- 爪をみがいて -



土曜の午前10時、いつも通り保護者つきで勉強を見てもらうという建て前で淳史のマンションに現れた里桜は、珍しくトレーナーにジャージという格好だった。
このあと、ジムにでも行く予定なのかもしれないと思ったが、里桜の口から出た言葉は突拍子もないものだった。
「ゆいさん、格闘技が得意だって聞いたから護身術を教えてもらおうと思って」
優生が引き受けた家庭教師の内容は英語と数学のはずだったが、何の前触れもなくそんなことを言い出す里桜に少し面食らう。
「護身術って……俺がやってたのは空手だよ?護身なら少林寺とか合気道じゃないかな?」
「……どう違うのかもわからないんだけど?」
見た目通り、里桜はそういう物騒なことには無縁らしかった。
一般的に、優生が通っていた流派のように実践向きの空手は攻撃的な意味合いの方が強く、護身にはあまり向いていない。
「ものすごく極端に言えば、空手は自分から積極的に殴ったり蹴ったりする攻撃的なものだけど、少林寺や合気道は受身なものだと思うよ。少林寺は相手の攻撃を受けたり躱したりした後で反撃するから、身を守るためっていう感じが強いんじゃないかな?一番護身術っぽいのは合気道だと思うけど、相手の重心を崩して投げ技や極め技をかけられるようになるには、相当鍛錬しないと無理だよ?」
おそらく、どの武道をとっても、一朝一夕に身につくようなお手軽なものなどないはずだ。
「……俺には無理ってこと?」
「そこまでは言わないけど、付け焼刃じゃ却って危険だと思うよ。里桜はどういうシチュエーションを前提に考えてるの?」
「えっと……襲われそうになった時?」
「夜道とかそういうことかな?相手が強盗目的なら、お金を渡せばすむ場合もあるし、ヘタに抵抗しない方が安全だと思うよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
がっかりしたように、里桜が口篭る。里桜の言いたいことは大体想像できた。
「相手の目的が体だったら、そうもいかないよね」
「うん」
自分の身を守れたことのない優生が言うのはあまりにもおこがましい言葉を、淳史の視線を痛いほどに感じながら話す。
「でも、護身術って言っても、基本は逃げることが一番だよ」
「え、逃げるの?」
「そうだよ。怪しい人が近付いてきても、相手の手が届かない距離を保つことが大事だよ。掴まれたら逃げるのが難しくなるだろ?」
「でも、いきなり近くに来られたら距離なんて取れないよ?」
「もし近付いて来られたら、可能な限り走って逃げて、人通りのある所なら大声を出すとか、警察を呼んでもらうとかしなきゃ」
「足の速い相手だったら追いつかれるよね?」
「まあ、追い詰められたら反撃しないと仕方ない場合もあるけど、命が惜しかったら逆らわない方がいいと思うよ」
全面降伏しても命の危険がある場合以外は向かい合わないよう、優生の通っていた道場では教えられた。


