- 息もできないくらい -



「ダメ」
何度めかの拒否の言葉を、里桜は少し強い口調で言った。
風邪気味で鼻の通りのよろしくない里桜は、触れる程度のキス以外はしたくないと言っているのに、義之は聞き入れてくれそうになかった。
今夜は、添い寝することさえ躊躇してしまうくらい鼻の具合がヤバそうなのに。
「ひどいな、里桜は僕に“おやすみ”のキスもさせないつもりかい?」
義之のその悲しげな表情も、ちょっと大げさなポーズなのだと今の里桜にはわかっている。
「だから、口を塞がれたら窒息しそうなんだってば」
「もし里桜が窒息したら人工呼吸も心臓マッサージもしてあげるよ」
「その前に息の根を止めるようなことをしないでくれる?」
里桜の必死の訴えも、義之は聞いていないような気がする。里桜の頭の下に入れた腕をグッと引きよせて、覆い被さるように抱きしめた。
「キスで呼吸が停止したなんて話は聞いたことがないから大丈夫だよ」
「俺が第一号になったらどうするんだよ?」


「もしそうなったら責任を持って助けるよ。僕は救命講習も受けているから心配しないで」
論点のズレた説得に脱力してしまう。穏やかそうな外見に反して、義之は里桜に対してはいつも強引だった。
「人口呼吸もマウス・トゥ・マウスでしょ?本末転倒だよ」
「感染予防のために、嫌ならマウス・トゥ・マウスはしなくてもいいんだよ。もっとも、意識のない方には拒否しようがないけどね」
義之は里桜より一回り以上も年上の大人のはずなのに、どうして時々こんな風に自分の気持ちを押し付けてくるのだろうか。
「意識があっても拒否できないんでしょ?」
「そうは言ってないよ?」
それ以上のことを言われていると思うのだが。
でも、もう反論する方が面倒になっておとなしく目を閉じることにした。最初から、里桜が口論で義之に勝てるはずがないのだから。
重ねられた唇が、確かめるように一度離れてまた触れる。里桜がすっかり諦めたのを知って、ゆっくりと唇を開かせる。このまま、さらにキチク度がアップしたらどうしようと新たな不安が湧き上がる。いつもは気持ちの良いキスにも、今日は集中できそうになかった。


「熱っぽいよ?」
上の空の里桜が呼吸困難に陥る前に唇が離れて、義之の声のトーンが変わった。
里桜の前髪をかきあげた手が額を包む。熱があると言われたことよりも、あっけなくキスが中断されたことの方に驚いた。
「だから、風邪気味だって」
「聞いてないよ、鼻の通りが悪いとしか」
「……そうだっけ?」
そういえば、長引きそうなキスを止めようと必死で、鼻呼吸ができないことしか言ってないような気がする。
「熱を測らないといけないな」
そっと里桜の頭を腕から下ろして、義之がベッドを出る。
すぐに体温計を持って戻り、また里桜の頭の下に腕を回して抱きよせた。別な手でパジャマのボタンを2つ外して体温計を脇に挟ませる。
いつの間にか、義之が保護者の顔をしていた。ついさっきまで、キチクなことをしようとしていたことを思うと可笑しくなる。
「里桜の平熱は36度くらいだったね?」
「うん」
「寒気はしない?」
「うん、大丈夫」
「食欲はいつも通りだったね?」
「うん」
里桜は少々のことでは食欲が落ちたりしない。むしろ、体調の悪い時こそ食べなきゃといつも以上に頑張っているかもしれない。


ほどなく電子音が鳴って、義之が体温計を抜いて確かめた。
「7度5分だよ。まだこれから上がってくるかもしれないから油断できないな」
「大丈夫だって。全然そんな感じしないし」
「ダメだよ。暖かくして寝てなきゃ。僕もこのまま一緒に休むよ」
「いいよ、まだ早いでしょ」
元気な時なら、里桜でもまだまだベッドに行かないような時間だ。
「くっついていた方が早く治るんだよ」
もっともらしい言い方をして里桜の体を抱き直した。
もし義之に子供がいたら、きっとこんな風に大切に育てるのだろう。もう子供とは言えない里桜に対しては過保護かもしれなかったが。
触れ合って体が暖まってきたせいか、詰まって感覚のなかった鼻がムズムズしてきた。慌てて、目線だけでティッシュの場所を確認する。ほぼ定位置のベッドサイドにあったが、義之の腕に包まれた里桜が手を伸ばしても届きそうになかった。
「ちょっと離して?」
「窮屈かな?」
「ううん、届かないんだ」
里桜の手がどこを目指しているのか気付いて、義之がボックスティッシュを引き寄せる。
「ありがと……」
ティッシュを何枚か抜いて鼻先に近付けたとたん、衝動が飛び出しそうになった。


「っくしゅん」
何とか、鼻と口をティッシュで覆うのが間に合った。あと1秒でも遅かったら、きっと大惨事になっていたに違いない。
「里桜」
「だめ、ちょっと離して」
とりあえず、義之の腕を抜け出して、ティッシュで顔を半分覆ったまま洗面所に走る。ドアをきちんと閉めてから鼻をかむ。
「里桜?」
ドアの向こう側から、義之の心配げな声がした。恋人がこんなに心配性では、おちおち鼻もかんでいられない。
「ちょっと待ってて」
新しいティッシュを抜き、可能な限り鼻水を拭う。くしゃみのおかげで、当面の鼻詰まりは解消されたようだった。
急いで手を洗って洗面所を出た里桜を待ち構えていたように、義之が上から覗き込む。
「大丈夫?」
「うん。すっきりした」
肩を抱かれて寝室に戻る。すぐには横にならずにベッドの端に並んで腰掛けた。
「胃が疲れてたのかな、里桜はよく食べるから」
「え、別にリバースしたわけじゃないよ?」
自慢じゃないが、里桜は見た目の華奢な印象と違って胃はかなり丈夫だった。頑丈といってもいいくらいだ。生まれて15年あまりの間にリバースしたのは記憶にある限りでは一度もない。


「じゃ、どうして」
「だから、鼻が詰まってるって言ったでしょ。鼻かんでたの」
「わざわざ洗面所まで行かなくても」
「だって義之さん、離れてくれないんだもん」
まだつき合い始めて日が浅いのに、義之の前で豪快に鼻をかんだりしたくないと、なぜ気付いてくれないのだろう。いつも、里桜の思うことなど何でもお見通しのくせに。
「何て言っても離れないよ、心配だからね」
「はいはい、も、好きにして。時々、鼻かみに行かせてくれたらいいし」
差し迫った危機が回避されたおかげで、切羽詰った気持ちが和らいでいた。
「僕の前で鼻をかむのが嫌なの?」
「そりゃ、そうでしょ」
素直に答えた里桜の体がギュッと抱きしめられる。
「やっぱり里桜はかわいいなあ」
しみじみと呟かれても、何がそんなに義之を感激させたのかわからない。
「フツーでしょ」
「希少価値だよ」
やっと鼻詰まりが解消されたのに、今度は抱きしめる腕が強すぎて苦しくなる。息もできないくらいに。
その少し窮屈な腕の中で、明日にでも鼻炎薬を買いに行こうと思った。



- 息もできないくらい - Fin

Novel    


息もできないくらいの鼻詰まりだった、というオチでした……。

それにしても、頭の弱い里桜が“本末転倒”なんて言葉を知っていたのが不思議です(←自分ツッコミ)。