- 仔猫は一途に、わがままを貫く(6) -



「秀が会って話したいって言ってたんだけど、これから出られる?」
帰宅した義之を軽いキスと抱擁で出迎えると、里桜はすぐに切り出した。
「僕は構わないけど、ここに来てもらうのは都合が悪いのかな?」
「たぶん」
都合が悪いのは秀明の事情で、里桜の母の体調を気遣ってのことではなかったが、義之は良い方に解釈したようだった。いつもの里桜なら、義之が帰宅する前に電話かメールで知らせているところだが、追求されたら答えに詰まってしまいそうな気がして言えないまま今に至っている。
「これからだと遅くなりそうだけど、お義父さんやお義母さんはいいのかな?」
「うん。晩ご飯の用意はしてあるし、秀と会うから遅くなるって言ってあるから」
「すぐに出た方がいいのかな?」
「できたら」
「じゃ、このまま行こうか?」
「いいの?ごめんね、戻ったばっかなのに」
貴重な金曜の夜を潰されることを嫌うのではないかと思ったが、義之の快い返事にホッとした。
さっき脱いだばかりの靴に足を戻す義之の横を、里桜はサンダルを引っ掛けて先にドアに向かう。
「車を持って来てないけど、近く?」
「秀の所は7、8分かな?ごめんね、先に電話入れとかないと」
携帯を操作しながら外へ出る。待っていたようにワンコールで応答する秀明に、義之が戻って来たことと、これから向かうことを知らせてすぐに通話を終えた。
それから慎哉の所へ行くことになっていることを話せば、義之は来てくれないかもしれないと思ったが、黙り通すことは出来そうになかった。きっと、わかりやすいと言われる里桜の顔や態度に表れる不安に気付かれてしまう。
「あのね、義くん」
里桜の隣に並んだ義之が、小さな子にするみたいにそっと頭を撫でる。里桜の様子がおかしいことなど、とっくに義之は気が付いていたようだった。
「何か困ったことになってるの?」
「そうじゃないけど……秀と会ったら、慎の所に行くことになってるんだ」
進みかけた足が止まる。
訝しげな顔で、義之は里桜の肩を引いた。
「何の話かな?まさか、やっぱり君を諦められないなんて話じゃないだろうね?」
「俺も、義くんに用があるとしか聞いてないんだ。ただ、秀が怖かったから、あんまりいい話じゃないんだろうなって思ってるだけで」
「ふうん……まあ、何て言われても離すつもりはないけど」
険しい顔の義之が、里桜をギュッと抱きしめる。
里桜も用件は聞いていないが、秀明の態度から、義之に厳しい内容だろうということだけはわかっていた。



「慎って、まさか一人で住んでるとか……?」
慎哉の家を訪ねるのは初めてだった。
つき合っている時には、学校帰りに里桜の部屋に行くのが暗黙の了解のようになっていて、わざわざ慎哉の部屋に行きたいと言うのは深い意味があるような気がしていたからだ。
通された部屋は、ソファとローチェストを置いただけのシンプルさで生活感は全くない。初めて淳史の部屋に行った時に感じた同じような感想が比にならないくらい、殺風景な空間だった。余計なものだけでなく必要なものも足りないような、神経質なほどに整えられた部屋はモデルルーム以上に素っ気無く、とても誰かが住んでいるようには思えない。
「まあ、そんな感じかな」
言葉を濁す慎哉に、それ以上尋ねることは躊躇われた。もうつき合っているわけではない里桜には、深く立ち入る権利はないはずだ。
「適当に座ってもらっていいかな?何か入れるよ。里桜はアイスティーの方がいい?」
「あ、俺、コーヒーでも大丈夫になったんだ。でもカフェオレにしてくれる?」
驚いたような顔を見せる慎哉は、里桜がまだコーヒーは苦手だと思っていたのだろう。元から飲めなかったというわけではないが、好んで飲もうと思ったことはなかった。けれども、朝はコーヒー派の義之と過ごすうちに慣れたのだと思う。
当初の目的を忘れてしまうくらい穏やかな気持ちでいられたのはここまでだった。
「コーヒーなんか淹れなくていい、俺は和やかに休憩しに来たわけじゃないんだ」
軽く慎哉を睨んだ秀明は、その視線を更に強めて義之を見据えた。長いつき合いの里桜でも、秀明がそんなに怒っているところは殆ど見たことがない。
「緒方さん、里桜を襲わせる手引きをしたっていうのは本当ですか?」
言葉に反して質問口調ではなかった。ある程度の予測をしていたのか、義之は驚いた風もなく答える。
