- 子猫を手懐ける方法 -



「鈴木」
名前を呼ばれて、反射的に振り向いた。
いわゆる濁声に近い威圧的な声に聞き覚えはなく、いつの間にか真後ろに立っていた大きな体躯にも見覚えはない。
「2年の斉藤って言うんだけど」
丁寧に名乗るくらいなのだから、やはりその男と面識はないはずで、そうでなくても入学して3ヶ月余りでクラブにも所属していない里桜(りおう)に上級生と接する機会はあまりなく、何かをしでかしたとも思えなかった。
にも拘らず、相手は淡いティーブラウンの長めの前髪越しに、鋭い瞳で里桜を見下ろしていた。背はかなり高く、小柄な里桜より30センチくらい大きそうな気がする。
「何ですか?」
「高橋と仲良いって聞いたからな、耳に入れておきたいことがあるんだ。ちょっとつきあえよ?」
その言葉に含まれた物騒げな気配に、里桜と一緒にいた友人の二岡秀明(におか ひであき)の方が敏感に反応する。
「俺たち、移動で美術室まで行かないといけないですけど、長くかかりますか?」
「おまえ次第かな。あんまり人に聞かれたい話じゃないと思うけど、いいのか?」
会話を引き受けようとした秀明にではなく里桜に問い直すのは、どうやら秀明には外してもらえという意味らしい。
「ごめん、先に行っててくれる?」
「里桜?」
里桜の名前は正確には“りおう”と読むのだが、呼びにくいのか、たいてい“りお”か、“りおう”との中間くらいの呼び方をされることが多い。この友人はきちんと“りおう”と呼ぶ少数派だ。
「大丈夫」
少しの強がりで友人を安心させるように笑ってみせる。秀明は心配そうな表情を崩さなかったが、里桜が翻しそうにないと悟ったらしく、渋々ながら頷いた。
「わかった」
訝しげな視線を斉藤に投げてから、秀明が2人から離れてゆく。
「ついてこいよ」
「あの、ここじゃダメなんですか?」
人目につきやすい渡り廊下なら危険度は低いだろうと考えていたから、場所を変えるのは躊躇われた。
自分でも、いちいち防衛本能を働かせるのは自意識過剰だと思う。でも、電車に乗るたび痴漢に遭うような里桜にとっては、警戒することは身を守るうえで最も大切なことだった。付き合い始めたばかりの恋人の高橋慎哉(たかはし しんや)にも、常々気をつけるよう口喧しく言われていて、里桜は同年代の女子の比にならないくらい、男友達に対しても身構えて接している。
その警戒心の強さは、少なくとも目の前の男には異常だと思われたらしい。意味ありげに笑う顔は、慎哉と里桜の関係も知っているに違いない。
「知らない男と2人っきりになるのが怖いのか?」
「そういうわけじゃないです」
知らずにムキになって否定する里桜を、斉藤はからかうように見る。そうでなくても体格の良い相手に対する苦手意識は強い方だったのに、この男といると更に悪化してしまいそうだった。
「じゃ、構わないだろう?聞いておいた方がおまえのためだと思うぜ?」
斉藤の纏う空気の不穏さに不安が煽られる。でも、振り切って立ち去る気にはなれなかった。無視すれば、きっと慎哉に不利なことが起こるのだろう。
先に歩き出した斉藤の後を黙ってついていく。グラウンドに出ようとしているのは、運動部の部室棟に向かっているのだろうと、何となく想像はついた。昼間は誰も使わないはずの部室に連れて行かれることには抵抗があったが、グラウンドには既に次の授業らしい上級生の姿も増え始めていて、この状況で嫌だと言えばますます馬鹿にされてしまいそうだった。
バスケ部の所属なのか、慣れた風にドアの鍵を開ける。更衣室を使う時によく感じる、里桜にはあまり馴染みのない、体育会系独特の男くささについ顔を顰めてしまう。
「適当に座れよ?」
言葉とは裏腹に、広くはない通路を先に通されて壁際のベンチに追い込まれると、そこへ座らざるをえなくなった。里桜は自分では機敏な方だと思っているが、今もしものことがあったら斉藤の横を通り抜けて逃げ切れる自信はない。
「おまえ、高橋とつきあってるんだろ?」
断定的な問いかけに、それでも肯定できずに目を逸らした。それなりに有名な2人の関係は、今更隠しても無駄なくらい周囲に知れ渡っているのだったが。
「俺、前に付き合ってた女を高橋に取られたんだ」
斉藤は、里桜が返事に詰まるようなことばかりを言う。来たばかりだというのに、既に里桜は斉藤の話を聞こうとしたことを後悔し始めていた。
視線を足元に落としたまま、どうやってこの場を無難に切り抜けるかを考える。
里桜が答えに窮するのは、斉藤の話がまんざら言いがかりではないからだった。里桜とつき合う前から、慎哉がモデル並みの容姿だというのは校内で知らない者はいないくらい有名で、同時にその女癖の悪さでも名を馳せていたのだった。
だから、慎哉が里桜を口説く前には相当遊んでいたことも知っているし、その噂の内容が誰かの女を取ったとか人妻とつきあっているとか、モラルに欠ける内容だということもわかっていた。実体験でも、里桜を口説いて口説いて根負けさせたパワーを考えれば、斉藤の言葉の方が真実味があるのは事実だ。
もちろん、だからといってそれが慎哉と別れる理由にはならないが。
「高橋の方は本気じゃなかったみたいだけどな。恵理の方はショックで学校を1ヶ月も休んだんだ。危うく退学するところだったんだぜ」
同じ1年生で1ヶ月も学校を休んだ人物を思い浮かべるのは難しくなかった。すらっと背の高い、ちょっと冷たい感じのする美人だ。
「それを俺に聞かせてどうしろっていうんですか?」
仮に真実だったとしても、里桜には関係のない話で、少なくとも、責任を取るような立場にはないはずだった。
「あんな男やめとけって忠告してやってるだけだ。あいつは誰にも本気にならないって有名だぜ。ちょっと綺麗だからっていい気になってたら、あっという間に飽きられるぜ?」
そんなことを人に言われるまでもなく自覚している。今までさんざん女の子との噂を撒き散らした慎哉が男を口説くなどというのは初めてで、晩熟な里桜が思い通りにならないことで余計に執着が深まっているのだろうということもわかっている。そういったことも含めて、断り切れずにつき合うことに決めた時点で里桜には納得ずくのことだった。
「話ってそれだけ?だったら俺……」
立ち上がろうとした肩を掴まれて、みっともないくらいにビクついた。そのまま上から押えられてベンチに戻されると、怯える気持ちがもろに表に出てしまう。やはり人気のない場所で見知らぬ男と二人っきりになったりしなければよかったと、最初から朧気に感じていた危惧が現実になったのかと思った。
「話を聞いてたのか?あいつに泣かされた女がどれだけいるのか知らないんだろう?おまえだって毛色が違うから珍しがられてるだけだ。今のうちにやめとけよ」
たたみかけるように止めを刺されて、自分の不安が外れたことに安堵するどころではなかった。
「それに、な」
里桜の顔を無理に覗き込む鋭い眼差しに心底怯えた。
「高橋に泣かされた奴の恨みがおまえに向くとは思わないのか?」
確かに、慎哉とつきあうようになってから、知らない相手から嫌味を言われたり、軽い嫌がらせまがいのことをされたことはあった。里桜にとっては、そう深刻な内容のことはなかったから今まであまり気にしたことはなかったのだったが。
「思い当たることがあるんだろう?」
「俺、誰かに恨まれてるんですか?」
「そうじゃない、鈍い奴だな」
本気で意味がわからなかったのだったが、斉藤は答えてくれそうになかった。問い直そうとした時、里桜の携帯が震え出した。
「はい」
緊張のあまり、ディスプレイを見る余裕もなく通話ボタンを押してしまっていたが、なかなか戻らない里桜を心配して秀明がかけてくれたのだった。一応、斉藤の顔色を窺いながら返事を返す。
「もうちょっとしたら行くよ」
引き留める気配のない斉藤に、了承ととって立ち上がった。目だけで挨拶をして部室を出る。そのまま電話を切らずに話しながら歩いたのは、まだ残る恐怖心に負けないためだった。





