- CHINA ROSE(1) -

〔ご注意〕
☆微妙にサイト趣旨に反しているのでネタバレしておきます。
このお話はビターエンドとなっています。



一睡も出来ない、などというのは里桜の人生において初めての経験だった。
義之から少し遅くなりそうだというメールを貰ってはいても、そのあと何の連絡もないまま朝になっても帰っていないというような事態も初めてのことだった。
携帯電話は圏外なのか電源が入っていないのかずっと繋がらず、義之の行方を誰に尋ねたらいいのかもわからない。
言い知れぬ悪い予感に胸が逸り、里桜が今何をすればいいのかを母親に相談しようと携帯を掴んだのとほぼ同時に着信があった。
てっきり義之からだと思い込んで確かめもせずに出た里桜に、緊迫した声で名乗ったのは美咲だった。
『里桜くん、落ち着いて聞いてね?今病院からなんだけど、義之さん、事故に遭ったらしくて、昨夜から入院しているのよ』
「えっ……事故って……義くんは無事なの?」
最悪の事態というのを考えてみなかったわけではないが、本当にそんなことになっていたとは思いたくなかったのに。
『命に別状はないんだけど、頭を強く打ったらしくて、検査とかいろいろあるから暫く入院することになるんですって。里桜くん、とりあえず保険証と着替えを持って来られる?』
「うん、すぐに用意して行くね。他に何か要るものある?」
動揺のあまり危うく耳を滑っていってしまいそうな言葉を何とかメモしながら、言い知れぬ不安と疑問が胸に沸くのを止められなかった。なぜ美咲が義之の傍にいるのか、里桜に連絡が来るのが後なのか、上手く働かない頭が理由を探そうとする。
それでも、今は一刻も早く義之の元へ向かいたくて、美咲に問うのはやめておいた。



「里桜くん、先に話しておきたいことがあるんだけど」
里桜の着く時間を見計らって来てくれたらしい美咲に、時間外通用口の外で引き止められる。
「電話でも言ったけど、義之さんのケガ自体はたいしたことはないそうだから心配しないで。それよりも、ちょっと困ったことになってるみたいなの」
美咲の前置きが長いのは、良からぬ事情があるのだろうと里桜にもわかっていた。
「事故って言ってたけど、そうじゃなかったの?」
「いいえ、事故自体は義之さんの不注意で単独らしいわね。雨のあとだったから、駅の階段で滑って転落したんですって。見ていた人が複数いたから事件とかじゃないみたいよ。すぐに救急車も呼んでもらえたそうだし。ただ、そのとき携帯が破損してしまったらしくて、他に連絡先がわかるようなものを持っていなくて、義之さんの意識が戻るまで連絡が取れなかったそうよ。なぜ私の所に電話がかかってくるのか疑問には思ったんだけど、義之さんが私を呼んでるって言われたから取敢えず病院に来たの。まさか里桜くんに連絡してないとは思わなかったから知らせるのが遅くなってごめんなさい。その後もちょっと連絡できるような状態じゃなかったの。義之さん、私が来た時には落ち着いてるように見えたんだけど、話してみたらおかしくて……最初は混乱してるだけだと思ったんだけど、違ったの。義之さん、ここ3年くらいの記憶がないみたいなのよ」
「……記憶がないって、どういうこと?」
「レントゲンやCTでも異常はなかったようだし、先生が仰るには、頭を打ったせいで記憶障害を起こしているんじゃないかって。一過性のものなら一日以内に戻るそうだけど、もし戻らないなら、逆行性健忘といって、いわゆる記憶喪失っていう症状かもしれないんですって」
驚き過ぎて頭も気持ちも追いつかず、何を言えばいいのかわからない。里桜が不安な一夜を過ごしていたとき、義之の頭の中に里桜はいなかったのだろうか。
「里桜くん?」
「……3年っていうことは、俺のことも知らないの?」
「追々思い出すかもしれないけれど、今はまだ」
だから、里桜に会ってからずっと、美咲は硬い表情を崩さなかったのだろう。先の見えない“まだ”に、希望は持てそうになかった。
「俺、義くんに会って、何て言ったらいいのかな?」
「一応、私と離婚していることも、里桜くんとおつき合いをしていることも話してあるの。ただ、今の義之さんには寝耳に水な話でしょう?まだ戸惑っているようだから、これからのことを話すのはもう少し待った方がいいと思うの。辛いでしょうけど、しばらく我慢してあげて?」
戸惑っているのは里桜も同じだったが、ただ頷くしかなかった。



