- カウントダウン -



「俊明の所にも仔猫がいたな」
久しぶりに会う義之に、淳史はなるべくさりげなく切り出した。
酒の席のたわいもない話だと聞き流してもらった方が良かったが、義之は想像以上に興味を持ったようだった。
「仔猫って、里桜みたいな子が?」
「いや、もうちょっと育ってたな。高校生だと言ってたが、もうすぐ卒業らしいからおまえよりはマシだな」
少し考え込むような顔をする義之の内心を推し量るのは面倒だ。
「ふうん……僕も里桜のことは言ってないし、俊明も話してくれないだろうね」
この複雑な実質上の義兄弟が表面ほど親しくないことは知っているが、どちらとも同様につき合っていた淳史としては、時として困惑することがないでもない。
「まだ言ってなかったのか?」
「わざわざ言うようなことじゃないよ。僕は認知されてないし、法的に言うなら他人だからね」
「されてないんじゃなくて、させてないんだろうが」
淳史の知るかぎり、義之の母親は一切の援助を頑なに断っていたらしい。自分の死期を悟って義之を託すことにしたのも、当時まだ高校生になったばかりの息子を心配してのことに過ぎなかったようだった。あと数年生きていられたら、年齢以上に自立していた義之を預けることはなかったのだろう。義之本人も、父親の世話になったのは形式だけのことだという認識しかなかったらしく、認知と戸籍は拒否し続けていた。今も父親と仕事上の付き合いは続いているが、だからといって決して慣れ合う気はないらしかった。


「余計な火種にはなりたくないからね。父にもしものことがあった時に、相続問題に巻き込まれるような事態は避けたいしね」
どこかで聞いたような話だ。
「そういや、優生も同じようなことを言っていたな」
「ユイキ?変わった名前だね」
「俊明は“ゆい”と呼んでたんだが、優生と呼んだ方が反応が良かったんだ」
初めて名前を呼んだ時に、驚いたように淳史を見返したのは呼び捨てにされたからではなく、省略されずに呼ばれたがっているからのような気がした。
「特別だということなのかな?」
「さあな。ただ“ユイキ”とは呼び難いから皆が“ユイ”と呼ぶんじゃないか?省略されなかったのが珍しかっただけなのかもしれないが」
「お義姉さんのようなタイプだった?」
「いや、正反対だな。美人だが華やかじゃないし、線が細くて存在感を主張しないタイプだ。なまじ綺麗な顔をしているから、最初は化粧っ気のない女なのかと思ったんだが。見た目も声も中性的な感じだったな」
「そのくらいの方がいいのかもしれないよ?俊明もきついタイプには懲りてるだろうからね」
「だからといって、あんな色気のないガキと恋愛しようなんて気になるものか?」
確かに優生は美人で性格も良さそうだが、逆にそれが物足りないような気がする。華美で我儘な彩華とのギャップが激し過ぎる。


「淳史はお義姉さん贔屓だから理解できないかもしれないね」
「たった3年で離婚するくらいなら最初から結婚なんかしなければ良かったんだ」
「もっと早く離婚した僕としては返す言葉がないよ」
しかも、相手の心変わりに腹を立てることもなかった義之の心理は更に理解できない。
「兄弟そろって離婚の挙句に男に走ったなんて洒落にもならないな。親に同情するよ」
「同情するほど立派な親じゃないよ。所詮は地位やしがらみに負けるような人だからね」
「権力に逆らえる人間の方が珍しいだろう」
「僕は里桜を手放すくらいなら潔く退職でも転職でもするけどね」
当たり前のように言い切る義之の、その思い入れの深さにはいつものことながら驚かされる。もっとクールな男だと思っていたのに、里桜と恋愛し始めた途端に情けないくらいメロメロになり果ててしまった。
「俊明もずいぶん過保護にしてたな」
「里桜みたいに可愛いのかな」
「いや、もっと大人びた感じだ」
少し憂いを帯びた眼差しは、年齢よりは上に見えるかもしれない。
「さっきは子供だと言ってなかったかな?」
「17歳だと言ってたからな、子供だろう?」
「難しいことを言うね。体だけの話なら、15歳で成人の9割ほど成長しているそうだから満更子供とは言えないと思うけど」
「おまえの申し開きを聞きたいわけじゃないぞ?」
淳史が里桜のことを子供だと言い続けたせいでそんなことを言ったのかと思ったが、そうではなかったらしい。