「それじゃ襲われちゃうってば」
「そうかもしれないけど……もし相手が刃物を持ってたら、絶対に逆らっちゃダメだよ?」
「やらせろってこと?」
相変わらず、里桜の言葉選びは容赦が無い。
「命の方が大事だったらね」
「……じゃ、相手が素手だったら?やっぱり股間蹴り上げて逃げればいいの?」
「自分も男なのにそう思う?」
「ダメージ考えたらそうなんじゃないの?」
「本当にそれだけのダメージを与えられればそうかもしれないけどね、ほんの少しの時間を稼げれば逃げ切れる場合以外は逆効果なんじゃないかな?なまじ痛い思いをさせてしまったら、逆上して何をされるかわからないよ」
「そうなの?」
可愛い顔をしたこの小悪魔は、つくづく男だとは思えなかった。それとも、そんな経験とは無縁だったのだろうか。
「空手の試合とか見たことないかな?金的って言って、蹴りも突きも入れちゃダメな場所なんだけど、当たっちゃうことあるんだ。もちろん反則なんだけど、故意じゃなければ注意くらいですむんだよ。でも、審判が減点取らなくてもキレちゃう奴多いよ。ファールカップなんて気休めだしね、鍛えられる場所じゃないし」
「じゃ、どうするの?」
「そうだなあ……攻撃するしかないとしたら、狙いやすいのは脛かな?弁慶の泣き所って言うくらいだから痛くない人はいないだろうし。まともに極められるなら鳩尾(みぞおち)がいいけど……何か武道をやったことある?」
「授業で柔道選択してるだけ」
「運動神経はいい方?」
「走るのは得意だけど、柔道は全然」
傍観を決め込んだままの二人の大人を振り向く。この期に及んでもまだ止めないということは、義之も了承しているということなのだろう。それでも、勉強を教える以上に気が進まなかった。なにしろ、優生自身が武道では落ちこぼれだったのだから。
「……突きとか蹴りとかそういうのから教えた方がいいですか?」
「里桜が納得する程度に見てやってくれないかな?里桜には不向きだと言ったんだけど、どうしても教わりたいっていうものだからね」
「だって、自分の身は自分で守れるようになりたいでしょ。義くんは教えてくれないし」
教えてくれないという理由を考えると、ますます気が重くなる。
「一応言っとくけど、俺は10年以上やってたけど、自分の身を守れたことないよ?」
ずっと不機嫌そうな顔をしていた淳史が、初めて口を挟んだ。
「おまえは守る気がなかったからだろうが。結局は、技術がどうのと言うより、絶対に守るという意思があるかないかなんじゃないのか?」
許されたと思っていた過去が、実はそうではなかったようだと、淳史の辛辣なまでの口調から窺えた。
「だったら、尚更、俺に教わっても意味無いかもね」
嫌味に聞こえかねない優生の言葉にも、里桜はずいぶん鈍いのか自分の思いに一生懸命なのか、淳史との間に走った緊張感には気付かないようだった。


「才能ないと思うけど、教えてくれる?」
「本当に身に付けたいんなら、ちゃんとした道場に通った方がいいよ」
「でも、ああいう世界って縦の関係が厳しいんでしょ?イジメとかありそうだし……」
心構えから間違っていると言おうとした時、すかさず義之が里桜を擁護する。
「そんな野獣の集団みたいな所に、里桜を入れるわけにはいかないよ」
「野獣って……偏見ですよ、少なくとも俺が通っていた所は、厳しかったけどイジメなんかないです」
「里桜は可愛いから違う心配もしないといけないしね」
結局、そこに行き着いてしまうのだと思うと、まともに相手をするのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「女の子の道場生も何人もいましたけど、そういったトラブルは一度も聞いたこともないですけど」
「里桜が第一号にならないっていう保障はないしね、ともかく道場も部活もダメ」
「というわけだから、ゆいさん、お願い」
他人のことをとやかく言えた義理ではないが、その過保護さに呆れてしまった。ムダだとわかっていながら、淳史に視線で確認してみる。
「淳史さん、場所変えなくていいの?」
「スパーリングでもするつもりか?」
「いきなり出来るわけないでしょ。サポーターも何も持ってないのに」
「それなら問題ないんじゃないのか」
淳史の反対も得られないことを知り、仕方なく、テーブルを除けてスペースを広めに空けた。
「とりあえず、準備運動と柔軟から始めようか」
場所の確保が終わると、里桜の正面に立って屈伸から始める。里桜も、優生に倣ってアキレス腱を伸ばし、肩や首を回して床へ座り込んだ。前屈も開脚も、里桜は難なくこなしていく。思っていた以上に体は柔らかい方らしい。
そう言おうとした時、同じことを思っていたらしい里桜に先を越された。
「ゆいさんて、めっちゃ柔らかいね。体操の選手みたい」
「そんなことないよ。まあ、リーチが短いぶん、ストレッチは結構頑張ってたけど」
「俺、今からでも間に合う?」
「大丈夫だけど、里桜も充分柔らかいと思うよ」
もっと柔軟性を上げるのは難しいことではないが、今はそれ以外のことの方が深刻に思えた。
「あと、足首回して」
一通りの柔軟が終わると、いよいよ技を教えることになった。期待に満ちた目で優生の指導を待つ里桜と視線を合わせるのが怖い。この期に及んでさえ、保護者のどちらかがストップを掛けてくれないかと思わずにはいられなかった。
「……まず構えだけど、足は肩幅くらいに開いて、里桜は右利きだから左足を前にして立って。この左右の足の間に十字があるようなつもりで前後に開いて、体重は五分五分にかけて、右肩を引いて半身で立つ感じで、腰を落として」
「腰を落とすってどういうこと?」
「軽く膝を曲げて重心を低くするんだよ。それから、拳は小指から順番に握ってきて。しっかり握ってないと怪我するからね」
「うん」
一瞬、返事は“押忍”だと言うべきか迷ってやめた。道場に通う気がないなら必要ないだろうし、それ以前に里桜には似合わなすぎる。
「拳は顎の高さに上げて、拳ひとつぶんくらい開けて顎を引いて」
「なんか、構えるだけでも難しそう……膝笑ってきそうだし」
「基本の構えだからちゃんと覚えて。慣れるまではしんどいかもしれないけど」
構えると、ますます里桜の可愛らしさが強調されて見えるのが不思議だった。


