- Call -



『……ゆいちゃん?』
疑問形にもかかわらず、相手の声は断定的だった。もしもの場合を考慮して、なるべく声を潜めて話しかける。
「はい。あの、紫さん、今一人ですか?」
電話をかけるためだけにわざわざ離れた駅まで出向いて、尚且つ相手の周囲を気にする優生の未練がましさは、しっかり紫に伝わってしまっているらしかった。
『このまま工藤の所までダッシュしようか?』
「いえ、それなら最初から淳史さんの携帯に掛けてます。そうじゃなくて、淳史さん、ちゃんとお仕事に行ってますか?」
『ちゃんと来てるよ。遅刻も早退もなく、残業もこなしてる』
「そうですか……よかった」
また、優生を捜すために休暇願いでも出していたらどうしようという心配は、危惧に終わったようだった。
『ゆいちゃんが辞めたり休んだりしちゃダメって言ったんでしょ?取りつかれたみたいに仕事してるよ。“捜さないで”だけは守れないって言ってたけどね』
優生の“お願い”を聞き入れてくれていることを素直に喜ぶべきだと思いつつ、一抹の淋しさが胸に落ちる。優生が思っていた以上に早く、淳史は気持ちを切り替えてしまうだろうか。
「じゃ、紫さん、俺が淳史さんと別れたのは聞いたんですよね?」
『工藤の方は別れたとは思ってないようだけどね。ゆいちゃん、今どこ?』
口止めしたところで、きっと紫は淳史に話すだろう。それなら、ちゃんと伝えておいた方がいいだろうと思った。
「……実は、もう次の相手が見つかって、一緒に住んでるんです」
『ええっ……』
素で驚いたらしく、紫は素っ頓狂な声を上げた。非難めいた気配に、このまま、受話器をフックに戻してしまいたくなるほど。


『ゆいちゃん、どうして俺のトコに来てくれなかったの?』
想像していたのとは違う言葉に気が抜けた。
紫に頼ることなど考えもしなかったと言えば、気を悪くするだろうか。そうでなくても、淳史の知り合いの誰かの所にだけは行けないと思っていたのだったが。
「だって、紫さんメンタルな恋愛しかしないって言ってたでしょう?俺、むしろカラダ重視だし」
『ゆいちゃんがどうしてもって言うんなら、ポリシーくらいいつでも変えるのに』
「そんなムリしても続かないと思うし……今度の人は条件だけはカンペキなんです」
『条件だけって……ゆいちゃん、一昔前のお見合い結婚じゃないんだから、そんなので決めちゃっていいの?』
「じゃ、紫さんは何を基準に決めるんですか?」
『基準も何も、まず第一に好きな相手じゃないとダメでしょ。それから、価値観が近い方がいいなとか、まあ出来れば見た目も好みだといいなあとか、条件は付け足しみたいなものだと思うけど?』
一回り近く年下の優生でも、そんなものは理想に過ぎず、どこかで妥協しなくてはいけないと知っているのに。
「紫さんってロマンティストなんですね。でも、俺はまだ養ってくれる人が必要だし、俺の希望を聞いてくれる相手なら、そのくらいは譲歩しないと」
『そのくらいって、一番大事なことでしょ。リアリストなゆいちゃんの希望って何なの?』
当然のような問いにも、慎重に言葉を選ばなくてはいけないと思った。飄々としているようでいて、紫は意外と鋭い所がある。
「生活の面倒を見てくれるっていうか、一緒にいてくれる人、かな?俺を離さないでいてくれる人がいいんです」
『工藤って、暑苦しいくらい束縛してなかった?』
いつもの柔らかな口調ではなく、紫の声音には、優生の言い分など認めないと言わんばかりの厳しさが籠もっていた。


