家事の類は全くといっていいほど何もできないし、正直なところしたいとも思えない。黒田が全て担当するから紫は身一つで来てくれればいいというならまだしも、公平に分担なんてことになれば、気持ちの問題は別にしても能力的に不可能だろう。
とはいえ、働いているのはお互いさまでも、夜勤があるぶん黒田の方が大変そうだと思うと、紫にはムリだとは言い難い。
何より、紫の気が進まない一番の理由は、今は黒田にひどく執着されているとしても、それがいつまで続くとも限らないということで、本音を言えば一緒に暮らしたいとは思えなかった。
そんなにも深く関わってしまったら、いつか相手の興味が失せてしまっても、離れられなくなってしまいそうで恐ろしい。できれば、これまで通り、ほどほどの距離を保ちながらつき合っていくのが理想だった。どう考えても、入り浸っているのと同居するのとでは、別れるときの面倒さやダメージは雲泥の差だろう。
そういった戸惑いを、黒田の気を悪くさせないようにどう伝えればいいのか、説得が可能なのか、想像するだけで頭が痛い。
うだうだと思い悩むうちに、また押し寄せてきた眠気に、ひとまず結論は先送りすることにして目を閉じた。




「……こいつかな?」
聞き覚えのない声に、微睡みが妨げられる。
少し離れたところに複数の人の気配を感じて、夢や空耳ではないことに気付く。
「ベッドに入ってんだからそうだろ? ヤり疲れてんのかな、マサトは底なしだから」
寝惚けた頭で考えてみても、なぜ家主の留守中に寝室の中まで人が入って来ているのかわからない。これまで、黒田が以前つき合っていたという男以外の人物にここで会ったことはなく、声にも聞き覚えはなかった。
そればかりか、紫が起きていると知ってか知らずか、ふざけた調子で交わされる会話は何やら物騒げな内容を含み、目を開けるのを躊躇わせる。せめて入口側に背を向けて横になっていればよかったと思ってみても遅すぎた。
「へえ……マサトが入れ上げてるっていうから全然期待してなかったけど、美人だな」
声と共に近付く気配が、紫の肩から毛布を一気に剥がし取る。咄嗟に身を庇おうにも腕は自由にならず、身を丸めるほかに為す術はなかった。
「わ、まっぱに手錠なんて調教中? もしかしてバイブとか仕込まれてんの?」
理解不能の、もしくは頭が理解を拒否する言葉を浴びせられ、驚きのあまり声も出ない紫に、まだ未成年と思しき幼げな声が、止めを刺す。
「このごろマサトがつき合い悪いの、あんたのせいなんだろ?」
いかにも不機嫌そうに告げられた“つき合い”の意味を考える余裕は今はない。
少なくとも三人の男の不躾な視線に晒され、背中を冷たいものが走る。こんな状況下での相手の目的は、想像に難くなかった。


一人は黒田ほどではないにしても大柄で筋肉質な男で、紫より幾つか年上に見える。高い位置から紫を見下ろし、“お預け”が解除されるのを待っているかのような好戦的な雰囲気が恐ろしい。
もう一人は紫と大差ないくらい痩せ気味の若い男で、金茶色の髪と耳に幾つもつけたピアスが軽薄そうな顔立ちを際立たせている。興味津々といった表情で紫を見る視線は、襲いかかるタイミングを計っているというよりは、単に面白がっているようにも見える。
そして、少し退いた位置で腕を組んで紫を睨みつけているのは、未成年としか思えない小柄で生意気そうな男子で、どうやらこの襲撃団のリーダーらしかった。
「何とか言えよ、口がきけないってことはないんだろ?」
黙ったままの紫に苛立ったのか、早口に吐き捨てながら、ベッドの際に立つ他の二人の傍へ近付いてくる。
僅かに切れ上がった瞳で睨みつけられても、何を言うべきなのかわからない。
この、黒田の好みから著しく外れているとしか思えない子供の言う“つき合い”がカラダの関係を指しているとしたら、おそらく“悪い”原因は紫なのだろう。

――誘拐犯が出るかもしれないってのは大げさじゃなかったんだな。

今更のように、黒田の深刻さが杞憂ではなかったことを知る。
納得している場合ではないが、だんだんと紫にも事態が呑み込めてきた。
いくら黒田の精力が旺盛だといっても、紫は求められるほぼ全てを受け入れ続けている。普通に考えれば能動的な黒田の方が余計に消耗しているはずで、他で解消しなければならないほどあり余っているとは思えない。
もし、紫とつき合う前に“遊んで”いた相手が黒田を気に入っていたとしたら、突然構われなくなったことに不満を抱くようになっても不思議ではなかった。
「何とか言えって言ってるだろ」
物思いに耽る紫に苛立ったのか、ヒステリックな声で詰め寄られ、乱暴な仕草で前髪を掴まれる。
ふと、黒田ならこの短気さが可愛いと言うかもしれないと、状況も忘れて呑気なことを考えた。
「マサトがあんたみたいなのを本気で相手するわけないだろ? あんた、ウザいんだよ。独り占めすんなよな」
そこまで言われて、どうやらこの子供は黒田に特別な感情を持っているようだと気付く。
だから、恋路の邪魔をする紫に引導を渡しに来たということだろうか。
それとも、独り占めするなと言うくらいだから、共有しろということなのかもしれないが。
どちらにしても、紫の恋愛観では受け入れられるはずがなかった。
かろうじて首を振ってその手から逃れ、身を起こす。
相手の性癖が想像できるだけに、裸身を晒し続けることには抵抗があり、とりあえず手近な枕を膝に乗せることで、少しでも露出を抑えようと思った。


