- わがままな仔猫の撃退法 -



「すいません」
小さな声で、一応の謝罪をしてからスーツの衿を引っ張った。そのままでは、背の高い義之の首へ腕を回すのは無理に思えたからだ。
少し驚いたような顔を見せたが、義之は優生が抱きつくのを止めようとはしなかった。
「優生に触るな」
目敏く見咎めて一喝する淳史に、義之はさも可笑しそうに反論する。
「僕が触ってるわけじゃないよ」
確かに、一方的にくっついているのは優生の方で、義之は手を触れてさえいなかった。
「淳史さんだって、里桜とベタベタしてるのに」
「俺がベタベタしてるわけじゃない」
くり返される言い訳は、もう聞き飽きた。
きっと、義之も優生と同じことを思っているはずだと、見上げて視線を交わす。
「……緒方さんが抱いてくれますか?」
一瞬落ちた沈黙を破ったのは、淳史ではなく里桜だった。
「ダメ!ゆいさんにはあっくんがいるでしょ」
淳史の背後からまとわりついていた体を翻して、里桜はカウンターの前で見つめ合う義之と優生を引き離しに来た。
僅かに遅れて、淳史が優生を羽交い絞めにするように奪い取る。
「冗談でも他の男にそういうことを言うな」
「冗談じゃないけど」
「まだ足りないのか?」
低めた声で囁かれると、きつく抱かれた体が火を吹くかと思った。自分の言葉の効力が、意図しない方向へ働いてしまったことに気付いて、慌てて訂正する。
「里桜が淳史さんにしてるようなことをしてくれませんか、って言ったんだよ?」
「そういう風には聞こえなかったぞ」
「ゆいさんが言ったらシャレになんない」
すかさず淳史を擁護する里桜に戸惑う優生に追い討ちをかけるように、義之が意味有りげに笑う。
「僕も、正直ドキッとしたかな」
「……緒方さんまで、そういうことを言わないでください」
どうやら、優生の失言だったことが確定されてしまったらしかった。


抱擁から解かれると、大きな手に背中を押されてソファの方へと促された。
先に座ろうとした優生の腰の辺りが掴まれて、淳史の方へと引き寄せられる。膝に乗せる気なのだと気付いて、阻止しようと足掻いた。二人きりの時ならともかく、どれほど知られているとしても、客人の前でベタベタするのは抵抗があった。
「優生」
苛立ったような声に挫けそうな思いを、何とか奮い立たせて反論を試みる。
「膝は嫌だ」
「それじゃ話にならない」
「膝に乗らなくても話はできるでしょ」
少し強気に返してしまったが、淳史は否定しなかった。
「そうだな」
言葉と同時に、覆い被さるようにソファへと押しつけられる。抗う体に乗り上げてこられると、情けないほどにウェイト差を痛感させられた。
「淳史さん、こういうのは話じゃないでしょ、退いて?」
「義之に近付かないって約束できるか?」
「どうして、そう俺の行動を制限したがるの?」
「おまえは義之でも構わないのか?」
「そんなんじゃなくて……ハグするくらいなら、いいんでしょ?」
淳史も、いつも里桜にベッタリ抱き付かれているのだから。
「俺がちょっかい出してるわけじゃないだろうが」
「だから、俺も緒方さんからされるんだったら構わないんでしょ?」
「駄目だ」
「どうして?」
「あてつけがましいことをするな」
その横暴な言い分が、事実だったからこそカッとなった。
「別に、抱きついたからって緒方さんとどうかなるわけでもないでしょ」
「ならないとは言い切れないだろうが。義之は嫌がらせのためなら何でもするような男だからな」
嫌がらせをされかねないとわかっているのなら、里桜とベタベタするのをやめればいいのに。
そう思っても、淳史の顔を見ていると、言ってもムダだということがわかってしまった。
「……わかったから、退いて?」
「もう義之に近付くなよ?」
「うん」
時には嘘も方便だと思っているような優生は、心を伴わない同意に何かを感じることもなかった。
絶対的な圧力から解放された体を起こして、淳史から距離を取る。もう、本当に我慢出来そうになかった。