「里桜、今日、浮気してただろう?」
さらっと、聞き逃してしまいそうなくらい慎哉の口調は軽かった。
“浮気”という言葉に思い当たることのなかった里桜は、軽く首を傾げて意味を問う。もし本気で疑っているのなら、こんな人通りの多い学校帰りに話すはずがないだろうとも思った。
「2年の斉藤剛紀と2人でサボってたんだって?」
声色に少し怒気が混じっている。
里桜はようやく意味に気付いて、ああ、と短く肯定するような声を洩らした。 浮気どころか、あんな怖そうなタイプとはお近付きにもなりたくない。
里桜の反応に、慎哉の表情が険しくなる。
「あいつ、中学の時には柔道部の主将だったんだよ。気も荒いしね。そうでなくても、里桜は華奢なんだから迂闊に2人っきりになったらダメだよ」
「うん……」
慎哉はずいぶん斉藤のことに詳しいらしかった。それが斎藤の言い分を肯定しているからのような気がして、気にしないつもりでいたのに揺れてしまいそうになる。
曖昧に頷いて適当に流そうと思ったが、慎哉は追求してきた。
「で、何の用だった?」
「え……別に……」
慎哉は噂の的になってもあまり気にしているようではなかったが、だからといって不本意に耳に入ってきたことを話すのは気が引ける。少なくとも里桜に対しては誠実だと思っている今は、真実とは限らない慎哉の不名誉な過去を聞いたことは知られたくなかった。
いつもは優しい慎哉が、視線を逸らす里桜に無言の圧力をかけてくる。小柄な里桜の頭ひとつ高い位置から見下ろされると、何もかもを見透かされているような気になって落ち着かなくなった。里桜の家はもうすぐそこだったが、約束をしているわけでなくても毎日里桜の部屋に来ている慎哉とは離れようもない。
気まずい沈黙を壊したのは、不意に現れた人影だった。
「慎哉くん、久しぶり」
かなり年上の、華やかな美女が慎哉に笑いかける。少しきつめの瞳が、慎哉をまっすぐに見つめていた。
「少し話したいんだけど、いい?」
どちらにともなく問いかける明瞭な声に、思わず里桜は答えずにはいられなくなった。
「……そういえば、俺、CD買って帰ろうと思ってたの忘れてた」
踵を返そうとした里桜の腕が掴まれて、強く引き止められる。
「里桜、誤解してるだろう?」
「ううん、大丈夫。また夜にでも電話して?」
「本当に?」
「うん」
「じゃ、あんまり遅くなるなよ?」
「うん」
なるべく早くその場を離れたくて、すぐに裏道を入ってメイン道路へ出ることにした。どうやら今日はそういう日なのだろう。過去はともかく、今は里桜だけだと頭ではわかっていても、やっぱり嫌な顔をしてしまいそうで不安だった。
まだ、飽きられるほどもつき合ってはいないのに。
俯きがちに歩いていて、目の前に人がいることに気付くのが遅れた。危うくぶつかりそうになって、慌てて避けようとしてよろめいた体が支えられる。
「大丈夫?」
「すみません」
謝る里桜に笑いかける男は、思わず目を奪われるくらいの男前だった。涼しげな目元を細めて甘い声を紡ぐ唇はひどく優しげで、恋人のおかげで綺麗な顔には免疫がある里桜でも、たっぷり10秒は見惚れてしまっていただろう。
「さっき高橋に会いに行ったのは僕の妻だった人なんだけど、知ってるかな?」
「え……いえ……」
「君は高橋と仲良いんだよね?少し時間をくれないかな?」
突然のことに答えられない里桜に、人の良さそうな笑顔が少し強引に促す。
「知らない男についていったら怒られるかな?2人きりになるのが嫌なら、人の多い所でお茶でもどうかな?たぶん、君が疑問に思っていることにも答えられると思うよ」
改めて観察してみると、高そうなスーツをきちんと着こなしたリーマン風で、年は20代半ばぐらいだろうか。物腰もやわらかで、表情も穏やかで、まかり間違っても物騒なことを起こしそうな人物には見えなかった。
「少しだけなら」
断る言葉が見つけられなくて、促されるまま横に並んで歩き始めた。見上げる視線が合う位置は慎哉よりもう少し高い。ますます自分が小さく感じる瞬間だった。
「名乗るのが遅れたけど、緒方です」
差し出された名刺には、製薬企業名と医薬情報担当、緒方義之(おがた よしゆき)と印刷されてあった。名前に続いて何行かの資格らしきものが羅列されている。それがどういった職業なのかはあまりわからなかったが、何となく、その風貌によく似合っているように思えた。
「鈴木里桜です」
名刺を作っていない里桜は取り合えず名乗り、頭を下げた。
「りお?」
「いえ、“りおう”って言います。たいてい、“りお”って呼ばれますけど」
生まれてから15年の間に一体何度その会話を繰り返しただろう。
「どういう字を書くの?」
「里に桜です。その時期に生まれたらしくて」
「綺麗な名前だね。君によく似合ってる」
そんな風に言われるのも初めてではなかったが、この綺麗な男に言われると自然と頬が熱くなる。
「じゃ、4月生まれ?」
「はい、4月1日です」
「確か4月2日生まれから次の学年になるんだったね」
「そうです。ずっと小さかったから、もう1学年下でもよかったくらいなんだけど」
少し発育不良気味な里桜はとしては、もう1日後に生まれていればよかったかもしれないと、何度も思ったことがあった。
「高橋とは同級生なの?」
「はい」
「じゃ、1年生?」
「はい」
最初からあまり警戒心を持たせない義之のペースに巻き込まれていると気付いていながら、なぜか、この男前の正体なり思惑なりを聞いてみたくなっていた。
駅までの10分足らずと、電車で2駅の5分ほどをたわいのない会話でつなぐうちに、里桜の希望した辺りに着いた。
「甘いものは好きかな?」
「あんまり……」
「じゃ、どこがいいかな?何か食べたいものはある?」
「ドーナツ、とか?」
素直に答えた里桜に、少し驚いた表情を見せる。
「それは甘いものじゃないんだ?」
「俺的には……生クリームべったりとかがダメなんで……」
「じゃ、健全なドーナツの店っていったらここかな?」
里桜の言いたいことは正しく伝わっていたらしい。ミスドなら、危ない目に遭うとも思えなかった。
「どれがお勧めかな?適当に選んでくれると助かるんだけど」
どうやら、この男前はこんなにもメジャーなドーナツの店に来たことがないらしい。
「じゃ、シンプルなのがいいかな?オールドファッションとかマフィンとか?」
「任せていいかな?」
とりあえず、アイスティーを2つとオールドファッションを2つ頼んで席につく。場所の利もあって、やっと里桜の緊張も和らいできた。
「いただきます」
いつものように両手を合わせてからアイスティーにシロップを入れて口をつける。たいてい、里桜はストローは使わない。
黙って見ていた義之が、ようやく本題を切り出した。
「半年くらい前なんだけどね」
柔らかな口調で、あまり聞きたくはない慎哉の過去が語られ始める。
「仕事が忙しくて奥さんと話す時間もちゃんと取れない日が続いてしまってね。でも、浮気をしてるわけでもないし、気遣うのが疎かになってしまっていたんだ。それで、ある日気がついたら奥さんには好きな人ができてた」
それが、慎哉だった。
まだ里桜とつきあう前に、慎哉の遊び相手に人妻もいたという噂を聞いたことはある。それが、或いはそのうちの一人が義之の妻だったのだろう。ただ、半年前ということは慎哉はまだ中学生だったということになる。
あまり感情のこもらない声が続けた。
「もちろん幼い彼は本気じゃなかったし、つき合っているという認識もなかったようだよ。ひとまず彼女と僕はやり直すことにして、お互い努力したつもりだけれど、どうにも気持ちを取り戻すことはできなくてね。結局離婚することになってしまったんだ。たぶん、そのことを報告しに行ったんだと思うよ」
何と言えばいいのかわからなくて、何も言葉をかけられなかった。慎哉の代わりに里桜が謝るのも変だろうし、かといって聞きたくもない慎哉の過去を聞かせやがって、と怒る気にもならなかった。
戸惑う里桜の心情を察したのか、話している間は淡々として表情のなかった義之の顔に、人の良さそうな笑みが戻る。
「つまらない話を聞かせて悪かったね」
まるでさっきまでの会話が取るに足りないものだったかのように、義之は態度も話題も切り変えた。
「ところで、きみも城北の生徒なんだよね?」
「あ、はい」
「僕も城北に通ってたんだよ、もう10年以上昔の話だけど」
とういことは、どんなに若く見積もっても28歳以上ということになる。
「え、そうなんですか?若く見えますよね」
「頼りなさそうかな?」
「いえ!そういう意味ではなくて」
失礼になったかと思って気にした里桜を、さも可笑しそうに見る。別に気に障ったというわけではなかったらしい。
「食べようか?」
「はい」
すっかり忘れられていたドーナツを手に取った。一口食べると、とたんに空腹を思い出したようで、すぐに胃袋へと消えていってしまった。さすがに、この状況でもう一度買ってくる勇気は出なかったが、あと2つや3つは軽く食べられそうな気がする。
「やっぱり甘い物が苦手なようには見えないね?」
あっという間にドーナツをたいらげてしまった里桜には返す言葉もない。少し迷ったが白状することにした。
「ほんと言うと、すごい甘党なんです。でも、そういうとクリームがベッタリかかったケーキとか買ってくれたりして困ることがあって。だから最初は苦手っぽく言っておくことにしてるんです」
じっと見つめてくる視線に、異常なほどドキドキしている自分に気付いて焦った。綺麗な顔は慎哉で慣れていると思っていたが、義之の瞳の深さに引き込まれそうになる。
「確かに、君にはそういう印象があるかもしれないね。じゃ、具体的にはどういうのが好きなの?」
「シフォンケーキとかアップルパイとかチーズケーキとか」
「じゃ、シンプルなケーキの店をチェックしておかなくちゃいけないね」
え、と言いかけた言葉をかろうじて堪えた。次回を思わせる言葉だと気付いたからだ。
「この後どうするの?」
「少し買い物して帰ります」
慎哉に会いに来た女性から逃げ出してきた言い訳にリアリティをもたせるために、里桜はどうしてもCDを買って帰る必要があるのだった。
「一緒していいかな?」
「え、と」
「どこに行く予定?」
「CDを買いに行くって言ってきたから……」
正直に答えたのは、断る言葉が見つけられなかったからというよりは、気を許してしまっていたせいかもしれない。
「じゃ、そこまで一緒させてくれる?」
寧ろ拒む理由の方がないはずで、里桜は小さく頷いて店を出た。
あまり距離を置かずに目的のCD店がある。言い訳と言いながら、疾うに買うCDは決めてあった。
新譜の並ぶ場所に、里桜の買おうと思っていたCDが並んでいる。手に取ってタイトルを確認してからレジに行こうとした時に、すっとCDが抜かれた。
「これでいいの?」
「え、と」
言葉に悩む里桜の反論を塞ぐ微笑で、義之がレジに向かってしまう。
「はい」
支払いを済ませたCDを渡されて戸惑う里桜に、また魅惑的な笑顔が向けられる。
「オジサンのつまらない話につきあわせてしまったからね」
「そんな……俺、払います」
「知らない人に何か買ってもらうと叱られる?」
「そういうわけじゃ……」
それ以前に、オジサンだなんてとんでもないと言いたかったが、うまく言葉が見つけられなくて口籠ってしまった。里桜の知る限り、これ以上“オジサン”なんて言葉から縁遠い人はいないのではないかと思うほどなのに。
人目のある店内を気にしてか、義之に肩を押されて店を出る。入り口を避けて立ち止まった義之が、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「アドレスを聞いてもいいかな?」
「あ、はい」
慌てて開いた携帯のプロフィールを手際よく入力する長い指先にまで見惚れてしまう。絵になる容姿もさることながら、こんなにも仕草のひとつひとつにまで惹き付けられたことは、里桜の人生に於いて一度もなかった。
「ストラップ、落ちそうだけど気が付いてた?」
「え……あ、本当だ」
マスコット自体も古びて傷んできていて、金具の通された皮の所が引っ張られて今にもちぎれそうになっている。だからといって今すぐ外すわけにもいかず、そのままポケットに戻した。
「もう予定はみんな終わった?」
「はい」
アリバイ工作は終了してしまい、もうこれ以上義之と過ごす理由はなくなってしまった。
「じゃ、帰ろうか」
「俺、一人でも帰れますから」
さすがにそこまで面倒をかけるわけにはいかないと思い遠慮した里桜に、義之は困ったように笑った。
「失礼かもしれないけど、君を一人で電車に乗せるのは気が進まないよ?」
確かに、今までにも一人で電車に乗るたびといってもいいくらい、しょっちゅう被害に遭っている里桜には、それを否定することはできなかった。
「でも、反対方向だったりとかしません?」
「実は君と会った辺りに車を停めたままなんだよ」
「じゃ、一緒さしてもらおうかな」
正直、ホッとしていた。こんな混む時間帯に一人で電車に乗るのは苦手で、できるなら女性専用車両に乗りたいくらいだと常々思っていたのだから。
すっかり義之に気を許してしまっていたからか、電車を降りるまでの10分足らずの時間はあっという間に過ぎてしまった。出会った場所で別れるのも、正直なところ後ろ髪を引かれる思いだった。なぜか、初対面だったとは思えないくらい、義之の存在は違和感がなく里桜に馴染んでしまったような気がする。
それでも、家が近づくにつれて浮き足だった気分はだんだん薄れていく。
今夜の電話で慎哉に問い詰められたら何と言うかを考えると少し気が重い。嘘をつくのが苦手な里桜は、問い詰められればきっと何もかもを白状してしまうだろう。
意図せず慎哉の過去を知ってしまったことも、その相手の元夫と会っていたことも、きっと知られれば慎哉を怒らせるだろう。
少し、自分の行動は考えなしだったかもしれないと、今更ながら思い始めていた。