「陽希(はるき)」
待ちきれないという風に呼びかける声に、紫を睨む視線がその軽薄そうな男の方に向けられる。
一番年少の男は陽希という名前らしい。
「どうする?」
意向を聞いているというよりは確認するような問いは、早く次の行動に移りたいということなのだろう。
どこか他人事のように眺めていた紫は、それが自分の身の危険に直結した話だと認識した途端、ぼんやりしている場合ではないことに気が付いた。
「でも、こいつってマサトの趣味じゃないよな?」
他の二人に向けられた陽希の言葉は、さっき紫が思っていたこととほぼ同じで、状況も忘れ苦笑してしまいそうになる。
たぶん、その問いに対する答えを一番知りたいと思っているのは紫だったが、大柄な方が口にしたのは、あまり耳にしたくない類の言葉だった。
「見た目はともかく、繋いでおくほど入れ上げてるってことは、よっぽどイイんじゃないのか?」
「だよな、こんだけマーキングしまくってるくらいだし、ハマってんだろうな」
含みのある笑いを浮かべながら、もう一人の男が同意を求めるように紫を見下ろす。
舐めるような視線が這う胸元や腿に集中したキスマークは、黒田が付けたものではなかったが。
「ハマッてるのはマサトじゃなくて、こいつの方だろ」
年長の二人の推測が気に入らなかったようで、陽希は不満げに眉を吊り上げた。
その気の短さが、また紫に誰かの面影を思い出させる。
「それなら、手錠をかけておく必要はないんじゃないか?」
「ドМなんだろ、繋いでくれとか言って居座ってるんだよ」
陽希の、あまりにも自分勝手な解釈に眩暈がする。そんなものは黒田に思いを寄せている陽希の願望にしか過ぎない。
「マサトが家に連れ込む時点で特別だろ?」
「陽希はここも教えられてなかったくらいだしな?」
紫が訂正するまでもなく、二人の大人はどちらの味方なのか疑いたくなるくらい、陽希の不利を指摘し始めた。
もしくは、陽希をからかうのを楽しんでいるようにも見える。
「……もう、何でもいいから、マサトが相手しなくてもいいようにしといてやって?」
「って言っても、もう十分満足させてもらってるみたいだけど?」
値踏みするような眼差しで見下ろされるのはひどく不快で、紫は堪らず顔を背けた。
それを追うように伸びてきた手に触れられることは我慢ならない。
「触るな」
咄嗟に撥ねつけたのが気に障ったのか、それまでずっとふざけた調子だった男の表情が険しくなる。
「おとなしくしてないと、手荒なことやっちゃうよ?」
紫と似たような体型だと思っていた男の、手錠で繋がれた両手首を引きよせる力は想像以上に強かった。



ベッドの中央へと上体を倒され、男たちの方へ脚を投げ出すような態勢で押さえ込まれる。膝にかけられた手に逆らう無意味さを知りながら、それでも抵抗せずにはいられなかった。
「敦也(あつや)、黙って見てないで手伝えよ。こいつ、意外と強情だぜ?」
一瞬、“淳史”と呼んだのかと思いドキリとする。大柄な方の男は敦也という名前らしい。
「本当に何か仕込まれてるんじゃないのか?」
「いっ……」
開かせられまいと膝に力を籠めていたせいで僅かに浮いた尻の狭間にいきなり指を差し入れられ、息が詰まった。
「何も入ってないけど、すごく熱いな」
腫れた粘膜を無遠慮に探る指の感触に肌が泡立つ。濡らされていないせいか異物感と痛みが強く、吐き気がするほど気持ちが悪い。
膝裏を押し上げられ、いくつもの視線に晒されているのだと思うと羞恥よりも恐怖心の方が勝った。
そんなことはあり得ないと、まだ現実逃避したがる自分と、免れようがないなら諦めるしかないと投げやりに思う気持ちが交錯して、紫の抵抗を鈍らせる。
「やっぱ、ヤり過ぎ? 俺らの相手まではムリそう?」
「そうだな、全然反応しないしな」
無造作に前を扱かれても、体の両側から二人の男に圧し掛かられているような状態では、感じる余裕などあるわけがなかった。
「こっちは?」
一際赤く腫れた胸の尖りを摘まれ、鋭い痛みが走る。
払い退けようとした両の手首は煩さげに頭上に押しやられ、その酷薄そうな唇が胸元へ近付く。
鬱血した周囲を舐められ、先端を噛まれ、強く吸われても、愛撫というには刺激が強過ぎて、紫には痛みしか感じられない。
昨夜から黒田に弄られすぎて麻痺してしまっているのかもしれないが、どの指も唇も紫の肌を震わせるばかりで、快楽に結び付くような感覚は訪れなかった。
「もしかして、あんた不感症?」
落胆したように問われても、紫には答えようもない。
黒田に触れられている時の自分の反応を思えば到底そんなわけがないが、今の紫は一向に昂ぶってきそうな感じはしなかった。
今更のように、黒田が優しいというのは本当だったようだと知る。
紫の抵抗を躱すのも、肌に触れる指も唇も、比べものにならないくらいソフトで、体が馴染むまで時間をかけてくれていたことに気付く。
少なくとも、紫が感じ入って抗えなくなるような状態にされていたと思う。
現実逃避してしまいそうになる紫の、俯きがちな顎を掴むように手のひらが伸びてくる。上向けさせ、紫の目線を覗き込む眼差しが、悪戯を思いついた子供のように煌めいた。

「あんた、こっちは得意? マサトに仕込まれてるんだろ? ちょっと舐めてみて?」
無遠慮に唇を割る指に驚いて、咄嗟に閉じたタイミングは一呼吸遅く、舌に触れかけた指を噛んでしまう。
「痛っ」
「マナ?」
気遣わしげな声が呼ぶのがこの軽薄な男の名前なのだろう。人のことを言えた義理ではないが、ずいぶん可愛らしい名前だ。
「も、こいつ、ほんと腹立つし、ヤっちゃえば?」
焚きつけるような言葉でマナに視線を向けられた敦也は、窺うように陽希を見た。年長者二人は、まるで責任転嫁をするように陽希の返事を待っている。
「だから、俺は最初からそう言って……」
陽希の言葉を遮るように、突然鳴ったインターフォンの音に、一瞬場が固まった。
その隙に男たちの腕から逃れようと身を起こしたが、簡単に敦也に腰を押さえ込まれ、再びベッドへと倒されてしまう。
「マサトか?」
尋ねられても、紫は今が何時なのかもわかっていないような状態で、そうとも違うとも答えられなかった。ただ、早出の黒田の帰宅が早いのは間違いなく、その可能性に縋りたい思いで肯定的な表情を作る。
「帰るの早過ぎだよな、まだ何もしてないのに」
舌打ちしそうな勢いで文句を零しながら、マナが寝室を出ていく。インターフォンを取る気配がしないのは、家主を出迎えるためらしい。
「マサト、早いよ、今日って早番……?」
玄関の開く音と、幾分トーンの変わったマナの声が寝室まで聞こえてくる。
「後藤が居るなら呼んで貰えないか」
予想外の、けれども耳に覚えのある低い声に、考えるより先に叫んでいた。
「工藤、助けて……っ」
言い終えないうちに口元を男の手のひらに塞がれたが、助けを求めた相手には届いたようで、マナが何やら喚く声とほぼ同時に大きな衝撃音が響き、ほどなく頼りがいのある大きな男が寝室に現れた。
駆け寄ってくる工藤が、紫に乗り上げたまま振り向く敦也の頸部に拳を振り下ろす。あまりの早業にただ呆然と眺めるだけの紫の上へ、男の体が倒れ込んでくる。
「わ……」
見た目に違わぬ重量級の体を受け止め切れず、息が詰まった。
「な、なに、こいつもマサトの知り合い?」
マナは、一撃で敦也を失神させた工藤に恐れをなしたようで寝室の入り口から中に入って来ようとはせず、対応に迷っているようだ。
そうでなくても大柄で厳つい工藤は、凄むと別の職業の人に見えかねない風貌をしているだけに、本来の姿を知らずに対峙した相手はビビってしまうのだろう。
自分が初対面の相手にそんな影響を与えることがあると知ってか知らずか、工藤はマナの方を一瞥しただけで、紫の上から敦也の体を引きはがし、床へと転がした。
紫の方を見ないまま、乱れた毛布を黙って引き上げる。
そのとき初めて、紫は自分の格好の不適切さに気が付いた。よもや、工藤にそんな気遣いをされる日が来るなんて想像したこともなかったのに。
ひとまず、工藤の目に余計なものを映させないよう体を毛布に包んでから、ベッドの縁に腰かけ直した。


