- 天然爆弾 -



「義之さん、ウィスパーって何?」
里桜がソファから首だけを振り向かせて義之を見た。
大して重要な質問には思えなかったが、義之はテーブルに置いたモバイルから目を離さないまま答える。
「動詞なら“ささやく”、名詞なら“ささやき”」
「ありがと」
珍しく急ぎの仕事を持って帰ったせいで、義之は夕食を終えてからもずっとパソコンに向かっていた。
少し経って、また里桜が義之を振り向いた。
「ね、“Brand New Map”ってどういう意味?」
「真新しい地図、かな?」
「そうなんだ」
しばらくすると、また里桜が質問を投げかける。
「シンクロニシティって何?」
3度目の問いに、さすがに義之も放っておくことができなくなった。作業を中断して、里桜の方へ視線を向けた。
「里桜、僕は辞書じゃないよ?」
「ごめんなさい、何でも答えてくれるからつい」
「自分で調べないと身に付かないよ?」
「別に身に付かなくてもいいもん」
そうだろうと思っていたが、やはり拗ねているらしい。


わざとらしいため息をついて、義之はパソコンを閉じた。
里桜の方に視線をやると、つまらなそうに膝に乗せた本をめくっている。傍に近付くと、携帯に繋がったイヤホンを外して義之を見上げた。
「英語の勉強をしてるのかと思ってたけど、違うようだね。一体何の勉強をしているのかな?」
「え、勉強なんてしてないよ?歌を聴いてただけ」
里桜が本を閉じて横に置く。タイトルを見ると、義之もずいぶん前に読んだことのあるベストセラー小説だった。どうやら、ただ単に義之の邪魔をしていただけだったらしい。
とはいえ、いつもの親密さを思えば里桜が妨害したくなる気持ちがわからないでもなかった。
気を取り直して里桜の横に腰掛ける。肩を抱くように腕を回して横顔を覗き込んだ。
「ずいぶん退屈してるようだし、少しつき合おうか」
素直に顔を上げる里桜が、言葉だけものわかりの良い振りをする。
「いいよ。お仕事、急ぎなんでしょ?」
「朝までに仕上がればいいから大丈夫だよ」
里桜の機嫌を窺うように顔を近付ける。
「ごめんね」
殊勝な声にすっかり義之の気が緩んで、吐息が触れそうに近付いた時、里桜が無邪気に切り返した。
「義之さん、何とかの知恵袋みたいで便利なんだもん」
今にも触れ合いそうだった唇をためらってしまう。


「……ひどいな、お父さんの次はおばあちゃんか」
「え?何で?」
「何とかのって、おばあちゃんの知恵袋って言うんだよ?」
「そうなんだ……義之さんって、物知りだよね」
あまり嬉しくないのは、恋人があまりにも幼くて天然だからかもしれない。
「里桜も、もう少し勉強した方がいいよ?」
「だって苦手なんだもん」
確かに、持って生まれた天分があまり勉強に向いているタイプではないと思う。努力が足りないというよりは元々の土壌の問題で、里桜はあまり利発だとは言えなかった。
「でも、約束だから高校だけはちゃんと卒業しないといけないよ?後は専業主婦でもいいけどね」
「主婦って、俺にはムリでしょ」
「十分だと思うよ。できるなら今すぐにでも結婚したいと思っているよ」
「だから、結婚なんてできないでしょ。何でそういうことばっか言うのかな」
「里桜こそ、何でいちいち否定するのかな。気持ちの問題だろう?」
もしかしたら、幼い里桜の方が現実的なのかもしれない。他の言葉では代用しきれず、義之が安易に使う“結婚”とか“主婦”といった言葉に里桜はひどく敏感だった。
「義之さん、もしかして俺を女の子だと思ってない?」
「思うわけないだろう?脱がせる前ならともかく、何度も確認してるのに」