里桜の家が見える所まで帰って来た時、玄関先で佇む人影に気付いた。それは相手も同様だったようで、里桜を認めるとすぐに駆け出してきた。
「慎……」
夜、電話すると言っていたはずなのに、慎哉は里桜の家の前でずっと待っていたらしい。
傍まで近付くと、慎哉が先に声をかけてきた。
「やっぱり会って話したかったから」
「いつから待ってくれてたの?」
「あの後すぐだよ」
「ごめん、ずいぶん待たせちゃったよね」
慎哉が軽い立ち話で済ませたのなら、2時間近く待たせてしまったということで、しかも里桜はその間中他の男と一緒にいたわけで、遅まきながら慎哉に申し訳ないことをしたと思った。
「俺の方こそ、気を遣わせて悪かったと思ってる」
何も知らない慎哉が、思い詰めたように里桜を見つめる。
そのまま路上にいたら、近所に顔向けできないことをされてしまいそうで、里桜は慌てて家の方へ促した。
何かに急かされるように玄関の鍵を開けて慎哉を通し、2階の里桜の部屋へと直行する。
「里桜」
部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間に、背後から抱きしめられていた。
「慎?」
「怒ってたらどうしようって心配だったよ。でも、里桜は俺が思ってたほど気にしてないみたいだね?誤解されても困るけど、そんなに平気そうにされるのもつらいよ」
耳元へ、キスをされているような吐息がかかる。それだけで、心臓がバクバクと高鳴った。“つき合う”ということが初めての里桜は、慎哉に触れられるたび、甘いと怖いを行ったり来たりしているような気がする。
「慎、最初から誤解だって言ってたから……」
既に義之から二人のことを知らされていて、これ以上聞きたいことも聞かされたいこともなかった。
「信用されてると思っていいのかな?」
どこか意味深げな響きだと、気付いていながら何気なく頷いてしまっていた。
「里桜」
背後から覆い被さるように端正な顔が近づく。抗う間もなく唇が塞がれて、捩る体がいつの間にか向かい合わせに抱きすくめられていた。
「やっ」
危険を察して止めようとしたが叶わず、ベッドへと倒れ込んだ。
いつもはやさしくて気持ちの良いキスをしてくれるだけなのに、今日の慎哉は性急で、不慣れな里桜を怯えさせるような荒々しさがあった。
「いや」
逃れようと必死な里桜を、慎哉はさほど苦もなさそうに押さえ込んでしまう。
「そろそろ、もう少し先へ進んでもいいと思わないか?」
慎哉の声はやさしかったが、里桜は怖くて何度も首を振った。
「里桜が大人になるのを待っている間に、誰かに取られそうな気がして不安だよ」
とても、いろんな女性と浮名を流してきたとは思えないような真摯な眼差しで見つめられると戸惑ってしまう。それとも、これもその手口のひとつなのだろうか。
気持ちの良いキスに身を任せてしまうには里桜はまだ幼すぎた。童顔で華奢な見た目通りに里桜はかなりの晩熟で、まだ誰かを本気で好きになったこともない。いずれ慎哉がその相手になるのだろうと思ってはいるが、まだその勇気は持てずにいた。
キスに気を取られながらも、シャツ越しに慎哉の手の平を感じた。いとおしげに撫でる手は決して不快ではなかったが、里桜の体を強張らせた。
身を引こうとする里桜を放さないまま、強引なキスが一層深くなる。涙ぐむ里桜に気付かないのか、慎哉は止めてくれそうになかった。
ふいに素肌に触れてきた手に息が止まる。いつの間にか里桜のシャツの裾は引き出されていて、その手の動きと共にゆっくりと上げられてゆく。
「や……っ」
腕で押し戻そうにも、慎哉の胸板は意外なくらいに硬く、覆い被さられた体を退かせることはできない。どうすればいつもの慎哉に戻ってくれるのかわからなくて、里桜は軽いパニックに陥っていた。
溢れ出す涙で、視界が滲む。
「里桜?」
慎哉の声にも、ただ小さく首を振って拒否を訴えた。
「里桜」
宥めるように髪を撫でる手に、おそるおそる潤んだ瞳を上げる。覗きこんでくる慎哉と目が合うと怖くて、またすぐに睫毛を伏せた。
「や……」
里桜の肩へと頭を乗せた慎哉が、ため息のように重い息をつく。そのあとで、そっと抱き寄せようとする腕にはもう先の強引さはなかった。
「……ごめん。ちょっと焦り過ぎたよ。なんだか、里桜を誰かに取られそうな気がして……里桜が慣れるまで待つつもりだったのに」
里桜を口説く時にもそう言っていたのに、なぜか今日の慎哉は本当に余裕がなさそうだった。
「もう里桜が嫌がることはしないって約束するよ。その代わり、里桜も他の誰にも指一本触れさせないって約束してくれないか?」
指一本触れさせないなんて無理だと思ったが、もし反論すれば慎哉の紳士協定も守られないのだと思うと何も言えなくなる。
「里桜の最初の相手になりたい」
目を逸らしていても、慎哉がどんな真剣な眼差しを向けているのかわかっている。それを無下にすることはできなかった。
小さく頷いて、慎哉の申し出を受け入れた。
「約束してくれる?」
「うん」
指切りの代わりに交わす軽いキス。
決してその場しのぎの嘘ではなかったが、雰囲気に流されて交わしてしまった約束だったかもしれない。
結局、慎哉に会いに来た美女のことも、里桜が義之に会ったこともお互い話さないままだったことに、別れてから気が付いた。



着信メールの音に、何気なく携帯を開く。その送信者が義之だとわかって驚いた。
突然誘ってしまったことを詫びる言葉と、里桜が話を聞いてくれたことに感謝するような内容だった。
『こちらこそ、いろいろ厚かましく甘えてしまってすみませんでした。ありがとうございました。』
無難な言葉を選んで返信をする。
感慨に浸る間もないほどすぐに返信があった。
『シフォンケーキのおいしい店を教えてもらったんだけど、一緒にどうかな?』
戸惑いと期待が交錯する胸の内を、悟られないように返事を書くのは大変だった。
『今度は俺に払わせてくれますか?』
今日の借りを返すだけだという言い訳を自分にしながら。決して、浮気をしようと思っているわけではないから。そもそも、結婚経験もある義之の方にそんな気はないだろうから。
そんなことを考えている間にもう返事が来た。
『できれば午後の早い時間がいいんだけど、時間を取れる?』
隠し通そうと思っていたわけではなかったが、授業中なら慎哉に気付かれずに義之に会うことができる。
『火、水、木なら、たぶん』
何度かのメールのやりとりで、次の約束が決まっていった。ほんの少しの後ろめたさを感じないでもなかったが、借りを返すだけだという自分に対する言い訳に勝つことは出来なかった。





「ごめんなさい、待ちました?」
里桜が授業を抜け出してダッシュで来た待ち合わせ場所に、義之は疾うに来ていたようだった。決して里桜が遅れてきたわけではないだけに、少し戸惑った。
「そんなことはないよ。仕事で近くまで来ていたんだ。それよりサボらせて悪かったね。大丈夫だった?」
「はい、まだ危ないのはないし」
「まじめなんだ?」
「どうかな、自分ではあまりわからないんだけど」
まさしく今、授業をサボって来ている立場では肯定するわけにもいかず、曖昧に返すしかなかった。
「車で来たんだけど、いいかな?」
わざわざ確認を取るのは、最初に警戒心を丸出しにしていた里桜を気遣ってくれているかららしい。当の里桜は、いつの間にか、不思議なくらい警戒する気は起こらなくなっていたのだったが。
「はい」
けれども、すぐ傍の駐車場に案内されて、助手席のドアを開けられた時には正直驚いた。
「すごい車に乗ってるんですね」
漆黒のランサーエボルーション\。いかにも車好き、もしくは走り屋を連想させるその車は義之の印象とは少し違う感じがした。
「そうかな?専ら街乗りだからたいして弄ってないしね。もう少し高級車っぽい方がよかったかな?」
「とんでもないです」
高級車というグレードではないかもしれないが、充分に高い車だということくらいは知っている。
「安全運転を心がけているしね、心配しないで」
「はい」
実際、そんな心配をするまでもなく、ほんの10分足らずで目的地に着いた。
どうやら、手作りのシフォンケーキとクッキーの専門店らしい。
外見も店内もカントリーな雰囲気で統一されていて、スーツ姿のリーマンと制服姿の高校生の2人連れは明らかに浮いてしまっていたが、メイド風のユニフォームを着た店員は気にした風もなく、窓際の席に案内してくれた。
少し気恥ずかしくて、勧められるままアールグレイのシフォンケーキとアイスティーを2つ注文した。
「君に似合いそうだね」
すぐには何を言われたのかわからなくて首を傾げたが、義之の視線の先にいる店員を見て、もしかしてと気付く。
「あのピンク色のエプロンドレスですか?」
「ここにいる誰より似合うと思うよ」
まじめな顔で断言されると、からかわれているわけでもなさそうで返事に困った。
「やっぱりそういう印象があるのかなあ。俺、宿泊研修のキャンプファイヤーの時にやらされたんですよ、不思議の国のアリスのコスプレ」
「似合いそうだね。写真とかある?」
「もしあっても見せません」
思わずきつい口調になってしまったが、義之は可笑しそうに笑った。
「そのあと男子に追いかけられたりしなかったかい?」
「っていうか、それがきっかけで慎とつき合うことになったんだけど」
当時、慎哉はクラスの違う里桜のことを知らなかったらしく、最初は女の子だと思って口説きに来たのだった。誤解だとわかっても、一目惚れだと言って何度も何度も口説かれるうちに、とうとう根負けしてしまったような感じでつきあうことになった。年齢以上に幼い里桜に合わせてくれるという条件でつき合いが始まって、まだ1ヶ月あまりしか経っていない。
少し驚いたような顔をされて、ようやく里桜は慎哉とつき合っていることをはっきり言ってしまったことに気が付いた。
「ますます見てみたくなったよ」
余計なことを言ってしまったかと思ったが、義之の反応は里桜の想像したものとは違っていた。義之はそういったことに偏見はないのか、或いは、最初からその可能性を考えていたのかもしれない。
それでも何か言おうとした里桜の前を、シフォンケーキの乗った白い皿が横切る。
「お待たせしました、アールグレイのシフォンケーキとアイスティーになります」
同じ物が2つずつテーブルに並べられるのを待っているうちに、言い訳じみた何かを言う気はそがれてしまった。
「あまり時間もないことだし、先に食べようか?」
「はい。いただきます」
きちんと手を合わせてからフォークを取る。ふわりとした生地はかなり里桜の好みに合っていそうだった。
ささやかな幸せに浸る里桜を見ていた義之が、さりげなく話しかける。
「あれから、高橋は何か言ってた?」
どうやら、話題を変えるきっかけを待っていたのは義之の方だったらしい。今更ながら、本題はそちらの方だったことを知る。
自覚のない失望に、すぐには言葉が出てこなかった。正直に、そのままを話す。
「ごめんなさい、俺、何も聞いてないんです」
「喧嘩はしなかったの?」
義之はひどく驚いたようだったが、里桜にはその方が不思議だった。別れた相手が離婚の報告に来るというのは、喧嘩しなければならないほど大変な事態なのだろうか。
「別に喧嘩するようなことじゃないから……」
「ずいぶん物分りがいいんだね」
嫌味ではなかったのだろうが、胸に刺さる言葉だった。里桜はまだ、そんな風に問い詰めたり拗ねてみせたりするほど恋愛に慣れてはいなかった。
「それとも、直接聞くのは怖い?」
里桜が言葉に詰まったのはそういう理由ではなく、義之の不興を買いそうな気がしたからだ。
「この間、慎には言ってないんですけど、先に話を聞いてたでしょう?だから特に聞かなくてもいいかなって……」
里桜の知る限り、それは過去のことだった。今更それを慎哉の口から聞いてもお互い良い気がしないだけだと思い、敢えてその話題は避けていた。
「意外とドライなんだね」
侮られてしまったのだと悟っても、言い繕う言葉は思いつかなかった。
少しの沈黙の後、義之の方はこれ以上その話を続けるつもりはないらしく、いつもの優しい表情で話題を変えた。
「で、ここのケーキは君の口に合った?」
「はい」
「外さなくてよかったよ。情報提供者と君の好みは合うようだ」
その情報提供者の方が気になると言えば、もっと顰蹙をかってしまうだろうか。
「女の人の情報網はすごいですよね。どこから仕入れるんだろうって思うことあります」
「じゃ、君も女の子に聞くの?」
ということは、やはり義之の情報源も女性らしい。
「俺はたいてい母親かな?甘党なのも影響受けてると思うし」
「君はお母さん似?きっとお母さんも美人だろうね」
「そんなことないです。でもお母さん若いから、姉弟?とか言われることありますけど」
「もしかしたら、僕は君のお母さんとの方が年が近いのかな?」
「どうなのかな?お母さん、37歳ですけど」
「じゃ、お母さんとは9歳違いかな?会ってみたいな」
軽口に過ぎないのだろうが、胸の奥がちくちくする。
どうやら、里桜は義之が思っているほど物分りが良い方ではないらしい。
「時間、大丈夫?」
言われて慌てて時計を見る。もう、6限の終業間近になっていた。
「あっ……ちょっとヤバいかも」
HRが終わるまでには帰らないと慎哉に知られてしまう危険が高くなる。せっかく、秀明に口止めしてきたことがムダになってしまいかねない。
「学校まで送ってもいいかな?」
「すみません、助かります」
躊躇う時間が惜しくて、義之の申し出に甘えることにした。
店を出て車に近づくと、さっき乗せてもらった時と同様、義之が先に里桜の方のドアを開ける。
「あの、自分で閉めます」
気恥ずかしさに断ったつもりが、有無を言わせぬ笑顔を向けられると魅入られたように言葉を失くす。女性扱いされているのかも、と思わないでもなかったが、素直に親切だと受け止めることにした。
「そういえば、携帯のストラップ、変えた?」
義之が運転席に乗り込んですぐに尋ねられた。
「え?いえ、まだ」
たった今まで、外れそうだと指摘されていたことさえすっかり忘れてしまっていた。
「よかったら使ってくれないかな?」
差し出された小さな紙袋を、受け取る理由が里桜にはなかった。
「好みに合うといいんだけど」
里桜が返事に困っている間にそんな風に言われると、ますます断りづらくなってしまう。
「でも、俺、買ってもらってばかりになっちゃうし」
「これだけ年が違ってれば僕が払うのは当然だよ?それにそんな気にしてもらうような高価なものじゃないしね?」
そこまで言われると、無下に付き返す方が失礼かもしれないという気にさせられる。
「すみません、じゃ、使わせてもらいます。でも、もう俺に何も買わないでくださいね」
申し訳なさから言った言葉が、逆に次の約束を催促することになったかもしれないと、後から気付いた。
「じゃ、今度からは遠慮しないで僕に払わせるようにね?」
「はい」
それを軽く受け止める義之の言葉に、結局、肯定の返事をしてしまっていた。どう足掻いてみたところで、一回り以上年上のその秀麗な人の引力に抗うことはできそうにない。
「開けてみてもいいですか?」
「どうぞ」
淡いバイオレットの鎖のついた猫のストラップは、里桜が今使っているのと同じワチフィールドのものだった。思わず顔が綻んでしまう。
「ダヤン、好きなんです」
「財布にもついていたね」
「え、ええ」
いつの間に、と問いそうになった。どうやら義之はかなり観察力が鋭いらしい。
追求したかったが、元々近場だったせいでもう学校の見える所まで来てしまっていた。
「前までは行かない方がいいんだったね?」
「はい、ありがとうございました」
名残惜しさをなるべく表面に出さないように気をつけながら義之に挨拶をして別れた。振り返らなくても、見送られているのがわかる。背中まで緊張させたまま、里桜は教室へ急いだ。