「右手は、タメが出来てるからそのままの姿勢から打って。脇締めて、ストレートは対角を狙う感じで、腕を振るんじゃなくて腰の回転で前へ出す感じで」
「……意味わかんない」
「ごめん、いろいろ言い過ぎたかも。とりあえず真っ直ぐ打ってみて」
「ゆいさん、お手本見せて?」
「じゃ、ゆっくりやるから、イメージ掴む努力して?」
里桜に説明した通りに、軌道を追えるようにゆっくりめに打ってみせる。正直なところ、ギャラリーがいるぶん余計にやり辛かった。
「で、打ったら必ず元の構えに戻って。空いてる方の手で顔面をガードするの忘れないで」
「他にどんなのあるの?」
「試合に出るわけじゃないし、あとはフックとアッパーで充分かな?サイドから打つのと、下から突き上げるのだよ」
軽くシャドウで見せたが、里桜の顔は冴えない。
「なんか、難しそう」
「そんなことないよ。やる前からそういうこと言ってたらダメだから」
里桜にも練習させてみようと思ったが、すかさず上目遣いに見上げられて、まるでおねだりのようなその気配に絶句する。
「キックも見たいなー」
いつの間にか、里桜の目的がすり替わってしまったような気がしたが、やる気を殺がれたのなら、その方が優生にとっては都合が良かった。このまま里桜に諦めさせてしまおうかという思いが頭を過る。
「一般的なのは回し蹴りかな?」
基本どおり、膝のバネと腰の回転で側頭部の辺りを想定して蹴って見せる。敢えてハイを見せたのは出来ないと思わせたかったからだ。
「すご……」
優生の思惑は見事に外れたらしく、里桜は目を丸く見開いて憧れの眼差しを向けていた。格闘技に免疫がないぶん、技だけ見れば派手なハイキックに憧れる気持ちはわからないでもない。ただ、まともに入れば効果的かもしれないが、慣れた相手なら足を取られたり払い落とされたりして、危険な技だと思う。
といっても、試合ではないのだから、もし相手の油断をつくのなら、いきなり高い所を狙う方がいいのかもしれないが。
「出鼻を挫くなら前蹴りかな。飛び込むような感じで顎を蹴り上げるんだ。相手が向かって来てたらカウンターになるし」
簡単な説明をしながら、優生に見惚れたままの里桜を威嚇するように眼前に蹴って見せた。


