- First -



「里桜(りお)!」
切羽詰ったような声と、バランスを崩して落下しかけた体を誰かに抱き止められたのはほぼ同時だった。
不意に背中に回された腕に驚く那緒(なお)の頭上から、ひどく心配げな声が降ってくる。
「大丈夫? どこも痛めなかった?」
相手を確かめようとしても、那緒を抱きしめる腕は強く、振り仰ぐことができなかった。雨に濡れた階段を踏み外した那緒よりよほど動揺しているのかもしれない。
「大丈夫です、どうもありがとうございました」
那緒が礼を言っても、その男は痛いくらいに抱きしめている腕を解く気配がなかった。
「あの、もう大丈夫ですから……」
助けてもらった手前、無下に振りほどくわけにもいかず、無事をアピールしてみると、漸く腕の力が緩んだ。
「すまない、知り合いに似ていたものだから驚いてしまって……君は一年生?」
「はい」
体が離され、相手を確認しておこうと顔を上げる。襟章は二年になっていた。
ずいぶん背が高いなと思いながら見上げた目が、どこか苦しげな眼差しと合った瞬間、鼓動が一気に跳ね上がった。
こんなに整った顔を、未だかつて見たことがない。那緒が15年間生きてきた中で目にした、一番綺麗な顔だと思った。
「じゃ、気をつけて」
「はい。ありがとうございました」
後ろ姿を見送りながら、那緒は自分の動悸が異常なほどに高鳴っているのを感じていた。



「も一回言ってみ?」
那緒がパックのコーヒーを買って戻ってきて最初に言った言葉を聞き間違いだと思いたがっている友人に、さっき言ったのと同じ言葉をくり返す。
「俺、二年のすげ男前の人に一目惚れしたかも」
「……男前っていうのは女にも使うよな?」
「うん。でも、今俺が言ってる男前は男の人」
「いきなり何かあったのか? コーヒー買いに行く前は普通だったよな?」
「その自販機に行く途中の階段で滑って落ちそうになったところを、絶世の男前に助けられたんだ」
これが運命の出逢いでなければ何なんだと言いたくなるくらい、那緒のテンションは上がりまくっていた。
それを机の反対側から覗きこむ瞳が真剣になる。
「那緒、おまえは男にしとくのはもったいないくらい可愛いけどな、おまえ、自分が男だって知ってるか?」
「知らないわけないだろ? 15年も男として生きてきてんだから」
「おまえとは保育所からのつき合いだけど、そういう性癖だとは知らなかったぞ?」
まだ、何かの間違いであってほしいという希望を崩さない友人に言い切る。
「それは、駿(しゅん)にわざわざ言う必要がなかったからだよ? そんなの言われたら普通ひくだろ?」
「じゃ、何で今になってそんな重大な告白してんだよ? 昼休みのまったりした気分をブチ壊しやがって」
「だって、おまえ二年に兄貴いるし、噂とかも詳しいだろ? あれだけ男前ならきっと有名人だろうし、もしかして聞いたことあるかもと思って」
「その男前に彼女がいないと思うか?」
尤も過ぎる意見だと思う。でも、だからこそ相手のことを知りたいという思いが強くなるのかもしれない。少しでも予備知識を入れて、傾向と対策を練るために。
「いても別れるかもしれないし、情報はあるにこしたことないだろ?」
「もし、いなかったらどうするつもりだ?」
「まずはお近付きになって、タイミングを見計らって告白する、かな?」
いかんせん経験値が低すぎて、あまり具体的な対策は思いつかないが。
「簡単に言うけど、相手が女だってどんだけ勇気がいることかわかってるのか?」
さすがに、つい最近告白を経験したばかりの奴の発言には重みがある。
「その人、聞き間違いかもしれないけど、俺のこと“りお”って呼んだんだ。すごい心配そうにギュッと抱きしめてくれたし、絶対にムリって感じはしないんだよな」
「おまえのこと知ってるのか? 名前をちょっと間違えてるみたいだけどな?」
「ううん。知り合いと似てるって言ってたから、その人と間違ったんじゃないかな?」
「“りお”って言ったら女の名前だろう? おまえ、女と間違われたんじゃないのか?」
「制服着てたのにそれはないだろ? “りお”っていうのは愛称かもしれないよ? 名前だけなら俺だって女の子と間違われることあるし」
「そういや、そうだな」
「すごい大事そうに抱きしめてくれたんだ。俺、あんな風にされたことないからビックリした」
思い出しただけで、また胸がドキドキしてくる。
「そんな男前が女に困ってるわけないし、おまえを相手にするわけないだろう? 変な勘違いすんなよ」
「もう遅いの。運命感じちゃったもん」
「勘弁してくれよ」
困り果てた顔をした友人に反論する。
「駿を口説いてるわけじゃないだろ」
「ほんと、那緒は言い出したらきかないな。わかったよ、兄貴に聞くくらいはしてやるよ。男前以外の特徴は?」
「えっと、背が高くて見た目スレンダーで、でも腹筋とか胸板とか結構硬かったかも? あと、髪とか目とか色素が薄い感じで茶色っぽくて……」
一瞬しか見ていないのに、その容姿は目に焼きついている。
「那緒、先に言っとくけど、相手がわかっても変な期待はするなよ?」
純粋に心配してくれているのだとわかっていても、素直に言うことをきく気にはなれなかった。
「大丈夫、タイミング見て口説くから」
駿のため息にも、那緒の気持ちが揺らぐことはなかった。




『那緒、昼休みに言ってた男前はやめとけ』
夜になって、待ちかねていた駿からの電話に出るや否や、厳しい声が切り出した。
「なんだよ、いきなり。彼女がいるってこと?」
『いや、そいつ、すげ有名な奴だったんだ。二年の高橋慎哉(たかはし しんや)っていって、元々すごい遊び人だったらしいぜ。うちの学校はもちろん、大学生や人妻ともつき合ってたみたいだな』
「まあ、あれだけ男前なら周りもほっとかないんじゃない? 俺、過去は気にしないタイプだから全然オッケー」
『そういうと思ったよ。でもな、最後につき合ってたのは男らしいぜ。去年の夏くらいに別れたらしいけど、高橋と同級の鈴木里桜(りおう)っていうすっげ可愛らしい人だ。写真で見ると、ちょっとおまえと感じが似てるし、その人と間違われたんだろうな。高橋の方が振られたらしくて、今でもずっとその人のことが忘れられないって話だぜ』
「今でも忘れられないってことは、つき合ってる人はいないってことかな?」
『そうみたいだけどな、那緒?』
「似てるってことは、俺も好きなタイプなのかな?」
『バカか、おまえは。もしつき合ってくれたとしたら身代わりってことだぞ?』
「そうなのかな? でも、きっかけはそれでもいいと思うけど」
『ともかく、俺は反対だからな』
「俺は駿の時に協力したのになあ」
中学卒業前に、駿が今の彼女とつき合うきっかけを作ったのは那緒だ。恩に着せようとは思わないが、せめて賛成してくれてもいいと思う。
『俺だって、普通にかわいい女の子が相手なら協力でもなんでもしてやるよ。でも、相手が悪過ぎるだろ』
「いいよ、協力してもらおうとは思ってないし。名前がわかっただけでも助かった。サンキュ」
『那緒!』
駿が怒っているのはわかっていたが、敢えて言い切った。
「俺、自分が納得するまでは諦めないから。頑固なの、知ってるだろ?」
携帯の向こうで駿のため息が聞こえたが気にしない。今はどうやって慎哉に自分をアピールするかを考える方が大事だった。
駿と電話を終えたあと、あれこれシチュエーションを想像したり、口説き文句を考えたりしてみたが、いかんせん那緒には経験が少な過ぎた。そうでなくても、相手は経験豊富らしいのに。ここは、下手に小細工を弄するよりも素直に告白した方がいいのかもしれない。
思い立ったらすぐ行動に起こさないと気がすまない性質の那緒にとって、気を昂ぶらせたまま過ごす夜は長く感じた。