「あ、ん」
状況を考えずに無防備になってしまうくらい、里桜は上の空になっていたのかもしれない。
慎哉の整った顔立ちは、どこか義之と似通ったところがあるなあと思ったのがきっかけで、無意識に頭の中で二人を比べてしまっていた。
長い指も、細身で背が高いところも、慎哉は義之を思い出させるから。やさしげだった義之も、こんな風に壊れ物を扱うように触れるのだろうか。でも、慎哉と同じならキスをする時には見た目より情熱的なのかもしれない。
目を閉じていたせいで、慎哉といるのだという意識が希薄になってしまっていた。気付いた時には慎哉の膝に座らされて、布越しにとはいえ胸元を撫でられていた。
「里桜」
甘い声が、里桜の理性を奪ってしまうようだ。体の奥が疼くような感覚に思わず慎哉の首筋へしがみついた。
好きだとか、きれいだとか、繰り返されるキスの合間に囁かれる言葉も耳に慣れていて、その深刻さをつい聞き逃してしまいそうになる。
「ぁんっ」
弄られているのは胸なのに、別の場所まで反応しているらしい。焦って身を捩ったが、ますます熱は上がっていくばかりだった。
隠そうとする思いを見透かされたように慎哉の指が触れる。引こうとする腰を抱き寄せられて、もうこのまま流されてしまうかに思えた時、慎哉がからかうように囁いた。
「今日は怒らないんだ?」
気恥ずかしさに、慎哉の胸元を拳で叩いた。
「余計なことを言ったかな」
小さく首を振る里桜の髪にそっと口付けて、やさしい腕が抱きしめる。
「待つって言ったしね、フェアじゃないことはしないよ?」
慎哉のやさしさに感謝するより、いっそ流されるままに奪ってしまえばいいのにと思う自分の支離滅裂さに戸惑った。
「里桜、夏休みの予定はもう入ってる?」
「ううん。まだ、お盆におばあちゃんちに行くくらいかな?」
「俺はバイトしようかどうか迷ってるよ。もし里桜にあまり会えなくなったら嫌だしね」
「どういうの?時間、長いの?」
アルバイトなどしたことのない里桜にはあまり実感がなく、まして恋人との夏休みの過ごし方についてはそれ以上にピンと来ない話だった。
「春休みにレンタルでバイトしたんだけど、夏休みも来ないかって誘われるんだ。時間は8時間くらいかな?でもシフトに入れば深夜までの時もあるよ」
「そうなんだ……俺、バイトとかしたことないからわかんないけど、休みもあるんだよね?会えないってことはないんじゃない?」
「少しムリを言うかもしれないけど、合わせてくれる?」
「うん?門限以外なら」
「やっぱり門限の延長とか外泊はムリかな?」
「それは絶対ムリだよ。休み中の方が厳しいもん」
家庭内でも慎哉とのことをオープンにしているせいか、単に過保護気味なせいか、同級の女子と比べても里桜の親はかなり厳しめだ。
「ホント、里桜の家は厳しいんだな」
「ごめん」
「少しでもいいから毎日会える?」
「うん」
やさしく抱きしめられるのは好きだ。軽めのキスならうっとりとするくらい気持ちがいい。でも、それは里桜が慎哉を好きになっているからなのか、こういったことに慣れている慎哉が里桜を扱うのが上手いからなのかはわからない。
慎哉に告白された時、里桜は自分があまりにも幼すぎるからつきあえないと断った。だんだん慣れると言って笑った慎哉の目に、里桜は少しは成長しているように写っているのだろうか。
里桜には、まだ好きというのがどういうものなのかさえわかっていないと思う。それとも、明確に自覚がなくても、好きというのはこういう感じなのだろうか。
答えを見つけられないまま、慎哉の背中をギュッと抱きしめた。





いつも音を消している携帯が制服のポケットの中で震えた。
サブディスプレイに表示される名前を見ただけで、思わず顔が綻んでくる。
『アイスは好きかな?かなりお勧めらしいんだけど』
今までは夜にしか来たことのない義之からのメールが、珍しく1時限の終わったばかりの10分の休憩に届いた。まるで、時間を見計らったように良いタイミングだ。
『かなり好きです』
お互い、メールの文章は簡潔だった。短い時間でやりとりができるし、今の里桜のようにやや後ろめたい気持ちでもあまり支障なく打つことができる。
『今日か明日だと急過ぎるかな?』
『どちらでも行けます』
『じゃ、急だけど今日は?』
『大丈夫です』
『じゃ、この間別れた場所で1時半に』
『了解です』
さすがに10分ではムリだと思ったが、教科担当が来るのが遅かったおかげで、授業が始まるまでに約束をし終えた。
いつもは退屈な50分が、午後の予定が決まったせいで上の空のうちに終わってしまう。
「高橋か?」
斜め後ろの席の秀明の声に振り向く。
「ううん。午後の体育抜けるから体調悪いって言っといてくれる?でも慎には内緒にしといて」
「またかよ?おまえ、浮気でもしてんのか?」
思いがけない一言にドキリとする。でも、義之の方にはそんな気はないだろうし、こういうのは浮気とは言わないはずだ。
「そんなんじゃないよ。炎天下は苦手だし見逃して?」
「こんなに頻繁だと、そのうち高橋にバレるぞ?」
「別にバレて困るようなことはしてないよ?でも、慎は心配性だし、いちいち言い訳するの面倒だし」
「ひどい奴だな。あいつ、おまえとつき合うまでは遊んでたかもしれないけど、今は一途だと思うぜ?」
やましくないと言いながら、胸が痛むのは何故なのだろう。
「わかってるよ。だからつき合ってるんだし」
「おまえが小悪魔に見えるのは気のせいかな」
ため息交じりの秀明の言葉を無視して前を向く。短い休憩時間は終わり、次の教科担当が教室に入ってくる。
浮かれる気持ちを諫めながら、平常心を装う。それが既に裏切っているせいなのだと、里桜はまだ気付いていなかった。





車に乗ってから約15分。
あまり道路事情に詳しくない里桜には、主要道から外れた山道を走るのは少し不安だった。
里桜の心配をよそに、義之の方は至って平静にセンターラインもないブラインドコーナーをスムーズに走行させている。重心の低い車の方も、助手席の里桜ほど遠心力を感じていないようだ。
どうやら義之は車の運転はかなり上手いらしかった。心なしか楽しげに見えるのは、やはり走り屋だったのかもしれない。
白くペイントされた木の案内看板に従って、更に狭い道を入る。里桜は知らなかったが、それなりに大規模な牧場らしい。
広い駐車場の半分近く車が停まっていて、平日だというのに子供連れの人でかなり賑わっていた。羊やウサギなどに触れるコーナーと手作りアイスの店は家族連れをターゲットにしているらしい。
里桜の目当てのアイスの店には2か所のレジに10人ほどの列ができていた。とりあえず並んでからショーケースを覗く。オーソドックスなものや季節限定のフルーツのアイスも合わせると30種類くらいありそうだった。
「めっちゃ迷いそう」
「いくつか盛ってもらおうか?」
選ぶのに苦労している里桜の気持ちを察しているらしい。
「悩むなあ」
「全部頼んでもいいよ?」
真剣に悩む里桜に、まんざら冗談でもなさそうに笑いかける。といっても、現実問題としてそれは不可能だった。
「とりあえず季節限定のにしようか?定番商品ならいつでも食べられるしね」
「はい」
結局、ミルクとスイカと甘夏をカップに盛ってもらい、席についた。
溶けないうちに、と言われて少し急いだ。甘い物を食べている時にはいつも幸せを感じているが、義之にじっと見つめられると恥ずかしくなる。きっと、アイスくらいで幸せに浸れる里桜を子供っぽいと思っているのだろう。
「後で住所を書いてもらっていいかな?」
「え?」
義之の差し出した配送伝票の意味がわからなくて見つめ返した。
「持って帰るわけにいかないだろう?送るよ」
義之が目で示した方向に、“発送承り窓口”と書いたカウンターがあった。何人かの客が並んでいる。どうやら、選ぶのに悩みまくった里桜に、義之は他のアイスも買ってくれる気になったらしかった。
「そんな、俺、困ります」
「かなり好きなんじゃなかったかな?」
「そりゃ、好きだけど」
だからといって、それなりに値の張る産直アイスの詰め合わせを買ってもらう理由がない。
「君がおいしそうに食べるのを見ていると、何でも買ってあげたくなるんだよ」
確かに、義之は里桜が食べている時にはいつも嬉しそうな顔をしているが。
「ほら、早く書かないと間に合うように帰れないよ?」
笑顔で脅迫されて、また義之に貢がれることになってしまった。