「……び、っくりした」
顎まで数センチ、という所で蹴り足を止めたが、硬直した里桜は、一呼吸遅れて言葉と息を吐き出した。
緊張が切れてしまったような里桜の、トレーナーの胸元を引きよせる。
「接近してしまったら膝蹴りとか。相手の衿とか胸元を掴んで引き寄せながら、腰を前に出す感じで蹴るんだけど、先に抱きつかれてたりとか、体がくっついてたらあんまり効果はないよ。それに、相手の懐に入るわけだから、危険は高いかも」
わき腹のあたりに触れた膝に、里桜はまた硬直した。軽くあてただけでこれではスパーリングなどムリだろう。掴んだ手を解くと、里桜はまた長く息を吐いた。
「ゆいさんくらいになったら、怖いものなしだよね……」
「そんなわけないだろ、相手だって避けるし反撃するし、まともにもらってくれるわけじゃないんだから」
「そうなのかな?なんか、全然余裕で撃退しそう」
反論しようとした優生を遮るように声がかけられる。
「格闘技なんて縁がなさそうなのに、見惚れるくらい綺麗な技を出すね」
もしかしたら義之を怒らせたのではないかと思っていたが、思いがけず優生に感心していたらしかった。
「でも、俺のは軽くて。あまり実践向きじゃないんです」
「そうかな?生身の相手だと遠慮してしまって思い切りが悪くなるとか、そういう問題のような気がするけど」
まるで優生の実戦を見たことがあるかのような口ぶりにドキリとした。試合のたびに、師範に言われていた言葉だ。
「暴漢にまで気を遣うな」
好き好んで危険な目に遭っていたわけではないが、その相手を暴漢だと決めつける淳史は横暴だと思う。
「気を遣ったりしてないよ。ただ、俺の見た目で舐められて強引にされるんだと思う」
「その方が相手を油断させられるというメリットがあるだろうが」
「でも、そういうのは最初しか通じないし……あ、そうそう、それで思い出した。里桜、さっきの話だけど、もし暴漢に襲われそうになっても、構えない方がいいよ」
「なんで?」
「ヘタに構えると、何か武道をやってると思って相手が警戒するから」
「……なんか、せっかく教わっても、習ったとか言っちゃダメなんだ……?」
「使う機会がない方がいいよ。それに、あまり強くなって僕の手に負えなくなったら困るしね」
ガッカリしてしまったらしい里桜を、義之が慰めにかかる。おそらく、それが一番の本音だと優生にもわかるのに、里桜には通じないらしい。
「そんなに強くなれるわけないでしょ。そりゃ、ゆいさんくらいになったら敵無しだろうけど」
「だから、そんなことないって。重量級の相手には全然効かないし、大体、試合ならともかく犯罪者にはルールなんて通用しないんだから」
高校生になって一般の試合に出るようになってからは、階級別になったおかげで少しは勝てるようになったが、年代別の頃には体格に恵まれた相手には敵わなかった。鍛えているのは相手も同じで、技だけではなかなか一本を取ることは出来ない。