「こいつら、どうすればいいんだ? 警察を呼んだ方がいいか?」
工藤の落ち着いた声に促され、紫も事態の収拾をどうつけるか考えなくてはならなくなった。
「どう、なのかな……黒田に聞かないと何とも……」
「こういう手合いに甘い顔をするとまた同じ目に遭わされかねないと思うが」
「だよな、通報しといた方がいいんだろうな……」
面倒ごとは苦手だが、ここできちんと対処しておかなければまた危ない目に遭うことになるという考えには同感だった。紫の性癖や黒田の部屋だということを考えると警察沙汰にするのは抵抗があるが、うやむやにしない方が後々のためだと思う。
「ちょ、ちょっと待てよ、そんな大げさなことじゃないだろ? まっぱにして手錠掛けたのは俺らじゃないし、ちょっと触ったくらいで……」
聞くに堪えない言い訳を始めたマナを振り向いた工藤が、僅かに眉を顰める。
「一人足りないんじゃないのか?」
言われて初めて気が付いたが、いつの間にか陽斗の姿が消えていた。
「みんな黒田の知り合いみたいだから、聞けばわかると思うけど」
「そうだよ、知り合いっつうかお友達? だから、そういう物騒なのナシな?あんただって、男に襲われそうになったとか言いにくいだろ? それに、警察の事情聴取って、どこをどんな風に触られたかとか、感じたかとか、赤裸々に聞かれるんだぜ?」
まるで、そうされたことがあるみたいに語り出すマナの言葉は、想像してみれば確かに紫には耐え難いものだった。
「次も助けられるとは限らないぞ?」
揺れる心情に釘を刺す工藤の言葉が、ますます紫を悩ませる。他の男に触れられるのは耐えられないと、ついさっき思い知らされたばかりだ。
「わざわざ訴えなくても、マサトにバレたら俺らは何もできないから。今日だって、敦也と俺は、マサトが入れ上げてる相手がどんなのか見てみるだけのつもりだったし。物騒なことを考えてたのは陽希だけだよ」
だから、逐一、陽希の顔色を窺っていたのだろうか。
とはいえ、マナは嬉々として紫をいたぶろうとしていたような気がする。そのうえ、敦也には指まで挿れられたというのに、“見るだけ”なんて厚かましいにもほどがある。
「でも、工藤が来てなかったら、どうなってたかわからないよな? なんか、ゴーサイン出てた気がするし」
「それは……まあ、陽希はああ言ってたし、ヤってないとは言いきれないけど」
あっさり認めるマナを冷たい目で睨んでから、工藤の視線が紫に戻る。
まともに目が合うと、なぜだか急に鼓動が逸り、紫は自分の反応に驚いた。今まで特に意識して工藤を見たことはなかったが、頼りがいのある分厚い体は、今の紫の好みに適っているのかもしれない。
「一応、確認しておいた方がいいだろうな。今日は出勤してるのか?」
「そうだけど……でも、今は俺の携帯ないし、勤務中だったら、あいつの携帯には連絡つかないし……なあ、今って何時くらい?俺、昼飯の後でウトウトしてたから時間の感覚ないんだけど」
やはり寝室に時計は必要だと、携帯電話のない今、つくづく思う。
「ないって、今朝もおまえの携帯から電話してきただろうが。まさか、取り上げられてるのか?」
答えられない紫に、工藤は心底忌々しげに続けた。
「だから、あんな男はやめろと言ってるんだ」
再三の忠告をされるまでもなく、それは紫も何度となく思ったことで、それができないからこんな目に遭っているのだった。




「あ」
時間を確かめるまでもなく、玄関先から聞こえた物音に、自然と体が反応する。
それが黒田のものだと、なまじ通い同棲を続けているわけではない紫にはすぐにわかった。
「紫さん……?」
やや緊迫した声とともに寝室に入ってきた黒田は、入り口付近にいたマナを軽くスルーして紫を視界に収めた瞬間、安堵ではなく、あからさまな不快感を面に浮かべた。
「……どうして、工藤さんがうちに?」
未だ床に倒れたままの大男と毛布に包まった紫を見れば、それなりの想像がつきそうなものだが、黒田にとっては工藤が家にいることの方が重大事らしい。
その身持ちの悪さが招いた結果だとは思いもしないのか、黒田の表情は苦り切っていて、工藤に負けず劣らず物騒な雰囲気を放っている。
責めるような視線は、むしろ紫が黒田に向けていいはずなのに。
「同僚が監禁されていると聞けば心配くらいするだろう? しかも相手の人間性に重大な欠陥があるとわかっているのに、放っておけるわけないだろうが」
「ただの同僚にそこまでするとは思えませんが」
含みのある言葉と眼差しで工藤を否定する黒田にいつもの余裕はないようで、完全に喧嘩腰だった。
「どう思おうと勝手だが、そうそう仕事に差し支えるようなことを見過ごすわけにはいかないからな」
工藤は他意はないという口ぶりだったが、実際のところは紫のためではなく、最愛の人と暮らしていたことのある黒田に対する蟠りが未だ抜けないからなのだろう。
工藤の前を横切り、ベッドの縁に膝をつくと、黒田は紫の拘束された手首に触れた。身を屈め、紫の背を抱くように身を寄せてくる。
「余計なことをすれば、辛い目に遭うのは紫さんですよ。私は工藤さんのように甘くありませんので」
「そういう扱いをするつもりなら、後藤は俺が連れて帰るからな? 別に後藤に固執しなくても、それなりの手合いがいるんだろうが?」
嫌味のこもった言葉の真意がわからないのか、黒田はまるで工藤と紫の他にはいないかのような態度を崩さないままだ。
「今更、報復ですか? ゆいのことは、感謝されても恨まれる筋合いではないと思いますが?」
俄かに殺気立つ工藤が、今にも乱闘でも起こしそうな気がして、紫は慌てて立ち上がり、二人の間に割って入った。
「いい加減にしろよ、工藤よりあんたのツレの方がよっぽど危険だってわからないのか? 俺、もうちょっとでマワされるとこだったんだからな?」
かなり誇張した言葉に、黒田の顔色が変わる。
「本当ですか?」
恐ろしい形相で見据えられたのはもちろん紫ではなく、未だ意識の戻らない敦也でもなく、かなり後方で佇んだままのマナだった。
「や、だから、陽希が、マサトの入れ上げてる奴に引導渡さないと気が済まないって話になって……でも、俺も敦也も本気じゃなかったし、全然未遂だし」
「人の体弄り回しておいて、未遂ってことないだろ」
それが後々自分の首を絞めることになると思い至らず、紫は感情のままにマナの言葉を訂正してしまった。