「あの、昨日は助けていただいてありがとうございました」
朝から校門脇で待っているという、かなり古風なスタイルで慎哉に話しかけたのは、下手に小技を仕掛けるより真面目に口説いた方がいいという結論に至ったからだ。それに、クラスまで行って呼び出したらギャラリーがいるぶん不利な気がした。
「思わず手が出ただけだから気にしないでいいよ」
驚くほど素っ気なく行き過ぎようとする背中を、慌てて追いかける。
怖いほどの美貌に緊張はマックスだったが、なんとかきっかけを作りたかった。
「あの、先輩、今誰かつき合っている人がいるんですか?」
緊張のあまり、シミュレーションしていた差障りのない話題を全てすっ飛ばし、いきなり本題に入ってしまっていた。
「……それは答えないといけないのかな?」
「すみません、俺、あれから先輩のことが気になってしまって。もし決まった人がいないのなら、俺とつき合っていただけませんか」
きっと、清水の舞台から飛び降りるというのはこんな時に使うのだろうと思うほどの緊張だ。頭で考えるより先に、重大な言葉が先走る。
なのに、そういう心理を露ほども気にかける気がないのか、慎哉はただ冷たい目を那緒に向けているだけだった。なまじ綺麗な顔をしているだけに、いっそ怖く感じるほどに。
「俺が前につき合っていた相手が男の子だったって知ってるから言ってるんだろうけど、その子以外の男を恋愛の対象には見れないと思うよ」
「それなら、俺じゃムリだって納得するまでつき合っていただけませんか?」
食い下がる那緒に、慎哉は困惑顔で沈黙した。
しつこい奴は嫌いなのだろうか。それまでの恋愛では、ずいぶん軽い付き合いをしていたようだから。
「……名前、聞いてないね」
「あ、すみません。阿波野那緒(あわの なお)です」
「今は時間がないし、放課後にでも話そうか?」
「はい」
「じゃ、4時くらいでいいかな? 教室に行くよ。何組?」
「6組です」
どうやら、第一関門はクリアしたようだった。慎哉が決して友好的ではなかったことなど気にならないくらい、幸せな気分で自分の教室に急いだ。

教室の中央辺りに駿の姿を見つけると、思わず声高に報告を始めてしまう。
「駿! コクったよ〜」
「えっ」
メール操作中だったらしい携帯を危うく取り落としそうになるくらい、駿は驚いたようだった。
「いつの間に……」
「さっき」
「せっかちだな。まずはお近付きになって、とか言ってなかったか?」
「そう思ってたんだけど、なんか、顔見たら頭が真っ白になっちゃって、全部すっ飛ばして本題に入っちゃったよ」
テンションを上げて話す那緒に、駿が盛大なため息を吐く。
「まさか、O.K.もらったとか言うんじゃないだろうな?」
「ううん。時間なかったし、とりあえず放課後に会うことになった」
「あんまり舞い上がるなよ? 断られる可能性の方が高いんだからな」
最悪の事態を考えることもできずに浮かれる那緒に、駿は厳しい顔で釘を刺した。
「うん。話聞いてもらえるだけでもラッキーだって思ってるよ」
「わかってるんならいいけど、おまえの手に負えるような相手じゃないぞ?」
「うん」
慎哉の噂を鵜呑みにするなら確かにそうかもしれない。でも、それを実感するまでは諦める気にはならないだろうということもわかっていた。




「那緒」
いきなり、名前で呼ばれたことに驚いた。
「先輩」
慌てて立ち上がり、急いで戸口へ駆けよった。目が合うと想像以上に緊張してしまう。近くで見ても、慎哉の顔は文句のつけどころがないくらい整い過ぎていた。
「すみません、わざわざ教室まで来ていただいて」
「今朝の話だけど、納得するまででいいならつき合うよ」
まるで義務のような言い方だったが、良い返事をもらったことに違いはない。素直に感謝の言葉を唇に乗せた。
「ありがとうございます」
「じゃ、帰ろうか」
「あの、メールとか、聞いてもいいですか?」
「いいよ」
差し出された携帯の画面の文字を、震えそうな指で写す。確認と、那緒のアドレスを知ってもらうために、今登録したアドレスに番号を添えてメールを送ってみる。
「送ってみました」
ほどなく、慎哉の手の中で、銀色の携帯が震え出した。
「来たね」
器用そうな長い指がキーを操作する。慎哉の携帯に、那緒の名前や情報が登録されるだけでも嬉しいと思った。
「帰ろうか」
「はい」
慎哉の横に並ぶと、肩の辺りに目線が行く。身長差は15センチくらいだろうか。横顔を見つめただけで息が詰まってしまいそうだった。
「背が高いですよね。何センチくらいあるんですか?」
「176だったかな。高いってほどでもないよ」
「俺から見たら充分高いですけど……俺は小さいから羨ましいです」
「これから伸びるかもしれないよ」
「そう言われ続けて15年なんですけど、一向に伸びる気配がなくて。野球を8年くらいしてたんですけど、野球じゃ伸びないのかな?」
「どうかな? 遺伝的な要素が一番強いような気がするけど」
「じゃ、先輩のお父さんやお母さんも背が高いんですか?」
「わりとね」
たわいない話をしているうちに、帰る方向が違う場所へ来てしまったようだった。
「俺はこっちだから」
あっさりと、このまま別れてしまうような言い方をする慎哉を何とか引き止めたくて、思い切って尋ねてみる。
「あの、先輩、急いでます?」
「そんなことはないよ」
「もうちょっと話してたいんですけどダメですか?」
「いいよ」
那緒から誘った以上、この後の展開も自分で決めなくてはいけないと思い、安易な選択をした。
「うち近いんですけど?」
「いいよ」
どうも、慎哉には自分の意思というものがあまり感じられないような気がする。もしかしたら、何を頼んでもきいてくれるのではないかと思えてしまうほど。