「薬の注意書きにも15歳以上は服用量が成人と同じと書いてあるだろう?あれは15歳で大人とほぼ同じ程度に成長しているからだよ。もちろん、メンタルな意味じゃないけどね」
「それなら優生を子供だと言うわけにはいかないな」
おそらく、多少の人見知りがあるだけで中身はそう子供っぽいわけではないのだろう。初対面できつい言葉をかけてしまったせいで本人は気にしているようだったが、本気で子供だと思っているわけではなかった。
「この頃の高校生は遊び慣れてるだろうからね」
「いや、慣れてるってことはないだろうな。清楚な感じだった」
淳史の前で俊明に触れられるのもひどく抵抗があるようだった。翌朝起こしに行った時の、頬を染めて名残を庇うように衿を合わせる仕草を思い出す。おそらく、今時の女子高生でもあんな風に恥らったりはしないだろう。
「そういう意味では里桜みたいなのかな」
「そうかもしれないな。見た目は優生の方がもっと線が細くて、強く抱いたら折れそうな感じだったが」
ふいに、華奢な体の感覚が腕に甦る。倒れ込んできた体は思いのほか軽く、淳史の腕には物足りないほど薄かった。そのくせ、離れ難いほどしっくりと馴染むのが不思議だった。
「もういたずらしたのか?」
「人聞きの悪いことを言うな。俊明があんまり自慢するから、ちょっとからかっただけだ」
「じゃ、俊明もその子にハマってるんだろうね」
「俺が隣の部屋で泊まっているのを承知で泣かしてたな」
「俊明はそんな品のないことはしないと思ってたけど」
確かに俊明はそんな悪趣味なタイプではなかったはずだが、優生の反応を見ていたら気持ちがわからないでもない。


「優生は苛めたくなるタイプだからな。つい何かと構いたくなるんだ」
「淳史も気に入ったのかな?」
「興味がないと言えば嘘になるかもしれないが」
人目を引いてもおかしくない容貌をしているくせに、あれほど存在感が稀薄な理由が気になる。まるで、人目に触れることさえ抵抗があるかのように見える所も。
何も知らない義之には別の意味に取られたようだった。
「淳史は俊明のつき合う相手が気になるようだからね」
「……彩華とは俺の方が先につき合ってたんだが」
今更、そんなことを言うつもりはなかったのに、つい口にしてしまっていた。もちろん、順番が優先されるなどとは思っていないが。
「初耳だけど?」
「俊明が知りたくないだろうと思っていたからな」
たぶん、彩華の本質を淳史や義之ほどには知らないだろう俊明に、これ以上マイナスになることを伝えずにいただけだった。そうすることで、結果的に最もひどい結末になるかもしれないと気付いていなかったわけではなかったが。
「まあ、あの人の悪口なら何を聞いても驚かないけどね」
日頃あからさまに人を謗ったりすることのない義之だが、彩華の話になるといつも容赦がなかった。その理由は薄々察することはできるが、敢えて問う気はない。おそらく、義之も淳史を気遣って耳に入れないのだろうと思うからだ。
「今度は淳史が取れば?」
あまりにもさらりと言われた言葉に、一瞬意味がわからなかった。まさか、義之がそんなことを言うとは思いもしなかったせいでもある。


「別に、欲しくなったわけじゃない」
ただ、あんな風に折れそうに華奢な体を抱きしめたことなどなかっただけで。
自分の外見を自覚している淳史は、意識して背の高い女性や豊満なタイプとしかつき合ってこなかった。小さくて可愛いタイプを否定するわけではないが、決して淳史と釣り合わないことはわかっている。少し力を籠めただけで壊してしまいそうで関わることさえ敬遠してきていた。
でも、優生ならいくら細くても男だから大丈夫だろうという思い込みは一瞬で砕かれてしまった。見た目に違わず華奢な骨格は、乱暴に扱ったら壊れてしまいそうだった。そっと、力の加減をして触れないと傷付けてしまう。
そのくせ、柔らかなところなどひとつもないのに、そのスレンダーな体はひどく淳史の腕に納まりが良かった。頼りなく揺れる眼差しも、耳触りの良い高さの声も、強引に引きよせたら奪ってしまえそうな錯覚を覚えるほども。
「口説くんなら協力するよ?仔猫に関しては僕の方が詳しいだろうからね」
「それ以前の問題があるんだが」
義之と里桜のおかげで抵抗感は薄らいでいたが、だからといって、いざそれを自分に置き換えるのは受け入れ難く思えた。
「淳史は頭が固いな」
「おまえはそんなに俊明を不幸にしたいのか?」
人当たりの良い顔がほんの一瞬、能面のように表情を失くす。すぐに人好きのする笑みを作る目元が、まるで本心からのように笑った。