「里桜?勉強する?」
「ヤダ」
毎回、勉強を見て欲しいという名目で訪れるこの悪魔のような仔猫は、まともに約束を守ったことがなかった。今日も、どうせこんなことになるのだろうと想像していなかったわけではない。
「じゃ、俺がいる必要はないよね?」
「優生?」
「勇士も今日はバイト入ってないって言ってたんだ。里桜が来ると思って断ってたけど、勉強する気がないんなら俺は抜けても構わないでしょ?」
「西尾の所へ行くのは駄目だと言っただろうが」
「勇士の部屋には行かないよ、外で会うから心配しないで」
先方の都合次第でもしかしたら会えるかもしれないと、勇士に言っておいて良かったと思ったのは一瞬だった。
「それくらいなら来てもらえ」
淳史の意外な返事に、ムキになってしまう。
「里桜は淳史さん以外ダメなんでしょ?勇士も大きくて厳ついんだから」
「ゆいさん?」
淳史と優生が攻防を繰り広げている間中、ハラハラした顔をしていた里桜が遠慮がちに話に入ってくる。
「俺、みんなが一緒だったら平気だよ?もうそんなに怖いと思うこともないし」
優生は一緒にいたくないというのに、好意であれ引き止めようとする里桜に苛立つ。そもそもの元凶が自分だという自覚もないのかもしれない。
仕方なく、唯一、反対してくれそうな相手に話を振ってみることにした。
「そいつの前の彼女って、目が大きくて童顔で可愛いタイプだったんですけど、構いませんか、緒方さん?」
「里桜もタイプだってことかな?」
「女の子なら、ですけど」
勢いに任せてそうだと言ってしまいたかったが、勇士のことで嘘は吐けなかった。
「淳史が呼ぶと言っている以上、とやかく言えないしね。なるべく里桜には近付けないでもらいたいところだけど?」
「里桜から近付かない限り大丈夫です」
いくら里桜が可愛くても、最初から男だと言っておけば、勇士が惑わされるとは思えなかった。もし万が一にもそんな事態に陥ったとしたら、義之より優生の方が大きなダメージを受けてしまうだろう。



電話をしてみると、勇士は思っていた以上に近くにいたらしかった。
「迎えに行ってくるね」
勇士が淳史の所に来るのは初めてだからという、尤もらしい理由で迎えに出ようという目論見は、淳史には通用しなかった。すぐに部屋を出ようとした優生の腕が掴まれて、あっさりと引き戻されてしまう。
「俺が行くから待ってろ」
「え、でも」
「そのまま消えられたら、かなわないからな」
その可能性がなかったと言えば嘘になるが。
それだけに、強く反論することが出来ずに、待ち合わせ場所を淳史に伝えて留守番するはめになった。
勇士にもう一度電話をかけて淳史が迎えに行くことになったことを伝える。
主のいなくなった部屋のソファに戻っても、三人になったことでますます間がもたなくなったような気がして落ち着かなかった。
察したように、里桜が優生の隣に腰掛けてくる。
「ゆいさん、ゴメンね。なんか、険悪な感じになっちゃって……」
殊勝な言葉で頭を下げる里桜に、曖昧に首を振る。やはり、この可愛いアクマは苦手だった。
自分が愛されていることをちゃんと自覚していて、世の中の男は皆自分に膝を折って当たり前だと思っているのではないかとさえ疑ってしまいそうになる。
強ちそれが間違いとも言えないほど愛らしい相手と争いたくない。肩を並べて比べられることさえ、気後れしてしまっているというのに。
「でも、本当にじゃれてるだけだよ?俺には義くんがいるんだから」
あまり慰めにならない里桜の言葉に、少し突っ込んだことを尋ねてみる。
「……もし、淳史さんが里桜を好きになったらどうする?」
深刻な優生を、里桜は軽く笑い飛ばした。


