- ゆびわのきもち -



それは、ふわっと落ちてきた。
後から思えば、そこそこ重さもあるそれが、そんな風に軽く落下してくるはずがなかったのだけれど。

うららかな昼下がりの中庭で、昼食のあとの、腹も気分も満たされてもう寝るしかないという状態の和巳(なごみ)には正常な思考力は残っておらず、ただ、目の前をふわりと漂い落ちてゆくそれを、何気なく手のひらで受け止めようとしたに過ぎない。
まさか、いくら指先が上を向いていたとはいえ、狙いを定めたように薬指の根元へ嵌り込んでくるなんて想像もできなかった。
それが本来、指におさまって然るべき指環だったとしても。




気が付けば、和巳が昼休みを過ごしていた中庭とは違った森の中にいた。
意識を失っている間に和巳の膝に落ちてきたらしい木の葉も見たことのない形をしていたし、生えている雑草も、和巳の知っている植物とは似て非なるものだった。
だから、和巳はまだ夢を見ているのかと思ってしまった。

「つ……っ!」
ふいに、左手の薬指に鋭い痛みを感じて目をやると、あの指輪がまるで存在を主張するように熱を帯びて煌めいていた。
陽の光を受けて一層輝く銀色の指環は、薔薇に似た花と蔓を模したような緻密な細工を施されていて、その意味を知らずとも何やら重々しい伝統やら厳格さのようなものを感じる。
とてもではないが、和巳のような一庶民の指におさまっているべきものではないとわかるのに、なぜか誂えたようにぴったりと嵌っていて、どうやっても抜けそうになかったのだった。

「抜けないのか?」
突然、頭上から掛けられた声に驚いて飛び上がりそうになる。
おそるおそる顔を上げてみれば、緩く波を打つ眩いほどに輝く見事な金髪に深い青色の瞳の、おそろしく端正な顔立ちの美丈夫がすぐ傍で和巳を見下ろしていた。
美しいのは顔ばかりではなく、男の纏う丈の長い上着は絹のように光沢のある生地で、襟や袖に宝石がふんだんに縫い込まれている。中に着たチュニックのような上衣には細かな刺繍が施され、和巳には値段の想像もできないほど高価に見えた。
ただ、その服の形も柄も、少なくとも現代日本では馴染みのないデザインなのだったが。

「あ、あの……ここはどこですか?」
まだ夢の可能性を捨てきれないままに口にしてしまったが、男の機嫌を損ねてしまったようだった。
「先に俺の問いに答えろ」
「え……」
そういえば何か聞かれていたような気はするが、動転してしまっていたせいか覚えていない。
それに気付いたのか、男は面倒くさそうに問い直した。
「その指環は抜けないのか?」
「あ、はい。なんか、ぴったり嵌ってしまっていて、全然動かせないんです」
ありのままを答えると、男は盛大にため息を吐いた。
「まさか異界人と番うことになるとはな……」
番う、と言われて思い当たる事態は一つしかなかったが、敢えて問い直す気にはなれない。
和巳を異界人と言う理由についても然りだ。

黙ったままの和巳に焦れたように、男が左腕を上げる。
見れば、和巳の顔前に翳された男の薬指にも同じ指環が嵌っていた。




和巳はどちらかといえば現実主義者だが、自分の目で見たものや経験したこと以外は信じないというほど頭が固いわけではない。
寧ろ、子供の頃から本が好きで、手当たり次第に童話やファンタジーの類も読んでいたから、同年代の男子よりは空想の世界に理解があると思う。
それでも、不思議の国のアリスのように異世界に落ちてしまったと結論付けるには早計過ぎると、否定的な気持ちは抑えきれなかった。
反面、違和感を度外視するにも無理があり、瞬く間に見知らぬ場所に来ているのは不可解で、馴染みのない植物や和巳の指に不自然に嵌って外れない指環の説明もつけようがなかった。
まだ夢の中にいるとか、或いは、酔狂な誰かが、一庶民の和巳にドッキリを仕掛けているというのでもない限り。


「少しは状況が理解できたか?」
まるで全てを把握しているような言い方をするが、この男もおそらくは事態を確認しに来たのだろうと思う。
和巳としても、こんな僅かな情報では異世界に来たと認めてしまうことはできず、しばらくは様子見をするしかなかった。

「……どうして、僕が異界人だと思ったんですか?」
「黒い髪も黒い瞳も、こちらの世界で生まれた者には出ない色だからな。それに、そんな服は見たことがない」
和巳の容姿は至って平凡な方なのだが、男の言うところの“こちらの世界”では珍しいようだ。
せめて今時の学生のように髪を染めるくらいしていれば見過ごされたのかもしれないが、まさかこんなことになるとは想像もせず、至って真面目な高校生の和巳は、校則違反を犯してまで染髪してみたいとは思わなかったのだった。学生服にしても、午後の授業のために先に体操着に着替えておけばもう少し目立たなかったのだろうかとか、悔やみ出したらキリがない。

「大体、この国の民で俺の許しもなしに顔を上げているような者はいない。ましてや、そんな寛いだ格好をとるなど以ての外だ」
尊大な物言いは、頂点に立つ者にのみ許される表現だと気付く。それも、現代日本では考えられないような絶対王政の君主のような。
つまりは、この男はこの国で一番偉い人物だということなのだろうか。

異世界かもしれない国の、無礼にならない格好など知るはずもないから、とりあえず地面に足を投げ出していた姿勢を正座に直す。通じるかどうかはわからないが、一応、日本では畏まった体勢のはずだ。

「もしかして、王さまだったりするんですか?」
「察しがいいな。即位したばかりだが、このアルフレッドの国王だ」
「アルフレッドというのは国名ですよね? 陛下お一人で出歩かれても大丈夫なほど平和な国なんですか? しかも、僕のような不審人物に丸腰で接するなんて」
いくら和巳の見た目が小柄で痩せていて弱そうでも、スタンガンのようなものを隠し持っているかもしれないし、意外と武道に秀でている可能性だってゼロではないだろうに、もしこの男が本当に国王なら、少々警戒心が無さ過ぎるのではないか。
「アルフレッドは精霊に守られた国だ。王位に付くにも精霊王の承認が必要だが、認められればその守護を受け、何人(なんぴと)にも害されることはない」
暗に刃向うことの無意味さを諭されたようで、ひとまず猜疑心には目を瞑ることにした。今は表面上でも友好的な態度で接し、少しでも判断材料を引き出した方が賢明なようだ。

「陛下のお名前を伺っても……あ、僕は秦野 和巳(はたの なごみ)といいます。秦野は姓で、和巳が名前なんですけど」
人に名前を尋ねる場合は先に名乗るものだと思い出し、慌てて言い足す。加えて、名前の並びはおそらく日本式ではないだろうと推測し、補足しておいた。
「全く礼儀を知らないというわけでもないのか……? まあいい、俺はレナードだ。もし俺の伴侶になりたいのなら名前で呼んでも構わないが、そうでないなら、先の呼び方の方が無難だな」
改めて伴侶の件に触れられて、そう何度も流しては後々不利になりそうだと気付く。

「あの、僕は男ですけど……まさか女の子と間違えてるとかってことはないですよね?」
いくら和巳が小柄で細身といっても、顔も仕草も女性的ではなく、人からそんな風に指摘されたこともない。
「女なら、指環に選ばれていないと思うが」
「え……じゃ、伴侶になるっていうのは、結婚するって意味じゃないんですか?」
「俺の伴侶になるということは、精霊王の祝福を受け正妃になるということだ。俺は女と番う気はないからな、指環が女を選ぶとは考えられない」
当然のように言い切られても、和巳には理解し難い理屈で、しばらく絶句してしまった。

「あの……少し、頭を整理する時間をいただいてもいいですか? ぶっちゃけ、夢かもしれないと思って、いろいろとツッコミ入れたいのを我慢してたんですけど、どうもそうじゃなさそうな感じだし、さすがに限界なんで」
もしかしたら異世界の、あろうことか国王陛下の、どう見ても男の伴侶の座になど、うっかり納まってしまうことのないよう、よく考えて行動しなければと気を引き締める。




「考え込むのは後にして、ひとまず俺と一緒に来い。俺の伴侶候補だと言えば、そう面倒なことにはならないはずだ」
レナードは気が短いのか、和巳に悩む時間をくれる気はないようで、急かすように手を差し伸べてきた。
つられて、その手に伸ばした指先が触れたとたん、指環の嵌った部分に熱が灯る。
反射的にレナードの顔を見上げると、甘く、疼くような痛みが胸の奥に生まれた。わけのわからない熱が体中に広がり、鼓動を高鳴らせる。
眉を顰め、厳しい表情をするレナードには思い当たるところがあるようだったが、ため息を吐くだけで説明はしてくれそうになかった。

少し強引に腕を取られ、レナードに引き摺られるように歩き出す。
てっきり、どこかの森の中にいるのだと思い込んでいたが、前方に聳える城らしき大きな建物を目にして、どうやら広大な敷地の一部だったようだと気付く。

城までの長い道のりを無言で連れられてゆくのは気詰りで、和巳の方から話しかけてみる。
「陛下は、僕がここに居るとわかっていたんですか?」
だからタイミングよく現れたのかと思ったのだが、レナードは気まずそうな顔になってしまった。
「いや、指環を捜していたら、この国の民とは思えない人間を見かけて、その指に捜していた指環が嵌っていたから急いで声をかけただけだ。できれば回収したかったんだが、外れない以上どうしようもないな」
レナードにとっても、指輪が和巳の指に嵌ってしまったことは非常に不本意だったようで、この時点では二人の利害関係は一致していると思われた。

「この国では、異界人が来ることは珍しくないんですか?」
「そうだな、報告によれば数十年に一人か二人は来ているようだが、俺が面識があるのは一人だけだ。やはり指環を嵌めて現れて、5年ほどになるか。近衛騎士の伴侶で、おまえと同じく黒髪に黒い瞳をしている」
レナードが、和巳のことを異界人だろうと思いながらもあまり驚いてなさそうだったのは、それなりに前例があったからなのかもしれない。