「手引きをしたわけではないけれど、たぶん言いたいことは事実だと思うよ」
「秀、どうして急にそんなこと……」
「おまえ、阿部に更衣室で口説かれた後、緒方さんに迎えに来てもらったんだろう?その話を高橋としてるところに斎藤が通りかかって……耳に入ったみたいで、心配そうな顔をするからこっちがキレちまって」
「……どういう、こと?」
斎藤の姿を思い出しただけで、頭の中が真っ白になってしまいそうなくらいに怖いのに。
「いろいろ誤解があったとか言われて、心配されても今更だろ?理由を知ってるみたいな高橋も何も言わないしな。おまえに二度と顔を合わせないようにしろって言われてるけど気になるって言うから、誰にって聞いたんだ」
バクバクと心臓が走り出す。なぜか、嫌な予感に限っては外れたためしがない。
「秀」
止めようと思う里桜の方に秀明の視線はなく、挑むように真っ直ぐに義之を睨めつけていた。
「あいつ、あんたの別れた奥さんの弟なんだって言ってましたけど?」
義之は里桜ほど驚いた風はなく、静かに息を吐いて秀明を見返した。
「そうだよ」
「里桜の傍にいるのは、少しは罪悪感があったからですか?」
「そうじゃないよ。僕が里桜を好きになって一緒にいたいと思ったからだよ」
義之の答えは秀明を納得させるものではなかったらしく、むしろ激昂させただけのようだった。
「本当は、高橋から里桜を取るのが目的だったんじゃないんですか?」
今までその可能性を思いつきもしなかった里桜と違って、秀明はすぐに義之が別な復讐の形をとったと考えたようだ。
「そういう気持ちがなかったと言えば嘘になるかな。でも、本当に取れるとは思ってなかったよ」
「それなら、どうして里桜と頻繁に会ってたんです?里桜の気を引いて弄ぶつもりだったんじゃないんですか?」
「実際に里桜に会って、もし僕を好きになってくれた時に受け止められると思ったから気を引いたんだよ」
「義くん、それってやっぱり……」
何度否定されても拭いきれない疑惑が、また湧き上がってくる。
「責任感じゃないよ、何度も言ったはずだろう?実際に里桜と出逢って好きになれそうだと思ったからね。無理だと思っていたら、もっと違う接し方をしていたよ」
「俺に合わせてくれたんだ?」
「そうじゃない、君に二度と会えなくなる可能性の方が高かったんだよ?僕が気持ちをセーブせずにいられなかったことを察してくれないかな」
「でも、俺が頼まなかったらそれっきりだったんだよね」
「僕の方から一緒にいて欲しいと言える立場じゃないだろう?」
義之がどんなに言葉を省略しても、何を指しているのか里桜にはわかる。それを理解できるのは自分だけだと思っていたのに。
「里桜が傷物にされても、後は引き受けるつもりだったってことですか?」
秀明がひどく冷たい目で義之を見ていた。一体どこまで知っているのかを確かめるのは怖いのに、抑え切れずに先を促してしまう。
「秀、何でそんなこと」
「緒方さんがおまえを斎藤のところへ連れて行ったんだろう?」
「ちが……義くんが家に帰るって言うから、俺がついて行ったんだ」
「緒方さんは、おまえを連れて来るように言われてたんだろう?」
「そんなことない、会ってる時に電話がかかってきて、義くんは帰るって言っただけだよ」
「ついて来るように言われたんだろ?」
「そうじゃない、俺が勝手に……」
必死に庇おうとする里桜を制して、義之は信じられないことを言った。
「里桜、もういいよ、彼の言ってることは間違ってない」
まるで他人事のような義之の態度に、秀明はますます怒りを募らせる。
「あんたは自分が何したかわかってるんですか?」
「後悔していないと言えば嘘になるけど、結果的にそれで里桜が僕の許に来たわけだしね」
そこまで言われて、漸く里桜にも、義之が庇ってくれていることに気付いた。できれば慎哉には隠しておきたかった真実は、これ以上傷付けたくなかったからなのに。もうそれは叶わないと知ったのは、黙って聞いていた慎哉が辛そうな視線を義之に向けたからだ。
「緒方さん、俺もずっと気になってたんですが……俺のせいで里桜をひどい目に遭わせてしまったことは、本当に後悔してもしきれないと思ってます。でも、その場に居合わせたあなたが、どうしてそんなに平然と里桜の傍にいるんです?」
「平然と、と言われるのは心外だけど……強いて言えば、里桜の望みと僕の望みが一致したということかな」