美咲の後をついて、おそるおそる個室へと足を踏み入れる。
ギャッジアップしたベッドに上半身を起こした義之は、殺風景な白い部屋で、そこだけ色があるといってもいいくらい際立って見えた。人目を惹く容姿をしていることなど知っていたはずなのに、言いようのない違和感に胸が騒いだ。
「里桜くんが来てくれたわよ?」
美咲の声に応えるように、義之がこちらへ視線を向ける。
「……こんな幼げな子が?」
驚いたような口調は義之がショックを受けているからなのだろうが、それは里桜も同じだった。周囲から童顔だとか幼稚だとか言われ慣れていても、今まで義之にそんな風に言われたことはなかった。
病衣を着ているという以外は、昨日までの義之と外見的には同じはずなのに、里桜の知る人好きのする風貌ではなく、纏う空気まで異質なものに変わってしまったような気がする。里桜を覚えていないらしい義之に、初対面のような挨拶をするべきなのか、いつも通りに接すればいいのかわからなかった。
「義之さん、傍目にも暑苦しいくらい里桜くんにラブラブだったのよ。私がちょっと里桜くんと仲良くしててもキレちゃうくらい独占欲の塊になったりね」
見かねて答える美咲が、わざとらしいくらい大げさに里桜との関係をアピールする。
「本当に、僕を“担いでる”わけじゃないのか?」
「しつこいわね。こんな手の込んだ“ドッキリ”を仕掛けるわけがないでしょう?昨日のことも覚えてないくせに、人を疑うのもいい加減にしてちょうだい」
「そう言われても、急には信じられないよ。きみと離婚してることも、高校生と恋愛してるなんてことも」
里桜を一瞥すると、義之は盛大にため息を吐いた。よっぽど、里桜の幼さが納得いかないのだろう。
「もしかして、僕は犯罪者になっていたのかな?」
真面目な口調に後悔のようなものが滲む。今の義之の預かり知らぬところでインモラルな人間になっていたことが、一番受け入れ難いことらしかった。


「そうね、周りから呆れられるくらい里桜くんに入れ上げてたわよ?」
美咲の言葉の信憑性を確かめようとするかのように、義之の視線が里桜に注がれる。まるで値踏みするかのような無機質な眼差しに、体中が強張ってゆく。初めて会った時でも、義之はもっと親しげな顔をしていたのに、たった一日でこんなにも他人になってしまうとは思いもしなかった。
「きみに振られて、僕は自棄になっていたのかな?」
美咲が返事に詰まっても、今の里桜には庇えるような余裕はなかった。それに、里桜は話の中心にいるようでいて、全くの第三者なのだとわかっている。
「……覚えてもいないくせに、そんな言い方はしないで。里桜くんとは純粋に恋愛していたのよ。一緒に住んでいたのは義之さんの独占欲が強かったからだし、卒業まで待つようにって言う里桜くんのご両親を説得して、マンションを買って……そうそう、工藤さんとお隣なのよね。後で面会に来てくれるように連絡しておくから尋ねてみればいいわ。工藤さんの言うことなら、あなたも信用するでしょう?」
美咲が腹を立てる理由もわからないせいか、義之はまだ納得がいかないようだった。
「マンションを買うなんて、僕はその子と結婚でもするつもりだったのかな?」
「里桜くんが卒業したら籍も入れたいって言ってたわよ?」
「……重症だね」
「そうよ。わかったら早く思い出しなさいね?」
義之が戸惑ったような表情を見せるのは、美咲が突き放すような態度を取るからなのだろう。おそらく、3年前ならまだ美咲と上手くいっていた頃のはずで、離婚していることも認めたがらない義之には、他の相手を勧めるような言動は受け入れ難いことらしかった。