ほんの5分ほどで、那緒の家に着いた。
ポストから郵便物を抜いて玄関に向かい、鍵を開けて慎哉を振り向く。目が合うとまた緊張してしまい、つい俯きがちになってしまう。
「うちの家族みんな忙しくて、遅くまで誰も帰ってこないんです」
「そう」
「だからゆっくりしていってください。あ、先輩に時間があればですけど」
「別に誰がいても気にしないよ。家族に会うと困るようなことはないしね」
ふいに慎哉が冷たい目を向ける。そのせいか、なんとなく会話が噛み合っていないような気がした。
「どうぞ」
とりあえず、スリッパを揃えて出す。
「お客さんみたいだな」
まさにお客さまそのものだと思っているが、よく考えてみればつき合ってくれることになったのだから、お客さま扱いは変なのかもしれない。それに、あまり堅苦しいのは嫌がられそうな気がした。
「先輩、コーラと午後ティ、どっちがいいです?」
「どっちでもいいよ」
まだほんの表面的なことしか知り得ないが、慎哉は何にも拘りのない人のようだ。
「じゃ、コーラにします」
とりあえず無難そうな方を選び、ペットボトルとグラスを手に二階に上がる。
本当は、部屋へ通すのには少し抵抗があった。まさか、こんな急に家に呼ぶことになるとは思っていなかったから、特に片付けなどしていなかったからだ。
「すみません、散らかってますけど」
「そんなことないよ」
それが社交辞令だというのは慎哉の顔を見ればわかってしまった。
とりあえず机にコーラとグラスを置き、慎哉を振り向く。ラグを敷いていない那緒の部屋では、座る場所は二択しかなかった。いわゆる学習机の椅子か、ベッドかだ。
「あの、こっちのイスかベッドに座るかになるんですけど」
「床でいいよ」
「じゃ、何か敷きます」
予定外の三択目に慌てた。クッション代わりにキルトケットを取ろうとする那緒を、苦笑まじりの声が止める。
「そんなに気を遣わないでいいから」
「すみません」
それきり落ちた沈黙が何とも居心地が悪くて、何とか会話のきっかけを探す。
「あの、いろいろ質問してもいいですか?」
まだ慎哉のことは全くといってもいいほど知らず、何でもいいから知りたいと思っていた。
「いいよ」
「じゃ、誕生日から聞いていいですか?」
「5月7日」
「血液型は?」
「AB型」
携帯に登録していく那緒の手元に慎哉の手が伸びてきた。指が触れそうになると、あまりの緊張に眩暈がした。今日だけでどれほど気を張ったか知れない。心臓も、いつもの倍ほども早く打っているような気がする。
「代わろうか?」
「すみません」
いちいち聞かれる方が面倒なのかもしれないと思い、携帯電話を慎哉に渡した。
あっという間に、自宅の住所や電話番号などを打ち込んでいく手元を覗き込みながら、慎哉の家の住所を頭に描いてみる。
「先輩の家はうちと反対方向なんですよね」
「学校がちょうど真ん中にある感じかな」
距離自体はそう遠くないが、学校を出て3分と歩かないうちに別れなければいけないことはついさっき判明していた。
「そういえば、先輩は部活はしていないんですか?」
もしかしたら、今日は時間を取ってくれたのかと思ったが、そうではなかったらしかった。
「あまり活動してない部だからね、帰宅部みたいなものかな」
「俺と一緒ですね。何部なんですか?」
「地学だよ」
派手な印象のある慎哉には似合わない気がしたが、そう言うわけにもいかず、地学のイメージを頭に思い浮かべてみる。
「地学部って、星を見に行ったりするんですよね?」
「たまにね」
今度俺も連れて行ってくれませんか、と言おうとした時、那緒の携帯電話が差し出された。
「ここにある項目は全部入れたよ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて、おそるおそるその先まで尋ねてみる。
「あの、もっと聞いてもいいですか?」
「いいよ」
好きなアーティストに映画にゲーム、メールや電話をしてもいい時間、休日の過ごし方。とにかく聞きたいことはたくさんあり過ぎて、矢継早に尋ねた。
慎哉は嫌な顔はしないで、短い言葉でみんな答えてくれた。一番知りたかった過去の恋愛の話にだけは触れることができなかったが。
ただ、慎哉が那緒のことを何も聞かなかったことには、ずいぶん後になるまで気付かなかった。






「ホントに、つき合ってくれることになったのか?」
駿の声は驚いているというより呆れているようだった。
本当は昨夜のうちに電話で知らせるつもりでいたのだったが、慎哉とのことを反対している駿を少し心配させようと思い直し、敢えて連絡しなかったのだった。
その代わり、こうして朝学校で会ってすぐに報告を始めている。どうやら、駿は連絡がなかったからダメだったと思っていたようだった。
「昨日、うちに来てくれたんだよ」
「何もなかっただろうな?」
駿が怖い顔をする意味がわからず、首を傾げる。
「何もって何が? 先輩のことをいろいろ聞いただけだよ?」
「あいつ、手が早いらしいからな」
見当違いな心配に、思わず吹き出してしまった。知り合ったばかりというのもあるのだろうが、慎哉といても甘い雰囲気にはなりそうにないのだから。
「これから、何かあったら駿に報告しろってこと?」
「これからってことは無事だったんだな?」
しつこく確認しようとする駿は、いつの間にか父親にでもなったつもりらしい。また、意地悪を言ってみたくなる。
「でも、先輩のクラブもあまり活動してないみたいだし、これから毎日俺の部屋に来るかもよ?」
「那緒、早まんなよな?」
「駿は? 菜々美とどうなの?」
別に興味はなかったが、お返しに聞いてみただけなのに、駿は那緒の頭を手加減なく叩いた。
「おまえとそういう生々しい話はしたくない。ずっとお子ちゃまでいろよ?」
「何で、俺とはダメなんだよ? 俺、そこまで子供じゃないと思うけど?」
「那緒にはそういうの似合わないだろ? 女ともできんのかなあって思ってたくらいなのに、まさか男とつき合うなんて予想外だよ。俺の思い出を壊さないでくれよな?」
「思い出って何だよ?」
「俺、保育所入って最初におまえを見た時、女の子だと思ってたんだ。プールが始まるまでずっと気がつかなかったんだからな」
駿が過去に思いを馳せるように遠い目をする。本気で殴りたくなったが、グッと堪えておいた。
「それとこれとどういう関係があんだよ?」
「俺の初恋、おまえだぜ?」
返す言葉を失った那緒に、駿は慌てて言葉を続けた。
「おまえが男だって知る前の話だからな? ともかく、これ以上俺のおまえに対する思い込みを覆さないでくれ」
「めちゃくちゃな言い分だよ」
「ともかく、相手は相当遊んでるんだから気を抜くなよな」
駿のわけのわからない言い分は無視することにした。
そんな心配をしなくても、慎哉はがっついてくるタイプではなさそうだったし、駿には話していなかったが、“那緒が納得するまで”という条件つきの付き合いなのだから。
マイナス思考ではなく、慎哉が那緒に興味を持ってくれるまでには果てしなく時間がかかりそうな気がした。