「僕がここに来ることになったのは、この指環のせい、ということですか?」
「そうだな、おまえはその指環に連れて来られたんだろう。俺の意思を無視して、勝手に伴侶を選んで連れ戻って来るとは迷惑な話だ」
後半は独り言のようだったが、聞き捨てならないことを言われたのはわかる。
迷惑なのはお互いさまだが、被害の度合いを比べるなら、異世界から連れて来られた和巳の方がよっぽど甚大なはずだ。
「この指環って、そんな特殊な力っていうか、意思みたいなものがあるんですか?」
「その指環は当ハノーヴァー家に代々伝わるもののひとつだが、それに限らず、この世界の指環の全てに神の意志が宿っていると言われている。互いが生涯を共にしようと思っていても、揃いの指環が互いの指にぴったりと嵌らない限り、神に認められていないということで周囲から反対される。中には強行に婚姻を結ぶ者もいるが、 遠からず破局を迎える結果になるからな、強ち神の気まぐれとも言えないんだが」
要するに、和巳はレナードと婚姻関係を結ぶしかないということか。
当のレナードの態度からは、それを受け入れようとしているようには思えないのだったが。

「ただ、俺の場合は事故だからな。できることなら、おまえの指から抜いて、本来渡すべき相手の指に嵌めたいところだが」
矛盾することを言われていると思いつつ、和巳にとっても、その方がありがたいことで、できるものならそうして貰いたかった。
「では、そうしてください。陛下なら外せるのですか?」
「無理だろうな」
そう言いながら、和巳の指を取り、外そうと試みているあたりは往生際が悪いようだ。




再び和巳の手を取って歩き始めたレナードに、今更ながらの質問をしてみる。
「あの、この国では男子でも王妃になれるんですか? 陛下のようなお立場だと、お世継ぎが必要でしょうから、女性が相手じゃないと困るような気がするんですけど」
尤も、王という立場だからこそ、ハーレムを持っているとか、子供は側室に産ませるとかいうような手段があるのかもしれないが。
「王に限らず、指環に認められれば男も女も関係ない。それに、この国の王位は世襲制ではないから子供ができなくても特に問題ない」
にべもなく答えるレナードにとっては当たり前のことでも、和巳には理解し難い慣習だった。
「だとしても、指環にそんな重要なことを決められて、みんな従っているんですか?」
「指環に認められた夫婦が離婚に至った前例はないからな。指環には先を見通す力があるのだろうと言われている。寧ろ、指環の意思を無視した者は必ずといっていいほど、心変わりをしたり破局したりしているから信憑性は高いだろうな」
将来的に上手くいくカップルかどうか見極める力があるなんて、占い師か神様のようだ。
「まるで指環に意思があるみたいですね。あ、指環に精霊が宿っているとか、そういう類ですか?」
「そうだな……意思があると考えた方が辻褄が合うのかもしれないな。単に相性の合う者たちだけを認めているのではなく、認めていないのに結婚する者たちを別れさせている可能性もあるか」
深い意味があって言ったことではなかったが、和巳の一言は、後々ややこしくなる原因を作ることになってしまったのだった。

「先にも言ったが、俺には思う相手がいる。できれば、その指環がおまえの指から外れるのを待って、再度その相手に申し込みたいと思っているんだが……」
これまで見たレナードと違って、憂いを帯びた表情に絆されそうになる。
そうでなくても伴侶になどなりたくない和巳としては、可能な限り、喜んで協力したいと思う。
「僕にできることなら何でも協力しますけど……ただ、不本意とはいえ、先に僕が嵌めてしまった指環を贈るなんて、相手の方は気を悪くされないでしょうか?」
「だとしても仕方ないだろう。俺の指にもう一方が嵌っている限り、その指環でなければ意味がないんだからな」
「そうなんですか……早く外れて、その方と一緒になれるといいですね」
自分のためにも、和巳は本心からそう言ってレナードを励ました。

「……相手の了承は得ていない」
ふてくされた様な顔をすると、レナードは急に幼げに見える。20代後半くらいだと思っていたが、案外もう少し若いのかもしれなかった。
「従来通り、指環の片方を俺の指に嵌めてから、相手の指に対の方を嵌めるつもりが、先に奪い取られて思い切り放り投げられてしまってな。落ちた辺りを探している隙に相手には逃げられてしまうし、漸くおまえの指に嵌っているのを見つけたものの外れないと言うし、何としたものか」
それって指環の意思以前にふられているのでは? と思ったが、さすがに口に出して指摘する勇気はなかった。
ただ、相手がレナードと結婚することを拒否しているのなら、指環の儀式をやり直したとしても受け入れられる可能性は低く、ともすれば、和巳の指から外すことも難しいような気がする。
そう思えば、ますますレナードとその思い人に上手くいって欲しいと願わずにはいられなかった。




広大な庭に植えられた芝生のようなグリーンの中を、煉瓦を敷いた長いアプローチが続く。その先に構えた巨大な城は中世ヨーロッパの建造物のように華やかで美しい。
よくよく見れば、ここに植えられた花や樹木が全て未知の植物というわけではないようで、最初に見た木の葉や草が見覚えのないものだったのは、単に和巳がそういったものに疎いだけなのかもしれないとも思えた。
だから余計に、これが映画のセットか何かならいいのにと、虚しいことを考えずにはいられない。
繋いだ手に生まれた、焼けるような熱が体温のせいではないとわかっているのに。

「今後のことは後で話し合うとしよう。ひとまず、おまえのことは俺の伴侶候補ということで通すからな」
念を押されたのは城の近くまで来たかららしく、遠目に衛兵らしき姿が確認できた。
和巳の肘を無造作に掴んでいたレナードの手は、いつの間にか指に絡むような繋ぎ方に変わり、そこからまた新たな熱が生まれ、和巳の鼓動を高鳴らせてゆく。きっと、この不可思議な現象は指環のせいなのだろう。こうして相手を意識させられるうちに、指環の思惑通りになってしまうのだとしたら恐ろしすぎる。

やがて、レナードの姿を認めた衛兵が二人、腰を折り深々と礼をするのに気付いた。
まだ随分距離はあったが、レナードが近付いて声をかけるまでずっと頭を下げたままで待っている。やはり、ここでは王は絶対的な存在で、最初に言われたように和巳の態度は不敬罪に当たるような無礼なものなのかもしれなかった。

「異界人を保護した。俺の伴侶候補だから、丁重に扱うようにな」
簡潔に告げながら、レナードは和巳の手を引いて城の中へと入って行く。
レナードの言葉は侍女や侍従たちにも理解されていたようで、恭しく迎え入れられ、王の私室へと案内されることになった。



猫脚の豪奢な長椅子はいかにも座り心地が良さそうで、引き寄せられるように腰を下ろしそうになったところで我に返り、レナードの方を窺った。
「陛下より先に座っちゃダメとか、あるんですよね?」
「そう堅苦しく考えなくてもいい。おまえは俺の伴侶候補で、異界人だからな」
敢えて侍女の前で“無礼講”を許可してくれたと、ポジティブに受け取っていいものかどうか迷っている間に、腕を引かれ、レナードの隣りへと腰掛けるよう促される。
まるで、和巳を伴侶として認めているかのようなアピールの仕方は、レナードの本心が別なところにあることを忘れてしまいそうになるほど。

テーブルに置かれた茶器のセットは、和巳の知るものによく似ていた。
薔薇のような大輪の花が描かれたやや縦長のポットに、同じ柄の繊細な二つのカップ。蔓を模したような柄の入ったソーサー。滑らかで丸みのあるフォルムは陶器製のように見える。
カップに注がれた液体は赤みがかった茶色で透明感があり、花のような甘い香りから察するに、フレーバーティーのようなものなのだろう。
味も和巳に馴染みのあるものかどうか早く確かめてみたかったが、勝手に手を伸ばすわけにもいかず、勧められるのを待つ。

ふと、傍らで控える侍女たちに微笑ましげに見られていることに気付いた。
異界から指環に連れて来られたなどと言われても、普通なら俄かには信用できなさそうな気がするが、ここの人たちは何故か得体の知れない和巳のことを否定的には思わないようだ。
その雰囲気に乗じて、レナードは二人だけにするよう侍女たちに告げて人払いをしてしまう。

「念のために確認しておくが、俺の伴侶になる気はないんだな?」
レナードの問いにどこか引っかかりを覚え、即答するのは躊躇われた。もちろん、伴侶になどなりたいわけはないが、“念のため”少し考えてから無難な答えを探す。
「今のところは。あまりにも判断材料が少ないので、断言するのはちょっと怖いですけど」
「思慮深いのか、計算高いのか……まあいい。異界で生きていくには用心しすぎなくらいで丁度いいのかもしれないな」
おそらく、レナードに思い人がいなかったとしても、和巳は好みから外れているのだろう。
指環の理も、今度ばかりは外れたのかもしれなかった。




「陛下の方こそ、心に決めた方がいらっしゃるのに意地悪ですよね。僕が伴侶になりたいって言ったらどうするつもりです?」
「全力で排除するに決まっているだろう? おまえが俺の味方をするような言い方をしたから、“歓迎”してやる気になったんだからな」
嫌味に対するささやかな仕返しのつもりが、レナードには通じなかったらしい。
侍女たちが出て行ったのと同時に解かれた手と同様、レナードの態度は素っ気ないものになってしまった。建前でしか歓迎されていないのはわかっているが、せめて和巳がこの環境に慣れるまでくらいは優しくしてくれてもいいのに。

「要するに、僕に選択肢はないってことですよね。でも、それならどうして、僕を伴侶候補だなんて仰ったんですか? 陛下なら何とでもごまかせるはずなのに」
「戦略のうちだ。俺に伴侶候補が現れればどんな反応をするのかも知りたいしな」
「僕は当て馬ですか……」
指環を放り投げるような相手に、まだ脈があるかもしれないと思うレナードはよっぽど鈍いのか、思いの丈が深いのか。
もし、そんな役割を振られるために態々異界から呼びつけられたなんてオチが待っていたら救いようがない。

「もちろん、相応の待遇はする。どのみち、この世界で一人では生きていけないだろう? おまえの生涯に責任は持つから、おとなしく言うことをきいておけ」
「生涯なんて……陛下の伴侶にならなければ、僕は用なしってことですよね? そうなれば、元の世界に帰れるんじゃないんですか?」
簡単に連れて来られたのだから、戻るのも造作ないのではないかと、安易な期待はバッサリと切り捨てられる。
「おそらく、無理だろうな。指環の意思で連れて来られた以上、帰れるとは思えない」
「でも、陛下の伴侶にならない場合、僕がここに居続ける意味はないでしょう? そうなったら、僕はどうすれば……」
ここへ連れて来られた意義がなくなっても、元の世界に帰ることはできないなんて理不尽すぎる。