「里桜はテスト勉強とか真面目にする方?」
期末テストまであと1週間。
いつものように慎哉と帰る道すがら、問われるままに何気なく頷いた。
「うん。俺、数学とかやばいし」
「やっぱり里桜は真面目だな。俺、数学は得意だし教えようか?」
理数系は強いらしい慎哉に教えてもらうとなると、里桜があまりにも数学が(本当はそれだけではないが)できないことがバレて呆れられてしまいそうだ。
「でも、慎のジャマになっちゃうなんじゃないかな?」
「そんなことないよ。それに俺は少しでも一緒にいたいしね」
慎哉はそんな言葉も、いつも何のてらいもなくごく自然に口にする。それほど深い意味はなかったとしても、やはり断るのは気が引けた。
「じゃ、少しだけ」
「少しじゃなくて、ずっと一緒にいたいんだけどね」
まっすぐに目を見て、どんな言葉も何のテレもなく言い切れる慎哉が少しうらやましくなる時がある。里桜にはどうしても言えそうにないのに。“好き”のたった一言さえ。
「俺、ホントに凄い苦手なんだけどいい?」
「いいよ。俺も偉そうに言って里桜の方がよくできたら辛いしね?」
「絶対そんなことないから安心して」
いつものように、慎哉はそのまま里桜の家に寄った。もう、確認したりするまでもなく二人の決まりになっていた。
「そういえば、里桜、今日の体育の時どうしてた?」
「え?」
「今日ソフトやってただろう?里桜の姿が見えなかったから」
うっかりしていたが、慎哉の教室からはグラウンドがよく見えるらしかった。以前にも、里桜が転んだのを見られていたことがあったりしたのをすっかり忘れていた。
教室の離れた慎哉には、里桜が授業を抜けて義之に会いに行っても気付かれないと思いこんでいたが、甘かったらしい。
「貧血っぽかったからサボっちゃったんだ。俺、炎天下は苦手だし」
とっさの嘘が口をつく。後ろ半分は真実だからか、自分でも意外なくらい言葉はスラッと出てきた。
「暑気あたりかな?熱はない?」
心配げに額に額を寄せてくる慎哉にドキリとして身を引いた。
「も、全然大丈夫だから」
「本当に?」
吐息のかかる距離で囁かれると、顔が火照ってしまう。それを知ってか知らずか、その腕の中へと抱きこまれる。
「少し熱っぽい気がするね」
それは、慎哉に触れられたせいだ。
「休んでた方がいいよ。着替える?」
「ううん、ホント、大丈夫だから」
「ムリしちゃダメだよ」
今更、嘘だったと言うわけにもいかず、勧められるまま休むことにした。
「じゃ、ちょっと横になるね」
シャツの首元のボタンを2つ3つ外して横になる。制服のままでは皺になりそうだったが、慎哉の前で服を脱ぐのには抵抗があった。
「里桜は色が白いな」
頬に触れた慎哉の手が首筋を滑る。
「慎?」
まさか、ムリをするなと言った慎哉が何かを仕掛けてくるとは思わなかったが、無意識に体が強張ってしまう。
「ごめん、キスしていい?」
「うん?」
いつも断ったりしないのに、と思った時その意味がわかった。
「ひゃっ」
思わず首を竦めて声をあげた。
髪を払われて晒された首筋に唇が触れ、柔らかな舌に舐められただけで、体の芯に火を灯されるような気がする。緩く吸われた襟足に神経が集中して、思考が上手く回らない。
「や、ん」
慎哉の胸を押し返そうとする腕に力が入らない。いつの間にかシャツの合わせが開かれて、肩の方まで露になっていた。
「里桜はどこもキレイだな」
囁く声にさえ、肌が過剰に反応している気がする。
「慎、ダメ」
早々と弱音を吐いた唇が塞がれた。啄むようなキスで、里桜の言葉を遮る。反論を諦めた舌が捕まって、 ゆっくりと里桜の中を貪るキスが、頭の芯を霞ませていく。このままキスが続いたら流されてしまいそうだ。
「慎……」
潤んだ瞳で慎哉を見上げると、名残惜しげな唇がもう一度短く触れて離れた。
「ごめん、負けそうになった」
慎哉の指がボタンをかけるのをぼんやりと眺めながら、その意味を考えてみる。
「里桜が綺麗だから」
「な、何言ってんの」
あまりにも生真面目に囁かれて、言葉に詰まった。慎哉は言い慣れているのかもしれないが、里桜には気恥ずかしい言葉だった。
「本当だよ。初めて会った時から綺麗だと思ってたけど、里桜は最近すごく綺麗になったよ」
「気のせいだよ」
「それに甘い匂いがする」
「だから、気のせいだってば」
何気なく否定してしまったが、慎哉と別れた後で、甘い匂いの正体が義之と過ごす時間のせいだったことに気付いた。このところ頻繁にケーキやアイスの店に行くから、きっと里桜に香りが移っているのだろう。
里桜が思う以上に、義之と会っている影響が出てしまっているのかもしれなかった。





「夜は会えないかな?あまり授業を抜けさせてばかりだと心配だしね?」
別れ間際の義之の言葉に少し逡巡した。
学校から帰った後はいつも慎哉と一緒に過ごす里桜には、夜会う方が難しい。
「夜だと8時半とか、遅い時間になっちゃうんだけど」
「その時間でも出られる?」
「うん、でも、うち門限10時なんだ」
「そうかもとは思ってたけど、門限があるんだね。家の人にも挨拶に行くし、ちゃんと時間までに家まで送るよ」
「心配性なんだ。俺、子供っぽいし」
「心配する気持ちがわかるような気がするよ。いつがいいかな?」
そんな風に明確な約束をしたことがなかったから、少し戸惑った。
「金曜ならたぶん7時くらいには出られると思うけど」
土日はいつも慎哉と過ごすから、金曜の夕方は少し早い時間に別れることが多かった。
「じゃ、明後日、7時に迎えに行っていいかな?」
「うん」
義之に誘われると、なぜか否定的な言葉を使うことができない。迷うのはいつも一瞬で、結局は流されるままに頷いてしまう。
「たまには食事に行こうか?食べ物の好き嫌いはある?」
「特には」
「フレンチとイタリアンならどっちがいいかな?」
「どっちも好きだけど」
「任せてもらっていいかな?」
「うん」
会うサイクルがだんだん短くなっていることも、義之が少しずつ強引になっていっていることにも気が付いていないわけではなかったが。
それでも、どうしても里桜の方から断ることはできなくて、深みへと嵌っていくのを止めることはもうできなかった。



「お母さん、俺、もうちょっとしたら出かけるから。晩ご飯は食べてくるね」
「あら、慎哉くんとはさっき別れたばかりでしょう?」
「ううん、慎じゃなくて、別の人」
いくら考えても、義之のことを上手く説明する言葉は見つけられない。もし出逢ったきっかけを聞かれたら、本当のことを話す気のない里桜には答えようがないのだった。
「だあれ?」
「えっと、城北のOBで、緒方さんっていう大人の人」
「それで今日はそわそわしていたの?」
「え?俺、そわそわしてた?」
「ちょっと落ち着きなかったわよ?お母さん、慎哉くんと何かあったのかと思っちゃった」
「そんなわけないって」
「でも、あなたたちおつきあいしてるんでしょ?あんなカッコイイ彼氏だし、いつか里桜をお嫁にくださいって言われても断れないだろうなあって思ってるわよ」
家庭内では性癖をカミングアウト済の里桜に、両親とも溜息をついただけで認めてくれたことには感謝している。でも、厳しく育てられているだけに、ここまで理解があるとは思っていなかった。
「お母さん、俺、まだ高1なんだけど?」
「そんなこと言ってるうちにすぐ大人になっちゃうのよ。そんなことより、他の人に取られないようにしっかり捕まえとかなきゃダメよ?慎哉くん、モテそうだし」
「うん……」
今は、そういう励ましの言葉にも素直に頷けなかった。
それより時計ばかりが気になって、何度も見上げてしまう。待つ時間というのは何て長く感じるものなのだろう。
やっと7時を回ったと思った時、ようやくインターフォンが鳴った。
「お母さん、じゃ、行って来るね」
慌てて玄関に向かう里桜の後から母がついてくる。ドアからそう長くはないアプローチの向こうの、門の傍に立つ義之の方へ急ぐ。
そのまま車の方へ行こうとした里桜を引きとめたのは義之だった。
「夜分にすみません、緒方義之といいます」
ドアの前で見送りに来た母に、義之はとっときの笑顔で挨拶を始めた。
「里桜から聞いてます。高校の先輩だそうですね」
「はい、といっても10年も前の話ですが」
「実は私も城北なんですよ。私は20年も前の話ですけど」
「親子で同じ学校っていいですね。見覚えのある先生もおられたりするんじゃないですか?」
「ええ。クラブの顧問だった先生が里桜の担任をしてくださっててビックリしたんですよ」
たわいない世間話を始めた二人を少し腹立たしく感じて、思わず急かすように義之を見つめてしまった。
「こちらは門限は10時だそうですね」
「ええ、子供同士で出かける時にはハメを外してしまいがちでしょう?でも、大人と一緒なら12時くらいになってもいいですよ?」
「そうなんですか?じゃ、お送りするのがそのくらいになっても構いませんか?」
「ええ。明日はお休みだし、ゆっくりどうぞ。でも、里桜、あまりわがままを言っちゃダメよ」
「わかってるから。もう行くね」
不機嫌を引きずったまま、短く答えて背を向けた。
いつものように、義之が車のドアを開けてくれる。もしかしたら、女の子扱いではなくて子供扱いだったのかもしれないとふと思った。
義之が話しかける言葉にも、上の空で相槌を打ちながら、自分の幼さに苛立っていた。


「おいし」
素直に洩らした感想に、義之が満足そうに笑う。
義之と食事をするのは初めてだったが、お菓子と同様、里桜の好みを外していないのはすごいと思う。尤も、殆ど好き嫌いのない里桜の好みに合わないものといえば、むつこいものくらいしかないなのだったのだが。
「やっと機嫌が治ったかな?」
「え」
「勝手に門限を延ばして悪かったかな?」
「ううん、そんなこと、ないけど」
自分の幼さが恥ずかしくなって俯いた。知らず知らずのうちに態度に出てしまっていたらしい。
「早く食べないと冷めてしまうよ?」
いつものように里桜を見つめる義之の視線に、いつも以上にドキドキしている自分に驚く。
ずっと、慎哉を裏切っているつもりはないのに、義之のことを慎哉に話すことはできずにいた。最初は、慎哉が過去につきあっていた女性と結婚していた人だから嫌がるのではないかと思ったからだったが、今では理由が違ってしまったと思う。
たぶん、こういうのを罪悪感というのだろうとわかり始めていた。会っていることではなく、会いたいと思うことが既に慎哉を裏切っているのだということに、やっと気が付いた。
慎哉のことは好きだと思う。やさしくて、いつも里桜に愛情を向けてくれていて、幼い里桜に合わせて無理をせず少しずつ距離を詰めようとしてくれている。
その根気強さのおかげですっかりスキンシップにも慣れ、抱擁やキスは里桜からねだりたいくらい心地良いと感じるようになった。
本当に、慎哉はこれ以上望むべくもない、理想通りの恋人だと思っているのに。
「……着いたよ?」
軽く揺さぶられる肩に置かれた手が気持ち良くて、瞼を上げるのをためらった。
ごく近い所にいる相手の体に近付こうと腕を伸ばす。いつもの慎哉なら疾うにギュッと抱きしめて軽いキスを降らせている頃に思えたが、距離は少しも縮まりそうになかった。
「門限、過ぎてしまうよ?」
囁かれる色気のない言葉にハッとした。一気に夢から覚めて、慎哉ではなく義之だったことを認識して慌てた。
「ごめんなさい、俺、いつの間に」
「車に乗ってすぐに返事が返ってこなくなって、30分くらい経ったかな?」
「ごめんなさい」
「僕の方こそ、遅くまでつき合せてしまって悪かったね」
今時、11時過ぎにダウンする高校生など里桜くらいだろう。せっかくゆっくり会えたのに、もったいないことをしてしまったと思った。
きちんと玄関先まで送ってきた義之が短い挨拶の言葉で去っていく。この間は別れ際に交わした次の約束を、今日はしなかったことに気付いて泣きそうになる。
どうやら、大失態をやらかしてしまったらしい。
ぼんやりとした意識でも、義之に抱きつこうとしてしまったことを覚えている。当然のように、義之がそれに応える気配がなかったことも。
今まで自分に言い訳し続けてきたが、とうとう自覚してしまった。相手にその気がないと知ってヘコむ自分は最低だ。





「里桜?」
心配げな声に重い瞼を上げた。
「慎……いつ来たの?」
視界の隅に入った時計は10時過ぎになっていた。
「今来たところだよ。お母さんが里桜がまだ起きてこないから見てきてって言って通してくれたんだ。里桜がこんな時間まで寝てるなんて珍しいね、風邪でもひいた?」
「ううん。風邪じゃないと思うんだけど、なんかだるくって」
昨夜、眠れなかったせいで頭がぼんやりとしていて体がだるい。でも、そんなことよりも、気分が落ち込んでしまっていることの方がよほど深刻だった。
枕元へと腰を下ろした慎哉が、里桜の顔を覗き込む。
「起きられるなら何か食べた方がいいよ?」
「ううん、何にも欲しくない」
「もう少し休んでる方がいいかな?」
「うん」
手を伸ばすと、両手で包むように握り返される。それだけで、また泣きそうになった。
「里桜?」
「ごめん、せっかく来てくれたのに」
「気にしないで休んでればいいよ。俺は好きで傍にいるんだから」
「ありがとう」
目を閉じた里桜に、やさしいキスが降ってくる。
腕をあげると、少し窮屈な体勢で慎哉が身を屈めてくれた。その首筋へギュッとしがみつく。本当は、義之にそうしたかったのだと思うと、罪悪感で胸が潰れそうになる。
こんなにもやさしい恋人がいるのに。
「添い寝してもいいかな?」
「うん」
やさしい腕に包まれていると、落ち込んだ気持ちが和らいでいくようだった。過剰なくらい里桜に触れたがる慎哉の気持ちが、今ならわかる気がする。
今求められたら、きっと拒むことはできないだろうと思ったが、慎哉の紳士協定が破られることはなかった。