「淳史さんは俺みたいなのには免疫がなかったから、錯覚してるだけなんです。俺とのことは麻疹(はしか)みたいなもので、冷静になったら、淳史さんにはもっと合う人がいるって気が付くと思います」
もう少し猶予があったかもしれないその時が来るのを黙って待つことが、優生にはどうしても出来なかった。
『それって、ゆいちゃんじゃなくて工藤が決めることだと思うけど?』
「先の見えた賭け事はしないことにしてるんです」
一度は結婚してもいいと思った女性を選ぶと淳史に言われたら、きっと優生の胸は壊れてしまう。だから、そんな言葉を聞かされる前に、一目散に逃げ出してしまった。
『今一緒にいる人は、ゆいちゃんじゃなきゃダメだって言ってくれるの?』
「そうじゃないけど、頼み込んだのはこっちの方だから……妥協してるのはお互いさまだけど」
『ゆいちゃん、対等なつき合いしてる?っていうか、妥協するような相手って、一体どんな人?』
対等なつき合いなど一度もしたことがないと思う。優生にはいつも拒否権などなく、いつ要らないと言われるかと怯えてばかりだった。
「今一番一緒にいたいタイプの人、かな?出逢った時は、お互い別の相手がいたんだけど、フリーになるタイミングがあったみたいで」
『前から好きだった人?』
「え……ううん、まだ好きになってないけど……」
まだ、というより、いつか好きになる日を想像することはできなかったが。
『工藤は、ゆいちゃんみたいに簡単に気持ちを切り替えることは出来ないだろうと思うよ』
優生も決して簡単に切り替えたわけではないと、言えたら少しは楽になるのだろうか。
「……紫さんは、淳史さんの味方でいてください」
『俺はゆいちゃんの味方だよ?いなくなる前に相談して欲しかったとは思うけど、こうやって電話くれるのはすごく嬉しいと思ってるから』
思いがけない言葉に、思わず泣きそうになってしまった。
淳史のことが気掛かりで電話したはずなのに、優生の心配をさせている。それを、嬉しいと思ってしまう自分は身勝手だとわかっているのに。


「……ごめんなさい、長くなってしまって」
通話を終えようとしていることは紫にも伝わっているらしく、優生に別れの挨拶をさせてしまわないよう、引き止める言葉を掛けてくる。
『ゆいちゃん、連絡先は教えてくれないの?』
「俺、携帯持ってないし、持つつもりもないから教えようがないんです」
言い訳をするなら、部屋には固定電話を引いておらず、連絡手段は相手の名義の携帯という立場では、教えようがないのだった。
『じゃ、どの辺にいるかくらいは聞いていいかな?』
「……ごめんなさい」
まだ優生が揺れているような状態では、バッタリと会ってしまうことも避けたい。本当に怖いのは追われることではなく、意地も恥もかなぐり捨てて戻りたくなってしまう、優生の意思の弱さだった。
『こっちからがムリなら、ゆいちゃんから連絡くれる?』
「え……と、淳史さんには内緒にしてくれますか?」
『ゆいちゃんが電話くれたことを言っちゃダメなの?』
ダメと言ったところで、隠し通せるような性格には思えなかったが。
「紫さん、黙っていられるんですか?」
『ムリだよね−。ゆいちゃん、さすがダテに工藤とつき合ってないよね。じゃ、ゆいちゃんから電話くれるってことは工藤には黙ってるから、また電話して?』
「はい」
通話を終えると、結局、いつものように紫のペースにハマってしまったと思った。
でも、ムリに問い詰めたりしないところが、らしいというか、優生の扱いが上手いのだから仕方ない。それだけでなく、もう連絡する口実のない優生に次の機会をくれた。
望んで離れたくせに、淳史と繋がる細い糸が切れてしまうのを怖がっている優生は、いつまで経っても臆病なままだ。
だからもう少し、優生が自分を抑えられるくらいになるまでは、そっと様子を窺いに行くことも出来そうになかった。姿を見れば、きっと会いたくなってしまう。会えば、離れたままではいられなくなる。だから、今はまだ静かに身を潜めていようと思った。