「取られる方にも原因があるんだよ。だから、淳史だって引いたんじゃないのか?」
「そういうわけじゃない。確かに最初は取られたよう気にもなったが、彩華が俊明と結婚する頃にはその理由がわかってたからな」
取られたと言うなら、俊明にではなく父親の方にだった。
まさか彩華が自分の父親とつき合っていたとは想像もしないような俊明には、 彩華の本心は見抜けなかったに違いない。同じ遺伝子を持つという理由で選ばれたとは思いもしなかっただろう。
「淳史も父には敵わないと思ったのか?」
「あれほど我儘だった女が健気になったんだからな」
「ああいうのを健気と言うのかな?」
「惚れた相手と結婚するのがムリならせめて息子とでも、と思うのは健気と言えなくもないと思うが」
おかげで淳史も降りる気になれたのだった。単に俊明と争うだけだったら、引いていなかっただろうと思う。
「淳史は本当にお義姉さん贔屓だな」
むしろ、あの存在感に引き摺られない人間の方が不思議だ。熱が冷めた今なら淳史の手には負えないとわかるが、当時は独占できると思い込んでいた。
「今は彩華が俊明を選んでくれて良かったと思ってるぞ?」
「僕もそう思うよ。だから、淳史が“ユイ”を口説くんなら経過を知らせてくれるのを待ってるよ?」
淳史の迷いをさんざん煽ってから、義之は里桜の実家へ帰って行った。




「放っておいて大丈夫なのか?」
あれほどベッタリとくっついていた里桜を置いて、また淳史の所を訪れた義之に少し驚く。
この間会ってから、まだ一週間と経っていなかった。義之が里桜とつき合い始めてからは会う回数も減り、更に里桜の実家に半同居してからは、ますます機会が減ってしまっていたのだったが。
「放ったらかしにしているわけじゃないよ。里桜は実家にいるんだからね。それに、里桜も淳史のその後を聞きたいって言ってたからね」
「残念ながら何の進展もないぞ。ジャマする隙もないほど俊明と優生は仲が良いからな。まあ、おまえの所ほどじゃないが」
「僕と里桜のようだったら取るのは無理だよ?」
まともに返す義之に呆れる。
「だから、取ろうとしてるわけじゃないんだが」
「どっちにしても手懐けておいて損はないと思うよ。里桜のように甘い物に反応するタイプだった?」
コーヒーに砂糖も入れない優生が甘党だとは思わなかったが、試しに買って行った生チョコにもあまり興味を引かれた風ではなかった。
「いや、甘い物は好きじゃないようだな」
「他に攻略法は見つけたかい?」
「そうだな。ピアノを贈ったら随分喜んでたが」
グラスを傾けていた義之の手が止まる。
「……何を買ってあげたって?」
少々のことで驚いたりしないはずの義之が、聞き間違いかと言わんばかりの顔で尋ね返してきた。


「グランドピアノが弾きたいと言ったからな」
あまり物欲がなさそうな優生が喜ぶものがわからず、何度目かに会った時に尋ねるとそう言われたのだった。
「……買ってくれという意味で?」
「いや。最初は欲しいものがないか聞いたんだが、特にないと言ったからな。それなら不便に思うことはないか聞いたら、不便はないがピアノを弾けないのが淋しいと言ったんだ」
「だからといって、気安く買ってあげるようなものじゃないだろう?」
「冗談で買ってやろうかと言ったら、嬉しそうな顔をしたからな」
義之が呆れたような表情を作る。確かに、自分でも馬鹿げたことをしてしまったかもしれないと思ったが。
「却って恐縮させてしまっただろう?」
どうやら、義之の方が優生の性格を理解しているようだ。淳史も、友人の恋人に贈るような額ではないとわかっていたのに、その時の優生の表情を思い出すと、どうしても買ってやりたくなってしまったのだった。
「届けた時には、まさか本当に買うとは思わないだろうと言われたよ」
「新車が買えるような値段だからね。常識で考えたら本気に取る方がおかしいんだよ」
「俊明には、しょっちゅう飯を食わしてやってるんだから貰っておくと言われたぞ?」
「世間知らずなのは俊明の方なのかな」
淳史がそうだったように、ただ単に価値を知らなかったのかもしれないが。
「だろうな。俊明に話を通してあると言ったら、やっと受け取る気になったようでホッとしたよ」
せっかく贈っても、困らせてしまったのでは意味がない。



