- 仔猫の呼び名 -



“なに?”
淳史の渡した紙袋を受け取りながら、軽く小首を傾げるようにして中身を問う瞳に、淳史は里桜の目線まで屈んで答える。
「白桃ウーロン、知らないか?」
ついこの間まで、淳史と同じ部屋にいるだけで怯えて隠れようとしていたのが嘘のように、里桜はもう一度その大きな瞳で問いかけてきた。
「はくとう……ウーロン茶?」
「そうだ。白い桃って書いて白桃だろ、その香りのウーロン茶らしいな」
「らしいなって、あの、飲んだことないの?」
「おまえの気に入るんじゃないかと思っただけだからな。この間、桃が好きだって言っていただろう?」
前に淳史が淡いピンクの桃のコンポートを持ってきた時、里桜はいたく気に入ったらしく、あっという間に全部食べてしまった。それでもまだ足りなそうに見えて尋ねてみると、桃が大好きだと答えたからよほどの桃好きなのだと思い、今日は珍しそうなものを用意してきたのだった。
尤も、後で知った話では、里桜は殆どのフルーツが大好きらしかったが。
「ありがとう、さっそく淹れてみるね」
ようやく玄関先での会話を終え、里桜はキッチンに向かい、淳史はリビングのソファに腰を下ろした。
決して暇ではないというのに、淳史はいつの間にか連日のように義之の所に来るはめになっていた。今日も、義之と違って休日出勤になってしまった淳史は、仕事の合間を縫って午後過ぎに顔を出したのだった。
「悪いな、忙しそうなのに」
義之の声は申し分けなさそうに響いたが、本心では全くそんな風には思っていないのがわかっているだけに腹立たしい。


「悪いと思ったら毎日呼び出すな」
「そんなこと言ったって、もう日がないんだから仕方ないだろう?まあ、淳史の時にも力になるから貸しといて損はないよ?」
「だから、俺には不要だと言ってるだろうが」
恋愛に人の手助けなどいらない。まして、義之のような眉目秀麗な男に好きな相手を紹介したいはずもなかった。
もちろん、綺麗な男には全く興味がなく淳史のように厳つい方が好きだという女性がいることも、筋肉フェチの女性がいることも身を持ってわかっているが。
陶器の触れ合う音に振り向くと、里桜がお茶を用意して来たようだった。
「なんかね、すごく甘い香りがするよ」
嬉しそうな里桜が、テーブルにトレーを置く。どうやら人数分のお茶を用意したらしい。
「お茶なら飲むよね?」
念を押されても、甘い香りと言われたお茶を飲む気になどなれないのだったが。
「ウーロン茶なんだろう?淳史も大丈夫だよ」
見透かしたような義之の言葉に、里桜が並べた湯飲みにお茶を注ぐ。名前の通り、桃の香りが漂った。
「いただきます」
軽く頭を下げて、里桜が湯飲みを取る。
「あち」
仔猫だけに猫舌らしい。
「大丈夫かい?」
すぐに心配顔で里桜を覗き込む義之はやはり過保護過ぎる。


「猫舌なんだ」
言い訳のように呟く里桜に、思わず声に出して言ってしまった。
「猫なんだから仕方ないな」
「……俺、猫じゃないんだけど?」
真顔で返されて、どう答えるか言葉を選んでいるうちに里桜が反論を続ける。
「なんか、義之さんと二人して俺のこと猫とかウサギとか言って、ペットか何かと間違ってるんじゃない?」
仔猫と言ったことはあるが、ウサギと言った覚えはなかったが。
「そんなことないよ。里桜の方がかわいいって言ってるだろう?」
「そうじゃなくて、俺、ペットなの?」
「だから、ペットにはこんなことできないって……」
いつものように、目の前で里桜にラブシーンを強要しようとする義之の後頭部を、思わず拳で殴ってしまった。
「……ひどいな」
睨む義之の理論など聞く気はなかった。
「そういうことは二人だけの時にしろと何度言えばわかるんだ」
「でも、淳史と里桜が仲良くなってきたから、僕のだってアピールしとかないといけないだろう?」
「だから、俺はこんな凹凸のないガキには興味ないって言ってるだろうが」
もう何度となく同じ言葉で反論しているというのに。義之のような分別のある大人でも、恋に目が眩むとこんな風になってしまうのだと思うと恐ろしい気がした。