「ないない、俺みたいなのは対象外だって、あっくんいつも言ってるでしょ」
「だから、“もし”だよ?淳史さんに口説かれたらどうする?」
「ダメ。あっくんは安全圏でいてくれないと、リハビリしてもらった意味がなくなっちゃう」
「どういうこと?」
「俺があっくんにベタベタできるのは、絶対に何も起こらないっていう安心感があるからだもん。そうじゃなかったら、恐怖症に逆戻りしちゃうよ」
意外なほどの強い口調に驚いた。てっきり、里桜も満更ではないという反応が返ってくると思っていたのに。
「……淳史さんが聞いたらガッカリするよ?」
「そんなことないよ。あっくんだって、俺が対象外だから許してくれてるんだし。ゆいさんがいるのに、もし俺に下心があったら近寄らせてくれるわけがないでしょ」
幼いと思っていた里桜の方が、よほど事態を把握していたのかもしれない。優生は改めて自分が恋愛事に疎いことを知った。
「それに、俺は義くんじゃないとイヤだもん」
時として、義之にすげない態度を取っている里桜からは考えられないような言葉だ。
「……里桜は、誰か他の人と付き合ったことある?」
「うん。すごく優しくて男前な人」
「それって、緒方さんのことじゃなくて?」
「うん。義くんとつき合う前っていうか、ちょっと被ってるかも」
ずっと、義之が表情も変えず口も挟まないということは、里桜は過去を隠していないということなのだろう。
「里桜はそういうタイプに弱いんだ?」
「そうみたい。でも、義くんは俺の一目惚れだけど、前の人にはめっちゃ口説かれて根負けしてつき合い始めたみたいな感じだったんだ。すごい大事にしてくれたし、つき合っているうちに好きになっていくんだと思い込んでたけど、義くんと出逢って、そうじゃないってわかったんだ。俺は、好きになろうと思ってなるのはムリみたい」
里桜の口調は揺るぎなく、子供っぽく見えていても、もしかしたら優生より余程しっかりしているのかもしれないと思った。



玄関のドアの開く音に気付いて、急いで迎えに走る。
上背と厚みのある体が二つ並ぶと、何だか玄関が小さくなったような気がした。
「ごめん、勇士、急に……っわ」
勇士を映した視界を遮るように被さってくる大きな影に、言葉ごと攫われる。驚いて暴れる体をきつく抱きすくめられて、息が止まりそうになった。
「……淳史さん?」
酸素を求めて腕から顔を抜け出すと、待ち構えていたように呼吸を塞がれた。 不機嫌そうな淳史の、強引な仕草に泣きそうになる。勇士の前では、こんな風に扱われたくなかった。知られているのと、目の当たりにされるのでは全然意味が違うのに。
強引な“ただいま”の儀式を終えても、軽いショック状態の優生は、すぐには顔を上げることが出来なかった。
腰を抱くように回された腕に促されるまま、リビングへと連れられてゆく。
里桜の座るソファに腰掛けようとする淳史に引っ張られるまま、隣へと腰を下ろした。すぐ後ろをついてきた勇士がその横へ並ぶ。淳史の膝に乗せられなくて良かったと、優生が紹介するべき立場であることも忘れて、やや的外れなことを思っている間に、勇士は先客と軽く挨拶を交わしていた。
それを他人事のようにぼんやりと眺めていたが、テーブルに置かれたカップに何気なく視線を移した時、唐突に現実に戻ってきた。
「……あ、勇士にコーヒー淹れなきゃ」
立ち上がりかけた体がソファに引き戻される。
「俺が淹れてくる」
淳史の言葉を、今度は勇士が止めた。
「いえ、それより煙草吸っていいですか?」
「あ、じゃ、ベランダで……室内は禁煙なんだ」
正しくは、義之と里桜が来ている時は、という限定だったが。
「悪い、外に出れば吸ってもいいのか?」
「うん。灰皿も置いてあるから」
案内するように先に立つ。今度は引き止められなかった。