「もう腕前は披露してもらった?」
「車のCMの曲を少しな。しばらく弾いてなかったし暗譜は苦手だと言うから、ちゃんと練習してるかどうか確認するために足繁く通うことにしたんだ」
少なくとも、優生に会いに行く口実がひとつ増えたことは間違いない。
「何だかんだ言いながら、着実に進展してるようだね?この間は淳史の好みには合ってないような言い方をしていたのに」
「好みも何も、優生は17歳の子供で、しかも男だぞ?」
そのどちらも淳史的には圏外のはずだった。
「淳史は本当に頭が固いな。じゃ、どうしてそんな投資までしてるのかな」
「最初に怖がらせたし、飯を食わせてもらってるからな」
「淳史が足繁く通えるということは、気に入ったということだろう?」
淳史にもそのくらいの自覚はないわけではない。外で何時間か会うだけならともかく、しょっちゅう一緒に食事をしたり泊まったりできるのは、優生が女性ではないから気を遣わないで済むというレベルの問題ではなかった。
「すごい几帳面なんだ。タオルなんか神経質なくらいに角を揃えてきちんとたたんであるし、料理の具材なんか呆れるくらい大きさを揃えて、しかもいちいち分量をきちっと計って作ってるんだ」
「それはすごいな。そこまで淳史に合う人はなかなかいないと思うよ?」
「だろうな」
実際、何も言われないのにそこまでする人物に会ったことがない。恋愛は別にしても、ハウスキーパーとして淳史の家に置いておきたいくらいだ。
「つまらない偏見は捨てて、本気を出した方がいいんじゃないかな?」
「それ以前に俊明が離しそうにないからな。ゆっくり懐かせることにするさ」


「淳史は意外と気が長いな。でも、手遅れにならない程度には焦った方がいいと思うよ?後になるほど離れ難くなるものだからね」
義之の言い分もわからないでもない。まだ出会ってから日が浅いという二人の絆があやふやなうちの方が狙い目なのだろう。
ただ、優生に興味があるのは事実だったが、淳史には30年近く培ってきた垣根を容易く越えられるほどの柔軟性はなかった。いい加減な気持ちで口説いて、もし靡いたとしても、また別な問題が浮上してきてしまうかもしれない。
「いざという時になって、やっぱり俺の方が無理だったらどうする?」
「ムリかもしれないと思うなら、今のうちに試してみればいいよ。触れる機会くらいはあるだろう?嫌悪感がなければその先も想像すればいい」
事もなげに言うのは、義之もそうしたということだろうか。
「頭で思う分には抵抗はないんだが」
かといって、それが必ずしもリアルにも直結するとは限らない。
「いきなり実践に移したらダメだよ?本当に壊しかねないからね」
「……脅かすなよ」
壊しかねない、という言葉に、浮ついていた思いが引き締まる。最初から、それが一番の心配のタネだというのに。
「抵抗感がなかったという前提で、僕と里桜のケースに倣って聞かせようか?」
「どっちかと言うと一般論の方を聞きたいんだが」
どうしても、淳史の中では里桜のそういう姿は想像できないし、したくもなかった。仔猫らしく、世間知らずなイメージのままでいて欲しい。
ただ、実体験の方を優先するなら他のケースを聞くのは無理らしかった。どうせなら、生の声の方が後学のためになる。
已む無く、なるべくモデルのことは考えないことにして、義之の話を聞いておくことにした。