「心配しなくても、異界人の生活は国家で見るのが通例だ。ましてや、俺の伴侶候補だったという経緯があれば、一生遊んで暮せるだろう」
「そんなの……勝手に連れて来ておいて帰れないなんて……そういえば、他の異世界から来た人たちで、元の世界に戻った人はいないんですか? それか、こちらの人が他の世界に行ったとか……」
先達が自分の意思で残っているのなら問題ないのだろうが、帰る方法がないから仕方なく留まっているのだとしたら遣り切れない。ましてや、和巳は間違えて来たかもしれないのに、ここに留まりたいと思うわけがなかった。
「戻ったとか、こちらの人間が向こうへ行ったとかいう話は聞いたことがないな。ずっと過去にまで遡って綿密に調べれば皆無ではないのかもしれないが、俺の知る限り、戻った者はいなかったはずだ」
心なしかレナードの口調に気遣いが含まれたようで、事態の深刻さを突きつけられたような気がする。
前例よりも、可能性は低くても戻る手立てを探さなくてはと、それにはこの男の力が不可欠だと打算的な思いが働く。

「……とりあえず、陛下がお相手の方と上手くいくよう、僕にできる限りの協力はします。その代りと言ってはなんですけど、僕が元の世界に戻れるよう力を貸していただけませんか?」
「それは構わないが、力を貸すといっても、どうしたものだろうな」
レナードがあまり気乗りがしない様子なのは、帰る方法を探したところで無駄だと思っているからなのだろう。
「できれば、他の異界人の方と会って話したいんですけど……あと、古い文献か何かあるんでしたら、見せていただけませんか?」
「そんなことなら、すぐに叶えてやれるが……まずはおまえがここで過ごせるように手配する方が先だな」
そう言って、レナードは和巳に部屋と侍従を与えてくれた。






そろそろ観念しなくてはいけないと、頭では理解しているのに気持ちがついていかない。
和巳の専属に付けられた侍従に暫く一人にして欲しいと頼み、着替えるように言われて用意された衣類をチェストの上に放り投げ、ベッドへと倒れ込む。
現実逃避したがる意識を眠りに誘おうとするみたいに、豪奢なベッドはふかふかで、寝心地も最高だった。

5年前にこちらの世界に来たという人物には、明日にも会えるだろうと言われている。文献についても、全てを揃えるのは時間がかかるだろうが、何冊かはすぐにも見られるということだった。
早く手掛かりを見つけたいと逸る気持ちがないでもないが、疲弊した精神は休養を求めている。
思えば、和巳は眠りに落ちる直前にこちらへ連れて来られてしまったから、日課ともいうべき午睡を今日はまだしていないのだった。

柔らかな枕に頬を埋め、ひととき思考を放棄することにして目を閉じる。
目が覚めたら全て夢だったというオチが待っていることを期待しつつ、睡魔を引き寄せた。




「ん……」
髪に触れる優しい感触が、束の間の微睡みを妨げる。
どうやらそれが誰かの手のひらのようだと気付いて、億劫な瞼を押し上げた。
「さっそく昼寝とは、おまえは度胸が据わっているな」
呆れたような声音に完全に覚醒させられると共に、思い出したくない事実まで一気に甦ってくる。

「あ……っ」
傍らに腰を下ろしたレナードの手が、戯れのように和巳の頬に触れた瞬間、甘い衝動が体を突き抜けた。
弾かれたように手を引きながら、レナードは困惑したように和巳の顔を見下ろしてくる。
不可思議な感覚に襲われたのは、どうやら和巳だけではなかったようだ。

「何なんだろうな……この、わけのわからない衝動は」
ぎこちない動作で、レナードの手がまた和巳の頬へと伸びてくる。
「んっ」
瞬間、目を閉じた和巳の体が強い力で掬い取られた。
痛いほどの圧迫感に、おそるおそる目を開く。身じろぐのも窮屈なのは、レナードに抱きしめられているかららしかった。
「これが指環の力か。フレッドのことを考えていなければ、“誘惑”に負けてしまいそうだ」
独り言のようなレナードの言葉の意味を、深く考えるのは恐ろしい。
認めたくはないが、気を抜けば流されてしまいそうなのは和巳も同じだった。

「おまえは……そういえば、おまえのことは何と呼べばいいんだ?」
抱擁を解いて和巳から少し距離を取ったレナードの、あまりにも今更な問いにヘコみそうになる。
つい今し方、甘い空気に包まれていたはずなのに、指環の思惑から外れてみれば、まだお互いに何もわかり合えていないことに気付く。
「差し支えなければ、和巳と呼んでください。もし、名字で呼ぶ方が一般的なのでなければ、ですけど」
レナードが名乗るときに名前だけを言っていたから、こちらの世界では名字では呼び合わないのではないかと考えた。或いは、それは王族だけの特殊なケースだという可能性もあったのだったが。

「和巳、か。変わった響きだな。それに呼びにくい」
これまで耳にした限りでは、この国は英語圏に近いような名前ばかりだったから、日本語特有の語感は馴染みがないのだろうと推測できる。
それでも、特に呼びやすくなるような愛称もなく、だからといって勝手に命名されるのも嫌だった。
「僕の居たところでは、ごく普通の発音なんですけど……そういえば、何でこんな問題なく言葉が通じてるんでしょうね」
今更ながら、その不思議に気付くと共に不幸中の幸いに感謝した。これで言葉が通じなければ、和巳は帰る手立てを探すどころか、意思の疎通もできなかっただろう。
「それも、指環の力のようだな。これまで訪れた異界人も皆、指環を嵌めて表れて、言葉も通じていたという話だ」
翻訳までこなすとは、さすがに精霊が付いていると言われるだけあるようだと感心する。これで、指環と直接話せるとか、帰してくれるとかいうオプションも付いていれば完璧なのだったが。




「まだ寝足りないようだが、お互いの立場上、ある程度の情報は交換しておかないとな。年はいくつだ?」
共犯者然としたレナードの言い分は尤もで、和巳はもう少し惰眠を貪りたい欲求を抑えて従う。
「16歳です」
「成人しているのか。それなら問題はないな」
「え……いえ、成人するのは二十歳です。僕の住んでいた国では、ですけど。この国は16歳で大人なんですか?」
「二十歳とはまた随分と気の長い話だな。おまえの元居た国の人種は成熟するのが遅いのか? この国では成人するのは15歳だ。奉公に出たり修行を始めたりするのも7,8歳からだからな、おまえの年なら自立しているのが普通だが」
やや呆れたように返されても、和巳の育った環境や国民性がそうだったのだから仕方がない。
少し考えてから、その違いを話しておいた方が良さそうだということに気が付いた。

「僕は学生だから親に扶養されていたし、働いたこともないですけど……未成年だと何か不都合なことがあるんでしょうか?」
「未成年者とは婚姻できないからな。それに、未成年で働いたこともないなら、宮廷作法だけでなく、一般教養なども学ばねばならないだろう? まあ、どちらにしても、異界人のおまえには、こちらの世界のことをいろいろ覚えてもらわなければならないが」
この、中世ヨーロッパのような国の、しかも王族の作法やしきたりを覚えなければならないなんて、考えただけでウンザリする。知識として学ぶだけならまだしも、立ち居振る舞いなどは、高貴な生まれの人々の中で浮かないようにできるようになるか不安だった。

「あの、陛下はおいつくなんですか? もし失礼な質問だったら申し訳ありません。僕はこちらの礼儀には疎いので見逃してください」
たかだか年齢を尋ねるのにここまで気を遣わなければならないのかと思いつつ、下手に出ておく。
「26歳だ。礼儀云々については気にしなくていい。そういう風に言っておいたと思うが」
微妙な距離を保ったまま、レナードの紺碧の瞳が和巳を捉える。
見つめられれば、また先のような妖しげな気分になりそうで、慌てて目を逸らした。
にも拘わらず、火照るような頬の熱は一向に引いてくれそうにない。指環の効力は、時間が経つほどに強まるのかもしれなかった。

「ありがとうございます。それでは、もし物凄く無礼なことを言ったりしたりしてしまっても、不敬罪で牢屋行きとかにはしないで下さいね?」
「おまえは変わっているな。伴侶にはできなくても、近くに置いておけば退屈せずにすみそうだ」
内心の動揺を隠そうと必死な和巳とは違って、レナードは特に何かを抑えている風には見えなかった。
出逢ってからの短い時間で判断する限り、レナードはあまり感情を面に出さないタイプというわけでもなさそうだったから、和巳ほど強く指環の影響は出ていないということなのかもしれない。
これまで経験したことのない色ごとめいた感覚に、不慣れな和巳は戸惑うばかりだというのに。


16年あまりの人生で、和巳は自分が“普通の”人とは違うようだということに薄々ながら気付いていた。
これまでにただの一度として、男性はもちろん女性にも特別な感情を抱いたことがない。
だから、ベクトルの向く対象がどちらなのかもわからず、それどころか、誰かに恋をすることは一生ないかもしれないとまで思っていたのだった。
もしかしたら、指環の力がなければ、レナードに感じたような甘い衝動や疼くような痛みとは無縁の生涯だったかもしれないとさえ思う。




「成人するのは15歳だと仰ってましたけど、王様の場合は結婚されるのは遅めなんでしょうか? それとも、もしかして重婚が許されていてもう既婚者でいらっしゃるとか……あ、まさか、バツイチなんてことはないですよね?」
「なんだ、バツイチというのは」
和巳の使う言葉を理解できずに問い返されるのは初めてだったが、よくよく考えてみれば当たり前のことなのかもしれなかった。
今までの会話では和巳も気を張っていて言葉を選んでいたからスムーズにいっていたのだろうが、指環の力をもってしても、流行語とか短縮語とかいったようなものは上手く変換されないのだろう。

「すみません。ちょっと品がないというか、失礼な言葉なんですけど……バツイチというのは離婚しているといるという意味です。イチの部分は回数を表していて、離婚する毎に増えていきます」
「王がそう簡単に離婚できると思っているのか? 結婚するのも相当に大変だが、離縁するのは更に面倒な手順を踏まねばならないんだ」
「やっぱり、王様って大変なんですね」
「だから、相手が求婚もさせてくれないんだ」
憂い顔を見せられて、事情も知らずにレナードがふられていると決めつけていたことを申し訳なく思った。


