- 『君のことなら何でも〜慎哉&那緒の場合〜』 -



「先輩って、コンタクトだったんですね」
だから転寝もできないと言った慎哉を、那緒はその証拠を見つけようとするかのようにじっと覗き込んだ。
「そうだよ。もし外したら、このくらい近付かないと那緒の顔も見えないくらいかな」
少し大げさな言い方をして、慎哉は那緒に顔を近付けた。大きな瞳をもっと見開いて、那緒は腕から後ずさろうとする。
「せ、先輩、近過ぎます」
とっくに、もっと凄い仲になっていることなどすっかり忘れてしまったかのように那緒はうろたえた。そんな風に頬を染めて俯かれると、ついつい意地悪したくなってしまうとは思いもしないらしい。
そっと梳き上げる慎哉の指を、クセのない細い髪がサラリと滑ってゆく。慎哉の片手に納まってしまいそうな小さな顔を、そっと両方の掌で包んだ。そのまま上を向かせると、吸い込まれそうに綺麗な瞳が泣き出しそうに濡れて揺らぐ。
抱きしめると、見た目の華奢な印象と違って意外と鍛えられていることがわかる。それでも、慎哉の腕にすっかり納まってしまうほど小さな体だ。
「那緒」
名前を呼ぶと、畏まったように『はい』と答える。何度言っても敬語をやめてくれない、名前も呼んでくれない、かなり頑なな恋人だ。
「ペナルティを考えたんだけど?」
「え、と、何のですか?」
全く心当たりがないと言いたげな顔で慎哉を見上げる。
「那緒はいつまで経っても他人行儀のままだから」
どうすれば、もっと那緒に寄り添えるのか知りたい。好きだと言ってくれても、体を許してくれても、那緒との距離は少しも縮まっていない気がする。
「先輩……」
「ほら、またそんな呼び方をしてる」
「すみません」
わかっているのかいないのか、よそよそしいとさえ受け取れる那緒の態度は変わらない。少しきつめに見つめると、叱られた仔犬のように項垂れた。
「那緒」
唇へと直接呼びかけると、微かに腕の中の体が震えた。
最初から、那緒はそれほども緊張していたのだと、今ならわかる。けれども、出逢った翌日に口説かれた時には、慎哉に一目惚れだったらしい那緒が、どれほどの勇気を振り絞って声を掛けてきたのかなど想像もしなかった。
約一年前まで、慎哉はその恵まれた容姿と柔らかな物腰で恋愛の相手が途切れたことがなく、片思いの経験などしたこともなかった。その後、生まれて初めて、口説いて口説いてやっとつき合うことになった大切な相手をあっけなく失ってしまうまでは。
だから、さんざん浮名を流してきた慎哉の噂を聞きつけて、前の恋人に容姿が似ている那緒が興味本位で近付いてきたのだろうと思った。そういった誘いを嫌というほど受けてきた慎哉には、那緒だけは違うかもしれないと考えることはできなかった。思えば、その積極性を、恋愛慣れしていると勘違いしてしまったことが最初の間違いだった。
ずっと、新しい恋をする気になれないままだった慎哉が、那緒とつき合ってもいいと答えたのはほんの気まぐれに過ぎなかった。だから、面影の被る那緒を受け入れることも撥ね付けてしまうこともできずに、ただ義務のようにだらだらと時間を共有してしまっていた。
臆することなく真っ直ぐに慎哉を見つめる大きな瞳を、もっと早く真正面から見つめ返していたら、すぐに気付くことができたはずだった。那緒の瞳にそんな邪気など一片もなかったことに。
始めの頃は、慎哉のことをいろいろと知りたがる那緒に聞かれるまま何でも答えた。所謂プロフィールや、好きな音楽や映画、休みの日には何をして過ごすのかなど、普通の恋愛を始めれば知りたいと思うごく当たり前のことだと気付きもせずに。
那緒が一生懸命に慎哉の傍に寄り添おうとしていた時に、慎哉はつまらない意地に囚われて素っ気無い態度を取り続けていた。ただ、忘れられない相手に容姿が似ているというだけの理由で、那緒と見つめ合おうとしなかった。
いつも、せつなげな瞳を慎哉に向けていることを知っていたのに。ちゃんと見ていたら、慎哉が軽いつき合いをしてきた相手のものとは違うと、一目でわかったはずだったのに。
那緒を知ろうともしなかったから、まっすぐに口説いてきた積極性が、天然記念物的な晩熟の為せる技だったなんて思いもしなかった。
強引に部屋に連れ込んだ時にも、今から思えば那緒は心細げにしていたのだとわかる。本心では抱かれることに抵抗があることなど悟らせもせず、懸命に慎哉に応えようとしていた那緒の健気さを思うと、申し訳なさと愛おしさで胸が苦しくなる。
「俺が怖い?」
唇を少し離して尋ねる。腕の中に包むように那緒を抱きしめると、小さく首を横に振って、いいえ、と答えた。
「それならそんなに硬くならないで」
「はい」
その答えが硬いのだと、何度言ってもわかってくれない。
「これから俺に敬語を使ったら、那緒からキスすることにしようか」
「えっ……」
零れ落ちそうなほど大きく見開かれた瞳が、ムリだと告げている。
「嫌かな?」
「嫌なわけじゃなくて……」
本気でうろたえる那緒に、ひどいことを言ってしまったことに気付いた。一度として慎哉を拒んだことはなくても、晩熟な那緒には、まだ自分からそんなことはできないのだろう。
「ごめん、冗談だよ。でも、敬語をやめてもらいたいのは本当だからね」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうな那緒をもう一度胸に抱きしめた。そっと、髪を撫でる。
「急かしてごめん」
囁く言葉に、那緒は小さく首を振った。
「君のことなら何でも知りたいと思ってたけど、そんなに無理させてしまっていたと知った時にはどうしたらいいかわからなかったよ」
「そんなこと……」
ないと言おうとする那緒の唇をもう一度ふさいだ。やさしく舐める唇が応えるように緩む。おずおずと絡ませてくる舌をやわらかく吸うと那緒は全身で寄りかかってきた。
焦らなくても、今度の恋人はちゃんと慎哉の腕の中にいるのに。わき目も振らずに、ただ一途に慎哉だけを見ているのに。
だから、今まで傷付けたぶんも優しくしたいと思っていることをせいいっぱい伝えた。


- 『君のことなら何でも〜慎哉&那緒の場合〜』 - Fin

Novel  


お題リレー用に書いたお話をサイト用に手直ししました。
ちょっと事情があって、実は3本ほど書いたのです。
個人的な思い入れで、お蔵入りさせたくなくてアップしちゃいました……。