一段低い、人工芝を敷いたベランダに出ると、縁台のような長椅子に先に腰掛ける。続いて出てきた勇士が、優生の隣に座った。
二人きりになると、先までの緊張感が急速に緩んでくる。
「ゆい、また調子悪いのか?青い顔して」
心配げに覗き込んでくる勇士の肩へと、そっと頭を寄せた。微かに染み付いた煙草の匂いさえも、勇士のものだと思うと優生を安心させてくれるようだ。
すぐには答えない優生の髪を、優しい指が撫でる。それがどれほど優生を癒してくれるのか、知っててやっているのかもしれない。
「……ちょっと、疲れちゃって。さっき可愛いのいただろ?淳史さんと凄い仲が良いから、軽くいじけちゃうっていうか」
素直に白状する優生の、頭を引き寄せる大きな掌に任せて寄り添う。ささくれ立っていた胸の中が、少しずつ和らいでいくようだ。目を閉じて、その平穏により深く浸ろうと思った。
「可愛いって言っても男だろ?それに、工藤さんも例え10年後でも恋愛の対象にはなり得ないって言ってたぞ」
「え……淳史さんと、なんか話したの?」
「おまえが勉強を見てやってる相手が工藤さんにベタベタして、機嫌を損ねたとか言ってたな」
事実には違いなかったが、端的過ぎる言い方にムッときた。
「勉強を見たことなんて殆どないんだ。いつも、何だかんだと理由をつけては逃げてばっかで。淳史さんに会いたいんなら、外で会えばいいのに」
「外で会うんならいいのか?」
「目の前でベタベタされるよりはね」
「でも、目が届かないと何をされててもわからないぜ?」
脅かすような勇士の言い方に、それも耐え難いことに気付く。
「……でも、こうあからさまに嫌な顔しなくてすむし」
「そんな気を遣わなくても、気に入らないから近付くなって言えばいいだろう?おまえにはその権利があるんだからな」
「権利なんて……」
あるとは思えないと言いかけた優生を宥めるように、大きな手が頭を撫でる。
「おまえって難儀だな」
少し呆れたような言い方だったが、優生の頭を包む掌はひどく優しかった。


「お邪魔かな?」
控えめに掛けられた声に驚いて顔を上げた。振り向く勇士も、出入り口となった窓の方を見ている。
「コーヒー、持ってきたんだけど」
「すみません」
トレーに手を伸ばす勇士に、義之は意味有りげな視線を向けた。
「僕には、里桜が淳史にじゃれるより、こちらの方がよほど問題に見えるんだけれどね?」
「どういう意味ですか?」
「僕が淳史なら、彼をここからつき落としかねないよ」
「俺には下心なんてないですけど?」
少しムッとしたような勇士の言い分は、義之には通用しそうになかった。
「それだけ無防備に、全身で寄り掛かれる相手がいるということ自体が許せなくてね。僕は淳史ほど寛大にはなれないんだ」
「前に、里桜が淳史さんにくっつくのは、大丈夫だって確認して安心したいからだって言ってましたけど?俺も、勇士に会うと、まだ心配してくれる奴がいるんだなって思ってホッとするんです」
必ずしも真実とは言い切れなかったが、義之にも勇士にも無難な言葉を選んだつもりだった。
「里桜は、この先二度と淳史に会えなくても大丈夫だと思うよ。単に機会があるから甘えているだけだからね。でも、君は彼がいないとどうなのかな?」
咄嗟には言い逃れる言葉が出てこなかった。
勇士がいなくなるなんて考えたくない。失くしたくないから、友達で居続けることを選んだのに。
「ゆいには家庭的な事情があったし、体が弱かったから誰かが支えてやらないと駄目だったんです。何も知らない人に、とやかく言われたくない」
勇士のきつい口調に、出会った頃によく“放っておけない”と言われたことを思い出す。その優しさに依存してきたのは単に居心地が良かったからだけではなかった。