「いつまで寝ているつもりです? 一言くらい申し開きしておこうとは思わないんですか?」
冷やかな声をかけながら、俯せに転がったままの敦也の腹を、黒田が足蹴にする。
まだ気を失っているのだと思い込んでいたが、敦也は緩慢な動作で上半身を起こした。
「……マサトが躍起になって隠すから、却って興味が湧くんだろう? 詮索されたくないなら、陽希のこともほどほどに構ってやれよ?」
「本気の人をほどほどに構えるほど器用ではありませんので」
「それなら、最初から手を出すなよ、ヘタに期待させるから付き纏われるんだ」
「あの時は相手を選んでいる余裕がなかったんですよ。弱っているところに付け込んできたのは向こうですから、私が気に病む必要はないと思いますが」
黒田の浮ついた話は出逢ってすぐに耳にしていたが、それでもその身勝手な言い方に、他人ごとながら腹が立つ。
工藤も聞くに堪えないと思っているようで、視線を外して会話が一段落するのを待っている。
「ともかく、陽希が納得するよう話してやれよ? このままだと、もっと物騒な奴を連れて来かねないぜ?」
「話して納得するなら、とっくに諦めているはずですよ。まあ、何とかしないわけにはいかないようですし、努力はしますが。それより、あなた方はどうしてこんなことに加担したんです? わざわざ私のおつき合いしている人を紹介しなければならないほど親しくしていた覚えはありませんが?」
「ひどいよ、マサト、いいことも悪いことも一緒にヤった仲だろ?」
それまで遠巻きに見ていたマナが、わざとらしいほど嘆きながら近付いてくる。
黒田は大きくため息を吐いて、心底うんざりしたような顔を見せた。
「……だから、余計に紫さんのことを話すのは嫌だったんですよ、私は大切な人を誰とも共有するつもりはありませんので」
「それなら、そう言っておけよ。わかっていれば、わざわざ喧嘩を売るような真似はしない」
「言えば余計に興味を持つんじゃないですか? できれば、あなた方には知られたくなかったんですよ」
「そりゃ、本命には何もできない代わりに、別の男をとっかえひっかえヤリまくってた男が突然マジメになったら変だと思うだろう? しかも、しょっちゅう家に連れ込んでるくせに、本命は前の奴だと言い張るし」
「そうだよ、マサトの好みでもないのに何ヶ月もハマり続けてる相手なら、どんな奴なのか見てみたいに決まってるだろ」
もしもそれが真実なら、紫に誤解させてまで庇おうとした黒田の行動は、完全に逆効果だったということになる。
かといって、この二人と陽希に、紫が本命だと紹介して欲しかったかといえば微妙なのだったが。
「人の恋愛事情は放っておいてください。稲葉さんは元々ノンケで、たとえプラトニックであってもつき合ってもらえるだけで満足しなければいけないと思っていたんです。でも、紫さんは私を全て受け入れてくれて、本気でおつき合いしているんです。軽々しく接触しないでください」
「うわ……マサトの言葉とは思えない……」
驚き呆れるマナの反応を見れば、いかに黒田がロクでもない男だったのかが知れる。


「紫さん、殴るなり蹴るなり、好きにしていいですよ」
ホールドアップ同然の状態の二人を、黒田が顎で指し示す。
どちらかといえば、紫が恨みがましく思っているのは当の黒田なのだったのだが。
「俺はいいよ、工藤が殴ってくれたし。今後一切こういうのはナシってことにしてくれたらそれで」
あっさりと流す紫の答えは、あまり黒田の気には入らなかったようだったが、それ以上言及することはなかった。
暫く考え込むようにしたあと、黒田は気分を切り替えたように、紫以外の三人を見回した。
「では、招かれざる客人たちにはお帰りいただきましょう」
気の変わらないうちに、とでも思っているのか、敦也は名残り惜しげなマナの腕を掴み、有無を言わせず連れて出てゆく。
一方、帰る気配を見せない工藤に、黒田は催促するような視線を向ける。
「俺は後藤に呼ばれて来たようなものだからな」
態と黒田の気を逆撫でているみたいに余計なひと言を吐く工藤は、穿った見方をすれば、まるで紫の身の振り方に口を出す権利があると主張しているようにも見える。
「今朝のうちに約束でもしましたか? そんな間はなかったと思っていたんですが、油断も隙もない人ですね。ともかく、誰であろうと邪魔をさせるつもりはありませんから、さっさと帰ってください」
それには答えず、工藤は紫の方に視線を向けて念を押した。
「この男と二人にしても大丈夫なのか?」
「だと思うけど……それより、工藤は今日は仕事入ってたんだっけ?」
「一件だけな。もっと早く来れると思ってたんだが、予定より時間を食って来るのが遅くなったんだ。まあ、なんとか間に合ったようだが」
おそらく工藤が心配していたのとは別の展開だったのだろうが、救けられたのは事実で、紫は改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。
「工藤が来てくれなかったら、俺、どうなってたかわからないよな。ほんと、ありがとう」
露骨に顔を顰める黒田の方はこの際見ないことにして、改まって工藤に頭を下げた。
それは、工藤が帰りやすくなるように、という意図も籠めてのものだったのだが。
「これに懲りたら、つき合う相手は慎重に選べよ?」
さりげなく、工藤の手が紫の肩を滑り落ちていた毛布を直す。これまでの工藤なら、紫相手には絶対にしない類の行為だった。
それが黒田に対する嫌味だったのだと気付くのは少し後のことになる。




闖入者とレスキュアが帰ると、思わず安堵のため息が零れた。力の抜けた体を、ベッドヘッドに凭れかけさせるように腰を下ろす。
紫の前に立つ黒田が身を屈め、腕に閉じ込めようとするように覆い被さってくる。
経緯はともかく漸く二人きりになったというのに、黒田の纏う空気は決して甘いものではなかった。
それでも、恨みごとを言う権利があるのは紫の方だという思いに変わりはない。先手必勝というわけではないが、また黒田に言いくるめられないうちに、先に切り出す。
「……あんたは誰にでも鍵をやるのか?」
「そんなわけがないでしょう? まじめにおつき合いしている人にだけですよ。もちろん、気まぐれに遊ぶ程度の相手に家を教えることもありません」
「そうか」
言葉を返せば、この部屋を知っていたと思しき二人とは、黒田が言うほど浅いつき合いではなかったということだ。しかも、直接教えられないまでも交友関係を辿って押し掛けてくるほどに黒田に執着している相手までいる。