「ナイスバディなおねえさんがいいの?」
不思議そうな顔で、里桜が問いかける。
何となく、そうだと言うのは気が引けたが、この場の誤解を解く方を優先した。
「そうだな、おまえみたいな貧相なガキじゃなくて、もっと肉感的な方がいいな」
「ふうん」
気のせいか、里桜がしゅんとしてしまったような気がした。
「淳史の好みなんか気にしなくていいよ。僕は里桜の方がいいんだから」
またくっつく二人が目にも鬱陶しい。
「俺がこいつみたいなのが好みだったら困るだろうが」
もしそうなら、最初から淳史を里桜の傍に近付けたりしなかっただろうし、淳史に懐くように里桜の好きなものをわざわざ知らせてきたりはしなかっただろうが。
「そういう人とつき合ってるの?」
「今は特定の相手はいないな」
「……特定の相手はっていうのは、いないってことじゃないんだよね?」
里桜が同意を求めるように義之を見る。言葉尻を取られて驚いた。里桜はもっと鈍いタイプだと思っていた。
「そうだよ。淳史はね、美人で気が強くてプライドの高そうな女性が好きなんだよ。後腐れなくて、うっかり縋られたりしないような人ばかり選んでつき合ってるんだ」
「そこまで言うか?」
「事実だろう?そろそろ腹を決めてしまえばいいんだよ。老舗ホテルのご令嬢とか?」
「俺に婿養子に行けって言ってるのか?」
「その気が全くないんなら最初から良い顔をしてないだろう?」
確かに、それには反論しきれなかったが。


「あっくん」
淳史に向かって呼びかけられたように聞こえたが、里桜が何を言いたかったのかはわからなかった。
「何だって?」
「あ、ごめんなさい、名前、知らないから」
10日あまり義之の所に通って来ていて、しかも毎回里桜に手土産を持参していた淳史としては、今頃になって名前も知らないなどと言われるとは思ってもみなかった。
「……これだけ来てるのに知らないのか」
「えっと、苗字の方」
慌てて言い直す里桜が困ったように義之を見る。
「そういえば、淳史としか言ったことなかったかな?」
「うん。名前はちゃんと聞いたことない」
そう言われてみれば名乗った覚えもなかった。
「だからといって、何でそんな呼び方になるんだ」
「幼稚園の時にもあつしくんっていたけど、みんな“あっくん”って言ってたから」
「それがどうして俺の呼び名になるんだ?」
「じゃ、あっちゃん?」
その弱そうな頭を殴ってしまいたい衝動を辛うじて堪えた。
「工藤だ、覚えとけ」
「え、今更工藤さんなの?」
さっき、名前を知らないからと言ったくせに、もうそんなことを言っている。


里桜の不満げな顔にも、世話を焼いた甲斐あってやっと懐いたと喜ぶべきなのだろうか。
「里桜の好きなように呼べばいいんだよ。そのうち慣れるからね」
義之の余計な一言が発展しないうちに、とりあえずこの話題を避けることにした。
「それより、さっき何か言いかけてなかったか?」
「そうそう、結婚するの?」
「少なくともその女とはしないな」
外見だけは淳史の好みに適うが、いかんせん中身がいただけない。義之の言う通り、ただつき合うだけなら気が強くてプライドの高い可愛いげのない女の方が好みだが、一緒に生活をしていかなければならないとなれば話が別だった。人に干渉されることを極端に嫌う淳史が、無遠慮に踏み込んでくるタイプの女と一緒に暮らすなどとんでもないことだった。
「俺はやさしい人がいいなあ」
「義之のことを言ってるんなら、とんでもない買被りだぞ?」
「言い掛かりだよ、僕は里桜にはこれ以上ないくらいやさしくしてるからね」
里桜が困ったように義之を見る。どうやらそこまで盲目ではないらしい。
「俺のことじゃなくて、あっくんが結婚する人。あんまり怖い人だと遊びに行ったりできないでしょ」
今までにも一度も招いたことがないのに、そんなことを思っていたらしい。
「俺はあまり人を家に入れないからな」
「え、じゃ結婚しても別居するつもりなの?」
ありえない、といった顔をする里桜の思考の方がありえない。
「さすがの淳史にもそれは無理だろうと思うよ?」
「それ以前に、まだまだ結婚する気はないからな」


「まだまだって、いい年でしょ?」
年齢のことなど気にしたことはないが、一周り以上も年下の高校生に言われるとカチンときた。
「俺と義之はタメだぞ?」
客観的に言えば、見た目年齢が淳史の方がずっと上に見えることはわかっている。だが、決してそれが悪いことだとは思わなかった。
「だって、義之さんは結婚してたことがあるでしょ。今は俺が子供だから大人になるのを待ってくれてるんだもん」
それを聞いた義之が、珍しく声を立てて笑った。よほど嬉しかったらしい。
「おまえ、俺に喧嘩売ってるのか?」
「とんでもない!そんな怖いことするわけないでしょ。心配してるんだよ。いい年してそんな我儘ばっかり言ってたら一生独り者だよ?」
「里桜の言う通りかもしれないね。淳史も、もう少し将来のことを考えた方がいいかもしれないな」
よもや、こんな幼い天然の仔猫に諭されるなどとは思いもしなかった。腹が立つということは、あながち的外れなことを言われているわけではないからなのかもしれないが。
胸のポケットを探る淳史に、義之が先周りの言葉をかけてくる。
「煙草はダメだよ?どうしても我慢できないんなら外でって言ってるだろう?」
わざわざ仕事の合間を縫って顔を出している淳史に対して、あまりにもひどい言いざまだ。
「わかってるよ」
ベランダに出ようと席を立ちかけた淳史に、今度は義之の説教が始まる。