「もし、ゆいが女の子だったとしても、友達のままでいられる?」
「それは……何とも言えませんけど」
言葉を濁す勇士に、また思っても仕方のないことを考えてしまいそうになる。優生が女だったら、生まれてすぐに養子に出されずにすんだはずだった。それだけで、優生の人生はずいぶん違ったものになっていたに違いない。もし養子に行かざるを得なかったとしても、女だったら、もっと簡単に幸せになれていたような気がした。跡を継ぐにしろ、父親のように何もかもを放棄するにしろ、身を委ねる相手に事欠かなかっただろう。
「緒方さん、もしもなんて言っても仕方ないでしょう?俺が女だったら、淳史さんとは出逢ってもいないんだから」
「彼とは出逢ってた?」
「たぶん。もしそうなってたら、さっさと既成事実でも作ってハメ婚とかしてたんじゃないかな」
或いは、先に将真にそうされたかもしれないが。
「怖いことを言うね?」
「切羽詰ってたので。先に他の奴にやられてたかもしれませんけど」
「他の奴って誰だ?」
怪訝な顔の勇士に、口を滑らせてしまったことに気付いてハッとした。
「深い意味はないよ、もしもの話だろ?」
納得はいかないようだったが、義之がいるせいか、勇士はそれ以上追及してこなかった。
「いつまでも拗ねてないで早く戻っておいで。本当に淳史がキレてしまっても知らないよ?」
「でも」
あの場に居たくなかったから、勇士に来てもらったのに。
「僕が運んで来た理由を察してやってくれないかな」
意味がわからずに首を傾げる優生に、義之は大げさなため息を吐く。
「淳史に同情するよ。ゆいは意外と鈍いんだね。ともかく、これ以上禁止事項を増やされないうちに戻った方がいいと思うけど?」
優生より察しのいい勇士に促されて、仕方なく席を立った。


「勇士の所でも床だし、こっちでいいよな?」
部屋に戻ると、先客のいるソファの方でも、最近ダイニングチェアーを二つ置いたカウンターの方でもなく、少し離れたフローリングにクッションを並べて壁を背に腰を下ろした。コーヒーは、義之から手渡されていたトレーに乗せたまま床へ置く。
「おまえ、いつもこんな感じなのか?」
少し声を潜めた勇士に寄り添うのは躊躇われて、いつもより少し距離を保ったまま話を続けた。
「うん。俺、人付き合いは苦手だから」
「無理するのはやめたのか?」
嫌味のような勇士の言い方に、素直に頷いた。
「なんか俺、いつの間にか我慢がきかない体質になったみたいなんだ」
「いい傾向じゃないか?ゆいはいつも無理してるような感じだったからな」
「そんなことないよ、自分でも協調性がないなあって思ってた」
「西尾」
和やかな雰囲気を壊す、抑え切れない怒気の籠められた声に、優生と勇士は同時に淳史の方を振り向いた。
「いい加減に優生を返せ」
淳史が声を荒げたことに驚く優生と勇士以上に、強く反応したのは里桜だったのかもしれない。びくりと震わせた肩を、義之が包むように抱き寄せるのが見えた。里桜は、体格の良い相手だけでなく、物騒な雰囲気も苦手なようだ。
「優生」
苛立たしげに淳史に腕を引かれて、仕方なく立ち上がった体が胸へと抱き取られる。
「まだ、束縛され足りないのか?」
囁くような低い声は、勇士に聞かれたくないからなのだろう。淳史の言いたいことは何となく察しが付いたが、敢えて気付かないフリで反抗的に返す。
「……抱きつくどころか、触ってもないのに?」
「会うのも禁止だと言わせたいのか?」
「横暴だよ、淳史さんは自分勝手過ぎる」
淳史とは逆に、優生は勇士が傍にいるおかげで、言いたいことをハッキリと口に出すことが出来た。