「でも、ゆいさんは護身はバッチリなんでしょ?」
「だから、俺は自分の身を守れたことないんだってば」
「それって、あっくんが強引だからでしょ?」
「淳史さんじゃなくて……」
言いかけて、淳史の潔白を証明することが必ずしも最善ではないことに気が付いた。淳史に対してはもちろん、客人にまで優生の過去を告白する必要はなかった。
「そんなことより、とりあえずやってみる?最初はローから練習しようか」
さっき見せたハイキックではなく、腰から下を狙うローキックから始めることにした。見よう見真似でチャレンジする里桜は、勇ましいというより可愛らしい。男だと言わずに道場に入れば、手取り足取り大事にしてもらえるかもしれない。おそらく、そうなっても義之の気に障るのだろうが。
そのあと、少し高い位置を狙うミドルキックを教えて、今日は切り上げることにした。
「普段何も運動してないんなら、ストレッチだけでも筋肉痛になるだろうし、今日はこのくらいにしておこうか?」
「うん。ありがとう。家では何をしたらいいの?」
どうやら、里桜は家で自主トレもする気のようだ。思っていた以上にやる気があることに驚いた。
「最初にやったみたいに軽く準備体操して、ストレッチして、今日やった技をシャドウで練習すれば充分だよ。今度はミットを用意しておくから打ってみる?」
「ミットって、当てていいってこと?」
「そうだよ。慣れたら体にも当てていいよ」
「え」
里桜の沈黙は嬉しそうにも見えるし、気が乗らなさそうにも見えた。
「スパーリングしないと上達しないからね」
「……俺も、頑張ったら義くんを撃退できるようになるのかな?」
「撃退って、そんな物騒なことしなくても、話し合えばいいんじゃないの?」
「でも聞いてくれない時もあるし」
「まあ、そういうこともあるだろうけど」
義之の実態は定かではないが、もし淳史と同様だとすれば、里桜の言い分に同調するべきなのかもしれない。
「ゆいさんは反撃しないの?」
「とんでもないよ、敵うわけないし」
「そんなに強そうなのに?俺は教えてもらったら、とりあえず試してみるけどなあ」
その光景を思い浮かべるように笑う里桜は、遊び半分で考えているように見えた。義之相手にじゃれる時はともかく、もし優生と稽古をする時にもふざけるようなら面倒は見れない。
「一応言っておくけど、真面目にやらないと怪我したって知らないよ?真剣にやってる人でも、大抵どこか痛めるんだからね」
「え、そうなの?」
軽い脅しのつもりが、思っていた以上に効き目があったらしい。顔を強張らせる里桜に、少し大げさめに優生が経験したことを話す。
「俺は習い始めて3ヶ月くらいの時に、ここの筋を切ったよ」
左手の薬指の第二関節を右手で示す。完全に治っているから、自分から話さない限り他人に気付かれたことはないが、細い優生の指の中ではそこだけ節が微かに膨れて見える。
「切ったって……どうして?」
「後ろ回し蹴りの練習をしてる時に、着地に失敗したっていうか、手のつき方が悪くて」
「そんな難しいんだ……」
「ううん、難しいから怪我したんじゃないよ。慣れてきた頃で気が緩んでたんだ」
「よりによってその指なのか?」
堪りかねたように淳史が口を挟んだ。振り向くと、不機嫌極まりない表情をしている。だから男運が悪いのだと思うほどロマンティストではないが、結婚や約束には縁遠いということなのかもしれないと思わないでもない。
「だから、指輪をするの嫌なんだ」
今までのどの言葉より、尤もらしい指輪をしたくない理由に聞こえたらしかった。


「ねえねえ、関節はダメ?あんまり力とか要らなさそうな感じがするけど」
フローリングの床に足を投げ出すように並んで座って汗を拭いながら、不意に里桜が思い付いたように優生を見た。強ち間違いとは言えないが、素人に簡単に出来るはずがなく、手技や足技を教えるのとは比にならないくらい無理な話だった。
「よっぽど慣れた人じゃないとまず極められないよ。そうでなくても俺はサブミッションは苦手だし、まして相手が淳史さんみたいに体格の良い人なら絶望的にムリ」
「どういう意味だ」
不機嫌そうに話に割って入る淳史は、本当に優生の言いたいことがわかっていないのだろうか。
「試しにかけさせてくれる?」
軽く頷いた淳史が優生の傍に来る。優生も立ち上がり、淳史の前へ立って左手をさし出した。
「腕、掴んで?」
淳史に掴まれた手首を返すようにして外し、その腕をしっかり握って引き寄せながら、右手で肘の辺りを抱え込む。捻った相手の肘を極める前に、別な腕が優生の腕ごと強引に抱きよせた。掴んだ腕が緩み、続けることができなくなる。予想通り、あっさりと外されてしまった。
「こういう感じになっちゃうでしょ」
「本気でかけようと思ってないからだ。暴漢が手加減してくれると思ってるのか?」
優生の代わりに、里桜がため息を吐く。淳史にはともかく、里桜には優生の言いたいことは伝わったようだった。
「要するに俺にはムリってことだよね」
「今はね。これから真剣に武道を習うんなら別かもしれないけど」
「ゆいさんが10年以上やってて難しいんなら俺にもムリだよね」
「俺には格闘センスがなかったからだよ」
「そっか、センスもいるのか」
無闇な励ましは不要だとわかっているのに、つい慰めるような言葉が口をつく。
「里桜は運動神経も悪くないみたいだし、体も柔らかいから大丈夫かもしれないよ」
「そういうのも関係あるの?」
「試合で勝ちたいんなら、体力や精神力が重要だと思うけど」
「勝ちたいと思ったら勝てるの?」
「絶対勝つっていう執念とでもいうのかな、精神力の強い奴が勝つんだよ。どんなに技術があっても、もういいと思った時点で負けてしまうんだ」
「わかってるんじゃないか」
ぼそりと呟く淳史の言いたいことは身に沁みている。そんなことを言われなくても、優生にもわかり切っていることだった。