『……ゆい?』
「うん」
3度目のコールで応えた相手に、遅くなってごめん、と続けようとした言葉より先に響いた怒声に、危うく受話器を落としそうになった。
何の前置きもなく音信不通になった優生に対する勇士の反応は前回と同じで、電話越しに叱責する鋭い声に心臓が縮み上がる。ボックスではない公衆電話を使っていると、周囲にも気を遣わずにいられないというのに。
「……ごめん、連絡するのが遅くなって」
いつも通り、優生から折れると、漸く勇士は声のトーンを落とした。
『ゆいは俺にはいつも事後報告だよな』
「ごめん、急だったから……とりあえず居場所が確保できてから知らせようと思ってたんだ」
『それなら俺の所に来れば良かったんじゃないのか?工藤さんと別れる気だったんなら、気を遣う必要もないだろう?』
暫くの間ただ置いてもらうだけで良かったとしたら、勇士の言う通りだったかもしれない。でも、勇士は優生が家を出た経緯を追及するだろうし、それを上手く躱す自信はなかった。
何より、優生が望んでいたのは物理的な事情だけではなく、それは決して勇士には叶えられないことだった。
「……ごめん」
『連絡先は?教えられないとか言うなよな?』
「ごめん、携帯は持ってないし、電話は引いてないから教えようがないんだ」
『今どこにいる?』
「大津だけど……出先からだよ?」
『行くから待ってろよな?』
「だめ。そんなに時間ないし……」
こんな風に問い詰められるのが怖くて、電話を掛けるためだけに遠くまで出て来ているというのに。


『工藤さんを連れて行くわけじゃない。俺に会うのも嫌なのか?』
「嫌なわけないだろ、でも、今は」
『いつならいいんだ?』
「……すぐには答えられないよ」
勇士に会えば、優生の脆い決意などきっと簡単に崩されてしまう。もし淳史と会って話し合うよう説得されたら、嫌だと言い切る自信はなかった。
『急だったって言ったよな?急いで別れなければいけないようなことがあったのか?』
淳史に告げた言葉を思い返しながら、無難な言い訳を探す。
「我慢できなくなったのかな……行動に制限ばっかするし、親に無理矢理会わせるし、その親とは合わなさそうだし」
『窮屈だったのか?』
「だって、やっと自由になったと思ってたのに、束縛しすぎだし」
『俺は、ゆいは誰かに束縛されたがってるんだと思ってたけどな?』
それが事実だっただけに、咄嗟に否定する言葉が出てこなかった。
制限されるほど執着されている証明のような気がして、放っておかれると興味を失くされたようで不安になってしまう。たとえ、執着と愛情は別物だったとしても。
「……度を過ぎると、しんどくなるもんだろ?」
説得力のある理由だと思ったが、受話器の向こう側の気配は険しくなるばかりだった。
『おまえ、工藤さんのことが好きなんじゃなかったのか?』
勇士の言葉は直球過ぎて、優生の逃げ道を塞いでしまう。口先だけの否定さえ、今はまだ出来そうになかった。
『ゆい?』
好きだと言えば、きっと勇士は淳史に話してしまう。そうしたら、淳史は優生を気にかけて、纏まりかけた話を躊躇うかもしれなかった。