紫の首の辺りへ顔を埋めながら、尚も抱きよせようとする黒田の腕を、肘を上げて押し返す。息が詰まるほどに狭いこの腕の中では、今の紫は安らげそうになかった。
「紫さん?」
「あんたに見限られたくない奴はいっぱいいるってことだよな? 合鍵持ってんのが何人いるのか知らないけど、そんだけモテてたら、わざわざ俺に拘る必要はないだろ?」
出逢ってからもう何度目になるかわからない紫からの決別の言葉に、黒田の腕はいっそう強く抱き止めようとする。こんな見え透いた挑発をまともに取られるほど、紫の信用は失墜してしまっているということらしい。
「相手がどう思っているかまでは責任持てませんよ。ただ、それで私を疑うのはやめてください。今、ここの鍵を持っているのは紫さんだけです。マナと呼ばれていた人がいたでしょう? あの人の特技はピッキングで、シリンダー錠でも数秒で開けてしまうんです。私が合鍵を渡していたわけではありません」
流暢に言い訳を紡ぐ黒田の声は、疾しいところなどひとつもないと言いたげな落ち着き払ったトーンだった。その真偽を確かめてみたくても、きつ過ぎる抱擁のせいで顔を上げることもままならない。
こうやって、言われるままに深く追及することなく流されてしまうから、つけ込まれ、捕われてしまうのだろう。
微かに首筋にかかる吐息にも反応してしまいそうだったのに、耳の後ろへと移ってきた黒田の唇が、紫の鼓動を逸らせる。ほんの少し前に不感症よばわりされたことが嘘のように、甘い衝動が背を走った。


「……弄り回されたと言っていましたが、何をされたんですか?」
その仕草から、睦言かと思っていた自分の甘さに腹が立つ。
「大体わかるだろ、そういうことを聞くなよ」
「隠されると、物凄い想像をしてしまいますが」
それは体も同じだと言わんばかりに、工藤が肩にかけ直した毛布を、遠慮のない手が左右に開かせる。手首を拘束されたままの紫には止めようもなかった。
「あんたには大したことじゃないだろ、俺には耐えらないようなことでも」
「挿れられたんですか?」
「あんたにはデリカシーとか思いやりってもんがないのか」
自分で言っておいて、この男にそんなものを求める方が間違っていると気付く。
それどころか、しげしげと紫の体を眺める黒田から伝わる気配は更に険悪さを増したようだった。もしかしたら、最悪な事態に至ったと勘違いしているのかもしれない。
「挿れられたって言っても、指がちょっとだけだからな? 俺はあんたと違ってナイーヴなんだから、大げさな想像をするなよ?」
慌てて言い繕ってみても、黒田はいっそう怪訝な顔をして、有無を言わせぬ力強さで紫の膝に手をかけた。
「見せてください」
「バカか、もっと俺を気遣えよ、ちょっとだけって言ってるだろ」
「あなたの“ちょっと”は信用できませんので」
開かされた腿へと顔を寄せてくる黒田の後頭部に、指を組んだ両手を振り下ろさずにはいられないくらい頭に血が上っている。
「いい加減にしろよ、あんたがこんなものをかけるから、まともに抵抗できなかったんだろ」
我知らず涙声になる自分が情けなくて、なのに、紫の一撃は黒田にさほどダメージを与えることもできず、更に距離を縮めさせただけだった。
「気持ち良くなりすぎたとか、指で達ってしまったとか、そういう類ですか?」
見当違いの憶測とはいえ、“そういう”想像をされたと思っただけで羞恥は極まりなくなる。
「……逆だよ、不感症って言われた」
「まさか」
日ごろの紫の反応から信じ難いと思われるのも無理はないのかもしれないが、一片の気持ち良さもなかったことは事実だ。
「いっ……つ」
敦也のせいではなく、昨夜の情交のせいで腫れたままの入り口を不意にこじ開けられ、鋭い痛みに息が詰まった。


「それなら、どこを弄り回されたんです?」
紫の中を穿つ指の狭間から吹きかけられる息に、強張った体が震える。感じているのは嫌悪ではなく期待だと、もう熱を帯び始めた体は気付いていた。
「だから……ちょっと触られただけって言ってるだろ? あいつら腹立つし、大げさに言ったんだ」
「本当に?」
喋りかけられるたびに肌を掠める吐息に頭がくらくらする。今日は勘弁してもらいたいと思っていたはずなのに、黒田の唇が直接触れてこないことがもどかしい。
「……確かめてみれば?」
自分でも、白々しい挑発だと思う。
小さく笑われたような気がしたが、言い直す間もなく甘い感覚に襲われ、思考が遮られる。
「あ……っ」
指と入れ替わりに入ってきた濡れた感触は、生々しい音を立てて閉じかけた入り口を開かせ、腫れた粘膜を優しく擦り、ゆっくりと緩ませてゆく。
それが黒田の舌だと気付いて焦り、離させようと手を伸ばしてみても、蕩け出した体は思うように動かなかった。
「う……んっ」
もう一度指が入ってくるころには紫の頭の中は白く霞んでいて、擦られ、かき回されるのを待ちわびることしかできない。
「……他の男はどうでしたか?」
上体を起こして近付く黒田の息が項にかかると、条件反射のように黒田の首の後ろへ腕を回していた。考えるより先に、答えが口をついて出る。
「嫌だ……あんたじゃないとムリ」
「あなたにそんなことを言わせるなんて、私はあの人たちに感謝しないといけないかもしれませんね」
不謹慎な言いように、すっかり懐柔されていた気持ちが萎え、忘れかけていた怒りがこみ上げてくる。
「ふざけんな、何が感謝だ」
「少しは愛されていると実感させていただいただけでも、私には貴重ですよ。もし紫さんが私の体だけが目当てというなら話は別ですが」
「あっ」
不意に紫の中で指が蠢き、強く擦りつけられると、悪態を吐く余裕など無くなってしまう。
「でも、もう二度とあなたに近付かせないよう、きちんと対応しておきますから心配しないでください。あの人たちだけでなく、他の誰にも触らせる気はありません」
首筋を舐める吐息に、体の芯が疼く。あの男たちの評価はやはり間違いだったと、黒田はいともあっさり証明してしまった。


「も……早く、挿れろよ……っ」
黒田の落ち着き払った態度が、いっそう紫を冷静でいられなくさせる。
「こんなに腫れているのに大丈夫ですか?」
余計なお喋りをする前に早く紫を宥めればいいのに、気遣うような言葉とはうらはらに黒田の声はひどく意地悪く響いた。
「イヤだって言っても聞かないくせに、こんなときだけ……も、しないんなら触るな……っ」
身を返そうとしても、覆い被さった黒田の体を押し退けることはできず、割られた膝を裏から掬われる。
「ああっ……」
余裕ぶった口調に反して、指の隙間から分け入ってくるものは硬く張りつめていて、癒えていない体は反射的に自衛を働かせ、力を籠めてしまう。
「っ……く」
「紫さん、それでは入れられません……少し緩めてください」
心なしか苦しげに響く声に、詰めた息を細く吐く。
慎重に腰を進めてくる黒田に、気を抜いた途端に深く穿たれ、堪らず背を仰け反らせた。膝を掴む手に引きよせられ、更に奥を擦られ、意識が飛びそうになる。
黒田が相手なら、こんなにも感じ入ってしまうのに。
「……そんなに悦いんですか?」
抑えた声が上ずって聞こえるのは、紫が思うほどには黒田にも余裕がないせいなのかもしれない。
「悦くなかったら、挿れろとは言わないだろ……っ」
そっけなく返したつもりが、黒田はひどく満足そうに紫を抱きしめた。