「とっくに相思相愛だったと言いたいんですか?」
「そうじゃないよ、里桜は最初から恋人がいると言っていたからね。まさか取れるとは思ってなかったよ。剛紀のことがなければ、里桜につけ入る隙はなかっただろうしね」
里桜を庇う言葉は、言うほどに義之を悪役にしてしまう。義之の誘いを一度として断ることなく会い続けていたのは里桜の身勝手だったのに。
「里桜の気持ちが俺にないのは知ってました。里桜は俺と居ても上の空だったり、授業を抜け出したりしていたし、そうかと思えば投げ遣りなくらい無防備になったり……まさか相手が緒方さんだとは思ってもみなかったけど」
「晩熟な里桜を口説くのは、そう難しいことじゃなかったからね」
「……どうして、俺から奪うだけにしてくれなかったんですか?」
辛そうな慎哉を見ると罪悪感で胸が痛くなる。慎哉が里桜を思ってくれていたことも、大切にしてくれていたことも知っていたのに。
「自分が剛紀にしたことと同じことをされたとは思わないのか?」
小さく息を吐いた慎哉が、意を決したように強い瞳を義之に向けた。
「言い訳がましいと思って黙ってましたけど……斎藤がつき合ってた人が学校を休んでたのは、悪阻(つわり)がきつかったのと中絶したからです。もちろん、父親は俺じゃない」
「100%避妊出来ていたと言い切れるものかな?」
「俺が中学の時に遊んでた相手が大学病院に勤めてる人で、ふざけて俺の精液を調べると言って採ったんです。ただの悪戯のはずだったのに、調べてみたら、俺には精子がなかった」
瞬間的に空気が固まった。淡々とした慎哉の態度にひどく違和感を覚える。
「だから、遊んでたのか?」
「遊んでたのは元からですけど……うちの両親は籍が入っているというだけで、お互い別の相手がいるような人たちだったから、当たり前みたいに俺も乱れてたのが、輪をかけて酷くなったというか」
「その話は美咲にもしたのか?」
怖い顔をした義之の声は心なしか掠れていた。
「美咲さんに妊娠しているようだと言われてすぐに同じような話をしました。それに、俺は誰が相手の時でも、生でやったことはないし」
「それで、自分は父親じゃないと言ったのか?」
「そうです。美咲さんから伝わってると思っていたし」
「僕は今初めて聞いたよ。ちゃんと話してくれていれば、拗れずに済んだのに」
そうしたら、義之は今でも美咲と上手くいっていたのだろうか。里桜は義之に出逢うこともなく、慎哉と本当の恋人になっていたのだろうか。
考えれば考えるほど、里桜は最低な人間になってしまいそうだった。他の人の不幸の上に今の自分の幸せがあって、あれほど怖かったはずの経験さえ、そのおかげで義之の傍にいられるのだと思うと必要だったような気さえしてしまう。
「……そのことは剛紀にも?」
「里桜のことで斎藤に呼び出された時に全部話しました。すぐには信じなかったけど、別れた彼女が休んでいた本当の理由とか、美咲さんのことを話してるうちに事実だと認めるしかなくなったんだと思います。里桜に謝りたいとも言ってましたけど、悪いと思ってるなら二度と顔を合わせないように言いました。里桜が恐怖症にかかったようだと聞いていたから」
「慎……ごめん、俺、何も知らなかった」
「謝らないでくれないかな……原因を作ったのは俺なんだから。俺がいい加減なことをしてなかったら、里桜は辛い思いをせずにすんだのに」
今にも和解できそうに思えた雰囲気を、ただひとり好戦的な俊明が壊そうとする。
「要するに、高橋がちゃんと説明してれば、里桜は被害に遭わずに済んだってことだよな」
「秀……」
「それに、高橋の事情を知らなかったからといって、関係ない里桜をそんな風に巻き込んでいいわけないでしょう、緒方さん」
「僕も一生連れ添うつもりだった人を失くしたばかりで、冷静な判断が出来なかったんだよ」
「いい大人が何言ってるんですか。もし里桜が自殺でもしたらどう責任を取るつもりだったんですか」
「正直、そんな事態が起こるかもしれないとは考えもしなかったよ」
恋人がいるのに他の男の誘いに簡単に乗ってしまう里桜を軽いと思っていたらしい義之には、そんな風に思い詰めるかもしれないとは考えられなかったのだろう。そう言われた時のことを思い出すと、また悲しくなってしまう。
「里桜、いい加減に目を覚ませよ?おまえにだって、緒方さんがひどい奴だってわかっただろう?」