その夜の義之からのメールは、いつも通り里桜の都合を尋ねるものだった。
次の予定はもうないかもしれないと思っていただけに、酷く複雑な心境だった。メールのやり取り以外に連絡手段を持たない里桜にとっては、これきりになってしまえば諦めるしかない相手なのに。
一度自覚した思いを抑えて会うのは難しいことに思えた。まして、相手の見返りを期待できないとわかっていれば尚更だ。だからといって、里桜からは断ることはできそうになかった。もし終わらせられるとしたら、相手の方から止めてもらうしかないような気がする。
迷った挙句、いつも通りの返事を返した。
『期末テストが木曜まであるので、金曜の午後なら出られます』
今度会った時、もう会わない方がいいと告げた方がいいのかもしれないと考えていると、義之からの返信が届いた。
『金曜の1時半に、いつもの場所で』
『了解です』
少し期間が空くが、気を落ち着かせるためには良いことかもしれない。それまでに、どうやって切り出すかを考えることにした。
結局、無難な言葉さえ思いつかないまま、会う日になってしまうのだったが。





「何か心配事でもあるのかな?」
いつものようにすぐにケーキにがっつかない里桜を変に思ったのだろう。義之が少し心配そうに里桜の表情を覗き込む。
里桜が心配していたような、呆れたとか嫌われたとかいうような雰囲気は全然なかった。
相変わらず、何もかも許してくれそうなほど義之の声はやさしかったが、切り出すのは難しかった。もう会わない方がいいと思うと言うのは、恋愛をしていたわけでもないのに気にしすぎだと笑われてしまいそうで、でも他の言葉ではしっくりこなくて悩んでしまう。
「緒方さん、いつも仕事を抜けて来てくれてるんだなと思って」
「なんだか別れ話でも始まりそうな顔だね」
比喩する言葉の深刻さに反して、目元は笑っていた。里桜の言いたいことは全く伝わっていないらしい。
「別にサボっているわけじゃないよ?営業は時間の使い方がそれぞれだから、今は休憩中」
「いつも俺に時間を使ってもらってごめんなさい」
「急にどうしたの?誰かに何か言われた?」
「そういうわけじゃないけど……」
日増しに会いたくなる思いが強くなっていくことや、見返りを望んでしまう自分に気付いてしまった以上、今まで通りに会い続けるのは難しい。しかも、里桜にはやさしくて男前な恋人が、子供過ぎる里桜が大人になるのを待ってくれているのだから。
沈黙を待っていたように、机の上に置かれていた義之の携帯が震えた。
「ごめん、いいかな?」
「どうぞ」
むしろ、インターバルを置けることにホッとした。
もし問い詰められたら、里桜は自分の気持ちを言ってしまうだろう。義之には、自意識過剰だと笑われるか軽く流されるかのどちらかだろうということもわかっているのに。そして、それが慎哉を裏切る行為だということも。
「今からはちょっと……何で知ってるのかな。わかったよ、すぐ帰る」
珍しく顔色を変えた義之が、冷めた声で通話を終えた。見たこともない厳しい表情は、里桜の知る義之とは別人のように思えて少し怖くなる。
「ごめん、帰らないといけなくなったみたいだ」
「気にしないで。お仕事、忙しいんでしょう?」
「仕事じゃないんだ。一度、家の方に帰るから一緒に来てくれないかな?」
「えっ」
事情がわからなくて戸惑う里桜の返事を待たずに、義之が促すように席を立つ。
今なら送ってもらわなくても充分に間に合う時間に帰れるのに、そう言えない自分が不思議だった。なぜか、今別れると二度と会えなくなるような不安に駆られて、いけないと思いながら義之についていってしまう。
もう乗り慣れた義之の車に乗っているのに、いつになく居心地が悪く感じるのは、家に行くのが初めてだからだろうか。
ほんの10分足らずで義之のマンションに着いた。
エレベーターホールで並んで待っている間に、里桜の心中を察したような義之の問いが胸を刺す。
「僕と会っていることを高橋は知っている?」
「ううん、何も言ってないけど……」
「言ったら怒られる?」
「かな……?」
話題を嫌って言葉を濁す里桜に、そうと気付いているはずの義之が言葉を重ねてくる。
「僕の家に来たって知られたら大変かもしれないね」
里桜を試すように見る義之の視線に不安が増す。何か気に障ることをしてしまったのだろうか。それとも、誘われたからといってあっさりついてきた里桜を厚かましいと思ったのかもしれない。
否定的な言葉が続いた理由に思い当たると、いたたまれなくなった。
「ごめんなさい、迷惑なら帰ります」
「そうじゃないよ。君は無防備過ぎると思っただけだよ」
開いたエレベーターの中へと促す手に捕まった肩は、もう里桜の意思では動かせなくなっていた。
他に利用する人のなかったエレベーターは、義之の押した12階で止まった。
「このつきあたりだよ」
長い通路の途中で、何度か後悔しなかったわけでもない。でも、どうしても振り切って帰る気にはなれなかった。
里桜の肩を抱くように玄関へ通されると、場違いに思える黒いハイカットシューズが目に止まる。記憶のどこかに引っ掛かったそれを、思い出すより前に持ち主が姿を見せた。
「ほんとに連れてきたんだな」
心なしか、苛立たしげな声で出迎えに来たのは斉藤だった。
「なんで、ここに?」
まさか、嫌な予感の正体が斉藤だとは思いもしなかった。
「その人の別れた嫁さんって、俺の姉貴だからな。しかも、二人して高橋に女取られた仲だしな」
義之は何も言わなかったが、その表情を見ればそれが事実だとわかった。
「あっ」
呆然としていた里桜の腕がいきなり引かれた。目の前に近付いた斉藤から少しでも離れようと顔を背けた。
「なんで」
胸に湧き起こる疑問が声になった。
この期に及んで、まさかという思いと、嵌められたのだと悟る思いがせめぎ合う。
「忠告してやったよな?高橋とつき合ってると余計な恨みをかうって。痛い目を見る覚悟はできてるんだろう?」
思わず振り向いて見る義之の表情からは何も読み取れない。無言のままで腕を組んで壁に凭れて立つ姿からは、里桜を庇ってくれる気はなさそうだということしかわからなかった。
「俺、恨まれてるの?」
初めて斉藤と会った時と同じ質問をしてみる。あの時は確か否定されたと思ったが。
「だから、おまえじゃないって。ほんと鈍い奴だな。高橋がどれだけおまえに入れ込んでるのかわかってるだろう?俺はやられたことをやり返したいだけだ」
言葉の終わりきらないうちに足元を払われて、フローリングに倒れ込んだ。頭がうまく回りきらなくて、理解が追いつかない。
「いや」
覆い被さってくる体に抗う腕が、硬い膝で押さえ込まれる。思わず声をあげた喉元に伸ばされた手がシャツを引き裂いた。
中学の時には武道を習っていて気性が荒いと言っていた言葉が思い出される。体格でも、とても里桜に太刀打ちできるとは思えなかった。
「やめて」
それでも、無意味な言葉と拙い抵抗をくり返した。最初の相手になりたいと言った慎哉ともまだなのに、先に斉藤に許すわけにはいかない。
必死に振り払った爪先に感じた手応えが、斉藤を激昂させてしまう。
「……っ!」
頭の芯まで痺れるような鋭い痛みが口元を襲った。
頬を張られたのだとすぐにはわからないくらい、むしろ精神的な衝撃の方が強かった。
「剛紀」
初めて、義之が斉藤に声をかけた。
「止めないって約束だろ?」
「傷付けるなって言っただろう?」
わかってはいても、共犯だと思い知らされた瞬間だった。
「これだけ抵抗されたら難しいな。俺、男は初めてだし」
先のダメージから抜け出せない里桜の両手が、裂かれたシャツで後ろ手に縛られる。
「やっ」
口を開こうとしただけで痛みが増す。うまく舌も回らない。殴られるのも縛られるのも初めてだったが、この先に起こることを思うだけで眩暈がしそうだった。
性急に服を剥がしていく手に逆らおうとしたが、腕を封じられた里桜の抵抗など斉藤には子供の反抗程度にしかならなかったようだった。
クーラーの利いた部屋の冷気が、晒された肌を震わせる。
「これ以上痛い目に遭いたくなかったらおとなしくしてろよ」
脅す言葉にも余裕があるようだった。もう里桜の自由は完全に斉藤に委ねられている。
膝を押し上げられると、里桜の知る限り誰の目にも許したことのない処が斉藤に晒される。懸命に体を返そうとするたびに、斉藤の体に押え込まれてますます膝が開かれる。背中に敷かれた腕と、内腿が攣れるように痛んだ。
「や、あ」
そこへと垂らされた、ひやりとした液体の感覚に体が竦む。
「慣れてるんだろうけど、傷を付けるなって言われてるしな」
斉藤が何かを言うたびに里桜がショックを受けるのだとは知らないらしい。直接手を下さなくても、義之の指示なのだと言われているようで胸が軋む。
「大体、何で男相手にゴムまでつけさせるんだよ?妊娠するわけでもないのに」
「剛紀」
義之に名前を呼ばれただけで、斉藤はぼやくのをやめた。
「わかったよ、俺はどうしてもこいつをやらなきゃ気がすまないしな」
「いやっ」
内側へと入ってきた指の感触に全身が総毛立った。無意識に締め出そうと体が硬直する。
「そんな締めつけんなって。まだ指だぜ?」
強引に中をかき回す指に、頭の中が真っ白になった。この期に及んで、まだ悪い夢を見ているかのような気が抜け切らない。まさか、こんなことが自分の身に起きるなんて思いもしなかった。慎哉にも、まだ肌を晒したことさえないのに。
必死に庇おうとする体が、引き裂かれる痛みにフリーズした。喉が引き攣れるような悲鳴が迸る口元が大きな掌に塞がれる。
見開いた視界が滲んでゆく。
「おまえ、きつすぎ」
からかうような口調は少し苦しそうで。
逃れようとずり上がる腰が掴まれて、更に深く突き上げられる。激しく揺さぶられる度に涙が床に散った。
それほど長い時間ではなかったのかもしれないが、里桜の正気を奪うには充分過ぎる時間だった。
放された体が人形のように床へ崩れ落ちる。情けない格好だと思う神経さえ今は切れてしまっていた。
体は、ただ涙を流す以外に何も機能しそうにない。
魂が抜けてしまったように、もう里桜の意思では動かせそうになかった。ぼやけた視界に近付く見慣れた足元からも、体を庇おうとは思わなかった。
「記念撮影しとくかな」
斉藤が、床に投げ出された里桜の制服のポケットを探る。
「僕が撮るよ。この子だとわかればいいだろう?」
斉藤の声も、義之の声も、里桜の耳を滑ってゆく。
「すぐに送った方がいいかな?」
「そうだな、本当はここに呼び出したいとこだけど、ダメなんだろ?」
「そこまで面倒見れないよ、僕は高橋には関わりたくないしね」
背後で拘束された腕が解かれて、窮屈な姿勢から解放される。そっと、肩を半分隠すくらいの位置から足元へと柔らかな生地に包まれた。
「じゃ、俺はあいつの泣き顔を見に戻るとするか」
「わかってると思うけど、この子には二度と近付かないでくれ」
「やっぱり情が移ってたんだな。今度は俺に復讐なんて考えないでくれよ?」
「つまらないことを言ってないで、早く帰ってくれないか」
「はいはい、後は慰めるなり二回戦になだれ込むなり好きにしてくれ」
遠ざかる足音に続いて玄関ドアの閉まる音がした。こんな状態でも、心なしかホッとしたのかもしれない。
聞き慣れた足音が戻ってくる。義之が膝を折って、里桜の顔を覗き込む。
「里桜」
初めて名前を呼ばれたことにさえ気付かないまま。頭も体も現実に戻れずにいた。
「ずいぶん抵抗したね、傷だらけだ」
義之の言葉が耳をすり抜けていく。ぼんやりとしか写らない視界に、義之の指先がよぎった。
やさしい指がなぞる口元も、頬も熱を持ったままだ。解かれた手首に浮かぶ痣と擦過傷は色白なだけに尚更痛々しい。でも、今は痛みを感じないくらいショックの方が大きかった。
「痛むだろうけど、先に体を流した方がいいよ。立てる?」
まだ、義之の言葉に頭も体も対応できなかった。
ややあって、里桜の肩を義之が抱き起こした。
「僕が連れていっても大丈夫かな?」
掛けられていたタオルケットにくるむようにして、里桜の体が抱き上げられる。
まるで里桜の意識は夢の中にいるかのように鈍ってしまっていた。義之の声も聞こえているのに、脳にちゃんと届かない。意識と体は別々の生き物のように上手く連動しなくなっていた。
浴室の前でタオルケットを落とされても、抗う気持ちは湧いてこなかった。服を着たままの義之に抱かれて浴室へ入る。
里桜を抱いたまま、義之がバスタブの縁へ腰掛ける。義之の膝に座るような姿勢に抵抗を感じることもできず、ただ為すがままに身を任せるしかなかった。
「ぬるめの方がいいかな」
足元からゆっくりと、少しぬるめのシャワーがかけられる。
「髪も洗っておくよ?」
まるで子供の髪を洗う時のように後頭部から支えられて、湯がかけられる。長い指が器用に髪を洗う間中、ずっと目を閉じたままでいた。
「体勢、苦しくない?」
こまめに声をかける義之に一度も返事をしないうちに、体を洗い終わって泡が流される。ぼんやりした意識でも、気が抜けてしまっていたのかもしれない。
「ごめん、ちょっと我慢してくれる?」
その言葉の意味を考えられる状態でもなかったが、まさか斉藤に穿たれた場所を洗い流そうとしているとは思いもよらなかった。
「いや」
出ないと思っていた声が出た。少し遅れて、体の感覚が戻ってくる。里桜の足を開かせた姿勢で固定するかのような義之の足から逃れようと、懸命に身を捩った。
「暴れないで、中を洗うだけだから」
少し強引な義之の指が、斉藤が里桜の中へ入ってきた感覚まで思い出させた。まだ中にあるような錯覚に、体が震え出す。
「いや、お願い」
喚く口元を塞いだのが義之の唇だと気付いて驚いた。身構える間もなく深まるキスに何も考えられなくなる。里桜の知る限り、キスはいつも気持ちが良くて、知らずに意識を鈍らせる。それを知っているかのように、里桜がキスに気を取られているうちに中に入った指がかき回される。
「っん……」
思わず喘いだ里桜に、更にキスが深くなる。我知らず、義之の首筋へ腕を回していた。いつも、危うく許してしまいそうになる気持ちの良いキス。
「もういいよ」
義之の声は平静だったが、里桜はギュッとしがみついた。やさしく解こうとする手に逆らって、小さな声でつぶやいた。
「して」
「里桜?」
驚いたように里桜を見る義之を、上目使いに見上げた。
「お願い」
最初から斉藤などいなくて、里桜をムリに抱いたのが義之だったらよかったのに。怖がって先延ばしにしているうちに、望まない相手に奪われるかもしれないと気付くのが遅すぎた。慎哉に何度もその危惧を言われ続けていたのに。
今はただ、体の奥深くにある斉藤の名残を消すことしか考えられなくなってしまった。
「わかったよ、寝室へ行こうか」
里桜を抱いたまま義之が立ち上がる。
バスルームを出ると、里桜の頭からバスタオルがかけられて軽く雫を拭われた。そっと壁へよりかかるように下ろされる。義之が濡れた服を手早く脱ぐのを見上げると、目が合った。
「抱いていこうか?」
囁きに答える前に、もう義之の胸元へ抱き上げられていた。
ぼんやりと義之を見上げると、唇に短いキスを落とされる。あんなに触れたいと思っていた体と密着しているのに、不思議ともう鼓動は高鳴っていなかった。
大事そうに腕に抱かれたまま、静かにベッドへ下ろされる。覗き込むような瞳と視線が絡むと、知らずに瞼が落ちた。
正気を保っていなくても、自分が望んでいることの意味に気付いていたのだと思う。
ためらいがちに触れる唇も指もやさしかった。
慎哉と何度も交わしたキスほど情熱的ではなかったが、慈しむように穏やかでいつもの続きのような錯覚を起こしてしまいそうになる。
ねだるように、義之の髪に指を絡めて引き寄せる。もっと早くこうしていればよかった。あんなに大切にしてくれたのに、誰にも取られないうちに慎哉に許していれば、こんなに辛くなかった。
「里桜?」
心配げな義之の声に視線を上げる。
「して」
目を見つめたまま小さく告げた。
「本当にいいのかな?」
「うん」
確かめる言葉に頷いて目を閉じる。
首筋に触れる唇に、喉を反らしてキスを請う。里桜の知っているキスのように、焦れたように熱く口付けてほしい。怖くても、今日は我慢する。それで斉藤の名残を消せるなら。
まだ触れられたことのなかった素肌へと滑る指先が、胸の一点で止まる。指の腹で撫でられると体が震えた。
「あっ、ん」
指で捩るように擦られて舌で吸い取られると体中に電気が走った気がした。
ずっと怖いと思っていた不安の正体を目の当たりにした。理性もアイデンティティも失くしてしまうほどの激しい感覚に捕まるのは怖すぎる。
「慎……」
意識せず名前を呼ぶ声がキスに消される。頭の中が真っ白になるくらい気持ちが良くて、全身を預けた。
「里桜」
慎哉の呼び方とは違うとわかっていたのに。
まだ斉藤に穿たれた所を触れられるのは怖かったが、深く目を閉じて耐えた。
「里桜、力を抜いてて」
囁かれる声に小さく頷いたが、体は強張ったままだった。
「あっ、やっ」
思わず閉じようとした膝の間に義之の肩があって、抱え上げられるのを止めることはできなかった。
硬く閉ざした場所に舌が触れるのを感じて体を捩ったが、軽く流されてしまう。
舌に続いて中を探ってくる指に息が止まる。ゆっくりと細心の注意をしているらしく、それほど痛みは感じなかったが、奇妙な違和感に腰を揺らした。
「あ、んっ……」
思わず洩らした吐息に声が混じる。その微妙な違和感のある所を何度も擦られると、どうしようもなく腰が震えた。
「いいかな?」
意味もわからず頷くと、埋まっていた指が引き抜かれる。思わず追いかけそうになった所へ熱い昂ぶりがあてがわれる。
「ああっ」
「力を抜いて」
囁かれる言葉に従おうと思うのに、どうしても腹筋に力がこもってしまう。
「里桜」
やさしい声が唇をふさぐ。
先までの穏やかなキスとは違う熱っぽさで、里桜の体温を上げさせる。
キスに気を取られている間に、少しずつ里桜の中が義之に満たされていく。痛みの狭間にかすかな充足感を感じて、必死にしがみついた。