「結局、工藤さんは私に喧嘩を売りに来ていたということなんでしょうね」
やや張りのない声が、沈みそうになっていた意識を止める。紫の反応に気を良くしたのだとばかり思っていたが、黒田の表情には覇気がない。
内心面倒くさいと思いつつ、紫はすぐに眠りに落ちることは諦めて、黒田の腕に伏せていた顔を上げた。
「どこをどう取ればそうなるんだよ? あんた、工藤に敵愾心を燃やし過ぎ」
「どこって、紫さんは本当に鈍いですね。まるで保護者みたいな口出しをしたり、これ見よがしに紫さんに触ったり、いちいち人の気を逆撫でるようなことばかりしていたじゃないですか」
そう言われてみれば、工藤は黒田の気に障るような言動を取っていたかもしれず、一概に曲解とはいえないのかもしれない。
だとしても、たまには黒田も悩んだりダメージを喰らったりすればいいのだと思う。
「そういや、俺、ちょっと工藤にときめいたかも」
「えっ……?」
大仰に驚く黒田に、もう少しわかりやすい言葉を付け足す。
「あんたのせいで好みが変わったのかもな」
紫にとっては最大限の愛情表現だったというのに、その真意は黒田には全く伝わらなかったらしい。
「工藤さんも紫さんのことを気にかけているようですし、望みがないということもないでしょうね」
「あんたも疑り深いなあ……ないって言ってるだろ、工藤はゆいちゃん以外の男はムリだから。いや、今ならどんなグラマーな美女に口説かれたって靡くわけがないし」
「一度ボーダーを超えた以上、ないとは言い切れませんよ。そうでなくても、紫さんは美人ですから、充分に有り得ると思いますが」
いつもの、紫を見下したような態度とは違って、憮然とした黒田の表情はまるで拗ねているみたいに見える。
「……あんたって、ハンパなく独占欲が強いよな?」
「そうですよ、今更改めて確認するまでもないでしょう?」
臆面もなく肯定する黒田が、初めて年相応に思えた。
「そんな心配しなくても、俺が工藤を口説こうなんて思うわけがないだろ?俺は工藤が好きなんじゃないんだ。あんたのせいで、工藤みたいなのもいいかもって思っただけなんだからな」
そこまで言ってやって漸く、黒田にも紫の言いたいことが理解できたようだった。


「いい加減、外せよ」
うやむやにされてしまいそうな不安に、紫は未だ繋がれたままの両手を上げて抗議した。
「そのままの方が素直で可愛らしいのに、もったいないですね」
全く懲りた風のない黒田を、あまり効力はないと知りながら睨み付ける。
「本気で訴えるからな?」
「……しょうがないですね」
そういう自分こそがどうしようもないという自覚はないのか、黒田はまるで紫の我儘をきいてやっているとでも言いたげな態度で、手錠の鍵を外した。






紫の身を案じて車で送ると言い張る黒田の“好意”を断り切れず、已む無く実家を教えることになってしまった。
そればかりか、黒田は紫と一緒に車を降りると、家人に挨拶をすると言い出し紫を焦らせた。
玄関先で思案に暮れる紫に、黒田はどうあっても家族公認の仲になるという野望を先送りにする気にはなれないらしく、まずは紫が親に話を通してからにして欲しいという言い分を聞き入れようとはしなかった。いくら妹の碧にはバレているといっても、紫のつき合っている相手がこれまでの好みとは真逆のタイプだと、他の家族には一切話していないというのに。
それでも、紫に輪をかけて可愛い子好きな母親は、彼氏だと名乗る男が紫より一回り以上大きく厳つい面差しだということにそう驚いた様子は見せなかった。(後で知ったことだが、碧から聞いて知っていたらしかった。)ただ、友好的な態度を装いながらも、愛想笑いは少々引き攣っていたような気がする。
そんな事情もあって、紫が黒田に取り上げられていた携帯電話の電源を入れたのは、自分の部屋で一人になってからだった。
夥しい数のメールや着信の殆どは雛瀬からで、ある意味、黒田より厄介かもしれないことに気付く。
もちろん、短いメール一通で連絡を途絶えさせた紫を心配してのものだとわかってはいるが、もはやストーカーに近いものがあるように思えてしまう。
できることなら今夜くらいはゆっくりしたかったが、メールをチェックしている途中で雛瀬から着信があった。
半ば押し切られるように会う約束をさせられ、さすがに出向く元気のない紫の部屋に雛瀬が訪れたのは、電話を切って僅か15分後のことだった。



「ゆうちゃん、またあいつの所に行ってたの?」
先の電話で濁した問いを、雛瀬はまた尋ねてきた。
黒田の執着ぶりと、何より自分の感情を優先するなら、雛瀬に断るしかないと頭ではわかっていても、上手い言葉が見つけられない。
「ヒナ……俺、ね」
ベッドに腰かけていても、気を抜けば後ろへ倒れ込んでしまいそうなほどの疲労と睡魔に抗いながら、隣の雛瀬に顔を向けた。
思わず後退らずにはいられないほど雛瀬の顔はすぐ傍にあり、紫の行動がわかっていたみたいに簡単に背を抱き止められる。
「俺の前でもそんなダルそうにしてしまうくらい、あいつにヤらせてきたの?」
「ヒナ」
らしからぬ言い方をする雛瀬の表情は、怒りというより今にも泣きだしそうで、続けるはずだった言葉を口にするのを躊躇わせる。
「別れないからね? やっと俺のものになったのに、放すわけないでしょ」
先回りして答える雛瀬の強い口調に、紫も覚悟を決めた。
「ごめん、ヒナ。俺、あいつがいいんだ」
「何で? ふられたんじゃなかったの?ゆうちゃんのこと、タイプじゃないって言ったんでしょ?」
それこそが許せないと言いたげに、雛瀬は真っ直ぐに紫を見つめてくる。
今更ながら、本当に自分は雛瀬に愛されているようだと気付いて途方に暮れた。