何気なく見ていた窓の外に、慎哉の姿を見つけた。
グラウンドでソフトボールをしている二年生の中で、一際目立つ姿に目が釘付けになってしまった。遠目に見てもかっこいいと思うのは決して惚れたひいき目ではないと思う。
いつの間にか全神経が慎哉に向いてしまい、授業中だということも忘れて身を乗り出してしまった。
「外に何かあるのか?」
「今、ヒット打った……」
何気なく答えかけてハッとする。声の主は数学の教師だった。
「すみません」
素直に謝る那緒に、真面目な顔で問いかける。
「美人がいたか? 俺には男子に見えるが」
「すみません」
「試合が気になるか知らんが授業の方に集中するように」
「はい」
少し離れた席で、駿がこちらを睨んでいた。今の那緒には、教師より駿の方が怖いかもしれない。

授業が終わるのを待ちかねたように、駿が那緒の席の方にやって来た。
「先輩を見てたのか?」
「うん、ちょうど先輩の打席になったから思わず目が行っちゃって」
「あんまり入れ込むなよ」
「うん?」
心配げな駿に、疑問形で答える。
「つき合うことになったっていっても、相手は遊びかもしれないんだしな」
「ヤなこと言うなあ」
駿があまりに心配するから言いそびれていたが、つき合ってくれることになったといっても那緒が諦めるまでという限定だ。もちろん、それまでに慎哉の気が変わってくれることを祈ってはいるが。
「一応その覚悟もしとけって言ってるんだ。那緒は楽観的過ぎるからな」
「ちゃんとつき合ってても上手くいかない時だってあるだろ? 駿、心配し過ぎ」
「そういうこと言うんなら、泣きついてきたって知らないからな?」
「そうならないよう頑張るよ」
相変わらず、駿は反対の姿勢を崩さない気らしかった。駿の心配もわからないでもなかったが、あまりマイナス面ばかり強調されると却ってムキになってしまうのだと長年のつき合いで気が付かないのだろうか。


そんな経緯もあって、那緒は少しでも早く慎哉と親しくなりたいと焦ってしまったのかもしれない。
放課後、慎哉に会うとすぐに今日のことを話した。
「今日、先輩がヒット打つの見ました」
「ソフト? そういえば那緒は窓際の席だったね」
慎哉が迎えに来てくれる時、那緒はいつも自分の席に座っている。
「はい。先輩、スポーツ得意なんですね」
「飛んだコースが良かったからヒットになっただけだよ。得意ってほどじゃない」
「でもかっこよかったです。俺、授業中なの忘れて見惚れちゃいました」
「授業はちゃんと受けないとダメだよ?」
「はい」
学校を出て最初の三叉路が近付くと、また慎哉に帰られてしまいそうな気がして落ち着かなくなる。
教室で会ってからまだ5分ほどしか経っていないのに、二人の帰路が左右に別れる場所で、あっけなく“じゃ”と言われてしまいそうで。
「あの、先輩、今日もうちに寄ってもらってもいいですか?」
「いいよ」
毎日こんな思いをするくらいなら、と思い勇気を出して頼んでみた。
「うちは大抵誰もいないし、先輩の都合が良かったら毎日でも寄ってくれませんか?」
「いいよ」
慎哉が少し驚いたように見えたのは、那緒に言われなくてもそうしてくれるつもりでいてくれたからだろうか。
並んで歩いていても、慎哉の横顔を見ているだけで緊張するのは相変わらずだった。だから、慎哉が部屋に来ても、なるべく前に座らないで横に並ぶように気をつけていた。目が合うたびに赤くなる那緒に、慎哉が冷めた目を向けるのは耐え難かったからだ。てっきり、那緒が子供過ぎるから呆れられているのだと思っていたが、真逆だったと知るのはもう少し後のことだった。






「帰りにCD見に行っていいですか?」
いつものように教室まで迎えに来てくれた慎哉に、予定を尋ねてみる。
「いいよ」
これまでの那緒とのやり取りの中で、慎哉が否と言うことはまずなかった。那緒が何を言っても大抵のことは了承する。でもそれは、那緒に合わせてくれているというよりは、あまり自分の意思がないからのようだった。

目的地は電車で一駅だが、歩いても15分ほどの距離だ。確認するまでもなく徒歩で行くことになっていたようだった。
「先輩、映画見に行ったりします?」
「あまり行かないな。レンタルする方が多いよ」
ということは、映画に誘うのはあまり得策ではないようだ。
「先輩、映画とかドラマとか詳しいんですよね? 何かおススメがあったら教えてください」
「人気のあるのを借りたら、まず外さないと思うよ」
尤もだが、もう少し具体的に慎哉の意見を聞きたかったのだったが。
「土日で何か借りて見ませんか? 先輩はどういうジャンルがいいです?」
「君の部屋にもずいぶんあったようだけど?」
慎哉が見たいならそれでもいいが、那緒のDVDはかなり偏っている。特にドラキュラものが好きで、ホラーというほどのものはないが、人外の者が出てくる映画が多い。
「何か見たいのありました?」
「食わず嫌いじゃないからね」
それは興味はない、ということではないのだろうか。

CDショップに着くと、自然とお互いの興味のあるコーナーへと離れていく。
那緒は先に目当てのCDの支払いを済ませてから、洋楽を見ている慎哉の傍へ行った。
「何かありました?」
「今欲しいのはないかな」
「もう少し見ます?」
「いや、那緒がいいなら行こうか?」
「はい」
「レンタルにも寄る?」
慎哉の言葉に驚かされる。さっきの会話では、今日は行かないことになったのだと思っていた。
「じゃ、覗いて帰りましょうか。もし気になるのがあったら借りてもいいし」