「一応確認しておいていいかな?男の子だと聞いていたけど、とてもそうは見えないんだけど?」
初対面で私服を着ていると、里桜はほぼ100%性別を間違われる。そうでなくても小柄で女顔なのに、似合うからとつい可愛らしい洋服ばかりを選んでしまっているからだ。
「そうなのよ。男の子にしておくのが勿体無いくらい可愛いでしょう?」
「確かに可愛い子だと思うけど、もう少し育つまで待てなかったのかな、その頃の僕は」
性別よりも年齢の方を気にしているところが、義之らしいような気もする。
「待ってる間に誰かに取られると思ったんでしょうね。責任を取るという名目で縛りつけておくつもりだったのよ、きっと」
「それにしたって、ちょっと子供過ぎないかな?」
「そう思うんなら、今のあなたには記憶にないことでも、責任を取らなくちゃいけないんじゃない?」
美咲の口調は笑みを含んだ軽いものだったが、不意に義之の表情が厳しくなった。
「もしかして、僕は、両親も揃っている高校生を、卒業も待たずに引き取って養育しなければいけないような大変なことをしたんだろうか?」
「……もしかしたらそうかもしれないと思いながら、本人の前でそんなことを言うあなたの神経が信じられないわ」
憤慨した美咲の言葉は、暗に義之の問いを肯定することになってしまう。
ずっと美咲の後ろで義之にどう接したらいいのか悩んでいたが、重くなりそうな空気を変えたくて、普段と同じように声をかけてみることにした。
「義くん、本当に俺のこと、忘れちゃったの?」
「そのようだよ。やっと口をきいてくれたね」
「何だか、義くんが知らない人みたいで……どういう風に言ったらいいのかわからなくて」
「いつも通りで構わないよ?僕のことはそういう風に呼んでいたの?」
「うん……?」
前と同じでいいと言っても、随分と年下の里桜が馴れ馴れしく呼びかけるのはあまりいい気がしないのだろうか。
「亡くなった母にも同じように呼ばれていたよ。どうやら、本当に僕も満更でもないと思っていたようだね」
義之の母親と同じ呼び方だというのは聞いたことがなかったが、初めてそう呼びかけた日のことを思い出すと、そうなのかもしれないと思った。


「里桜くん、悪いけど先に帰ってもいいかしら?」
里桜と義之が話せそうだとわかると、美咲は帰り支度を始めた。夜中に呼び出されて、里桜が来るまでずっと付き添っていた美咲も、かなり疲れているようだ。
「うん、ずっと付いててくれてありがとう。手続きとか面倒なことも全部してくれて、ホント助かっちゃった。ゆっくり休んでね」
入院の際の手続きなどは一通り美咲が済ませてあり、今は付き添いも必要ではないらしい。里桜も、とりあえず退院までのことを義之と話し合ったら、ジャマにならないように控えていた方が良さそうだった。
「思ったより早く退院できそうだし、里桜くんもムリしないで困ったことがあったらすぐに電話して?義之さんも、元気があったら里桜くんと親睦を深めておきなさいね?」
「……きみにも、もう誰かがいるの?」
唐突な問いに、美咲は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに笑みを作った。
「そうよ。だからあまり当てにしないで?」
それが事実かどうかはわからなかったが、何となく、義之に付け入る隙を与えないためのような気がした。
「退院してからでも構わないから、別れた理由を今の僕にもわかるように聞かせてくれないかな?」
「私から話すことはもうないわ。時間が経てば思い出すかもしれないし、過去のことよりこれからのことを考えて?」
「まさか、これっきりってことはないだろう?」
義之の言葉が、ひどく弱気に響いたようで驚いた。里桜の知っている義之は、誰かに頼るような素振りを見せたことはなかったのに。
「困っている時はお互いさまだし、なるべく力になるけど、あなたのためというより里桜くんのためだから勘違いしないで?」
不敵に笑いながら、おそらく今の義之には相当に堪えるはずの言葉を残して、美咲は帰っていった。