「ごめん、答えられない」
それを心変わりと取られても仕方がない。
いつか淳史に、やっぱり女性と結婚すると言われるかもしれないとか、優生のせいで婚期を逃したと思われたくないとか、そんなものは全て優生の身勝手だとわかっている。それでも、いつか後悔されるくらいなら、惜しまれているうちに離れたかった。
ややあって、勇士が小さく息を吐くのが聞こえた。
『ゆい、何か言われたのか?』
「うん?」
『工藤さんの親に、合わないと思うようなことを言われたのか?』
「そうじゃないけど……合う合わないって自然とわかるだろ?俺、あんまり鈍い方じゃないし」
『俺は、おまえほど鈍いヤツはいないと思うけどな』
しみじみと断言されて、優生は心の底から驚いた。そんなに鈍感でいられたら、こんな風に悩むことはなかったはずなのに。
『ゆいが大事なのは工藤さんじゃなくて、親の評価だったのか?』
「そうじゃなくて……ただ、認められる相手の方がいいんじゃないかと思っただけで」
『結婚するのは当人なんだから、どっちかと言えば親の方が合わせなけりゃ仕方ないんじゃないのか?うちの姉貴なんてフライングしたからな、親は拗れたら困ると思い込んで、相手に気遣いまくってるぜ?』
もし、優生にも、フライングでも何でも子供が出来るなら、淳史の親に歓迎されたかもしれない。それが淳史の相手に望むほぼ全てだと言われたも同然だった。
「それは普通の結婚が出来るからだろ?もし勇士が俺と結婚したいって言ったら、反対されるに決まってる。一時の気の迷いだとか、俺が勇士を誑かしたとか言われると思うけど?」
『そんなことを言われたのか?』
「違うよ、淳史さんのお母さんはそんな品の悪い人じゃなかった」
『じゃ、誰が言ったんだ?』
そう突っ込まれることくらい、わかっていなかったわけではないのに。淳史の母親を悪く言いたくないと思うあまりに、言葉が過ぎてしまった。


『いい加減、本当のことを話せよ?』
もう、上辺の言い訳は通じなくなってしまったことに気が付いた。
「……淳史さんには言わないでくれる?」
『わかってる』
先を促すためのような言葉に約束の効力は期待できないとわかっていても、もう言いかけた言葉を引っ込めることはできなかった。
「淳史さん、きちんと別れてない相手がいて……向こうは結婚したいと思ってて、淳史さんの親も公認の仲みたいだった。俺、“人のもの”とつき合ってたんだよ」
『そんな話、聞いてないぜ?』
「うん。俺も、その人が部屋に来るまで知らなかった。でも、わかった以上、続けられないだろ?」
『ゆいも相手に会ったのか?』
「会ったも何も、その人が淳史さんに結婚セマってる時一緒にいたし」
『そんなことがあったんなら、何でもっと早く言わないんだ?ゆいに出来ないんなら、俺が工藤さんを殴ってやるよ』
こんな話をするつもりではなかったのに、結局、淳史の評価を落としてしまったようだった。勇士の追及を上手く躱すことなど出来ないとわかっていたから会わないと言ったのに、電話でも結果は同じことになってしまった。
「そんなのはしなくていいから……ともかく、そういう訳だから」
『まあ、それが本当なら難しいところだよな』
優生の話には若干の誇張が混じってしまったが、嘘ではなかった。但し、淳史の言い分は全く無視したかもしれないが。
「だから、今は淳史さんには会いたくないんだ。もし、勇士に何か連絡があっても、俺のことは言わないで?」
『俺が黙ってても、工藤さんはゆいのこと諦めないだろうと思うぜ?いろんな所に当たって、捜してるみたいだからな』
それが本当なら嬉しいと思ってしまったことが、勇士に伝わってしまわないよう、わざと淡々と返す。
「淳史さん、俺に責任感じて心配してるんだよ。俺が他の相手と暮らしてるって知ったら、きっと安心してその人と結婚するんじゃないかな」
何気なく言った言葉は、8割がた成功しかけていたかに見えた勇士の説得を白紙に戻してしまったらしかった。


