- Wishful Thinking -



「なぁんか、肩凝っちゃった」
帰る早々、里桜はフローリングにぺたりと座り込んで首をコキコキと鳴らした。ことある毎に義之をおじさん呼ばわりするくせに、その仕草がくたびれたサラリーマンのようだとは気付いていないらしい。
里桜の背後に膝をついて、確かめるように軽く肩に指をかける。腕の方まで順に解してゆくと、里桜は頭を後ろに傾けて、緩みきった顔で笑った。
「ありがとー。めっちゃ気持ちいい」
「肩が凝るほど緊張してたの?」
義之の問いは核心をついていたらしく、里桜は今緩めたばかりの表情を引き締めて、言葉を探すように瞳を上向けた。
「ていうか、ゆいさんがあんまり喋らないから、俺が二人分喋らなくちゃって気になって頑張ってたら、鬱陶しがられてるような気がしてきて」
初対面の優生の前で人懐っこそうに振舞っていたのが、そんな風に気を遣ったせいだったと知って可笑しくなった。確かに空周りしていた感は否めないが、相手が淳史の思い人で、里桜から家庭教師を頼んだからこそ、無理してテンションを上げていたのかもしれない。
優生に家庭教師を頼むことに義之が同意したのは、一学年終了時の里桜の成績が相変わらずひどかったからだった。二年生に進級はできたものの、心許ない里桜の学力を少しでも伸ばしてもらえたらと思わずにはいられない。
「そんなに気を遣わなくてもいいと思うよ。確かに、ゆいは喧しいのはあまり好きじゃなさそうだけどね」
「だから、あんま喋ってくれなかったのかな?」
「そうじゃなくて、里桜が淳史にベタベタするから話しづらかったんじゃないかな。僕だっていい気はしなかったしね?」
ちくりと嫌味を籠めたが、わずかも里桜には通じていないようだった。
「……でも、あっくんが言うほど大人っぽいとは思わなかったけどな」
すっかり淳史に懐いてしまった里桜は、納得がいかないと言いたげに義之を見る。
さんざん、里桜のことを子供っぽいとか恋愛の対象として見るのは無理だとか言っていた淳史が、19歳の優生とつき合っているのは許せないような気がするのだろう。派手で肉感的な大人の女性が好みだと言っていた言葉と、優生はほぼ正反対だった。
綺麗な顔立ちをしているが、どちらかといえば地味めで華奢な、11歳も年下の、しかも男の優生は淳史の条件から全く外れているとしか言いようが無い。
「淳史がゆいを好みのタイプだと言ったわけじゃないだろう?それに、そんな話をしたのは、ゆいと出逢う前だったんじゃなかったかな」
「でも、あっくんが結婚したいほど好きな人なんでしょ?俺を仔猫って言うけど、そんな大差ないんじゃない?」
不満げな里桜には、自分がヤキモチを妬いているという意識はないらしい。


「ゆいは仔猫というほどは幼くなかったよ」
「仔猫じゃなかったら何なの?」
優生は、一見すると人当たりの良さそうな好青年のようでいて、決して警戒心を解こうとはしない頑なさは人慣れした野良猫のようでもある。ただ、野良にしては毛並みも育ちも良過ぎるような気がしたが。
繊細で優雅な、飼い主にしか懐かない猫を思い浮かべるのはそう困難ではなかった。
「そうだね……ロシアン・ブルーみたいな感じかな?もの静かで、派手じゃないけど高貴そうで」
「ロシアン・ブルーって、グレーっぽい毛並みの猫だよね?」
「そうそう、ビロードみたいに光沢のある毛並みにグリーンの瞳で、細身で優美な猫だよ。警戒心が強くてシャイなところも似てるかもしれないね」
「義くん、なんかすごく詳しくない?」
「いつかは猫を飼いたいと思っていたからね。飼うとしたらロシアン・ブルーだと決めていたし」
口が滑ったと思ったが、里桜は全く気付いていないようだ。
本当に、里桜は淳史のことになると他に気が回らなくなるらしい。義之が優生に触れてみせた時にも、淳史をキレさせただけで、里桜を妬かせることはできなかった。むしろ、義之の腕から優生を奪い返す淳史を少し淋しげに見ていたような気さえする。
「じゃ、俺は何なの?雑種?」
ミックスにはミックスの良さがあるのに、里桜はすっかり卑屈になってしまったらしく、不満げな顔を向けた。ここで雑種の魅力をアピールするよりも、てっとり早く里桜の機嫌を取る方を選んだ。
「チンチラは知ってる?ペルシャの小さめの子なんだけど」
「ペルシャって、顔がクシャッとつぶれた感じの猫じゃなかった?」
「まあ、そういう表現をする人もいるけど……アイラインの入ったグリーンのまん丸の瞳が印象的な、愛くるしい猫だよ。長毛で尻尾もふさふさで、じっとしていれば置物かぬいぐるみのようだね」
「そうかなあ?」
「そうだよ。大人になっても、小さくて凄く可愛いし」
「義くん、可愛いの好きだもんね」
“可愛い”を褒め言葉として受け止める里桜は、チンチラのようだと言われることに納得したようだった。
満更でもないという顔に、ふっと疑問の色が浮かぶ。
「あれ……じゃ、どうしてチンチラじゃなくてロシアンなの?」