結局、レンタル店では新作のDVDを2枚借りた。
店を出ると、また慎哉が思いがけないことを言った。
「少し早いけど帰るよ」
「はい、じゃ、また明日」
あっけなく去ってゆく背中を、呆然と見つめる。
いつも一緒に帰っているから気付かずにいたが、那緒の帰りを案ずるような素振りは見られなかった。どうやら那緒は恋人扱いはされていないようだ。それとも、女の子ではない那緒には必要ないと思われただけなのだろうか。
O.K.の返事をもらった時からずっと胸の中にあった漠然とした不安が、那緒の中で大きくなっていくのを感じた。






「鈴木……じゃないな」
教室移動の途中で、突然腕を引かれて驚いた。一緒にいた駿が険しい顔をする。
「何すか?」
失礼な言い方だったかもしれないが、上級生の男は気にした風もなく那緒の方を見ていた。
「もしかして、高橋とつき合ってる一年っておまえ?」
肯定していいものかどうか悩んで、沈黙してしまう。
「だったらどうなんですか?」
苛立たしげに答える駿を軽く無視して、男は那緒に問いを重ねてきた。
「おまえ、高橋とつき合ってるのか?」
「答えないといけませんか?」
肯定していいものかどうか判断がつかず、その場を過ごす言葉を返したつもりだった。
「ってことは、おまえなんだな」
婉曲な肯定の言葉だと見抜かれたらしく、頭の先から足元まで、品定めするような不躾な視線で眺められる。那緒が何か言おうとした時、相手が視線を外した。
「引き止めて悪かったな」
「いえ」
行き過ぎる上級生の背中を、駿は暫く睨みつけていた。
「何なんだよ、あいつ」
どうやら、那緒より駿の方がよほど気分を害したようだった。
「先輩の知り合いなのかな? 鈴木って、前につき合ってた人のことだよね?」
「そうだろうな」
「そんなに気になるんなら聞いてみれば?」
「うん」
前につき合っていた相手のことはともかく、慎哉と那緒の関係を聞かれた時に何と答えたらいいのかくらいの確認はしておかないといけないと思った。


だから、いつものように放課後に那緒を迎えに来た慎哉に、早速切り出してみた。
「今日、二年の人だと思うんですけど、先輩とつき合ってるのか聞かれたんですけど」
「うん?」
先を促すような返事に、思い切って尋ねてみる。
「何て答えたらいいですか?」
「そうだって言えばいいだろう?」
何の感慨もなさそうな答えは、素直に嬉しいとは思えなかった。
「いいんですか?」
「困る?」
「いえ、俺じゃなくて」
「俺はいいよ」
「わかりました。もしこれから同じようなことがあったらそうします」
いっそ、困ると言われた方がマシな気さえした。慎哉と知り合ってから半月ほど経ったが、未だつき合っているといえるような状態にはなっていない。
殆ど毎日、慎哉は那緒の部屋に来るようになっていたが、二人の距離は友達以下だと思う。とても、駿が当初心配していたような事態には至りそうになかった。
途切れがちになる会話の8割は那緒が喋っていて、慎哉は相槌を打つか尋ねられたことに答えるくらいで、自分から話題を振ることは殆どない。尋ねるのも那緒ばかりで、慎哉はまるで那緒に興味を示さなかった。
それ以外にはゲームをしたり、那緒の勧めるDVDを見たり、ただ一緒にいるだけで、あまりコミュニケーションが取れているような気はしない。
「そういえば、先輩は宿泊研修に参加しました? なんか、あそこって自殺の名所だって聞いたんですけど」
あまり答えたい話ではなかったのか、慎哉が返事をくれるまでにやや間があった。
「何年か前に引率の教師が自殺したとかって話があるね。でも、別に何か出るっていうような話は聞いたことがないよ」
「よかった。俺、幽霊はダメなんです」
「ドラキュラとかゾンビは平気なのに?」
「俺、人間の方が怖いんです、生きてても死んじゃっても。執念深いでしょう?」
「確かに、そうかもしれないね」
相槌を打っている時でさえ、慎哉の目は那緒を見ることはない。最初に、緊張するからなるべく目を合わせないようにしてしまったのは那緒だったが、慎哉はそうではなかった。特に那緒に視線をやる必要がないということなのだろう。今もって慎哉は那緒に興味がなさそうだから。
触れられるくらい近くにいるのに、慎哉の心はずっと遠くにあるらしい。どうすれば傍に行けるのか、今の那緒にはまだわからなかった。






「あれ、鈴木里桜だ」
駿の声につられて視線を向ける。体育館への移動の途中で偶然見かけた、慎哉が振られた後も何ヶ月も忘れられないという、嘗ての恋人。
噂に違わず、道着姿でも女の子と間違えそうなくらい可愛らしい人だった。少し長めのサラサラの髪、小さな顔にこぼれそうに大きな瞳、小柄で華奢な体。
似ていると言われていたからそうなのだと思っていたが、実物を見て全然違うことを知った。
似ているなんて思うのは、あまりにもおこがまし過ぎる。
「……ほんと、可愛い人なんだな」
「おまえには言われたくないと思うぜ?」
「負けたって感じ」
「気にすんなよ、先輩とはもう別れてる人なんだから関係ないだろう」
「そうだよな」
那緒が慎哉とつき合うことには強硬に反対しているくせに、駿は庇うような言い方をしていた。そんなにも、那緒は傷付いた顔をしていたのだろう。
けれども、里桜を見て、慎哉が那緒にそっけない理由がわかったような気がしてしまったのだから仕方がない。那緒が里桜に似ていると思って慎哉に近付いたと思われているのなら、冷たい態度にも合点がいく。那緒があの人の代わりになれる気でいたと思われたのなら。

「あ」
少し離れた所に道着姿の慎哉を見つけて、思わず大きめの声を上げてしまった。
那緒の声だと気付いてくれたのか、慎哉が視線をこちらへ向ける。
「ごめん、駿、先に行ってて」
迷惑かもしれないと思うより先に、足が勝手に慎哉の方へと歩き出してしまっていた。
「先輩も柔道を選択してたんですか?」
「見ての通りだよ」
「似合いますね。すごく強そうに見えます」
「そんなことないよ。授業以外では経験がないしね。悪いけどあまり時間がないんだ、着替えてきてもいいかな?」
「すみません、引き止めちゃって。お疲れさまでした」
頭を下げて踵を返し、自分の教室の方へと向かう。
背後で、慎哉に『誰?』と尋ねる声が聞こえた。慎哉が那緒のことを何と説明するのか気になったが、距離のせいか聞き取ることはできなかった。那緒にはつき合っていると言えばいいと言ったが、慎哉もそういう風に答えるのだろうか。何となく、言葉を濁しそうな気がした。

少し離れた所で待っている駿に気付いて慌てた。きっと、那緒は泣きそうな顔をしていただろうから。
「どう見ても恋人同士って感じじゃないよな」
「え?」
駿に指摘されるくらい、二人は親しげには見えないのだろう。言われなくても自覚はあったが、はっきり言葉にされると堪えた。
「ま、ギャラリーがいたしな」
また、駿がフォローらしきことを言う。最初から反対していた駿には、二人の時でもあんな感じだよ、とは言いたくなかった。