『他の相手って誰だ?もう次の相手がいるってことか?』
荒げられた声に、勇士を怒らせてしまったようだと気付く。もう隠すことは諦めて、現状を話しておくことにした。
「俺、添い寝してくれないと眠れないし、行きずりみたいな相手を探すより継続してつき合える人の方がいいから」
『そんな都合の良い相手がすぐに見つかったのか?』
「うん。前に誘われたことがある人なんだ。その時は淳史さんとつき合ってたから断ったけど、連絡したらまだ有効だったから、そのまま置いてもらってる」
『……おまえって、モテるんだな』
「なんか、隙があり過ぎるみたい」
自覚はないが、大概そういう評価をもらってしまう。
『だから工藤さんも束縛したがってたのかもな』
「もう、淳史さんの話はお終いにして?」
即興の言い訳は、話すほどにボロが出てしまいそうで怖かった。
『本当に工藤さんのことは諦めたのか?』
「諦めるも何も、不倫してたようなものなんだから、しょうがないだろ」
『工藤さんはその相手より、ゆいを取るような気がするけどな?』
優生もそう思ってしまったことを見透かされないよう、わざときつい言葉を選ぶ。
「俺、少しだけ愛してくれたらいいんだ。でも、誰かと共有するのも、責められるのも我慢できないから」
『ゆいの言い分は尤もだよな……今度の相手はそういう心配はなさそうか?』
「うん。でも、まだ始めたとこだから、そういう話はまた今度な?」
『本当に“今度”はあるんだろうな?』
「勇士に見限られるまでは、連絡したいと思ってるけど?」
『何で、ゆいはそういう思わせぶりな言い方をするんだろうな。俺がゆいを見限るわけがないだろう?』
「そうだよな、ごめん」
だから、恋を封じて友情を貫いたのだから。
勇士に、“そのうち”というあやふやな約束をしてから受話器を戻す。
淳史ともそうしていれば良かった。恋人の友達のまま、優生を慰めてくれる優しい知人のまま。そうすれば、優生の手には入らなくても、失くすことはなかったのに。