「淳史だって営業なんだから煙草はやめた方がいいよ」
「だから余計に必要な時もあるんだが」
多少の精神安定効果は充分あるはずだった。
「淳史のお客さんには嫌煙家はいないのか?」
「目の前で吸わなけりゃ大丈夫だ。さすがに行く前には吸わないしな」
「僕らはそうはいかないんだ。喫煙家だと知られただけで担当を下ろす医師だっているんだからね」
「医者ってのは我儘なんだな」
おまえの親父のように、と続けるつもりはなかったが、義之が目で止める。どうやら、里桜にはまだ義之の複雑な生い立ちは話していないようだった。ということは、里桜の両親にも黙ったままだということなのだろう。里桜の夏休みが終わったらマスオさん状態だよ、と言っていたくらいなのに、あまり誠実な婿ではないらしい。
「今ストレスが溜まってるの?」
「いや。そろそろ戻らないといけないから一服したかったんだが」
「俺はいいよ?義之さん、そんなに神経質にならなくても」
淳史の肩を持つ里桜が気に入らなかったのか、義之の表情が変わる。里桜のことになると、すぐに態度に出る義之を微笑ましいと思えばいいのか、可笑しいと思っていいのか微妙なところだ。
「里桜は淳史に心筋梗塞やガンになってもらいたいのかな?」
「そんなことないけど、少しくらいならいいんじゃないの?」
「1本吸うと、寿命が5分30秒短くなるそうだよ。里桜は淳史の寿命を縮めたい?」
淳史にはもう聞き慣れた説教も、里桜は初めてだったらしく、絶句してしまったようだ。
「おまえが嫌煙家なのはわかってるからそう口喧しく言うな」
軽く諫めたつもりが、余計に義之の怒りを煽ってしまったらしかった。


「煙草を吸っている人より傍にいる人の方がずっとリスクが高いんだ。副流煙の方が有害物質の含有量が多いし、発ガン物質も多く含まれているからね。もし里桜が病気になったら淳史のせいだよ?」
「……その前に俺の胃にストレスで穴が空いたらどうしてくれるんだ?」
「淳史の胃がそんなやわなわけがないだろう。ともかく、里桜の前では煙草は禁止だよ。あ、これからは僕の前でも禁止にするよ。なるべく長生きしないといけないからね」
いっそ先立って里桜を自由にしてやれと言いそうになる。
「勝手にやってろ。俺は仕事に戻って一服やるよ」
「ごめんね、あっくん」
申し訳なさそうに謝る里桜の言葉に力が抜けた。
「だから、その呼び方をやめろ」
「自分だって人を猫呼ばわりするくせに」
さっき、きちんと対処し損ねたせいで変な愛称をつけられてしまったらしい。
「まだまだ仕事が残ってるんだ。疲れさせるようなことを言わないでくれ」
「じゃ、今度来たら肩くらい揉んであげるね」
思わず、義之と顔を見合わせてしまった。
ずいぶん慣れてきたとはいえ、絶対に触れられなかったのだったが。どうやら、義之の思惑以上に効果はあったらしい。
その理由の大半は、淳史本人よりも甘いお土産の方にあったのだろうが。
「ハンパなマッサージじゃ効かないからしっかり鍛えとけよ?」
「うん?」
玄関先まで見送ってくる里桜が、上目遣いに淳史を見上げる。
「いつもお土産ありがとう。でも、そんなに気を遣わないで今度からは手ぶらで来てね」
いつも嬉しそうな顔をしていたくせに、急にそんな風に言う里桜に驚いた。若しくはガッカリしたのかもしれない。
いつの間にか、里桜の喜ぶ顔を見るのが楽しみになっていたようだと遅まきながら自覚した。野良猫に餌をやる人の気持ちとはこういうものなのだろうか。義之が里桜を甘やかす気持ちが、少しだけわかったような気がした。



- 仔猫の呼び名 - Fin

Novel  


そうです、仔猫を呼ぶ名前ではなく、仔猫が呼ぶ名前という意味でした。
限りなくノンフクションに近いのですが、ありがちなエピソードですよね。
のぞみ→のんちゃん、ひさし→ちゃーちゃん、みたいな感じで、あつしにも定番の愛称がある、ということで。