「あの、陛下はお時間大丈夫なんですか?」
ふと、出逢ったときにも執務中ではなかったはずで、休憩というにも少し長すぎるようだと気付いて尋ねてみる。
「今は平和だからな、そう忙しくはない。だが、他の者は俺の伴侶候補の異界人が現れたと聞いて、紹介されるのを待ちかねているだろうな。そろそろ用意してもらいたいところだが」
てっきり、今日はゆっくり過ごしていてもいいのだろうと思い込んでいたから、既に予定が組まれていることに驚いた。
「誰かに会わないといけないんですね、待たせてしまってすみません。えっと、用意って、着替えるってことですよね?」
「そういうことだ。着替えはマシューに手伝わせよう」
和巳に付けられた侍従を呼ぼうとするレナードを、慌てて引き止める。
「いえ、着替えくらい一人でできます。でも、もしかしたら着方とか間違えてるかもしれないので、後で見てもらえると助かります」
女性の着るドレスのように複雑なものならともかく、レナードが着ているような丈の長い上着にゆったりとしたパンツを合わせるだけなら、おそらく和巳にも簡単に着られるだろうと思われた。
ただ、随分と長いサッシュベルトの巻き方だけは、少々不安だったが。

「人がいると落ち着かないか?」
「すみません、僕は庶民なので、特に親しいわけでもない人が常に傍にいるという状況には慣れてなくて」
「早く慣れてもらわなくては困るな」
困るのは和巳の方だと言うのも憚られ、曖昧な表情を返して話題を変える。
「もしかして、陛下の前で着替えるのは失礼だったりします?」
気を遣わなくてもいいと言われていたのに敢えて念を押したせいで、レナードは別な意味に取ってしまったようだった。
「男が対象だと言った俺の前で脱ぐということは、それなりの覚悟があると思っていいんだろうな?」
「いえ。すみません、僕の居た世界では同性の前で着替えるのはごく普通のことなんです。それに、陛下には結婚したいほど好きな方がいらっしゃるのに、僕が脱いだくらいで何か起きるとは思えませんし」
予防線を張ったつもりが、レナードは不満げな顔を見せた。
「指環の力を舐めるなよ。先にも言ったが、衝動に引き摺られないとは言い切れないからな」
見つめ合うと、またあの妙な気分になるのではないかと不安になる。レナードの心配は、和巳の方がよほど深刻なのだから。

「それなら、僕はベッドで着替えてきます。布を引いておけば問題ないですよね」
天蓋から垂らされた布でベッドを覆ってしまえば、何も問題はないはずだった。
「余計に煽られそうに思うが」
低く呟かれた不吉な言葉に、和巳は用意された衣類を掴んでベッドの奥へと走る。
「ちょっとだけ後ろを向いててください。超急いで、着替えますから」
苦笑しながらレナードが背中を向けても、和巳はまるで女子の着替えのように、学生服で隠すようにしながら着替えることになった。




寝坊した日の朝でも、これほど早くないのではないかというほどのスピードで着替えを終える。
「あの、合ってるとは思うんですけど、一応見てもらえますか?」
声をかけてから、おそるおそるレナードの方へと近付いていく。
ゆっくりと振り向くレナードは、先の言葉など嘘のように落ち着き払っているように見えた。

「間違ってはいないが、おまえには大き過ぎるようだな。もう少し絞ってみるか」
こちらの衣類はゆったりとしたデザインなのだろうと思っていたが、それにしてもゆとりがあり過ぎるような気がしたのは間違っていなかったらしい。
細かな刺繍の施された幅広の、いっそ帯と呼ぶべきかもしれないベルトを、和巳の腰へと巻き直すレナードの手が、布越しとはいえ和巳に触れる毎に鼓動が走る。
緊張感によるものだけではない胸の高鳴りは、和巳がこれまでに経験したことのない類の感覚を伴っていた。

「おまえにも、誰か思う相手はいたのか?」
「いいえ……僕はあまり恋愛には興味がなくて」
「成熟するのが遅いからか?」
「そうかもしれません」
恋愛に疎い理由など、和巳にもわかっていないのだから答えようがなく、レナードの仮説に乗っかっておく。
「それなら、もし誘惑に負けても問題はないんだな?」
「は……?」
ふわりと被さってくる絹の感触が、レナードの纏う上着のものだと、その逞しい腕に包まれて気が付いた。

「和巳」
名前で呼びかけられるのは初めてで、そうでなくても密着した体から発する妖しげな熱に戸惑い、突っ立った姿勢から指一本動かせなくなる。
背の高いレナードの胸に押しつけられた和巳の頬は火照り、今にも泣きだしてしまいそうな衝動が込み上げてくる。

これまで知らずにいた恋愛感情というものが、果たして今自分の身に起こっているようなものなのかどうかもわからない。
胸は絞られるように痛むのに、どこか甘い感覚に突き動かされれるままに、レナードの背にそっと腕を回した。

「おまえは小さいな。それに男にしては柔らかい。かといって女のように頼りなくもないし、抱き心地はフレッドより良いくらいだ」
その名を聞くのは二度目で、その人こそがレナードの思い人なのだと気付く。

「……陛下がプロポーズしようとしていらっしゃった方のことですか?」
「そうだ。俺の側近の一人で、主に執務をこなしている。昔は俺の教育係だったんだが、権力にものを言わせて傍に縛り付けているんだ」
自嘲気味に笑うレナードの腕が緩んだのは、気が咎めたのか、単にからかわれていただけだったのか。
見上げる先の、レナードの瞳はもう和巳を映してはいなかった。






レナードが一緒でなければ迷ってしまいそうなほど長い通路を、手を引かれるままについてゆく。
執務室と思しき場所に辿り着くまでに何度か目にした衛兵たちは、二人が通り過ぎるまでは低頭しているが、その後に背に感じる視線は少々不躾で、和巳を居た堪れなくさせた。

重厚な扉の向こうで待機していた側近たちは皆、見目麗しく、恵まれた体格をした壮年期の男ばかりで、もしかしたら全員が武官なのではないかと思ってしまうほど。
その雰囲気に気圧され、レナードの陰に隠れるように身を縮めているのに、期待と好奇に満ちた視線は和巳を捕えようと躍起になっているようで怖い。
決して和巳が望んだわけではないのに、一国の王の伴侶になろうとしていると思われるのは、あまりにも不本意だった。


「既に聞いていると思うが、一刻ほど前に庭園の向こうで異界人を保護した。名は和巳、16歳の男子で、俺と対の指環を嵌めている。通例どおり、当面は俺の伴侶候補として傍に置くつもりだ」
淡々と報告をするレナードの意向は既に行き渡っていたようで、殆どの者は頷いたり、手を叩いたり、理解を示すような反応を返している。

「やはり、黒髪に黒瞳でいらっしゃるんですね。それに、成人男子とは思えないくらい小さく華奢で、お可愛らしい」
「カレンさまも小柄で愛らしい方ですから、異界人とはそういうものなのかもしれませんね」
とても褒められているとは受け取れない言葉から、どうやらこちらの世界の人間はかなり大きめなようだと気付く。
そうでなければ、元の世界では少々細めで平均身長に少し足りないという程度の和巳が、規格外に小さいかのような言われ方をされるはずがない。しかも、揃いも揃って美形ばかりの面々に可愛いなどと言われても喜べるわけがなかった。

「早速、伴侶修行に入られますか?」
まるで花嫁修業のような響きを持つその単語に腰が退ける。せめて、宮廷作法や上流階級のマナー講習とか、この国の歴史教育といったような表現にして欲しい。
「いや。和巳は異界から来たばかりだから、まずはこちらに慣れて貰わないとな。当面は親睦を深めることに専念しよう」
「では、講師の紹介は日を改めることに致しますが、採寸だけは本日のうちに済ませていただいてよろしいでしょうか?」
「そうだな。至急、何着か作らせないことには、和巳に合いそうな既製のものはなさそうだ」
和巳の意向を聞こうともせず、レナードは勝手に決めてしまったが、現に今も体に合わない衣服を纏っている身としては、反論のしようもなかったのだった。




「……伴侶にされるのですか?」
採寸を終え、扉の外に侍従を置いてレナードの部屋に戻った和巳の耳が、思いがけない言葉を拾った。
落ち着いた声ながら、その問いかけに何やら含みを感じて、この場に居合わせても良いものか迷う。
一旦、部屋を出て誰かを伴って入り直すべきなのか、聞こえていなかったふりをして、部屋の奥にいる二人に向かって和巳の方から声をかけるべきなのか。
決めかねている間に、レナードの答えも聞こえてくる。
「指環が嵌っている以上、そうなるだろうな」
どこか面白がっているような声音は駆け引きめいていて、つまりはその男がレナードの思い人なのではないかと思い当たった。
そうと察してしまうと気まずくて、とにかく部屋を出なくてはと焦る足元が、毛足の長い絨毯に蹴躓く。

「もう来たのか?」
和巳の立てた物音に、レナードともう一人が扉の方へ近付いてきた。
レナードの言草には明らかに棘があり、先の想定が確信に変わる。やはり、和巳はレナードの逢瀬を邪魔してしまったようだった。
「申し訳ありません、他の方がいらっしゃるかもしれないとは気が付かなくて……出直してきます」
「いや、丁度いいから紹介しておこう。俺が最も信頼している側近のフレデリック・カーディフだ。公私ともに俺の専属だから、馴れ馴れしくするなよ?」
冗談に思えないのは、和巳が実情を知っているからか、レナードの本気度が高いせいか。
そうとは知らないはずのフレデリックは、レナードの横柄ぶりに苦笑している。
「仮にも伴侶候補の方に何てことを仰るんですか……お邪魔しているのは私の方ですから、お気になさらないでください。私はすぐに退出致しますので」
フレデリックは温和で優しげな風貌をしていて、和巳が漠然と想像していた“フレッド”像とはかけ離れていた。
少なくとも、プロポーズしようとしている相手から指環を奪い取って投げ捨てるような短気なタイプには見えず、年齢にしても、おそらくレナードより一回りくらい年上なのではないかと思う。
加えて、充分に整ったフレデリックの顔立ちも、ひときわ目を惹く美貌のレナードには遠く及ばず、似合いの二人とまでは言えない。
にも拘わらず、今日会ったばかりの和巳にも、レナードがフレデリックに惚れ込んでいるようだと見てとれたのだった。