「慎……?」
夢と現実の区別がつかないまま、確かめるように名前を呼んだ。
その声が掠れていたことと引き攣れたような口元に違和感を感じながら、起こそうとした体に鈍い痛みが走った。
「目が覚めた?」
その声に、やはり夢ではなく現実だったのだと思い知らされる。見上げた視線の、あまりにも近いところに義之の顔があって慌てた。心地良いと思っていた枕の正体は義之の腕だったらしい。
「よく眠っていたから起こさなかったよ。まだ早いし、家には連絡しておいたからもう少しゆっくりするといいよ」
朧な記憶と覚束ない意識では、まだ状況がうまく掴めなかった。
「早いって、何時……?」
「4時過ぎかな」
ここに来たのが3時前のはずなのに、と思った時、その思考を見透かしたように義之に否定される。
「朝の、4時だよ。着替えて、食事をして、落ち着いたら送っていくよ」
体を動かすたびに、自分のものではないような違和感を感じたが、急かされるように起き上がった。
――初めての無断外泊だ。
そう思った時、さっき家には連絡しておいたと言われたような気がした。
「あの、家に電話してくれたの?」
「心配するだろうからね、君が寝入ってすぐに電話を入れておいたよ。前にお母さんに会ったことがあったからかな、心配そうにしていたけど許可はもらえたよ」
「そうなんだ……」
そもそも外泊自体、許してくれることが滅多にないのに、よく許可が出たものだと思いながらも、深く考えることはやめておく。
「もう起きる?」
「うん、寝過ぎたみたいで頭がボーっとしてるんだ」
ほんの何時間かの間にいろんなことがあり過ぎて、全てを把握するにはまだもう少し時間がかかりそうだった。
「着替え、用意してあるから使うといいよ」
「ありがとう」
かろうじて答えて、出された長袖のTシャツとショートパンツを手に取る。どう見ても里桜には大きすぎると思ったが、義之との体格差を考えれば抗議しようもない。
「ちょっと着心地が悪いだろうけど我慢して」
「うん」
着心地というよりも、着られるのかどうかの方がよっぽど気になったが。だからといって、破れた制服を見て斉藤のことを思い出したくはなかった。長袖を出してあるのも、手首の擦過傷と痣が目立つからだろうから。
なんとか脱げ落ちない程度に服を着終わると、義之に連れられて寝室を出る。リビングに入ったとたん、自分でも驚くほど突然、その記憶がフラッシュバックしてきた。
「いや」
思わず体を抱えるように座り込んだ。震えが止まらなくて、心臓は胸を突き破って出てきそうなほどに速く打ち始めていた。
「里桜?」
「いや」
里桜の方へと伸ばされた義之の手に怯えてギュッと目を瞑った。
「里桜」
抱き寄せようとする義之の胸元を必死に叩いたが、その腕の強さには敵わなかった。里桜の頬に押し付けられた義之の胸元が涙で濡れていく。義之に抱かれて一度は上書きされたかに思えた記憶が鮮明に思い出されて、体の震えが止まらなかった。
もう抵抗する力もない里桜の髪を、やさしい指が撫でる。
「もう大丈夫だよ。もう二度と君に触れさせない」
囁かれる言葉に小さく首を振る。
「里桜」
頬を包む手に上向かされて、義之と目が合う。そのやさしそうな眼差しに騙されて痛い目に遭ったのに、見つめ合うと抗えなくなる。
義之の唇が近づくと、自然に瞼が落ちた。触れる唇はやさしくて、里桜の不安を消してくれそうだった。
「ここで、して」
キスの合間に、消え入りそうに小さく呟いた。
「里桜?」
戸惑うような義之に、言葉を重ねた。
「お願い」
「体はつらくない?」
「うん」
そっと床へと横たえられると、体の震えが止まっていることに気付いた。なぜか、義之に触れられるのは怖くなかった。剛紀と共犯だったと知ってからも、不思議と義之を恨む気にはならなかった。