淳史が天を仰ぐところを見るのは久しぶりのような気がする。最近はずっと平穏で、少なくとも淳史と優生の二人だけの時は穏やかに睦まじく過ごしていたのに。
「里桜」
淳史に名前で呼ばれて、里桜は弾かれたように顔を上げた。義之の腕に包まれたままの体ごと淳史の方へ向く。
「もう俺に触るな」
短い言葉に、里桜の顔色が変わった。
「うん……」
神妙な顔で頷く里桜の頭を、義之が慰めるように撫でる。どうやら淳史の決定に口出しするつもりはないらしかった。
それきり部屋に落ちた沈黙が気まずくて、そんなつもりではなかったと、里桜が淳史にベタベタするくらい気にしていないと、この場を繕えば雰囲気が和らぐかもしれないと思っても、やっぱりそう言う気にはなれなかった。
「工藤さん」
思い立ったような勇士の声にドキリとする。優生を腕に閉じ込めたままの淳史は、視線だけを勇士の方に向けた。
「いい加減、ベタベタするのはやめてくれませんか?俺には、ゆいが嫌がっているようにしか見えない」
勇士の言い分は優生の心配していたようなものではなく、ごく当たり前な要求だった。ただ、その言葉は逆効果だったようで、優生を抱く腕に一層強く力が籠められてゆく。
「前にも言ったはずだが、優生は俺のだからな」
「わかってます」
過剰な独占欲を目の当たりにして、勇士が短くため息を吐いた。
「ゆいさん」
声に振り向くと、硬い表情の里桜が、義之に肩を抱かれた姿勢で背筋をピンと伸ばした。
「それから、西尾さん。いろいろ気を悪くさせてしまって、ごめんなさい」
「僕たちは帰ることにするよ。ここではベタベタできそうにないからね」
嫌味のような義之の言葉にカチンとくる間もなく、里桜が言葉を被せる。
「あっくんもゴメンね。修羅場がんばってねー」
項垂れて見えたのは一瞬だけで、里桜はとんでもない言葉を残して去っていった。


「気を悪くさせたんじゃないの……?」
その場で義之と里桜を見送ったあと、優生は縛められた腕の中から顔を上げて、淳史の表情を窺った。優生のせいで、淳史の交友関係に亀裂を入れてしまったかもしれない。
「勉強をする気がないと言った時点で帰らせれば良かったな」
淳史の対応が悪かったせいだと言われるのは、非難されるよりも堪えた。優生の我儘だと自分でもわかっているのに。
「俺もジャマですか?」
やや好戦的な勇士の問いかけに、淳史は首を横に振った。
「いや、来いと言ったのはこっちだからな。一度どんな感じなのか見てみたかったんだが、思った以上に優生が甘えているのを見たら我慢できなくなった」
「三年以上かけて、やっと寄りかかってくれるようになったんです。工藤さんはまだ三ヶ月かそこらでしょう?」
また、優生を抱く手が強くなる。慰めるような勇士の言葉は優位を主張しているようにも聞こえて、淳史の気に障ったらしかった。
「……優生が無理をしたがるのは元々なのか?」
「俺が知り合った時はもう無理ばっかしてました。倒れたのも一度や二度じゃないし。でも、ゆいからは何も言ってくれないから、気を付けて見ててやらないと」
「……そういうことか」
漸く、優生を抱く淳史の腕が少し緩む。促されるまま、淳史と一緒に勇士の近くへ腰を下ろした。
「悪いが、お役御免だ。優生のことは俺が見るからな」
「……本当に、ちゃんと見れるんですか?」
「ああ、何度か失敗したからな、身に沁みてわかってる。大丈夫だ」
当人を無視して話が進んでいくのを、複雑な思いで聞いていた。
「だからといって、ゆいと会うのはやめませんけど」
挑むように、勇士が淳史を見る。軽く肩をすくめる淳史が、先の言葉をくり返した。
「でも、優生は俺のだからな?」
その言い方が子供じみているように聞こえて、優生は不謹慎にも笑ってしまった。
幸せというのは、何もかもを手に入れることではないのかもしれない。選ぶのは難しいと思いながらも、優生は自分を束縛する腕から抜け出そうとは思わなかった。