汗を流して着替えた里桜と義之が帰ったのは正午を回っていた。
外で一緒に食事をしようと誘われたが、淳史がすぐに断ったおかげで出掛けずに済んだ。おそらく、優生が乗り気ではないことを察したのだろう。
優生も軽くシャワーを使い、着替えてからリビングに戻った。食事の用意をしなくてはいけないと思いつつ、ソファに座る淳史の隣へ腰掛ける。
「淳史さん、何で断ってくれなかったの?万が一、ケガさせても困るでしょ?」
きっと、初めて稽古した里桜より、優生の方が数倍疲れていると思った。
「実際に見てみたかったからな」
「それなら俺のいない所で教えてあげれば良かったのに……」
「俺が見たかったのはおまえだ」
「え……」
「思っていた通り、基本に忠実な綺麗な蹴りだったな。ちょっと感心したよ」
淳史が何の格闘技をやっていたのかも聞いたことがなかったが、見る目を持つはずの相手からそんな風に言われると、答えに困ってしまった。
「……見掛け倒しだよ」
「おまえは自分の技を見たことがないのか?間違っても俺を蹴るなよ?」
「そんな恐ろしいことするわけがないでしょ、俺は自分を知ってるつもりだよ。少なくともこれだけウェイト差のある相手に向かっていく根性はないよ」
「……まあ、貞操より身を守ることを優先してくれた方がいいと思うが」
淳史の言葉の意味を考える。優生が他の男と係わるたびに簡単に許されてきたのは、淳史がそういうことにあまり頓着しないからだと思っていた。けれども、里桜との会話に割り込んできた時の言葉で、そうではなかったようだと知り、今になってその本当の意味を知った。
「……やっぱ、俺も護身術習おうかな」
「必要ないだろう?さっき自分で言ってただろうが」
確かに、優生の場合は自ら危険を招いてしまっていたかもしれない。少なくとも、淳史と知り合ってからは。
「ごめんなさい」
「わかったんなら自分で言ったことを守ってくれ」
「うん」
素直に頷いたのは、もう自分の貞操に執着がなかった頃とは違うとわかったからだ。優生が傷付けば、それ以上に淳史に苦痛を強いることになる。だから、優生を気遣ってくれる淳史のために、身を守れるようになりたいと思った。



〔追記〕
あまり実用的ではないのですが、護身術編でした。
なお、優生の台詞には私見が多々入っておりますので、鵜呑みになさいませんようお願い致します。
逃げる&刃物を持った相手には逆らわない、というのは私が教わったことです。他も、自分が習ったことを元に書いているのですが、何かあっても一切責任は負えませんので、技の実践などなさいませんよう切にお願い致します。(わざとぼかして書いてありますので、やってみたい方は最寄りの道場に通いましょう♪)
護身の基本は危ない場所には近付かない、そうなっても構わない相手以外と二人きりにならないなど、ごくごく当たり前のことです。
たぶん読んでくださってる方は女性だと思いますので、ほんと気を付けましょう。
それから、ファールカップはダメージを受け難いのが出たらしいです。自分には不要なのでよく知らないのですが(もう息子もやってないので、詳しく調べてません、ごめんなさい)。



- 爪をみがいて - Fin

Novel


個人的な萌えに走り過ぎ、長々と書いたわりには、
一般的な萌え要素が全くないまま終わってしまいました、ごめんなさい。
本当は淳史と優生でスパーリングなんかもさせたかったのですがvv
あまりにも趣味に走り過ぎてしまうので自制しました。