和巳に用意された部屋は、レナードの居室の隣に位置している。
いかにも一国の王らしく華美で贅沢だったレナードの部屋と比べても、全く遜色がないくらい豪奢な内装は、正妃の居室になっているかららしい。
構造上、お互いの寝室の奥の扉で繋がっているというものの、今は施錠されていて、行き来はできなくなっていた。
伴侶候補というのはカムフラージュだと念を押しておきながら、しかも名目上でさえ“候補”でしかない和巳にその部屋を使わせるレナードの心理は不可解だったが、翌朝、レナードの部屋を挟んで反対側にフレデリックを住まわせているという事実が発覚してしまえば、大したことではなかったのだと気付かされる。
しかも、昨夜はレナードの部屋にフレデリックを泊めたようだと知っては、内心穏やかではいられなかった。
“当て馬”効果は、レナードの期待通りに作用したのだろうか。


「すみません、僕、余計なことを言ってしまいました」
昨日から和巳付きとなった侍従のマシューが、綺麗な弧を描いた眉尻を下げる。
何気なく、朝食はレナードと一緒ではないのか尋ねた和巳に、『陛下はお部屋でカーディフさまと召し上がられるそうです』と答えられ、凡その顛末を悟ってしまった。
「気にしなくていいよ。たまたま指環が嵌って抜けなくなってしまったから伴侶候補になったっていうだけで、僕は陛下と恋愛してるわけじゃないんだし。一人で食事するのも慣れてるし。あ、でも、せっかくだからマシューと一緒に食べるとかいうのは……やっぱダメ?」
「和巳さまのご要望ということでしたら、特に問題ないと思うのですが……」
「じゃ、一緒に食べよう? とても一人じゃ食べられないくらいいっぱいあるんだし」
一人で食事することに慣れてはいても、せっかく傍に誰かがいるのだから、つき合って貰った方がいいに決まっている。この際、マシューが既に朝食を終えている可能性は考えないことにしておく。
「では失礼いたします」
離れた席に座ろうとするマシューに、慌てて手のひらで前の席を示す。
「そんな遠くに座られたら、一緒に食べる意味がないよ。僕の前に来て。それか隣でもいいから」
マシューが困った顔をしているとわかっていながら、少し強引に近くに来るように促した。

どのみち、和巳が王宮に住まうのは短期間だけだろうから、王宮作法などどうでもいい。今はこうして仕える立場のマシューも、おそらくは良い出自のはずで、和巳がレナードの伴侶になることはないと公言されれば、近付くことも難しくなるかもしれなかった。
できることなら、和巳が王宮を出てからも交流を持ちたいと思って貰えるくらい親しくなっておきたい。この世界で会った人の中では年齢も近く、気立ての良さそうなマシューは、ぜひとも友達になりたいタイプだった。

困ったような顔をしながらも、マシューが前の席に座ったのを確認してから、料理に手を伸ばす。
籠に盛られた数種類のパンも、卵やハムやチーズと思われる食材も、食べやすい大きさに切られた果物のようなものも、一見する限りでは、和巳の生まれ育った世界にあるものと大差ないように見える。
実際に口にしてみても、少々味気ないように感じる以外には、特に違和感はなかった。

「食事中に申し訳ないのですが、先に和巳さまの今日の予定を伝えさせていただきます」
一緒に、と言ったはずなのに、マシューはまだ食事を始めていない。食べながら話せばいいようなものだが、そうはいかない面倒くさい事情があるのだろう。
そうでなくても窮屈に思っていたのに、せめてレナードや側近たちのいない時くらい、肩の力を抜いていたかった。
「言いそびれてたけど、“さま”っていうの、やめてくれないかな? 僕は陛下の伴侶にはならないし、敬語だって使う必要ないから」
「滅相もありません。陛下は和巳さまのことを伴侶候補だと公言なさいましたし、この国では、異界の方は丁重におもてなしするきまりです」
力強く言い切られ挫けそうになったが、考えようによっては和巳に有利かもしれないと思い直す。
「じゃ、命令とか? タメ口とまでは言わないけど、もうちょっとくだけた話し方、できるよね?」
本来の穏やかな性質の自分らしくないと自覚しながら、和巳は少し横柄に言ってみた。




ふわふわの金茶色のくせ毛は束ねていても広がりがちで、それが却ってマシューの可愛らしさを引き立てている。
同じ色の睫毛に縁取られた大きな瞳は今は困惑の色を浮かべて、和巳の意思を尊重するべきか、職務規定を優先するべきか迷っているようだった。

「和巳さまって、もっと優柔不断な感じの方かと思ってました。結構はっきりと仰られるんですね」
「うん、自分でも流されやすいっていうか、周りに合わせる方だと思うよ。でも、僕は本当に庶民なのに、いきなり国王の伴侶候補にされたり、大臣とか神官とか立て続けに偉い人に会わされたりして緊張しっぱなしだったんだ。だから、ちょっと息を抜ける相手にいて欲しいなと思って。きっと、マシューだって良い家柄なんだろうけど、年も近そうだし、優しそうだし、主従関係っていうんじゃなくて、仲良くして貰えないかな?」
「僕でよろしかったら、喜んでそうさせていただきますけど……ただ、敬称や敬語については、僕の立場も考えてくださると助かるのですが」
「陛下とか、他の人に叱られるっていうことなら、僕からも話してみるよ? 僕はマシューとは友だちのように接したいし、たぶん、僕がここにいるのってそう長い期間じゃないはずだから、すぐに敬語は必要なくなると思うよ」
それなりに食事を進めつつ、要望を伝える。マシューも、遠慮がちながら料理の皿に手を伸ばしていた。

「あの、和巳さまはどうして陛下の伴侶になられないとか、短い期間しか滞在されないとか仰るんでしょうか?」
ためらいがちな問いかけに、和巳は努めて平静を装う。
レナードの考えは想像もつかないが、昨夜も恋人(或いは愛人と呼ぶべきなのかもしれない相手)を部屋に泊めているような状態では、自戒しておかないわけにはいかなかった。
「陛下にはカーディフさんがいらっしゃるから。僕も陛下と結婚したいなんて思ってないし、ほとぼりが冷めたら、どこか田舎の方でひっそり暮らしたいなあっていうのが本音だよ」
「でも、対の指環が嵌っているのは陛下と和巳さまでしょう? 和巳さまも聞かれたと思いますけど、指環の意思に逆らっても幸せにはなれないんです。まだ出逢ったばかりで実感が湧かないのかもしれませんけど、次第に惹かれていくと思いますから、もう少し時間をかけて考えられた方がいいですよ」
「もし本当にそうなるんなら、余計に早くお別れしておきたいなあ」
既に相手のいるレナードと恋愛関係になるなど絶対に避けたかった。レナードの相手の本心はわからないが、こうして伴侶候補が現れた当日でさえ同じ部屋に泊るような人物が和巳に良い感情を持っているはずがなく、正直なところ、これ以上面倒な事態になるのだけは勘弁して欲しいと思う。

「あの、カーディフさまのことで遠慮していらっしゃるんでしたら、気になさらなくても大丈夫ですよ。陛下の片思いだと、皆存じておりますから」
「えっ……そうなの? っていうか、そんなこと、言っていいの?」
マシューは平然としているが、もし事実なら尚更レナードに対して無礼すぎるのではないか。
「この件に関しては今更なので。陛下が成人されてから10年あまり経ちますが、一向にご結婚される気配もなく、大臣たちも皆困り果てていたんです。別に政略結婚を勧めていたわけではなく、陛下のお好きなようにと申し上げていたんですけれど、肝心なカーディフさまが頑として首を縦に振られないんですよね。ですから、和巳さまが指環を嵌めて現れてくださって、皆大歓迎していますよ」
「……まいったなあ」
当のレナードは爪の先ほども和巳と(或いはカーディフ以外の誰とも)結婚する気はないのに、周囲の方がそんなに盛り上がっていたとは。
思っていた以上に面倒くさい立場に置かれているようだと知って、ますます気が滅入る。




和巳が沈黙したのを、ついに観念したと取ったようで、マシューは可愛らしい顔を引き締めて和巳に向き直った。
「お話はこのくらいにさせていただいて、とりあえず今日の予定をお伝えしておきますね。午前中は国務諮問会議の見学をしていただくことになっております。その後は陛下と一緒に昼食を取っていただいて、午後からはカレンさまを迎えてお茶会を開く予定です」
「それは陛下も一緒?」
「はい。ざっくり申し上げますと、いずれの予定も陛下と親睦を深めていただくことが目的ですので、今後も和巳さまは日中はほぼ陛下と行動を共にしていただくことになります」
「親睦を深めるって言ってもなぁ……」
小さく呟いて、あとは食事に集中するフリをする。
当人から伴侶にはしないと断言されているのに、そんなに長く一緒に過ごして、本当に好きになってしまったらどうすればいいのか。
結婚を切望している相手が他にいる状態でさえ、尋常ならざる指環の力に負けてしまいそうだと言っていたくらいなのに、うっかり魔が差したりするようなことがないと言い切れるのか、甚だ疑問だった。
レナードが本命と上手くいくように協力するのはいいが、ただ利用されるだけの存在にはなりたくない。

「大丈夫ですよ。そもそも、和巳さまと親睦を深めることに専念すると仰ったのは陛下ですから」
励ますようなマシューのフォローは寧ろ逆効果でしかないと、指摘するのは今はまだやめておいた。


朝食を終えると、マシューに教わりながら身支度を整え、最初の予定の会議の見学をするために執務室へと向かう。
あまり気が進まないのは、暫定的に伴侶候補という名目を与えられただけの和巳が、国家機密を耳にしてしまうような事態は避けるべきだと思ったからだ。
けれども、そう告げるべき相手と顔を合わせたのは正にその会議の場に連れて来られてからで、衆目の中レナードに意見する勇気もなく、今日のところは辞退することは諦め、円卓から離れた席で進行を眺める程度に留めておく。
やがて、会議が進むうちにわかったのは、どちらかといえば平凡な一高校生でしかない和巳には、異世界の国政など殆ど理解できないということだった。
或いは、意図的に無難な議題のみしか扱われなかったのかもしれないが、特に差障りのあるような内容に触れる機会はないままに会議は終了し、その後の予定も滞りなく進んでいった。