客人が全て引き上げると、先にソファへ戻った淳史に腕を引かれて膝の上へと腰掛けた。いつまで経っても慣れることの出来ないその体勢にも、今日はおとなしく従っておいたというのに。
「……思い出したら、また腹が立ってきた」
胸元へ抱きよせられて鼓動を共有しているうちに、淳史の気も納まったのだと思っていたが、また蒸し返そうとするような気配にため息が出る。どうやら平穏が戻ってきたわけではなかったようだ。
包まれた腕の中で、小さくぼやく。
「思い出さなきゃいいのに」
「無理だ」
「あっ……」
少し乱暴に、淳史の腕に抱かれたままソファへと倒されてゆく。
唇が触れ合ってすぐに舌を探ってくるのは淳史の機嫌が悪い証拠のようなもので、これ以上逆撫でしないよう、優生は求められるままに身を預けた。
デニムのボタンが外されて、腹の窪みから大きな手が忍んでくる。ファスナーの下りる音がやけに耳についた。
「……ん」
逃れようと捩った腰と生地の間に出来た隙間から、より深く手が差し入れられる。大きな掌に包まれると、快楽に弱い体はすぐに抵抗を放棄して、あっけなく落ちてゆく。
「義之を誘ったな?」
「だから……そういう意味じゃ、ない、って……やっ、あ……」
「西尾にも随分ベタベタと甘えていたな?」
「そんなこと……勇士とはいつも、あんな感じで……ひぁっ」
口を滑らせてしまったと気付くのが遅れた。意地悪な指に力を籠められると、過敏な場所に痛みが走る。
「いつもベタベタしてるのか?」
「ううん、そんなことない……それに、勇士は女の人しか、ダメだから……」
「俺もおまえ以外の男とは無理だと言っただろうが」
「でも」
優生とこういう関係になった以上、勇士よりは落ちる可能性が高いはずだ。
「そうでなくても、義之を敵に回すようなことをする気はないからな」
俊明には遠慮しないのに、義之には気を遣うのはおかしいと思ったのが顔に出たのかもしれない。淳史は急に警戒するように表情を引き締めた。
「別に気を遣ってるわけじゃない。おまえが思っている以上に、義之は恐ろしい男だからな」
「そうなの?」
あの父親と血が繋がっているというだけで、充分に恐ろしいと思っていたが。
「仮に、俺と里桜に何か起きたら、狙われるのは絶対におまえだからな」
「もしそうなったら、残り者同士で慰め合うことになるのかな?」
深い意味もなく言った言葉に、淳史は眉を顰めて真面目に返してきた。
「そんな生易しいことでは済まないと思うが」
「追い討ちをかけられるだけとか?」
「義之は、俺が一番ダメージを受ける方法を迷わず選ぶだろうな」
淳史が一番ダメージを受けるのはどういう事態なのだろう。優生が他の誰かに体を自由にされる度に許されてきたことを思えば、そういう直接的なことではないのかもしれない。
覚束ない想像を遮るように唇を塞がれる。深く差し込まれた舌と絡み合うと、話し合いは終わったことを知った。
「……っふ、あ、やっ」
腿の辺りで蟠っていたデニムをもどかしげに抜き取られて、無骨な指が優生を昂ぶらせることに勤しみ始める。
「あ……っ……」
逃れるように浮かせた腰を掴まれて、軽くひっくり返される。すっかり慣らされた体は、もうバックは嫌だと言うこともできなかった。
殊更ゆっくりと中を探ってくる指に焦れて、少しだけ膝を立てて腰を上げる。もっと確かな刺激が欲しくて、もどかしく腰を揺すった。
「はぁっ……ん、ぁん」
優生のねだるままに、長い指が奥へと沈められてゆく。言葉より、体の方が上手に伝えられるのかもしれない。うっとりと目を閉じて、淳史のくれる快楽を夢中で追いかけた。
「あ、いや」
指が抜かれるのを止めようと追う腰は間に合わず、支えを失くして膝が崩れる。責めるように振り向く優生の腰が、淳史の手に強く引き寄せられた。
「ああっ……んっ、ぁんっ」
代わりに優生の中へ入ってきた熱い塊に圧迫されて、呼吸が上手く出来なくなる。指とはあまりに違う質量をすぐには受け止め切れず、内側から拒むように痙攣した。
「……優生、きつい」
呻くような声に、詰めてしまいがちな息を意識して吐く。
「はっ、あ、あっ……ん、ぁん」
その度に、淳史を深く埋められて緩めることが困難になる。立てた膝に力が入らず、淳史に掴まれていなければ体勢を保つことは出来そうになかった。
「義之には近付くなよ?」
「ん……うん」
言われるまでもなく、最初から何の興味もない。むしろ、淳史の友人でなければ係わり合いたくない相手だった。
「西尾と二人きりでは会うな」
「そんな、こと……っは、ああっ……」
出来ないと言わせないように、激しく突き上げられた。いざるようにして前へ逃げる腰を引き戻されて、より奥まで貫かれる。
「ひ、っあ……ぁんっ」
顔の傍についた肘に力を籠めて体を支えるのがせいいっぱいで、とても交渉するような余裕などなかった。
「優生?」
同意を求めるような呼びかけに、為す術もなく頷く。こんな状況で嫌だと言えるはずがなかった。
「おまえを自由にできるのは抱いている間だけだな」
聞き取れないほどの呟きを、優生は胸の内で否定する。とっくに、淳史の思い通りになっているのに。束縛する腕を抜け出そうとは思っていないのに。
けれども、同意したからといって手加減してくれる気は更々なさそうな淳史に、そう告げることはできなかった。