「や、そうじゃなくて……何て言うか、俺、勘違いしてたみたいで……ふられてないし、タイプじゃないってことでもないみたいなんだ」
雛瀬と違って黒田の愛情表現はわかり難くて、監禁したくなるほど愛されているとか、可愛いというのは黒田の好みに適っているという意味だとか、実感するまでに随分遠回りをしてしまった。
「どう言いくるめられたのか知らないけど、あの人、すごく遊んでるんでしょ?ゆうちゃん、騙されてるんだよ。目、覚まして?」
ぐい、と紫の背を支える雛瀬の腕に力が籠められる。
抱きしめられまいと、咄嗟に雛瀬の胸についた手を掴まれ、振りほどくことができない自分の非力さが歯痒い。
「ゆうちゃん、これ、どうしたの?」
紫が顔を顰めたからか、雛瀬は注意深く紫の手元を観察したようで、そう酷くはない擦過傷を見咎めてしまう。
「何でもないよ、ちょっと擦りむいただけで……」
「あの人に縛られたの? ゆうちゃん、そういうプレイが好きなの?」
不快げな顔を向けられると、紫の性癖を誤解して嫌悪されたのかと思って焦った。三十路まで実体験がないほど晩熟だった紫に、そんな高度な趣味があるわけがないのに。
「違うから。俺が勝手に勘違いしてヒナと浮気したから、ペナルティっていうか……」
「浮気じゃないでしょ、俺、つき合ってって言ったよね? ゆうちゃん、ダメだって言わなかったよね?」
その申し込みをされた時から今に至るまで、明確な返事はしないままだったが、肯定と受け止められるような態度を取ったのは間違いなく、強引な雛瀬に流されてもいいと思ったのも事実だった。
黒田を思い切るためにもそうした方がいいのかもしれないと雛瀬に甘えようとしていたのに、やっぱり元の鞘に収まりたいと言うのは都合が良すぎるのだろう。
「ごめん」
言い訳のしようもなく、けれども雛瀬を選ぶとは言えず、ただ謝ることしかできない。
雛瀬は答えず、紫の肩に凭れかかるように額を乗せ、背中に緩く腕を回してきた。下手に刺激しないよう、されるがままに身を任せて雛瀬の苛立ちが治まるのを待つ。
ややあって、紫の首筋に吐息がかかり、雛瀬はほんの少し頭を上げた。
「ねえ、ゆうちゃん? あの人もここに来たことある?」
ここ、というのが紫の部屋という意味なら、まだない。黒田は今日は母親に挨拶をしただけで、家には上がらずに帰って行った。
「玄関まで送ってもらったことはあるけど、部屋に来たことはないよ」
無難な返事をしたつもりが、紫を見据える雛瀬の瞳に穏やかではない色が浮かぶ。
「じゃ、ここでエッチすんの、俺が先ってことだよね?」
「え」
その言葉を理解する前に、紫の視界が流れ、気付けば雛瀬の体の下に敷き込まれていた。

「ヒナ?」
睨み上げたつもりが、雛瀬は怯む風もなく、紫の肩に置いた手に力を籠めた。
「疲れてるみたいだけど、もうちょっと頑張ってね?」
「ダメだよ、俺、あいつとつき合ってるんだ。ヒナとはつき合えないし、もう、こういうことはできないよ」
きっぱりと言い切った甲斐はあったようで、雛瀬は拗ねた子供のような顔を見せる。
「ズルイよ、ゆうちゃん。一度は俺でもいいと思ったんでしょ?」
雛瀬でもいいというよりは、誰でもいいと思うくらい落ち込んでいて、黒田と別れた気でいた紫には、雛瀬を拒む理由がなかったというのが実際のところだった。
紫の肩へと顔を伏せる雛瀬の頭に、そっと手のひらを乗せる。つき合っていたころに戻ったみたいに髪を撫で、優しく諭す。
「ごめん。やっぱり、俺、あいつの他はイヤなんだ。前に仕事関係で誘われたときも、どうしても最後まではできなかったし……他の人とはつき合えないと思う」
それは真実だったが、ひとつの例外を失念してしまっていた。
顔を上げた雛瀬は先のしおらしさが嘘のように、強気に見つめてくる。
「でも、俺とは大丈夫だったよね?」
「それは……あの時はすごくヘコんでて、自棄になってたっていうか……あ、もちろん、ヒナは特別なんだと思うよ?でも、俺はあいつじゃないとムリなんだ」
「ゆうちゃん、3回もイったのに?」
小声ながらはっきりと、雛瀬は容赦ない突っ込みで紫にダメージを喰らわせた。甘んじて受け止めて、少しでも雛瀬を浮上させようと試みる。
「だから、ヒナは他の奴とは違うんだって。だけど、あいつは別格なの。もう、理屈じゃなくて、体があいつに馴染んじゃってて、あいつに触れられるとわけがわからなくなっちゃうっていうか、感じ入っちゃってどうしようもなくなるんだよ」
恥をかなぐり捨てて正直なところを告げたつもりが、雛瀬には上手く伝わらなかったようだった。
「俺がヘタだったってこと?」
「そうじゃないよ、ヒナは俺がどうだったか知ってるのに……も、ほんと恥ずかしいから言わせないでくれないかな」
「じゃ、俺があの人みたいに育つまで待ってよ」
いくら雛瀬が努力しようと、そんな日は永遠に来ないと言い切れる。元々の体格も違えば、キレ可愛い顔立ちが厳つくなるはずもなく、雛瀬が黒田のようになるのは不可能だ。
なにより、紫は黒田の外見に惹かれて別れられないわけではないのだから。(かといって、内面に惹かれているとも認め難いのだったが。)
「忘れてるみたいだけど、先に俺をふったのはヒナだよ?」
「ふったんじゃないよ。あのままつき合ってても進展がないと思ったから、一旦時間を置いて対策を練ろうと思っただけで……修行のためでも、他の人と関わるのは浮気になるでしょう?」
想像だにしなかった深い理由があったと知って、今更ながら救われたような気がする。雛瀬に突然別れを告げられた時には本当にショックで、もう自分の恋愛観を変えるしかないのかもしれないと真剣に悩んだ。
決して、その仕返しをしているわけではないのだったが、雛瀬にはそういう風に思われているのかもしれなかった。