『ゆいさん……?』
おそるおそる、といった風に問いかけるのは、本来の里桜が慎重なせいなのだろう。公衆電話を撃退されなかっただけでも有難いと思うべきなのかもしれない。
尤も、教えたことのない携帯電話からかけていても、同じことだっただろうが。
『どうしたの?どこにいるの?あっくんに連絡したの?』
優生からだと確認した途端に、里桜はいつもの勢いで質問を浴びせかけてくる。
答える代わりに、電話をかけた目的を遂げることにした。
「……淳史さん、元気にしてる?」
『ゆいさんがいないのに、元気なわけないでしょ。心配してるんなら早く帰ってきて』
「帰るも何も、俺はもう淳史さんと別れてるから……聞いてるだろ?」
『そんなの、ゆいさんが勝手に出て行っちゃっただけでしょ。そういうの、別れたって言わないんだから』
里桜がそんな風にきつい口調で厳しい言葉をかけてくるとは思ってもみなかったせいで、優生は言葉に詰まってしまった。
『ゆいさん、あっくんにも電話したの?まだだったら早くしてあげて?』
「出来ないから里桜にかけてるんだよ、淳史さん、食事とか、ちゃんと摂ってるのかな?」
『ゆいさんがいないのに、ちゃんと食べてるわけないでしょ。義くんも俺も誘ってるけど、忙しいとか何とか言って、全然来てくれないし、行くのもダメだって言うし。あっくんが病気になったら、ゆいさんのせいだからね?』
演技とも思えない、今にも泣き出しそうな声に負けそうになる。里桜のように素直に感情を出せたら、他の選択肢があったのだろうか。
「……そういえば、引越すの、もうすぐだろ?」
『そうだよ。ゆいさんだって、あっくんと一緒に行こうと思ってたんでしょ?どうして、あっくん一人に引越しの用意をさせてるの?』
「俺が引っ越したいって言ったわけじゃないよ?淳史さんが今の所で居たくなくなったのと、緒方さんや里桜の近くが良いと思ったからだろ?」
その一因が優生にあったのは事実だが、引っ越すことを決めたのは淳史だ。まだ優生が踏み入れてはいないその場所で、誰かと新しく始められるはずだった。
『ゆいさん、ひどいよ、今頃そんな言い方するの。一旦契約したものをそんな簡単に解約できないでしょ』
「俺は最初から、淳史さんが決めたことに口出ししないとしか言ってないよ?」
『ゆいさんは冷た過ぎるよ……あっくんは、ゆいさんが鍵を置いていっちゃったから入れないといけないって、管理人さんにも頼んでるし、引っ越すまでにゆいさんが帰って来なかった時のことも考えて、今のマンションの契約も継続してるんだからね?』
捜しているとか待っているとか聞かされるたびに、まだ間に合うような錯覚を起こしてしまう。その甘さを嫌悪しながら、どうしても、嬉しいと思うことが止められない。
「……ごめん、淳史さんが必要ないんなら解約してもらって?」
『ゆいさん、何であっくんに会ってちゃんと話しないの?他の人が何て言ったって、聞くわけないでしょ?』
紫や勇士と同じように、里桜もためらいもなく理由を尋ねてきた。真っ直ぐな里桜にとっては、純粋な疑問なのだろう。
「俺は……もう別れてるって言っただろ」
『ゆいさんが勝手に言ってるだけでしょ。このままじゃ、あっくんは終わることも出来ないよ?』
「……終わりは自分で決めるものだと思うけど」
『ゆいさんはズルイよ。あっくんの気持ち、少しは考えてあげて?』
里桜の言葉にハッとする。考えていたつもりでいて、その実、一度も考えていなかったことに気付く。
淳史の母親が望む相手になれなかったことに傷付いて、淳史の好みに適っていないことに落ち込んで、淳史に別れを切り出される前に一目散に逃げ出してきた。けれども、それは全て優生の勝手な思い込みで、淳史がどう思っているのかを確かめたわけではなかった。
『ゆいさん、もしも、あっくんのことが嫌いになったんならハッキリ言ってあげて?その方があっくんのためだから』
「嫌いになったわけじゃないよ」
『ゆいさん、そういうのズルイと思う。あっくんに中途半端に期待を持たせるようなことしないで?ちゃんと話を聞いてあげて』
「ごめん……でも、今はダメなんだ」
『ゆいさんだって、本当はあっくんのことが気になってるんでしょ?だから俺にも電話くれてるんじゃないの?』
里桜にさえ見透かされてしまうくらい、優生は嘘を吐くのがヘタなのだろうか。
でも、今はまだ会えそうになかった。淳史のことを思っただけで泣きそうなのに。
『……ねえ、ゆいさんはちゃんと食べてるの?』
「え……」
『ゆいさん、何かあるとすぐ食べられなくなるからって、あっくんが心配してたから』
「俺は……今は大丈夫」
拒食を許してくれない相手と一緒にいるせいで、そういう意味でだけは健康的に過ごしている。
『あっくんは痩せたよ』
里桜の言葉は意外で、俄かには信じられなかった。まさか、淳史が痩せるなんて想像も出来ない。
「……忙しいの?」
『本当に忙しいわけないでしょ?あっくん、一人になると考え込んじゃって、でも、ゆいさん以外の誰とも過ごす気にはなれないみたいで。いくらタフだっていっても、そのうち倒れちゃうんじゃないのかな』
脅かすような言葉に、どうすればいいのかわからなくなってしまう。
「ごめん、里桜に頼むのも変かもしれないけど……淳史さんを元気にしてあげて?」
『俺に出来るわけないでしょ。ゆいさんが帰ってきて、あっくんを元気にしてよ、お願いだから』
今にも泣き出しそうな声に、思わずつられてしまいそうになる。里桜が、本当に淳史を心配していることが伝わってくるのに、肯定することはどうしても出来なかった。
少し強引に、短い別れの言葉を告げて電話を終える。里桜の言葉は、他の誰に電話をかけた時よりも一番胸に響いた。



- Call - Fin

Novel  


思いっきり未練がましい優生を書いてみました。
あまりにもあっけなく一方的に別れられてしまった淳史が可哀そうになったので……。

☆説明が不十分過ぎて申し訳ないのですが、紫と勇士に電話したのは別れて間もない頃で、
里桜に掛けた時は、淳史と再会する少し前、という設定になっています。