それから間もなくして、彩華から連絡があった。
離婚の報告をされた時には口出ししなかったが、妊娠が判明したから俊明と復縁するつもりだと言った彩華にはさすがに呆れた。あまりにも自分勝手な彩華を諭すつもりで優生のことを話したが、既に俊明から聞いて知っていたらしかった。一時の気の迷いでしかないと笑う彩華の言葉から、俊明の反応が窺えた。
すぐに仕事の都合を付けて優生を訪ねると、思いのほか平気そうな顔をしていたことに驚いた。淳史が思うより優生は鈍かったのかと疑うほども。
もし俊明の子供なら別れを受け容れると言い切った優生に、取れるかもしれないという思いが俄かに現実味を帯びてくる。仲睦まじく見えていたが、所詮はその程度のつき合いでしかなかったのだとしたら。
彩華の思惑も婉曲に伝えたつもりだったが、投げ遣りにも見える優生の態度は変わらなかった。
優生の前で嬉しそうに子供の話をする俊明はすっかり父親の顔をしていた。 彩華とやり直す気になっているのが誰の目にも明らかなほども。
ついこの間まで、からかい半分に優生に触れることにも嫌な顔をしていたのに、淳史と二人きりにさせることに何の迷いも感じなくなっているようだった。それどころか、優生を頼むと言い置いて彩華の所へ戻っていった。
以前、優生は他には行く当てがないようなことを言っていたくせに、まるで身の振り方が決まっているかのような顔をしていた。ただ、切羽詰ったような顔から、その選択肢は優生の行きたい場所ではないことが窺えた。
進学のことを考慮して妥協するつもりなのだろうと察して、淳史がスポンサーになってやると切り出すと、優生はひどく驚いた顔を見せた後で含羞んだように笑った。嬉しそうに見えたのは、もしかしたら淳史の自惚れだったのかもしれないが。
淳史が思う以上に、優生が諦めることに慣れていると知るのはもっとずっと後になってからのことだった。


とりあえず、客観的な事実と、淳史がこれから多忙になることを義之に電話で伝えておくことにした。
彩華に子供が出来たことを話すと、思いがけない言葉が返ってきた。
『・・・僕の義弟か義妹になるのかな』
わからない、と言うべきかもしれなかったが、淳史は正直に答えることにした。
「だと思うが」
『まあ、僕には関係のない話だけど』
他には身内がいないはずなのに、つくづく義之は素っ気ない男だと思う。
『それで?元のさやに納まりそうなのかな?』
「優生には可哀そうだが、そうなるだろうな」
平気そうにさえ見える優生には、俊明に多少の罪悪感も抱かせることはできないだろう。
『それで、淳史もしばらく忙しくなるんだね?』
何もかも見透かしたような言い方が癪に障るが、否定はできない。
「放っておいたら飯も食わなそうだからな」
『ずいぶん過保護なようだけど?』
嫌味なもの言いは、さんざん義之の里桜に対する態度を過保護だと言い続けていたせいなのだろう。
「あれ以上痩せるのは見るに忍びないからな」
そうでなくても食の細い優生は、一人になると食事を摂らなくなりそうな気がした。一応釘は刺してあるが、なるべく様子を見に行かないと安心できそうにない。
『経過報告を楽しみに待ってるからね』
能天気にさえ聞こえる義之の言葉に気のない返事をしながら、淳史はもう引き返せない一歩を踏み出してしまったことを自覚した。


少し早めに仕事を切り上げて、優生の様子を見に行った。予想通り、放っておいたら食事をしそうにない優生を連れ出す。
少し遠いが、静かで落ち着いた隠れ家のような店に予約を入れてあった。平日のせいか空いていたのは幸いだった。
料理の半ばでギブアップした優生に驚く。小食なのは知っていたが、こんなに食欲が落ちているとは思わなかった。この様子ではおそらく昨夜は殆ど眠っていないのだろう。
少しでも栄養を摂らせようと思い、熱燗を勧める。最初は遠慮していたが、一杯だけだと言って少し強引に飲ませた。それまでの寝不足のせいか、そもそも弱いのか、優生はすぐに項までほんのりと赤く染めた。
あつ、と言って顔を顰めた優生はアルコールはあまり得意ではないらしい。或いは、日本酒が。
熱を逃がすために胸元を緩めようとする細い指先が、もどかしげにボタンの上を滑っていく。外すのを手伝ってやると、淳史を見上げるように上げた頭がぐらりと後ろへ傾いた。体調が悪いせいか、もう回ってしまっているようだ。
肩を抱くようにして支えてやると、淳史の腕へ全身を預けてきた。
「ごめんなさい、俺、も、起きてるの、ムリかも」
「おいおい、そんなに弱いのか?」
首を振って否定する優生の意識が、見る間に睡魔に奪われていく。無防備に眠る体を胸元に抱き直し、淳史も壁へと凭れかかった。移動したせいか、細い腕が不安げに淳史の首へしがみついてきた。無意識に俊明と間違っているのかもしれない。