「ホントに日本人だわ……!」
驚嘆の声を上げて和巳を見つめるのは黒目がちの大きな瞳で、まだお互いの紹介も殆どしていないというのに自然と親近感が湧いてくる。
シンプルなドレスに身を包み、艶やかな黒髪を高い位置で纏めてはいるものの、カレンは童顔なのか可愛らしい顔立ちと小柄で華奢な体型のせいで、せいぜい15才くらいにしか見えなかった。
「カレンさんも、そうなんですよね?」
そうとわかっていながら、確認せずにはいられない。
「もちろんです。おそらく、過去に来た異界人も皆、日本人だったのではないでしょうか。“黒い髪に黒い瞳”の、“小柄で細身”な可愛らしい人ばかりだったそうですから」
和巳が知りたいと思っていたことを、聞かれる前に雄弁に語るカレンに、教えて貰いたいことはまだまだ山ほどある。
カレンと面会という予定こそが、和巳にとって一番重要事項だったのだから。




美しい庭園に設えられたテーブルセットに着いていても、花を眺めるような気持ちの余裕はない。
ボーンチャイナのように繊細で優雅なティーセットに用意された紅茶も、香ばしく甘い香りを立てるパイやクッキーにも目もくれず、和巳はカレンに話を聞くことに夢中になっていた。
「カレンさんがこっちに来たのは5年くらい前って聞いたんですけど、いくつくらいの時だったんですか?」
女性に年齢を尋ねるのはどうかと思いつつ、見た目年齢で考えればカレンが10歳くらいの時だったはずで、そんな幼い時に伴侶だなどと言われても、すんなり応じられなかったのではないかと思われる。
「15歳の時です。高校に入学する直前のことでした。実は、その時から外見的には全く成長していないんです。おそらく、異界人はこちらへ来た時点で体の成長が止まってしまうのではないでしょうか」
「じゃ、僕もこのままってことですか?」
「私が知る限りの前例から推測するには、その可能性が高いと思います」
せめてもう少し身長が伸びるまで待って欲しかったと、緊張感を忘れて切実に思った。

「あの、見た目はともかく、実年齢は僕の方が年下なので、普通に喋って貰っていいですか?」
今更のようにその違和感に気付いて、カレンに提案してみる。
「ありがとう。それでは、同郷のよしみで失礼させていただきます」
そっと視線を外して、カレンがレナードに伺いを立てるまで、その存在をすっかり忘れて果てていた。
どこか不貞腐れたかのように見えるのは、疎外されていると思っているからか。
そうだとしても、今の和巳にはレナードと親交を深めるよりカレンと親しくなる方がよほど有意義で、できることなら今後とも相談に乗ってもらったり、あわよくば友人関係を築いたりしたいところだった。

「カレンさん、指環の相手と会ったときって、どうだったんですか? やっぱ、運命の相手っていう感じがしました?」
気の逸る和巳に、カレンは躊躇うような表情を見せながらも、きっぱりと指摘する。
「立場としては和巳さんの方がずっと上だから、あなたも敬語はやめてね?」
「あ、じゃ、僕もタメ語でいいかな? ここ来てからずっと敬語だったから、ちょっと疲れてたんだ」
「そうね、周りは大人ばっかだし、いかにも貴族みたいな人ばかりだものね。私も最初は肩が凝ったわー」
「カレンさんの相手の人は騎士さんだっけ?」
「そうなの。突然こちらの世界に来て途方に暮れている私を最初に見つけてくれたのも彼で、出逢った瞬間、この人なんだってわかったの。指環の嵌っている指と胸が熱くなって、彼に触れると安心できて、だから、彼と結婚するんだって言われた時も、驚くより嬉しかったわ」
未だその感動の中にいるようにカレンは幸せそうに微笑んだ。


「喋るのはほどほどにしないか。マシューがせっかく淹れてくれたお茶が冷めてしまう」
すっかり存在を無視されたようなレナードは、いい加減痺れを切らしたようで、際限なく続きそうな二人の会話に水をさした。
「申し訳ありません。久しぶりに元の世界の人に会えて、すっかり興奮してしまいました。マシューさんもごめんなさい」
しおらしく頭を下げるカレンに倣って、和巳も慌てて頭を下げる。

「それでは、パイをカットさせていただきますね」
同じく待たされていたはずのマシューは不満げな素振りは露ほども見せず、場を和ませるような笑顔を浮かべた。

「これって、りんご?」
隣席のカレンに小声で尋ねてみると、心得たような答えが返ってくる。
「そうね、品種が違うのかなっていう程度の違いかしら。他の食べ物も、私たちが知っているものと大差ないわ」
こうして、こそこそとカレンと喋っていること自体が、レナードの気に障っているようだと、気付いたのはずっと後になってからだった。




「ほんと、カレンさんに会えてよかった……やっと普通の人に会えたっていうか……」
別れ際、思わずそう言ってしまった和巳に、カレンも身に覚えがあるのか、深く頷いて強い眼差しで見つめてくる。
「育った環境が違うだけよ、そんなに心配しないで。この世界はまるで中世ヨーロッパみたいで、最初は抵抗があるかもしれないけど、意外と不便はないから安心して?」
「でも、電気も水道もないし、他にもいろいろレトロな感じだし、そのくせ豪華で落ち着かないよ」
「そうね、特に王宮は何かと豪華で贅沢だから、和巳くんがよほどのセレブのご子息でないかぎり、腰が引けるでしょうね。私も相手が貴族だから戸惑うことばかりだったもの。でも、そのうち慣れるから大丈夫よ」
いつの間にか、その両手に包まれていた手が、ギュッと握られる。

カレンに会うまでは、和巳はいきなり異界に連れて来られてしまった不安と戸惑いでどこか投げやりな気持ちになっていた。
けれども、年齢も近く、優しい先駆者に出会えて、思いのほか和巳は恵まれているのかもしれないと思えるようになった。




物思いに耽っていたというよりは、ただぼんやりとしていた、という方が正しかったかもしれない。
未だ自分の立ち位置は漠然としか理解していないうえに、おそらく帰ることは不可能だろうと気付いていながら、今一つ緊張感を持ち切れず、何としても帰ろうと死に物狂いで足掻くほどの根性もなく。
持ち前の諦観さで、なるようにしかならないと思っているあたりはポジティブなのかネガティブなのか微妙なところだ。

「わ……」
エレンを見送ったあとも、立ち尽くしたまま自分の世界に入り込んでいた和巳の体が、ふいに傾いた。
強い力で掴まれ、引かれた腕の痛みが、否応なしに和巳の意識をレナードの方に向かせる。
「仮にも俺の伴侶候補のくせに、人妻相手に惚けるとはどういうつもりだ」
「惚けるなんて……ただ話を聞かせてもらっただけで、他意はありませんけど……」
エレンがいる間ほぼ無視をしていたようなものだったから機嫌が悪いのだろうと思い、慎重に言葉を選ぶ和巳の言い分など全く聞く気はないようで、レナードは勝手に思い当たったような顔をする。
「大事なことを確認するのを忘れていたな。仮にも俺の対なら、女には興味がないと思い込んでいたが、おまえは女の方がいいのか?」
それ以前に、恋愛自体に興味がなかった和巳の性癖がどちらなのかは、自分でもわからないのだから答えようがなかった。
強いて言うなら女性の方がいいとか、逆に、どうあっても男は嫌だとか、消去法的な選択肢でもあれば選びようもあるのだろうが、生憎、そういった希望も一切ないだけに難しい。
「昨日お話したように思いますけど、僕はそういったことには疎くて。もしかしたら一生恋愛しないんじゃないかと思ってたくらいなので」
「若いくせに、そんな消極的でどうする。わからなければ試してみればいいだろうが」
レナードは簡単に言うが、自分の方に需要がない以上、相手から望まれない限りそういった機会はなく、かといって誰かに紹介してもらうのも面倒だと思っていた。こちらの世界ではどうだか知らないが、元いた世界では、和巳の年齢なら彼氏もしくは彼女がいなくてもそれほど珍しいことでもなかったのだった。

「まあ、今は俺以外を相手にされても困るし、伴侶候補の名目に違わぬよう、俺が相手をしてやろう」
「いえ、遠慮しておきますっ」
まさかの申し出に、慌てて腕を振り解く。
レナードの立場なら、伴侶にしないことが前提の相手を戯れに構っても許されるのかもしれないが、当の和巳にとっては甚だ迷惑な話だった。
ただでさえ、慣れない環境は居心地が良いとは言えないのに、このうえ三角関係なんてヘヴィな状況に置かれるようなことになったら、尚更居づらくなってしまう。

「あの、ここでは些か差し支えるかもしれませんので、お部屋の方に戻られてはいかがでしょう?」
屋外という状況を考慮してマシューが止めに入ってきたが、“名目”の意味を正しく理解しているはずもなく、和巳にとっては寧ろ迷惑な提案でしかなかった。
「そうだな、俺の部屋の方が邪魔が入らなくていいか」
再び強い力で腕を取られれば、特別鍛えているわけでもない和巳の体はあっさりとレナードの方に倒れ込んでしまう。
「わ、ちょっと待ってください」
肩を抱くというよりは、その腕に囲い込まれるような窮屈な体勢で急かされると、殆ど引き摺られるような格好で歩くことになってしまう。
見るからに楽しげなレナードの行動は単に面白がっているだけなのかもしれなかったが、触れられたところから生まれる熱はいっそ痛くて、やはり和巳には試すことさえできそうになかった。




「陛下、無理強いはいけません」
ふいに背後からかけられた声はフレデリックのもので、落ち着いた声音ながら、その威力は絶大だった。
虚をつかれて固まるレナードの表情がきまり悪そうに見えるのは、浮気現場を押さえられたようなものだからか。

「無理強いではない、少々強引なだけだ。和巳は晩熟だからな、待っていてはキリがない。そもそも親交を深めろと言ったのはおまえだろうが」
挑発的な言葉と共に振り向くレナードに、臣下のはずのフレデリックはあまり畏敬の念を抱いている風には見えず、遂にはお説教が始まってしまった。
「だからといって、異界から来られた方にそのような乱暴な振る舞いは許されません。そうでなくても、和巳さまは指環に選ばれた陛下の伴侶となられる方です。くれぐれも丁重に、紳士的に接していただかなくてはなりません」
冷たささえ感じる物言いに、レナードの顔色が変わる。
いくら和巳の役割が当て馬だからといっても、目の前で痴話喧嘩を繰り広げるのは勘弁して欲しい。
公私の区別が付けられないなら二人きりで話し合ってくれればいいものを、和巳の肩を抱く手が解かれないから、間に挟まれたような立ち位置でいるのは居た堪れなかった。
和巳のいないところでなら、駆け引きに利用されたり、思わせぶりな態度を取られたりしても構わないが、態々目の前で協力させられるのは、どんな顔をしていたらいいのかわからなくて困る。
それとも、この状況もレナードの思惑のうちなのだろうか。