放課後、いつものように慎哉が教室まで那緒を迎えに来た。
「じゃ、先に帰るな」
珍しくまだ残っていた駿に挨拶をしてから席を立つ。
「すみません、いつも来てもらって」
「彼、いいの?」
「元々俺と一緒に帰ってるわけじゃないので」
駿は学校の違う彼女を迎えに行くために、いつもは終わるや否や即行教室を出るのだったが、なぜか今日は帰らずに教室に残っていた。喧嘩をしているわけでもないようなので気にしていないが、もし何日も続くようなら理由を聞いてみようと思っている。
「いつも一緒にいるね」
「え?」
いつも、なんて言われるほど那緒が駿といる時を見かけたことがあるのだろうか。確かに、休み時間や移動もいつも一緒だから、目にしていても不思議ではなかったが。
「幼馴染なんですよ。保育所からずっと一緒で」
「そう」
興味を持ってくれたのかと思ったが、返事はずいぶん素っ気ない。
会話が途切れると、那緒はいつも次の話題を探す。沈黙を気にする風もない慎哉は、もしかしたら煩いのは嫌いなのかもしれないとも思う。でも、那緒の方は沈黙が耐えられなくて、何か喋っていなくては不安になってしまうのだった。


最初の頃は、慎哉と一緒に下校して那緒の部屋で過ごす時間を幸せだと感じていたが、日毎にそれが薄れていくような気がしている。
一日のうちの何時間かを共有しているはずなのに、ちっとも親しくなっている気はしなかった。高校に入ってから知り合ったクラスメイトでも、もう少し気心が知れているような気がする。
この何週間かの間に、好きな相手がつき合ってくれることが必ずしも幸せではないことを知った。
メールを打つのも休日に会おうと誘うのも必ず那緒からだった。かといって、メールの返事が来なかったり断られたりしたことはない。本人の了承を得ている以上、那緒は慎哉の恋人になったつもりでいた。
けれども、いつまでたっても優しい目で見つめられることも触れられる気配もなくて、漸く最初のやりとりの意味を真剣に考えるようになった。那緒では恋愛の対象にはならないと言われたことと、那緒がそれを納得するまでつき合ってくれることになっていたことを。

「あの、手をつないでもいいですか?」
おそるおそる慎哉に尋ねてみた。
「いいよ」
一向に進展どころか那緒に興味を見せない慎哉の手に初めて触れた。指の長い、少し骨ばった大きな手に手を重ねる。たったそれだけで息が詰まったように苦しくなる。
なのに、ちらりと見た慎哉の表情からは何の感情も読み取れなかった。こんな風に意識するのは那緒だけらしい。
遣り切れず、ふっとその胸元に凭れかかった那緒の体を、慎哉は離すでもなく受け止めてくれるわけでもなかった。初めて会った時、人違いだったとはいえ、窮屈なほども那緒を抱きしめた情熱の欠片も感じられない。
やはり、那緒ではムリなのかもしれないと思った時、慎哉の吐息が髪を揺らした。
「君が今までどんな男達とつき合っていたのかは知らないけど、俺は女しか知らないから」
「えっ……」
驚いたのは、那緒が男を知っているような言い方をされたからだ。それも複数だと言われたように聞こえた。否定するのが遅れた那緒に、残酷な言葉が重ねられる。
「もし、そういうつき合いが目的なら他の相手を探してくれないか」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
慌てて慎哉から体を離した。触れたことが、そんなに怒りをかうとは思わなかった。今まで何を言っても拒否されなかったから油断してしまっていたかもしれない。どうやら、慎哉には手をつなぐ以上のことをしてはいけなかったようだ。
「君がどんな噂を聞いたのかは想像がつくけれどね」
今は何を言っても悪く取られるだけだろうと思い、ただ謝罪することだけを考えた。
「気を悪くさせてしまったんなら謝ります。先輩が何でもきいてくれるから、調子に乗っちゃってすみませんでした」
「謝ってもらうほどのことじゃない」
口先だけの許容だとわかる。思えば最初から拒否されていたことにもっと早く気付くべきだった。自分の部屋でなければ、帰ると言って逃げ出してしまいたいところだ。
空気を変えたくて、とりあえず部屋を出ることを提案してみる。
「レンタルでもしてきましょうか?」
「何か見たい映画でもある?」
「たまには恋愛物でも見ます? 俺、もっと勉強しないとダメみたいだし」
「必要ないと思うけどね」
どうやら慎哉に誤解されているらしいことはわかった。けれども、それを解いた方がいいのかどうかもわからない。それに、この様子では那緒が今まで誰ともつき合ったことがないと言っても、嘘だと思われそうな気がする。
「金曜だから早く行かないと新作は借りられなくなるよ?」
「じゃ、すぐ行きましょうか」
先に部屋を出ようとする慎哉の背中を追いかける。
駅まで7分、レンタル店まで2駅。定期を持っていない那緒は普段はあまり電車は使わないが、今日は慎哉と一緒だから迷わず電車を選んだ。
「……那緒は電車は平気なんだな」
「え? ええ」
尋ねられた意味がわからなくて曖昧に頷いた。電車に酔うなんて人はあまり聞いたことがないが。
どちらかといえば鈍い那緒だが、混雑した電車に乗るのも人混みを通り抜けるのにも慣れている。当然といえばそうなのだったが、慎哉は庇ってくれる素振りも見せなかった。

駅を抜けて、横断歩道を渡った向こうのビルにレンタル店が入っている。不意に立ち止まった慎哉に危うくぶつかりそうになりながら、理由を尋ねようとして気が付いた。横断歩道の向こうの舗道を歩く二人連れに。一人は背の高い社会人、もう一人は私服姿の鈴木里桜。腕を組んでいてもおかしくないくらい、二人の仲が良さそうなのは一目瞭然だった。
言葉をかけることもできずに立ち尽くす那緒を振り向いた慎哉が、ふいに腕を掴んで踵を返した。
「先輩?」
「レンタルは今度にしてくれないか」
「いいですけど、どこに行くんですか?」
今来た道を戻る広いストライドに、那緒は転びそうになりながらついていく。
「俺の部屋」
那緒の顔も見ないで告げられる言葉の意味に気が付かなかったわけではない。ただ、ひどく傷付いて見える慎哉を振り払ったり問い質したりすることはできなかった。