「帰りたくないなあ」
何気なく呟いた言葉の深刻さに、義之は気付いているらしかった。
「その話の前に高橋に連絡しておいた方がいいと思うよ?昨夜も何度も連絡があったそうだから」
「え?」
「君の家に連絡した時にお母さんがそう言っていたよ。一応、君が寝てしまって電話に出れないって言っておいたから、そういう風に伝わってると思うけど」
「……慎は、俺がここにいるって知ってるのかな?」
「高橋は剛紀が美咲の……僕の奥さんだった人の弟だとは知らないだろうから、お母さんが僕の名前を言わなければ気付かないと思うよ。でも、高橋をあまり心配させすぎると、家の人に何を言うかわからないよ?」
「慎はもう何があったのか知ってるの?」
「剛紀はあのあとすぐに言ったようだよ。君の携帯で写真を撮っただろう?」
最中なのか、事後なのか、記憶を辿ろうとすればまた体が震え出す。 義之の腕の中にいると恐怖が薄れる気がして、ギュッとしがみついた。
「もう剛紀は君には手出ししないよ。君を傷つけることが目的だったわけじゃないし、高橋も相当ダメージを受けているようだしね。あれから君の携帯の電源を落としたままだから、君から連絡をするか電源を入れるかしておいた方がいいと思うよ」
そう言われても、里桜から電話をかける勇気は出なかった。義之と会っていたことも、斉藤に忠告されていたことも、今まで何も伝えていなくて、その挙句、慎哉との約束を二重に破ってしまって、今更申し開きのしようもない。
「俺からは何も言えないよ、自業自得だってわかってるし」
「君が悪いわけじゃないだろう?高橋と付き合っていたから被害に遭っただけだよ。先に恨み言のひとつやふたつ言っておけばいいよ」
その罠に嵌めた張本人にさらっと言われるのは堪えたが、反論するべき所はそこではなかった。
「俺、斉藤に慎と付き合ってたら痛い目に遭うって言われてたんだ。授業を抜け出して緒方さんと会ってたことも慎に言ってなかったし、言ったら怒られるってわかってて黙ってたんだから確信犯だよ。約束も守れなかったし、俺は慎を責めたりできないよ」
「僕と会っていたことを言う必要はないよ。昨日のことは呼び出されたとか拉致られたとか言えばいい」
「ううん、別に浮気してるわけじゃないからってずっと自分に言い訳してたけど、俺、慎を裏切ってたって自覚はあるんだ。怒られるから言わなかったんじゃなくて、やましいから言えなかったんだ。だから、俺が約束を守れなかったから終わりだって言われた方が気が楽だよ」
ずっと、自分さえ騙しながら、何も知らない恋人を裏切ってきた罰があたったのだと思う。
「どういう約束をしていたのか聞いてもいいかな?」
まともに答えるかどうか迷ったが、もう義之には隠し事などしても意味のないことのように思えた。
「俺、付き合ったの慎が初めてだし、すごく晩熟で初めはキスするのも抵抗があって……だから俺が慣れるまで待つって言ってくれたんだ。その代わり、最初は慎と、って約束してたんだ」
「じゃ、昨日が初めてだったってことかな?」
確認されると急に恥ずかしくなって、小さく頷いた。
「慣れてなさそうだとは思ってたけど……まさか、高橋が何もしていないとは思わなかったよ」
何もしていなかったわけではなくて、キスより先のことは紳士協定を守って我慢してくれていたのだったが。
「謝ってすむことじゃないけど、君には本当に申し訳ないことをしたね。もちろん、君の気が済むように責任は取るつもりだよ」
初めて、義之が頭を下げた。ずっとやさしく扱ってくれていても、義之に非があるような言動はなかったのに。
「だから、自業自得だってわかってるし、そういうこと言わないで」
とんでもない我がままを言ってしまいそうになるから。
「正直に言うと、君を誤解していたよ。彼氏に黙って他の男に会いに来るような子だから、少しくらい痛い目に遭っても仕方がないと思ってた。純情そうに見えていたのも、もしかしたら僕が騙されてるんじゃないかとも思った」
まさか、そんな風に思われているとは知らなかった。斉藤のことより、その言葉の方がショックだった。
「里桜」
潤む目を伏せて、何とか言葉を紡いだ。
「だから、自業自得だって……」
わかってる、と続けようとした言葉を塞がれる。思いがけないほどキスが荒々しくて、逃れようと胸を押し返す。なおきつく引き寄せられると、絡め取られた舌を吸い上げられて呼吸が止まりそうになる。頭を抱えるように両手で掴まれてしまうと、息苦しさから逃れようがなかった。
足元から崩れ落ちそうな体を支えるように、強く抱き竦められる。
「も、う」
勘弁して、と言いたかったが、それさえも許されずキスはもっと深くなった。
もう傷つけられたことさえ忘れそうなほど貪られて、里桜は抵抗することを諦めた。結局、好きになった方の負けなのだと今ならわかる。
「里桜」
返事を待たずに、義之が続ける。
「知らずに傷つけてごめんよ。これから償わせてくれないか」
きょとんと見上げた里桜に、もう一度、今度は軽く触れるだけのキスをした。
「もし高橋の所へ戻る気がないなら、僕の傍にいてくれないか?」
「え……?」
やっぱり意味がわからなくて、義之をじっと見つめてみる。
「一生かけても、君を幸せにするよ」
真摯な眼差しが余計に里桜を混乱させた。そんな選択肢があるかもしれないとは思いもしなかったせいで、思考がうまく働かない。
「返事はすぐじゃなくていいよ。まだ混乱しているだろうからね」
「あの、じゃ、しばらくここに置いてくれないかな?もうすぐ夏休みだし、少し落ち着くまで……」
できるなら、家にだって帰りたくないと思っていた。
「しばらくと言わず、ずっといればいいよ?」
まっすぐに見つめられると、思わず頷いてしまいそうになる。
「でも、俺、まだ高校生だし、親も何て言うか」
「僕に下さいって挨拶に行こうか」
冗談にしては真顔すぎて笑えない。
「そういうのじゃなくて、俺、上手く言えそうにないし、うちに一緒に来てもらってもいい?」
「いいよ。お母さんは家にいるんだったね。食事をしたら一緒に伺おうか」
「ありがとう」
ホッとした里桜に、義之が少し戸惑ったような表情を見せる。
「君は僕が怖くないの?」
「どうして?」
「僕は剛紀がここにいることも、君に何をするかも知っていて連れてきたんだよ。悪いのは僕なんだから、僕を責めるのが当然なのに」
「俺、一緒に家に来てほしいって言われて嬉しかったんだ。途中で緒方さんの様子がおかしかったのも気付いてた。だから、俺は自分が悪いんだってわかってる」
「そんな風に言われると堪えるね。君は純粋に被害者で、何も悪くないんだよ」
「でも、慎に黙ってたし、会うこともやめなかった」
「それは僕がそうさせるように仕向けたからだよ」
「でも……」
たとえ、意図的に里桜の気を引いたのだとしても。
自分の非に気付かないほど子供ではないと思う。
上手く言葉を継げないうちに、里桜を胸に抱いたままの義之に、立ち上がるように促される。
「とりあえず、食事に出ようか?早いほうが空いているだろうしね」
「うん」
本当は出かけるのは気が進まなかったが、これ以上の我がままを言うのは気が引けて頷いた。


身支度をし直して、義之のマンションから徒歩で5分ほどのファミレスに出かけた。
早朝で人はそれほど多くなかったが、それでも、いかにも借り物な里桜の格好では抵抗があった。昨日の午後から何も食べていない胃に何か入れた方がいいという義之の考えは正論だと思うが、食欲はなかった。たぶん、一度何かを食べかけたら空腹を思いだすのだろうが、今は何を見ても食べたい気がしない。
とりあえず、里桜は軽い朝食メニューを選び、義之は和食の膳にコーヒーを一緒に注文した。
「緒方さん、朝からしっかり食べる人なんだ?」
「食べられる時に食べておかないと、ひどい時には朝食以外何も食べられないまま夕方になってるなんて時もあるからね」
「大人って大変だなあ」
大食漢で燃費の悪い里桜は社会人になれないかも、とぼんやり思っているうちに、注文していたものが運ばれてきた。
「あっ」
研修中というネームをつけたウェイターが里桜の前へと置こうとしたトレーがテーブルの角に当たり、その衝撃でコーヒーのカップが揺れ、ほんの少し里桜の手の甲にかかった。
「申し訳ありません」
ウェイターは慌てて里桜の手を取り、おしぼりで拭おうとした。その手を振りほどこうとしたつもりの体は硬直してしまっていて、声も出せなくなっていた。
「里桜?」
向かいに座っていた義之が席を立って里桜の傍へ移ってきた。ウェイターから庇うように里桜の手を取り、何ともないことを確認する。
「大丈夫だから、気にしないで戻っててもらえるかな?」
義之の言葉に何度も頭を下げながらウェイターが下がっていく。
「里桜?痛いわけじゃないね?」
ほんの1、2滴、甲に飛んだだけで、火傷をしているわけでもない。ただ、さっき見知らぬ男に触れられたせいで里桜の体は小刻みに震えていた。
人目を憚らず、義之は里桜をギュッと抱きしめ、やさしい指で髪を梳いた。
「里桜、これからは僕が守るから」
囁かれる言葉に、ようやく金縛りが解けたように頷くことができた。
どうやら、義之は精神安定剤になるらしい。
「ごめんなさい」
抱きしめられたまま、小さく呟いた。
結局、向かい合って食事をすることはやめて、ソファタイプの席に並んで座った。相変わらず食欲は戻ってこなかったが、何とか残さないように頑張った。



「……慎?」
できるなら電話もしたくなかったが、何もわからないまま心配をしているかもしれない慎哉に、ずっと連絡をしないままでいられないこともわかっていた。
ワンコールで出る相手の切羽詰った声に、なるべく平静を装わなければと思った。
まず里桜の体を心配する慎哉に、空元気を絞る。
「ケガはしてないよ、大丈夫。そんなに心配しないで。でも、もうすぐ夏休みだし学校は2学期まで行かないことにしたんだ。しばらく家にも帰らないと思う。ごめん、今は誰にも会いたくないんだ。ううん、時間が経てば落ち着くと思うから心配しないで。ごめん、慎と会ったら思い出しそうだから」
たぶん、一番残酷な言葉で会うことを拒否してしまったのだと思う。そういう風に言えば、慎哉が里桜にコンタクトを取りづらくなるとわかっていながら。
短い通話を終えると、ふいに涙が溢れてきた。その時初めて、自分の狡さに気付いてしまった。
生殺しのまま慎哉との関係を続けてきたのは、別れる理由を探していたからかもしれない。里桜の心情を思いやって待ってくれていた恋人に、有無を言わせず別れられる機会が訪れるのを待っていたような気がする。
軽いノックの音に、慌てて涙を拭った。
ドアを開けて、心配げに里桜を窺う義之に、なんとか笑顔を作ってみせた。
「ちゃんと話できたかい?」
「うん」
ちゃんと、ではなかったかもしれないが。
「じゃ、今度は君の家に行かないとね」
「うん」
間に合わせに買った長袖のTシャツとジーンズに着替えて覚悟を決めた。門限にも厳しい親を説得するには、ある程度は事実を告げた方がいいのかもしれない。
「今日はお父さんもいる?」
「どうかな?土曜はよく休出が入るから、いないかも」
里桜としては、理解のある母だけの方が有難かったが。
「一度連絡をしてから行った方がいいかな?心積もりもあるだろうし」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。日は悪くないし、できれば早い方がいいんだけどね」
まさか、という風に目で問うと、義之はにっこり笑って言った。
「大事な一人息子をくださいって言うのに、いきなりじゃ気の毒だよ」
あの時の会話は、冗談ではなかったらしい。
「それは、俺もちょっと動揺するかも」
「そうだったね、大事なことを忘れていたよ」
義之が上体を屈ませて里桜の顔を覗き込んでくる。
「僕とつきあってくれる?」
「え、でも」
戸惑う里桜に、義之が大げさに悲しげな表情を作る。
「好かれていると思ってたんだけど、僕の自惚れだったかな?」
「そんなこと、ないけど」
「じゃ、ずっと一緒にいてくれる?」
「うん」
穏やかに見えて実は強引なのだと、改めて思った。
里桜の同棲生活はすぐにも始まりそうだった。



- 【 子猫を手懐ける方法 】 - Fin

Novel      【 子猫を室内飼いで育てる方法 】


手懐ける方法は餌付けだったということで。
尤も、一目惚れしてしまった時点で里桜の完敗は決定していたのですが。

たぶん義之は私が書く中で一番怖い人だと思います。