「あの……カーディフさん? 僕はお二人の邪魔をするつもりはないので、誤解しないでくださいね? 陛下も立場上、異界人の僕を蔑にはできないだけで、本当に伴侶にしようとは思ってらっしゃらないでしょうし」
迷った末に、ひとまず真実を告げてフレデリックの出方を窺ってみる。
「なんと恐れ多い……和巳さまにそのようなお気遣いをさせてしまい、申し訳ありません。私の方こそ、陛下と和巳さまのご縁に水を差すようなことは決して致しませんので、どうかお気になさらないでください。既にご存知のようですから今更隠しだては致しませんが、陛下とのことは、あくまでも伴侶となられる方が現れるまで一時的にお慰めさせていただいていただけで、個人的な感情は一切伴っておりません。今後は、一臣下としての立場を弁えてお仕えさせていただきます」
滔々と弁じられる長台詞に呆気に取られ、反論するタイミングを逸した。
それはレナードも同じだったようで、憮然とした態度で和巳をホールドしたまま、連行しようとする。
「陛下」
咎めるように背後からかけられた声に、レナードは権力を振りかざすことにしたようだった。
「邪魔をするな。和巳を部屋に連れて行くのに、おまえの許可は必要ない。それに、和巳が本当に指環に選ばれた伴侶なら、俺に抵抗するはずがないだろう?」
ムキになって反論するレナードはどこか子供じみていて、いっそ可哀そうに思えてくる。
ただ、フレデリックの指に指環を嵌めてみる機会を与えてくれてさえいれば、きっと納得がいったのではないかと、恋愛に疎い和巳にもわかるのに。




「どうやら、フレッドには俺が子供に見えているらしいな」
部屋に戻ったレナードは、長椅子の隣に座らせた和巳と親密になろうとしているわけではなく、まさかの恋愛相談をしようと思っているようだ。
何と答えたものか悩みながら、和巳は考えつく範囲でフォローの言葉を返してみる。
「子供ってことはないと思いますけど……ただ、カーディフさんは陛下より大分年上なんですよね?」
「そうだな、一回り以上離れている。それに、フレッドが教育係に任命された時、俺はまだ5歳だったから、いつまで経っても年齢差以上に若輩に思われているんだろう」
「陛下が5歳からということは、お二人は20年のおつき合いになるってことですか?」
「そうだ。といっても、今のような関係になったのは俺が成人してからだが」
それからでも10年経っているのだから、相当に長いつき合いのはずだ。なのに、一時的な関係とか個人的な感情は伴っていないとか言うフレデリックは、恋愛経験のない和巳から見ても、望みの薄い相手だと思う。いくら和巳に気を遣っての発言だろうということを差し引いても、権利の主張が見られなさ過ぎる。

かける言葉を見つけられずに沈黙してしまった和巳に、レナードは勝手にフレデリックとの馴れ初めを語り始めた。
「元は父の侍従をしていたのを、俺が見初めて教育係に欲しいと父に頼んだんだ。 本人は次期国王の教育係など荷が重いと辞退していたんだが、惚れた贔屓目を除いてもフレッドは優秀だったし、父の口添えもあって、俺の専任となった。以来、ずっと俺の傍にいる」
思いを馳せるように、レナードは視線を宙へと向けた。
当てつけるように二人きりになったというのに、やはりレナードの気持ちが和巳に向けられることはなさそうだった。


「……あの?」
すっかり気を抜いてしまっていたせいで、肩に触れてきた手を避けることができなかった。
「俺の話をしている場合ではなかったな。とりあえず、指環の意思に流されてみるか?」
「は……?」
肩に置かれた手にレナードの方へ向くよう促され、反射的に見上げた目が逸らせなくなる。
うっかり目を合わせてしまったが、レナードに見つめられると、体中が痺れたように動けなくなってしまうのだった。

「思う相手はいないと言っていたが、これまでにも誰かを好きになったことはないのか?」
「そうですね、自覚したことはないです」
今まであまり深く考えたことはなかったが、もしかしたら和巳は感情面で欠陥があるのではないかと思う。
だから、明らかな意図をもって肩に回された腕や、近過ぎる位置にある端正な顔にドキドキしているのは、指環に操られた擬似的なときめきでしかないのだろうと自己分析している。

「俺もフレッドの他には惹かれたことがないが、おまえの年齢でそれは相当に晩熟だな。それとも、おまえのいた世界では皆そうなのか?」
「いえ、僕の年齢で初恋もまだなんて人は滅多にいないと思います。よっぽど何か打ち込むことがあって他に興味が向かないか、そもそも恋愛できない体質か、どっちかじゃないでしょうか」
少なくとも、和巳のように緩く生きているにも拘わらず、誰にも惹かれず、淡い思いを抱いたことさえもないような人間はそういないだろう。
「おまえは自分では後者だと思っているようだが」
「……さすがに、16年生きてきて何の衝動も起こらなければ、異常かもしれないと思うでしょう?」
「特に異常だとは思わないが、かなり晩熟なようだな。だが、衝動がないというのは俺に対してもか? 指環の効果は、おまえには作用していないのか?」
「……いえ。残念ながら、これがそうかなと思う程度には、陛下に見つめられたり触れられたりするのはドキドキします」
ごまかすことは無意味に思えて、和巳は正直に今自分に起こっている状態を明かした。
「残念がる必要はないだろう。恋愛できない体質じゃなかったことを喜べばいい」
残念なのは体質ではなく相手だと、突っ込む勇気はなくて、曖昧に笑ってみせる。

「陛下も、少しは僕に何か衝動を感じますか?」
「そうだな、意識してフレッドのことを考えていなければ惑わされてしまいそうなくらいにはな」
肯定的な言葉のようでいて、結局は和巳ではレナードの相手にはならないと改めて念を押されただけだった。
そのことに、思っていた以上にショックを受けている自分に困惑する。
やはり、レナードに近付いてはいけないと気付いて、覚束ない身を何とか捩らせて距離を取った。




触れ合っていた体が離れたことで、少し呼吸が楽になったような気がする。
そのくせ、いざ離れてしまえば心細く、自分で抜け出した腕に捕らわれたいように思えてきて、わけのわからない感情に戸惑う。
こんな状態では余計に恋愛の話は続けたくなくて、話題を変えてみる。

「そういえば、この国は世襲制ではないというお話でしたけど、次の王さまはどうやって決めるんですか?」
「王族に生まれた者の胸に、薔薇の花のような赤い痣が現れれば王になる運命を負う。俺の左胸には、生まれた時からくっきりと花の形が浮き出ていたそうだ。だから、父に続いて王になることは、物心つく前から覚悟できていた」
「ということは、陛下の場合は世襲されたってことですね」
「王族はそう多くないからな、2,3代続くのも珍しいことではない」
それがわかっているのに、世継ぎを作ることを放棄するというレナードの言い分は認められるものなのだろうか。日本人の和巳からすれば、皇室の件があるから理解し難い事態のように思える。

「王さまの任期みたいなのはあるんですか? 陛下は随分若く即位されたようですけど」
これまでのレナードの口ぶりからは、前国王が崩御しているようには聞こえなかったから、譲位せざるを得ないような事情があったのだろうと、漠然と考えていた。
「明確な決まりはないが、俺の場合は父の意向で25歳から傍について執務や外交などを学び、26歳で正式に譲位された。父は早く隠居したがっていたからな。本人の望み通り、今は田舎で領主に納まって母と共に平穏に暮らしている。もし、おまえを伴侶にすることになれば、会う機会もあるだろうが」
実現する可能性のない最後の部分はスルーして、問いを続ける。
「陛下の次の王さまも、もう決まっているんですか?」
「まだだ。遅ければ、俺が死んでから現れることになるかもしれないな」
「それでは、その子が育つまで、誰かが王さまの代理をすることになるんですか?」
「いや、これまでにも王位に空白の期間はないから、間に合うように現れるはずだ。俺の死後だとしたら、それなりの者に白羽の矢が立つのだろうな」
どうやら、この国には摂政政治というようなものは存在しないらしい。
なのに、王位に空白の期間がないということは、ある程度の教育を受けた者が次期国王になるという意味なのだろう。つまりは、幼い子供ではないということになる。

「では、王さまになる人は、生まれつき決められているというわけではないんですか?」
「どうだろうな……大抵は生まれた時から痣があるものだが、稀に成長過程で現れる場合もあるようだからな。要するに、後継者が現れるまで俺が王位に就いていればいいだけの話だから、そんなに心配するほどのことでもないだろう」
潔いのか、単に世継ぎを作る努力をしたくないからか、レナードは爪の先ほども気に留めていないようだった。

「あの……その痣を見てみたいっていうのは、やっぱり無礼ですよね?」
好奇心に駆られつつ、控えめに尋ねてみる。
「おまえは気を遣い過ぎだ。仮にも伴侶候補なんだから、もう少し厚かましくなっていい」
言いながら、レナードは上着を脱ぎ、中に着ていたものを無造作に頭から抜いて和巳の方に向き直って見せた。
思わず息を止めて見入ってしまうほど、レナードの心臓の上に大輪の花が咲いているような痣は、まるで刺青のように鮮やかで美しい。
「……本当に、薔薇が咲いているみたいなんですね。あまりに綺麗なので驚きました」
「個人差はあるようだが、これだけ濃くはっきりと出ることは滅多にないそうだ。それだけ精霊の加護が強いということらしいが、その割りには恋愛に反映されていないのが納得いかないところだな。ともあれ、神官たちの予想では、俺は長く在位することになるだろうということだ」
和巳の知る限り、見目の優れたこの国の誰よりもレナードが麗しい外見をしているのも、そのせいなのだろう。


初対面の時から、一国の王を名乗るだけあって随分と偉そうな人物だと思っていたが、レナードの態度は少しずつ軟化していっていることに気付く。
結論は依然変わらず、和巳と婚姻関係を結ぶことはないと言いながら、中途半端に情けをかけようとするのはいっそ残酷だ。もし和巳だけが本気になってしまったら、どんな結末が待っているのか想像に難くない。
やはり、極力レナードの近くにはいかないようにしようと、決意を新たにする。