慎哉の家まで15分ほどかかっただろうか。ほぼ沈黙のままの息詰まる道程だった。来るのがこんな状況でなければ、もっと違った緊張感だったのだろうが。
初めて足を踏み入れた慎哉の部屋は神経質なくらいに整理されていて、どこか冷たささえ感じた。もしかしたら住んでいるわけではないのかもしれないと思ってしまうほどに。
抱きしめられても、嬉しいというより戸惑ってしまった。ついさっき、あんな風に那緒を拒絶した慎哉の評価が変わったわけではないことくらいわかっている。
「りお……」
聞き逃しそうなほどに小さな声のせつなさが胸を刺す。もしかしたら“なお”と言ったのかもしれなかったが、那緒は慎哉がその人の名前を呼んだのだと思った。
その時初めて、那緒は自分が思い違いをしていたことに気が付いた。
いつか慎哉が自分を見てくれるのではないかと微かな希望を抱いていたのは、とんでもない間違いだったようだ。
今も慎哉の胸にいるのは前につきあっていた人だ。いつか思い出になるとか新しい恋をするとかいう日が来たとしても、相手は那緒ではないだろう。名前も面影も被る那緒といたら、否応なしにその人を思い出してしまうだろうから。どうやっても、那緒は身代わり以上の存在にはなれそうになかった。
このまま慎哉に何もかも許してしまったら、きっと後戻りできなくなってしまう。
「俺、やっぱり帰った方が……」
離れるための言葉を、最後まで言い切ることはできなかった。唇が塞がれたと思ったら、もう慎哉の体の下に組み敷かれていた。
キスをするのさえ、初めてなのに。
咄嗟に抗う腕がベッドへ縫い止められる。慎哉は、那緒の都合など気にかける様子もなかった。ただ、今まで見せたことのない激しさで那緒を求めてくる。
今許したら、きっと忘れられなくなると思うのに。でも、どうしても本気で抗うことはできなかった。
きっと、泣くことになるとわかっていたのに。



知らないうちに眠ってしまっていたらしい。
シャツを羽織っただけの慎哉が、那緒の隣で上半身を起こして煙草を吸っているのが見えた。今まで、煙草の匂いなどしたことはなかったのに。
好きな相手に抱かれた後がこんなにもつらいものだとは知らなかった。恋とは一人でするものではないようだ。少なくとも、那緒のような経験の浅い者にとっては。
「帰ります」
だるい体を起こして、芯から響く痛みを感じない振りで散らかった服を身に纏う。
慎哉がまだ長い煙草の火を消した。
「送るよ」
感情のこもらない声に、小さく首を振る。
「大丈夫です」
今まで、ただの一度として慎哉にそんな風に気遣いをされたことはなかった。女ではない那緒に対しては当たり前のことだったのだろうが。
ジーンズを引き上げようと立ち上がりかけた所で引き寄せられた。
仰向けに倒れた那緒に、やはり感情の伴わない声が尋ねる。
「本当に?」
「はい」
見つめ合っても、感覚が鈍っているのか何も感じなかった。今なら平気な顔をして帰れそうな気がする。
立ち上がった那緒を、慎哉はもう引き止める気はなさそうだった。もう一度慎哉の顔を見ると泣いてしまいそうな気がして、振り返るのはやめた。

慎哉の家を出ると、ホッとして体の力が抜けた。
自分で思う以上に、那緒は気を張っていたのかもしれない。そのまま帰る気力はなく、近くにあった公園に立ち寄った。
暮れかけた薄闇の中で、何人かの子供たちが遊具で遊んでいたが、幸いベンチは空いていた。崩れるように座り込むと、遂にS.O.Sを出してしまった。最初から、心配と反対をくり返していた友人に。
すぐに行くからじっとしてろと言った友人の言葉に、逆らいたくても動く元気も出なかった。身も心も、すっかり疲れてしまっている。

本当はもっと前から気付いていた。駿の言う通り、那緒の手に負えるような相手ではないのだと。慎哉はまだ前の恋愛を引き摺ったままなのだと。
「那緒」
呼ばれて顔を上げると、まさに息せき切って駿が那緒の傍に駆けてきているのが見えた。
金曜の夕方だというのに、彼女を放っておいて大丈夫なのだろうか。自分で助けてくれと言っておいて、15分でダッシュしてきた友人を見るなり笑ってしまった。
「おまえ、菜々美を放っといて大丈夫なの?」
「そう思うんなら死にそうな声を出すなよ」
これでこいつには一生頭が上がらなくなったんだな、と思いながら、恋は失くしたがまだ友情は残っているのだと思った。
隣へ腰を下ろす駿に、遠慮なく凭れかかる。
「那緒?」
肩を抱かれるともう堪えきれなくて、人目も憚らずに縋りついた。
「駿の言う通りだった。も、リタイアする」
「だから、あいつはムリだって言っただろう?」
「何で殴ってでも止めてくれなかったんだよ」
思わず、自分勝手な泣き言をぶつけてしまう。どんなに反対されても慎哉とつき合い続けていたのは那緒の勝手なのに。
「殴ってたら言うことを聞いてたのか?」
「無理だったかなあ?」
やっぱり、無駄な望みを抱いてしまったかもしれない。無理なのだと思い知らされるまでは。
「奢ってやるから、何か食おう」
「ほんと?」
「その代わり、もう2度とあいつに関わるんじゃないぞ?」
「うん」
きっと、慎哉の方も気まずいだろうから。今までそうだったように、那緒が連絡を取らなければこれで終わりだ。
「……俺っていい奴だよな」
「俺だろ?」
「だって、やられ逃げなんて普通なかなかできないだろ?」
「って、おまえ、やったのかよ?」
目を見開いて呆然としている友人に、余計な心配事を増やしてしまったのだと気付いたが、今は自分のことで手一杯だった。
「今までいっぱい頑張ったんだもん。ご褒美」
「呆れて怒る気も失せたよ」
言葉よりはよほど優しい友人に、今日だけは甘えていたいと思った。