「ごめん、秀……でも、何て言われても、俺が義くんを好きなのは変えられないから。もし別れたら死んじゃう」
「落ち着けよ?里桜だって、冷静になれば緒方さんがどれほど狡い奴か気が付くはずだ」
「……ずるいのは、俺の方だもん」
「里桜」
遮ろうとする義之に首を振った。できれば誰も傷付けたくないと思って嘘を重ねてきたが、それで義之を失うくらいなら他の誰を傷つけても構わない。そんな強い感情が自分の中にあるなんて、今まで思いもしなかった。
「慎に黙って義くんと会ってたのは俺の意思だし、あの時だって、俺が部屋についていかなければ何も起こらなかったんだ。いくら俺が子供だからって、一人暮らしの男の人の部屋についていったら何をされても文句言えないってことくらい知ってたよ」
里桜はあの時、いつもの義之とは違う不穏な気配を感じていた。それでも、抗い難い引力に逆らう気にはなれず、義之についていってしまったのだった。もしかしたら、深層心理では、何かが起これば関係を壊せると思っていたのかもしれない。
肘を引かれて、義之の方を振り返った。見つめ合う瞳はこんなにも真摯なのに、どうして周りは非難をくり返すのだろう。
「里桜、それはレイプされる方にも原因があるっていう誤った考え方と一緒だよ。そんなことはないんだ、無防備だったからといって、やっていいことじゃなかった」
「ううん……俺、相手が義くんだったら嫌じゃなかったと思う。あんなことになる前から慎を裏切ってた。だから、罰が当たったんだよ」
「そうじゃない、たとえどんな事情があったとしても、僕も剛紀もやっちゃいけないことをしたんだよ。君は僕を恨むのが当たり前なんだよ」
「でも、俺はその後で義くんにしてって言った。あんな状況じゃ、義くんは断れるわけないのに……帰りたくないって言って家に置いてもらって、恋人にしてもらって、つけこんだのは俺の方だよね」
「そうじゃないよ、どうして里桜はそんなに自分を責めるのかな」
「義くんから見たら俺は子供なんだろうけど、自分で選んだことを人のせいにするほどは子供じゃないよ?」
「どう言えば里桜のせいじゃないってわかってくれるのかな……」
義之の困り果てたような顔を見るのは初めてかもしれない。普段の義之なら簡単に里桜を言いくるめてしまう。でも、里桜には自分にも非があったことがわかっていた。危険だとわかっている事態に近付かなければ傷付かずに済んだのだから。
お互いを庇い合う口論が、更に慎哉を傷付けてしまうことに気遣えないくらい、里桜は義之のことしか考えられなくなっていた。これからも慎哉と普通に接したいと思っていたのに。
「里桜にはまともな判断ができなくなってるんだな」
呆れたような、諦めたような秀明の言葉に、義之以外の誰にも言わないつもりでいた言葉が、堪え切れずに口をつく。義之が酷いのなら、里桜も同罪だった。
「……だって、俺は最初から義くんが好きだったんだ」
「里桜」
信じられないものを見るような秀明に、里桜は覚悟を決めた。
「もし俺と友達でいるのが嫌だったら、そう言ってくれていいよ」
「俺まで捨てる気か?」
「俺じゃなくて、秀が俺のこと嫌になったんだろ?」
どちらか一人しか選べないのなら、義之を取る。それは里桜が自覚する以前から決まっていたことだったような気がした。
「……おまえが急にしおらしくなって、仕草や言葉遣いが綺麗になったのも全部、緒方さんのせいだったんだな」
それが秀明のせいいっぱいの譲歩らしかった。




「義くんも、俺のこと嫌になった?」
慎哉の部屋を後にして義之と二人きりになると、里桜は堪え切れずに小さな声で尋ねてみた。
もしそうだと言われたら、胸が潰れてしまうと思うのに。
「まさか。里桜がそんなに僕を思ってくれていたとは知らなかったから嬉しいよ」
足を止めて里桜を抱きしめる腕の強さは、同じくらいわがままなのかもしれない。
「ありがと」
その優しい人は今は里桜のものだと実感したくて、ギュッと抱きしめ返した。



- 仔猫は一途に、わがままを貫く - Fin

【 (5) 】     Novel  


これで慎の好感度が下がったらどうしよーと青褪めつつ、当初の予定通りお話を進めてしまいました。
ほんと、うちにはどうしようもないキャラばっかりのような気がします。
一応、これで伏線というか、隠し設定は全部出し終わりました。
というわけで、こちらも本編は一段落します。長らくおつき合いありがとうございました。