純粋な疑問の瞳を向けられて、義之は慎重に言葉を探す。
猫と人は違うのだとか、或いは好みと実際に選ぶ相手は違うのだとか言うと、却って疑惑を持たれてしまうと思った。
「そう思っていた時期があったというだけだよ。まだ猫を飼うつもりもないし」
猫以上に手のかかる恋人がいるというのに、ペットにまで手が回らないだろう。今更、ロシアン・ブルーに浮気する気もない。
「もし猫とかウサギとか飼ったら、義くんを取られちゃいそうだよね」
「そんなことないよ、里桜が一番だよ」
「ほんと?」
「猫とは入籍できないからね」
「俺ともできないでしょ」
「まだそんなことを言ってるの?君が高校を卒業するまでしか待たないからね?」
「義くん、しつこい」
この件に関しては、里桜は本当に素っ気無い。まだ16歳になったばかりの里桜に、一生を決めさせるようなことを望む方が間違っているのかもしれないが、少しせつない。
「……淳史がうらやましいよ」
わざと重く呟いた言葉に、里桜は何かを思い付いたように悪戯っぽい顔をして義之を見上げた。
「そんなに籍を入れたいんなら、義くんが俺んちの子になればいいんじゃない?」
予想外の提案に、本音が先に出てしまう。
「鈴木になるのはちょっとね」
結婚して名前が変わっても、仕事では旧姓を使うという方法もないわけではないが、いろいろと不便が生じるのは間違いないだろう。それに、結婚したいという以上に、里桜を貰い受けたい気持ちの方が強かった。
「義くん、“鈴木”をバカにしてるでしょ」
「そういう意味で言ったんじゃないよ、他の“鈴木”さんに失礼だ」
「じゃ、鈴木になれば?」
思いがけない強い口調に驚かされる。義之が思うより、里桜は自分の名字に愛着があるのかもしれない。


「里桜は“緒方”になるのは嫌なの?」
「緒方が嫌なわけじゃないけど、鈴木の方が俺の名前に合ってるでしょ?義くんは緒方でも鈴木でも大丈夫そうだし、鈴木になればいいのに。“鈴木義之”っていい感じじゃない?」
里桜に言われるまで想像したことすらなかったが、その語感や字面の違和感は許し難いものがあった。
「全然だよ。僕は“緒方里桜”の方がいいと思うな」
「そうかなー」
納得がいかない、という表情を崩さない里桜に、何とか説得を続ける。
「僕は里桜の両親と養子縁組したいわけじゃないんだからね?もちろん、するのが嫌だという意味じゃなくて、そういう周囲のこととは関係なく、里桜を僕のものにしたいんだよ」
「それって、義くんが俺のものになるわけじゃないってこと?」
「君のだよ。ただ、世帯主が僕だというだけのことだよ」
“世帯主”という言葉に、里桜の表情が変わる。考え込むように黙り込んだあと、神妙な顔をして義之を見た。
「俺が義くんを養うとか、ムリだし」
「じゃ、緒方になってくれる?」
「……しょうがないかなあ」
不承不承とはいえ、里桜は首を縦に振る気になったようだ。肩を抱くと、素直に頭を凭れ掛けさせて、義之の表情を窺うように瞳を上げた。
「でも、もし万が一、俺が義くんより稼ぐようになったら考え直してくれる?」
そんな日は絶対に来ないと思ったが、また里桜の機嫌を損ねないよう、その言い分を受け入れておく。
「そしたら里桜に囲ってもらうよ」
満足げに笑う里桜に、進学も就職もさせる気はないと宣告するのはもう少し先にしようと思った。
里桜の両親に挨拶をする時から、高校を出るまでしか待たないと明言してある。そうでなくても、義之がどれほど里桜を束縛したがっているか身を持って知っているはずなのだから、そのくらい察していてもおかしくなかった。
「その頃にはロシアンを飼ってるかな?」
思いを馳せるように、里桜は視線を先の方に向ける。おそらく義之の想定している未来図とは違ったビジョンを描く里桜の頭の中には、もしかしたらまだ両親が同居しているのかもしれない。
「ロシアンは飼わないよ」
「え、なんで?」
「チンチラの方が可愛くなったからね」
「そうなの?」
「そうだよ」
だから、他のことを全て二の次にして里桜の傍にいるというのに。
「じゃ、チンチラを飼ってるんだ?」
「そうだね」
願わくば、飼いならしていることを祈りつつ。
まだ思い通りにはならない恋人を、腕の中に閉じ込めるように抱きしめた。


- Wishful Thinking - Fin

Novel  


「義くんが鈴木になれば?」を、どうしても言わせたかったんですv
本当は本編の方に入れたかったんですが、なかなか機会がなかったので、
('07.4/24時点でまだ高一の秋だしなー)ブログの方で書きました。

里桜のサイズで言えばシンガプーラかな、と思いつつ、
あまりにもイメージが違うので、やっぱりチンチラ・シルバーで落ち着きました。