2度目のチャイムの音に、仕方なくだるい体を起こした。
両親とも土曜は休みではない職業についているし、部活に忙しい妹はいないから、今日は一人でゆっくり過ごそうと思っていたのに。
キッチンにあるインターフォンを取りに行く方が面倒に思えて、階段を降りてすぐの玄関のドアを開けた。
「先輩……」
もう学校以外で会うことはないと思っていたのに、何の心構えもなく開けたドアの向こうに慎哉がいた。
「目が赤いね、寝不足?」
「なのかな。寝直そうと思ってまだパジャマのままなんです」
今はまだ慎哉と話すことも、着崩れたパジャマ姿をさらし続けることにも抵抗があった。那緒としては長居を断ったつもりだった。
「入ってもいいかな?」
そんな風に尋ねられると、だめだとは言えなくなってしまう。
「どうぞ」
自分の部屋に通す気にはなれなくて、リビングの方に向かった。慎哉にソファを勧めて、向い側に回ろうとする那緒の腕が引かれる。仕方なく、慎哉の隣に腰掛けた。
「俺も、昨夜は眠れなかったよ」
前の恋人のせいで?
また泣きそうになる自分を懸命に抑える。昨夜あんなに泣いたのに、まだ涙が涸れていないのが不思議だった。
俯いていても、頬の辺りに慎哉の視線を感じる。慎哉の話は那緒をますます落ち込ませるものになりそうだった。
「ずいぶん素っ気なかったね、俺とは初めてなのに」
不機嫌そうな口ぶりに、昨日は緊張と痛みを抑えるのに必死で、慎哉を思いやる余裕などなかったことを思い出した。もしかして、慎哉を満足させられなかったことを責められているのだろうか。慎哉は、那緒が遊んでいると思っていたようだったから。
「がっかりさせたんなら謝ります。いろいろ我がままを言ったり振り回したりしたかもしれないけど、もう納得しました」
那緒では無理なのだとわかったから。これ以上慎哉の傍にいても辛くなるだけだと、やっと思えるようになったから。
「がっかりさせたのは俺の方だろう?」
怒りを滲ませた慎哉の言葉の意味は理解できなくて、答えることはできなかった。
「気持ち良さそうには見えなかったしね、俺は男の扱いには慣れていないから幻滅させたかな」
「そんなことないです」
「あの後すぐに他の奴を呼び出していたようだけど、そいつは上手いの?」
まさか、見られていたとは思わなかった。慎哉の部屋からあの公園は見えるのだろうか。
「あいつはただの友達だし、彼女いるし、俺とはたとえこの世に二人っきりになっても、そういうの絶対ありえないです」
「じゃ、他にいる?」
「他にって……?」
自分の予想が外れている事を祈ったが、そんなものに限って外れないものらしい。
「君が体を許す相手」
そこまで誤解されていると知って、堪え切れずに目元が滲んでくる。
「ほんと、そういうのいないから」
きっと、那緒の言うことなど何ひとつ信用してくれないのだろうが。
逃げ出したいと思っているのを見抜かれたように、慎哉の手が那緒の体を引き止める。
「君が他の男といるのを見て気が変になりそうだったよ」
抱きしめられると、都合の良い思い込みをしてしまいそうで口を噤んだ。
腕に力を籠められると、決心が鈍ってしまう。
「好きにならないようにしていたのに」
そんな言い方をされたら、まるで那緒のことが好きなみたいに聞こえる。
「那緒」
顔を上げると、きっと泣いてしまう。
覗きこむように重ねられる唇が、那緒の決意を崩す。こんな時だけ、やさしいキスをする慎哉をずるいと思うのに。
「君には何人目かの男かもしれないけど、俺には那緒は最初の相手なんだ」
「先輩」
体を離そうとする那緒を抱く腕に力がこもる。もう、いっぱいいっぱいなのに。
「そろそろ先輩は卒業してくれないか」
頭上から降ってくる声の、意味がわからない。
「あの……?」
「慎哉だよ、覚えてないのか?」
もちろん、覚えていないわけがなかったが、いきなり名前で呼んだりなどできるわけがなかった。
「那緒?」
催促するような囁きに負ける。思えば、最初から何ひとつ勝てることなどなかったが。
「慎哉さん……?」
「慎哉でいい」
言おうとしてみたが、どうしても声には出せなかった。
「ムリ、です」
「そんな所はマジメなんだな」
不満げな顔も綺麗で。見たくないのに、見つめられると目が離せなくなる。
「那緒、俺だけにしてくれないか?」
今まで那緒に興味などなかったくせに、と思うのに。どうしても、その甘い言葉を突っぱねることができない。
答えない那緒を、せつなげな声がかき口説く。
「もう誰にも取られたくない」
「はい」
魅入られたように頷く自分が信じられない。昨日、もう会わないと駿にも約束したのに。
唇が触れ合うと、那緒を抱きしめる腕が力を増した。そんなことをされなくても、逃れることはできないのに。
「君の部屋に行ってもいいかな?」
甘く囁かれると拒むことはできなかった。立ち上がろうとした那緒の体がふわりと浮く。
「わ」
驚いて見つめる慎哉の顔が近い。抱き上げられたのだとわかるまで少しかかった。
「あ、あの、自分で」
「嫌なの?」
「っていうか、落ち着かないから……」
足の着かない不安は居心地が悪く、今までの扱いとのギャップにすぐには対応できない。
「しょうがないな」
不満げだったが、慎哉は那緒の言い分を聞き入れて、そっと下ろしてくれた。そのまま肩を抱かれて2階へ移る。どちらからともなく、並んでベッドに腰を下ろした。
「疲れてる?」
「少し」
本当はひどく疲れていたが、また誤解されそうな気がして言葉を濁した。
肩に腕を回されて、ゆっくり倒れこむ。大事そうに腕に抱えられて髪や頬にキスが降ってくる。
「少し眠ろうか?」
「はい」
体を求められなかったことに、正直ホッとした。
包み込むように抱きしめられると、初めて会った時のことを思い出した。あの時、痛いほども抱きしめたのは、慎哉の腕を抜け出そうとする体を引き止めるためだったのだろう。
そんなことをしなくても那緒は離れないのだとアピールしたくて、そっと慎哉の背中に腕を回した。
「那緒」
「はい」
「もうそんな風に敬語を使ったり気を遣ったりしないでくれないか」
「でも」
「那緒」
咎めるような語気に反論ができなくなる。
「急には無理なら少しずつでもいいから」
「はい」
慎哉の方からいろいろと話しかけられるのは初めてだった。いつも、話題を探しては問いかけるのは那緒の役目だったから。
触れ合った体温が心地良くて、鼓動がシンクロしていくうちにだんだん眠気が押し寄せてきた。緊張から解かれた体が休養を取りたがっているのかもしれない。
「おやすみ」
察したように、那緒の鼻先に慎哉がキスをした。今までで、一番幸せな瞬間のような気がした。
「おやすみなさい」
眠れなかった昨夜を埋め合わせるように、慎哉の腕に抱かれたまま夢に落ちてゆく。今度の夢は幸せなものになりそうだった。



- First - Fin

Novel       【 Second 】   


ファーストっていうのは、もちろん一番目って意味でつけました。
最愛の人の最愛の人になるのは難しいですよね。
相手の全部を欲しがらなければ恋愛するのはそれほど難しくないんでしょうが。

蛇足ですが、慎哉が“最初の相手”と言ったのは、男相手には、という意味です。
彼は爛れた過去を持っているらしいので。

【 2009年7月、改稿時追記 】
執筆当時はケータイの赤外線受信とかなかったんですよね。
ちょっと迷いましたが、アップ時の時代背景を優先することにしました。