「ゆうちゃん、彼氏来たわよー」
階下から紫を呼ぶ母親の声に、一瞬固まってしまった。
雛瀬のことは“ヒナちゃん”と呼ぶ母親のことだから、彼氏といえば黒田のことに違いなく、日曜の夜の寛いだ気分は一気に吹き飛び、言いようのない緊張感で体が強張ってゆく。
それでも、待たせれば相手の機嫌に関わると思い、勢いよく自室のドアを開けたところで黒田と鉢合わせた。
危うくぶつけそうになったドアを寸でのところで避けた黒田は、紫の慌てぶりを笑っている。
「ごめん、来ると思ってなかったからびっくりして……メールでも入れといてくれればよかったのに」
黒田を先に中に通して、きっちりとドアを閉める。聞き耳を立てるような品の悪い家族はいないと思いつつ、疾しい気持ちには勝てなかった。
「もし紫さんに会えなかったら、家族の方と親睦を深めておこうと思っていましたので」
寧ろ、そのつもりで来たと言っているように聞こえるのは考え過ぎだろうか。
とりあえず、ベッドからウサギの刺繍の入った淡いピンクのクッションを取って、一枚を黒田に渡す。さすがに、この男にベッドに座るようには言いたくなかった。
念のため、ベッドからなるべく離れた壁際に、先に腰を下ろす。少し遅れて、黒田も肩が触れ合いそうなほど近くに並んだ。
「覚悟はしていたつもりですが、想像以上ですね」
やや間を置いた後の黒田の感想に、部屋が散らかったままだということに気付いた。
テレビの前で雪崩を起こしたDVD、テーブルの上に無造作に並べたネクタイ、その脇には吸殻の溢れそうな灰皿と転がしたビールの缶。
いくら突然の訪問とはいえ、人を迎え入れるには些か無頓着すぎたかもしれない。実家住まいの気やすさで、放っておいても母親が片付けてくれるという甘えもあって、つい気を抜いてしまいがちになっている。
そのうえ、紫は今日は疲れ切っていてどこにも出掛ける気にはなれず、一日中ゴロゴロして過ごしていたから、いつも以上に荒れているというのは言い訳ではなかった。
「悪かったな、散らかってて」
「いえ、このくらいは普通でしょう?それより、女性の部屋かと見紛うようで、少し驚きました」
「ああ、うち、母親が少女趣味っていうか、可愛いのが好きで、油断すると俺の部屋まで花柄にされそうになるんだよな。まあ、居させてもらってるわけだし、よっぽどでなけりゃ我慢してるよ」
「そうですか」
黒田が複雑な面持ちをする理由はわからないまま、話を元に戻す。
「で、わざわざうちに来たのは何かあんの? 本当に親に顔売りに来ただけ?」
「いえ、紫さん一人では、うちに来られないだろうと思いましたので」
「何で……?」
すぐには黒田の言いたいことがわからず、まじまじと見つめ合ってから、何を心配しているのかを理解した。
「一応、脅したり宥めたり対策は講じてあるんですが、紫さんのことですから、きっと警戒して来ないつもりではないかと」
黒田に言われるまでそんなことはすっかり忘れてしまっていて、雛瀬と今後どうつき合ってゆくかとか、家族に黒田のことでからかわれるのをどうしたものかとか、そんなことで頭はいっぱいになっていたのだった。


「あんま考えてなかったけど……やっぱ、ちょっと抵抗あるかも」
想像してみれば、確かにあの部屋で一人で黒田の帰りを待つのは、もう無理かもしれない。
「引っ越すことも考えているんですが、すぐには難しいですし、暫く通いますよ」
「ウソ……」
事も無げに言うが、紫の実家には黒田の苦手とするところの女性が二人もいて、そのうちの一人、妹の碧は黒田に対して好戦的で取りつく島もないだろうし、逆に母親は友好的過ぎて鬱陶しいのではないかと思う。
「選択の余地はありませんし、この機会に認めていただけるよう精々努力しますよ。紫さんと会えなくなるくらいなら、“好青年”を演じるくらい苦にはなりませんので。それより、今は雛瀬さんの方がよほど脅威です。意外とああいう人がストーカーになったりするものですから、紫さんも気を付けていてください」
自分の所業は棚に上げて雛瀬を非難する黒田に、素直に頷く気にはなれない。しかも、それが当たっているだけに否定することもできず、曖昧に流すしかなかった。
「そうかもな」
「もしかして、もう会ったんですか?」
「まあ」
嘘を吐いたところでバレる可能性が高く、素直に認めておいた方が得策だという打算が働く。いくら紫の実家だといっても、この男の気に入らなければ何が起こっても不思議ではなかった。
「日曜ですし、誘いがかかるだろうとは思っていましたが……本当に懲りない人ですね」
案の定、黒田の纏うオーラが険しいものに変わっていく。
「会ったのは昨夜だよ、あんたが帰ったあと。その前の日にあんたに拉致られて連絡つかなくなったから、凄く心配してくれてて……」
紫が言い終えるのを待たずに、ことを起こそうとする黒田を思い止まらせなければと、慌てて言葉を継いだ。
「ちゃんと断ったから。俺はあんたがいいから、ヒナとはつき合えないって」
きっぱりと言い切った紫に、黒田は拍子抜けしたような顔をする。
安心したのかと思いきや、その表情はだんだん厳しいものになっていった。
「……それで納得するとは思えませんが」
「納得するもしないも、決めるのは俺だろ? ヒナが何て言っても、俺の“彼氏”はあんたなんだからな」
これまで紫は何とか黒田から逃がれようと足掻いてきたが、これほど執念深く追い続けられては、観念するほかないと腹を括った。いつか来るとも限らない別れを憂いて距離を保つより、その時を少しでも先延ばしにする努力をする方がよほど有意義だろう。
「紫さん」
呼びかけられたのと同時に覆い被さるように抱きしめられ、その腕の強さに一瞬、息が止まる。
「も……ちょっとはウェイトの違いとか気にしろよな? 俺を絞め殺す気か」
大げさに声を荒げてみても、黒田は気にも留めず、尚も紫の背を抱きよせようとする。
「緩めませんし、離す気もありませんから、諦めてください。私も、養子でも何でも、紫さんや家族の方の望むようにしますから」
低く、抑えた声音が真摯に響いて、それが余計に恐ろしい。
「や、俺、そんなの望んでないし」
遠慮でもテレでもなく、そんなことは考えたこともなかった。ただ、先の見えたつき合いなら、さっさと見切りを付けてしまいたいと思っていただけで。
「ほかに、紫さんを私のものにする方法がありますか?」
ふと覗く弱気が、紫を束縛したがる所以なのかもしれない。もうとっくに黒田のものになっていると、知らないはずがないのに。
「逃げられたくないなら、もっと俺を大事にすれば?」
「ええ、もう紫さんから“お願い”されるまで、ムリに挿れたりしません」
「ばっ……そういうことを言ってるんじゃない」
思わず黒田を振り解こうと暴れた紫の体が、一層きつく抱きしめられる。
「わかってますよ、ちゃんと大事にします」
真面目な声で囁かれれば、つられて頷いてしまいそうになる。
「……じゃ、食事当番はあんたでいいよな?」
「しょうがないですね」
思いのほか簡単に交渉は纏まり、紫の杞憂のひとつは解消されたようだった。



- ドメスティック.Z - Fin

【 Y 】     Novel



2010.5.10.update.
もっとドロドロな展開を考えていたのですが、ひとまず終わらせることにしました。
これからも雛瀬はしつこく紫につき纏うでしょうし、碧は強硬に反対するでしょうが、
きっと、黒は尽くし攻めになって、紫の母親とも上手くつき合ってゆくと思います。
なので、一旦『ドメ』は打ち止めとします。