「ば……何で、そういうこと言うの」
真っ赤になって義之の胸元を叩く里桜は、女の子じゃなくても十二分に可愛いと思う。“ばか”と言いかけたことを聞き流してやれるくらいに。
「女の子扱いをしているつもりはないんだけど、気に障ることがある?」
「だって、俺は女の子にはなれないよ?」
真剣な顔をして義之を見上げる里桜が可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「わかってるよ。女の子になってもらいたいなんて思ったこともないしね」
「……ほんと?」
「もちろんだよ」
ホッと息をつく里桜が、とんでもないことを言う。
「俺、そのうち女の子にならなきゃいけないのかもって思ってたよ」
「思ったからって、なれるものでもないだろう?」
「外国行って、お金かけたらなれるんでしょ?」
里桜があまりにも意外なことを言ったので驚いた。
「女の子になりたいの?」
「やだよ、もっと小さい時ならともかく、いきなり女の子になったってどうしたらいいのかわかんない」
「僕も里桜はそのままの方がいいよ。今のままで十分かわいいしね」
かわいいと言われて怒るどころか満更でもない顔をするあたりが、すっかり感化されてしまっていると思うのだが。


「でも、本当は女の子の方がいいんでしょ?」
そうだと言えば拗ねるのだろうし、違うと言えば嘘だと言うのだろう。何ともデリケートな問いに、差し障りのない言葉で答える。
「里桜ならどっちでもいいよ」
「……義之さんってストライクゾーン広いんだ」
「里桜、そういう意味じゃないよ?」
時々、この天然な恋人には睦言が通じない。
「だって、どっちでもいいんでしょ?」
「相手を里桜に限定したら、という話だよ」
「じゃ、やっぱり女の子の方がいいんだよね」
その結論に深い意味はなさそうだったが、肯定してしまうのはためらわれた。
「そういうわけじゃないよ。もし里桜が女の子だったとしても、結婚できるのはもう少し先だしね」
4月1日生まれの里桜が16歳になるのは、半年以上先のことだ。
「そうだよね。やっぱり高校は出なきゃダメって言われるだろうし、赤ちゃんとかできちゃったら困るもんね」
真剣な顔をして“もしも”の話をする里桜が可愛くて、ギュッと抱きしめたくなる。
「困らないよ、そうしたら反対されにくくなるだろうしね」
里桜はそれには答えず、義之の腕の中で何かを考えるような素振りを見せた。


「ね、やっぱり俺が女の子でも、やらしいことばっかするの?」
悪戯っぽい瞳を上げて義之を見る。普段は幼い顔立ちをしているのに、真っ直ぐ瞳を覗き込む時は妙に大人びた表情になる。
「そうかもしれないな」
上向いたままの里桜にゆっくり顔を近付ける。今度は逃げられなかった。
もし里桜が女の子なら学校になど行かせられないだろうと思う。今でも他の男に誑かされるんじゃないかと内心では心配でたまらないのに。
「きっと、里桜はあっという間にママになってしまうだろうね」
「ダメだよ、学校に行けなくなっちゃう」
「そしたら行かなくていいんだよ。お義父さんやお義母さんだって反対できなくなるはずだよ」
本当にそうならばいいのに、と思わずにはいられない。今も、この仔猫を自分の手元から離さずにすむ方法ばかり考えているのに。
「義之さん、本当に結婚したいんだ?」
里桜に言葉以上の深い意味を見抜かれたような気がしてドキリとした。
「今すぐにでも、って言ってるだろう?」
「早くそんな法律ができたらいいね」
まるで他人事みたいに里桜が笑う。その相手が自分だという自覚がないのではないかと危惧してしまうほど。
「明日にでも制定されたら、すぐに結婚してくれる?」
「ダメだよ、お父さんとお母さんに高校出てからって言われてるでしょ?」
義之の何度目かのプロポーズをあっさり却下する里桜に、思わずため息が洩れる。
法律よりも、仔猫が大人になるのを待つ方が先らしかった。



- 天然爆弾 - Fin

Novel  


義之は本当にストライクゾーンは広いと思います……。