「……ずいぶん美咲と親しいようだけど」
美咲を部屋の外まで見送って戻った里桜に、不機嫌そうな声がかけられる。義之がすぐに妬いているような言い方をするのは普段と同じようでいて、立場は全く逆になっているとわかっていた。
壁際に立てかけてあった折りたたみの椅子を借りて、ベッドの側に腰掛ける。まずは、里桜の知らなかった頃の義之と親しくなる努力をしなくてはならなかった。
「美咲さんとは仲良しなんだ。でも、俺は女の人とは恋愛しないから、義くんが心配するような意味じゃないよ?」
「それは僕のせい?」
「ううん。俺、前につき合ってた人も男の人だったし、元からだと思うけど」
里桜にとっては、まともに恋愛する前に義之と出逢ってしまったようなもので、自分の性癖を断言することは出来ない。ただ、望まれてつき合うことになった前の相手の時から、そういった意味での違和感を感じたことはなかった。
「僕とつき合うことになったきっかけを聞いても構わないだろうか?」
「えっと……俺がすごく好きになって、義くんが応えてくれたから、かな?」
たぶん、端的に言えばそういうことだったのだと思う。更に、その時の義之には、里桜の気持ちに応えないわけにはいかない理由があったから、と付け加えるべきなのかもしれなかったが。
「未成年のきみと深い関係になった責任、ということだろうか?」
以前の義之が頑なに否定し続けてきたことをあっさりと認めてしまわれたようで、密かに里桜の心の奥底で燻っていた疑惑がまた煽られる。
「……そんな感じ、なのかな?」
「煮え切らない返事だね。何を隠してるの?」
「別に、何も……」
思いがけず鋭い眼差しを向けられて、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。見つめ返せずに俯く里桜の態度は、義之を誤解させたようだった。


「もしかして、合意じゃなかったの?」
問い詰めようとする義之の言葉に、もう乗り越えたはずの過去が不意に甦ってきそうになる。他の男に犯されたことさえ必要なことだったと思えたのは、義之が里桜を傍に置いてくれたからだった。義之に忘れられてしまったのなら、一緒に居る意味も無くなってしまう。
「僕を好きになってくれていても、体を許してくれるほどではなかったということかな?僕はそんなに強引だった?」
「ううん、そうじゃないんだけど……ごめんなさい、俺が子供だったから……」
義之に惹かれていると認めるのが怖くて、その時つき合っていた相手にも何も言わずに中途半端な関係を続けていたから、手痛いしっぺ返しを受けることになってしまった。義之には里桜は悪くないと言われたが、やはり自分で招いたことだったのだと思う。
「僕が強要したんだとしたら、謝るのはこちらの方だよ?相手が誰でも、好きになってくれれば嬉しいと思うし、ましてきみみたいに可愛い子に思われれば悪い気はしなかったんだろうしね」
「そういうんじゃなくて……」
義之が事実とかけ離れた見解をしていても、本当のことを隠したままでは、何と言って説明すればいいのかわからなかった。
「でも、その頃の僕はそんなにも理性や分別が無くなってるのかな?責任を取るつもりだったんなら、一緒に住むことより、きみが大人になるまで待つべきなのに」
「待ってくれてたよ?せめて高校を卒業するまでくらいはって言ってくれてたし」
それが更に誤解を招く表現だと、わかっていながら言ってしまった。
「それじゃ、きみとは一緒に住んでいただけだったの?美咲は僕を独占欲の塊とまで言っていたのに、何もしないでいられたのかな……」
義之は納得のいかない顔で、考え込むように黙りこんだ。もし、義之の記憶がこのまま戻らないとしたら、里桜ともう一度恋愛をするのはムリなのかもしれない。


「義くん、頭が痛いの?」
額を押さえる掌から覗く表情は苦しげで、義之が病人だという事実を突きつけられたような気がした。いつもの義之は、外見からは想像もつかないほどタフで、疲れた姿を見せることが殆どなかっただけに不安になる。
「少し疲れたようだよ」
「俺、静かにしてるから休んでて?」
「悪いけど、そうさせてもらおうかな。きみも時間があるんならゆっくりしててくれないか?目が覚めたら、これからのことを話そう」
「うん」
ベッドを戻して横になる義之に、妙な感じを覚えてしまう。見下ろされたり心配されたりするのはいつも里桜の方で、こんな風に弱った義之を見るのは初めてかもしれなかった。
ほどなく眠ったらしい義之の顔を、そっと覗き込む。義之が寝入るのを待って、里桜は優生に連絡を取るために部屋を出ようと思っていた。



- CHINA ROSE(1) - Fin

Novel       【 China Rose(2) 】


このお話を書き始めた当初に思っていたほどは、ビターエンドになりませんでした。
ただ、ハッピーエンディングを迎えるまでは長くかかりそうです。