「優生」
本当に眠っているのなら起こす気はなかったが、確かめるために声を低めて呼んでみる。答える代わりのように、回された腕に力が籠められた。
そっと額に乱れかかる髪をかき上げてやる。細い猫毛が指に気持ち良く、何度も梳くように指を通した。薄っすらと朱を刷いた頬を撫でて、唇にも触れてみたが、寝入ってしまったらしく少々のことでは起きそうにない。
確かめるように軽く唇を合わせる。キスとは呼べないほど、触れるか触れないかくらいのごく微かに唇を掠めただけだったが、危うく理性が飛ぶかと思った。やはり、悪戯は控えた方がいいということらしい。
優生を胸に抱き直して、肩に上着を掛けてやった。そのまま、眠る優生を眺めているうちにどれほどの時間が経ったのかわからない。ただ寝顔を見ているだけなのに、退屈する暇などなかった。幸せそうな顔を見ているだけで満ち足りたような気分になり、穏やかに時間が過ぎていく。
夢から醒めて、恋人ではなく淳史の腕にいたことに気付いて慌てる優生を、わざと抱いたままで会話を交わす。離れようとする体を一瞬強く抱きしめた。驚いたように瞳を開く優生を、名残惜しい思いを隠して引き離す。眠る前に緩めた襟元を直してやった。警戒させては、手に入るものも入らなくなってしまう。
もう、それは淳史の中でも確信のようなものになっていた。今すぐにでも攫ってしまいたい。
淳史の方へ来るかどうかはわからなかったが、俊明の腕から離れ始めていることは間違いなかった。後は、少しでも淳史に懐かせて、タイミングを待つだけでいいのだろう。決定的な瞬間に、傍にいさえすれば。


それから毎日、淳史は仕事の後で優生の所に寄り、食事に連れ出した。
相変わらず、食欲は全くなさそうだったが、淳史に気を遣ってか黙ってついて来るようになっていた。
会う度にいっそう痩せてやつれていくような気がして、ますます目が離せなくなっていく。
何も知らない俊明が優生を一人にしている隙につけこむ淳史に、無防備過ぎるほど気を許し、無意識に甘えてくるようになった。
不自然なく体に触れる機会も増え、髪や頬を撫でたり、崩れそうになる体を支えるように抱いたりする中でも嫌悪感を覚えることは一度もなかった。むしろ、その先を確かめたい思いが強くなるばかりで。
今なら取るのは簡単そうに見えたが、優生が俊明を信じようとする気持ちに免じて随分待った。
だから、突然の別れの言葉にしか取れないメールには心底驚いた。外回りに出ている最中だったが、即行、俊明に電話をかけて仕事をキャンセルして駆けつけた。
なぜそうも容易く諦めてしまえるのかが不思議なほども、優生は穏やかな顔をしていた。
優生の面倒を見てやってもいいと言った淳史に、俊明は何の心配もしなかったようだった。優生に会わせた頃はあんなにも釘を刺していたくせに、今は淳史を疑いもしないらしい。ここまで無警戒に手放すのだから、何が起こっても自業自得だろう。
遠慮以外に何の抵抗もなくついてくる優生が、これまでの淳史の行為に何も感じていなかったとしたら、あまりにも鈍過ぎるとしか言えない。淳史は何度も警告してきていたのだから。
「おじゃまします」
他人行儀な言葉に気が逸る。
優生が理解していないだろうということくらい、想像していたのに。もしかしたら、俊明にも真意は伝わっていないかもしれないとわかっていたのに。
もう、仔猫は淳史のテリトリーの中に入ってしまっていた。



- カウントダウン - Fin

Novel


わかりやすいタイトルを付けてみました。
もちろん、優生とラブラブになるまであと少しという意味です。
年末にちなんだ訳ではありません……。