【 余談/その後の緒方邸 】

「義くん、本当にドキドキしたんでしょ」
「何が?」
とぼけること自体が怪しいと思う里桜は、きっと間違っていない。
「ゆいさん、綺麗だし」
「美人は見慣れているからね、それくらいで過ちを犯しそうにはならないよ」
「でも、ゆいさんて思ってたより全然色っぽいからビックリしちゃった」
「本気出したのかもしれないね。それだけ里桜に腹を立ててたんじゃないかな?」
「俺があっくんにベタベタしてたから仕返しされたの?」
「まあ、簡単に言うとそういうことかな」
「ふうん……そんなに心配しなくても、あっくんが浮気なんかするわけないのにねー」
独占欲では義之に負けているかもしれないが、思い入れの深さではきっと淳史も負けていないと思うのに。
里桜の美人な家庭教師は、何故だか自分に自信が持てないらしく、しかも酷く猜疑心が強かった。傍から見ていれば、里桜の方がヤキモチを焼かずにはいられなくなるくらい淳史はベタ惚れで、余所見すらもするはずがないとわかるのに。
「人のことなら良く見えるのに、自分のこととなるとわからなくなってしまうものだよ。里桜だって、すぐに僕を疑うだろう?」
「だって、義くんは人間的に信用できないって言うか……」
胸の中に留めておくべき部分まで口にしてしまったと気付いたのは、覆い被さるように義之に抱きしめられてからだった。
「僕のことは信用できないの?」
「俺を愛してくれてるってことだけはわかってるよ?」
「それだけわかってくれてればいいようなものだけど、何だか含みを感じるね?」
意地悪な唇が近付くと、里桜は観念して目を閉じた。話し合いが穏やかに進まないのは、何処も同じかもしれないと思いながら。



- わがままな仔猫の撃退法 - Fin

Novel  


やっと、ずっと気になっていた“受けにのみ甘い攻め”の例外を失くすことが出来ました。
実は、このお話はそのためだけに書いたと言っても過言ではないので……。
番外編となっていますが、内容的には本編に入れるべきだったなあと思っています。
本編を読んでくださってる方がこっちも読んでくださることを祈りつつ。