その日の夜は、側近たちを交えての晩餐会が予定されていた。
できることなら辞退したいところだったが、和巳が少しでも周囲に打ち解けられるように計画したと言われては断りようもなく。
それでも、どちらかといえば内向的な和巳の性質を考慮してくれたようで、想像していたよりはずっと少人数の、さほど堅苦しくはないものだった。
ただ、話題のほぼ全てがレナードとのつき合いに関することばかりで、伴侶になるのは決定事項のような言われようにはすっかり辟易してしまった。
ただでさえ、レナードとのことに頭を悩ませている和巳にとっては、相手の気を悪くさせないように話題を躱すのは難しく、しかも、肝心のレナードが一切否定しなかったために、事態はますます面倒な方に転がっていっているような気がする。
いっそ、そうなってしまえば万事上手くいくのではないかと錯覚してしまいそうなほどに。



長い晩餐を終え、与えられた部屋に戻って湯を使い、部屋着のようなものに着替えると、漸く張っていた気を緩めることができた。

「もうちょっと居てもらっていい?」
マシューに早く終業を告げてやる方が親切だとわかっていながら、城から出た後は友人関係になるという野望を実現させるべく、引き止めてみる。
「はい。何でも申し付けてくださいね」
マシューは快く頷くと、ポットに用意された冷茶を注いでから、和巳の手招くままに長椅子に並んで腰掛けた。

「マシューは兄弟いる?」
何の話を振るか迷いながら、無難に家族構成を尋ねてみる。
人の良さそうなマシューはきっと、幸せな家庭で育ったのではないかと漠然と思っていたからだ。
「はい。兄が二人います。兄たちは僕と違って武道派なので、騎士団の方に所属しています」
「いいなあ、僕は一人っ子だから羨ましいよ」
「お一人なんですか……それではご両親も気を落とされていることでしょうね」
そこまで悲痛な顔をされる意味がわからず、返す言葉に詰まる。
そうでなくても、和巳の両親は揃って仕事人間で家庭を疎かにする人たちだから、それほど気に留められないのではないかと思っているのに。

「もしかしたら、僕がいないことにまだ気が付いてない可能性もあるんだけど。うちは二人とも帰宅するのが遅いし、二日くらい僕がいなくても……」
特におかしいとは思わないかも、と続けかけて、ベッドの奥の方で物音がしたことに気付いてマシューと顔を見合わせる。
ほどなく、施錠されていたはずの内扉から、招かれざる相手が現れた。

「へ、陛下、何で……あ、いえ、どうかされたんですか?」
あからさまに迷惑げな顔をしてしまったことを自覚して、和巳は慌てて取り繕った。
「まさか、マシューで試しているのか?」
和巳の問いに答えず、逆に問い返してきたレナードの言葉の意味が理解できず、首を傾げて思考を巡らせてみる。
「でも、おまえは今は俺の伴侶候補なのだからな、他の相手で試すのは駄目だと言ったはずだが」
「あ……ああ、そういう意味ですか。別に恋愛とかではなくて、僕はマシューと仲良くなりたいだけなんです。こちらの世界に親しい人はいないから、友達になって欲しいなって思っているだけで」
「そうか。それなら、俺が同席しても問題はないな」
国王がいては、マシューは立場を気にして畏まってしまう。それでは、とても友情を育んだりできるとは思えないのだったが。

「あの。陛下は僕に何かご用だったんですか?」
「用がなくては来てはいけないのか? 今夜は一緒に過ごそうと思っていたんだが」
「なっ……そういうことなら、僕じゃなくてカーディフさんの所に行けばいいじゃないですか」
もしや、夜の相手に指名されたのではと思い、つい身構えてしまった。
「そう警戒しなくても、いきなり取って食いはしない」
「こ、この国ではどうだか知りませんが、僕のいた国では、結婚するまで体の関係を持ってはいけないんです」
もちろん、苦し紛れの言い訳だが、実情をレナードが知るはずはないのだから、嘘を貫き通せるのではないかと考えた。
「そんな国に住んでいたから、おまえは晩熟なんだな」
妙なところに納得しながらも、レナードは居座る意思を変えるつもりはないようで、傍に控えたマシューの代わりに長椅子へと腰掛ける。
「まあ、伴侶になると確定するまで手出しするつもりはないから心配するな。ただ、つれない側近を持った王を慰めるくらい、してくれても構わないだろう?」
要するに今夜はフレデリックに振られたのだと察して、尚も無下にできるほどには、和巳も冷たくはなかったのだった。




緊張で眠れないのではないかと心配したのは横になるまでで、意外にもレナードの傍は心地良かった。
ドキドキしているのは間違いないが、どちらかといえば安心感の方が強い。
わざわざ近付かなければ触れ合わないほども広いベッドでは、寝返りを打ったはずみで相手に触れてしまうというようなこともなく、ふっと流されたくなるような指環の効果もそれほどの脅威にはならなかった。
だから、翌朝の目覚めも清々しいもので、これなら毎晩でも同衾してもらいたいくらいの快適さといえる。
ただ、幸いと思うべきなのだろうが、マシューが起床を促すために部屋を訪れるまでの間にも、レナードは甘い雰囲気を作ろうとはしなかったのだった。


身支度を済ませてレナードと一緒に朝食を摂った後は、今日も執務室に移動して内務諮問会議の見学をすることになっていた。
昨日のように離れた場所で静観しているつもりが、レナードの隣に用意されていた席に半ば強引に座らされてしまう。
さすがに衆目の中でレナードに意見する勇気はなく、恨みがましい瞳で見上げてみる。
「特に意見を求めたり発言させたりするつもりはないから心配しなくていい。今は座って見ているだけでいいからな」
レナードは和巳の抗議の視線を受け止めながら、やんわりと諭すように声をかけてきた。
そこだけ見れば、二人の仲が多少なりとも進行したように見えるようで、あちらこちらで冷やかしともとれる声が上がる。レナードはそれを諌めるでも否定するでもなく、満足げに笑うだけだった。
これではますます誤解されてしまうと思いつつも、レナードの意図が掴めないままではどんな表情をするべきなのかわからず困ってしまう。
空気を壊さないよう含羞んで見せるべきなのか、いっそ無表情を装ってみるべきか。

戸惑っているうちに、雑談を制止する声がかかり、会議が始まった。
取り仕切っているのはレナードを挟んで反対側の隣に座るフレデリックで、和巳に対する時と同様、穏やかな雰囲気で進行させてゆく。
今日の議題は排水路の補修工事の進捗状況の報告及び見直しについてだった。
この国は精霊の守護のおかげで自然災害は殆どないということだが、それなりにインフラも整備されているらしい。
和巳が保護されているのが王宮という場所柄もあるのだろうが、風呂場や洗面所には水が引かれていて、ランタンライトのような照明は夜間でも十分な明るさを得ることができた。
和巳が快適に過ごせているのは特別扱いされているからだけでなく、民間レベルでも、ある程度の文明は発達しているのだろう。
ましてや温暖な気候のこの国では、王宮を出たあとも、カレンの言っていたようにさほど不便を感じることなく暮らしていけそうだった。
どのみち帰れないのなら、少しでも順応する努力をする方が有意義だと、少しずつ気持ちが傾いてゆく。
レナードの元を離れるのは時間の問題だろうから、情報を得ることと生活力をつけておくことが今の和巳のしておくべきことに思えた。



昼食後もレナードは和巳に付き添うことになっているらしく、お茶の時間まで庭園を散歩しながら、とりとめのない会話をして過ごす。
最初は並んで歩いていたはずが、いつの間にか手をつながれていて、そうでなくても恋愛経験のない和巳は、過度な胸の高鳴りを持て余していた。
そのくせ、レナードに触れられるのは気持ちが良くて、気を抜くと、ふらっと寄り添ってしまいたくなる。

「おまえの髪が短いのは何か理由があるのか? カレンは最初から長い髪をしていたが、おまえは随分と短いが」
並んで立つとかなり高い位置にあるレナードの青い瞳が和巳を見下ろす。
見つめ合ったら胸が苦しくなるとわかっているのに、その誘惑に勝てずに視線を上げてしまう。
「……僕の住んでいた国では、男子はあまり髪を伸ばさないんです。カレンさんは女性だから長くてもおかしくないんですけど、僕は男なので」
和巳が出会った人たちは皆長髪だったから、おそらくこの国では長く伸ばす方が一般的なのだろうが。

立ち止まったレナードが、さりげなく和巳の髪に手を触れてくる。そう長くはない髪を撫でるように滑ってゆく指が、戯れるように絡む。
「おかしくなどないと思うが。綺麗な髪をしているのだから、寧ろ伸ばした方がいいんじゃないのか?」
口もきけないほどの胸の高鳴りに、和巳の体は制御が利かなくなっているようで、意思を無視してレナードの方へと引き寄せられたがる。

「陛下」
目に見えない引力に支配されそうになっていた意識が、ふいにかけられた声に驚き、我に返る。
見えない支配から解放された体を振り向かせてみれば、そこに佇むのはフレデリックだった。

「睦まじく過ごされているところをお邪魔して申し訳ありません。とりいそぎ、陛下に目を通していただきたい書簡が届きましたので」
用件を告げる声音は、申し訳なさそうというより、心底残念そうに響く。

今日の午後はゆっくり過ごす予定だったが、急用では仕方なく、レナードは少々不機嫌な素振りを見せながら、王宮へと戻って行った。
てっきり和巳とマシューだけが残されるのだと思っていたが、なぜかフレデリックはレナードに同行せず、午後のお茶を一緒することになったのだった。




お茶の用意を調えると、マシューは近くで控えようとはせずに、すぐに退がって行ってしまう。
それを目で追ってから、斜め前の席に座るフレデリックは静かに和巳の方へと向き直った。
「和巳さまとは一度きちんと話させていただきたかったので」
そう前置きをしてから、フレデリックはレナードとの関係を続ける気はないことを和巳に訴え始めた。
そのためにレナードを追い払ったわけではないのだろうが、フレデリックは他の誰かに邪魔されることなく和巳と話をしたかったと言う。

「でも、カーディフさん、ぼくがこの世界に来た日にも陛下の部屋に泊ってらっしゃいましたよね?」
本当にその気がないなら、異界から来たばかりで何も事情の飲み込めていない伴侶候補の和巳に知られ得る状況で、敢えて深い仲を疑わせるような行動を取るのは軽率過ぎるのではないか。

「申し訳ありません、気付いていらっしゃったんですね。けれども、あの時は和巳さまがご心配するようなことは一切ありませんでしたので、どうかお気を悪くなさらないでください。ただ、私は陛下を説得するつもりでお部屋に伺っていただけなのです」
フレデリックに限ったことではないが、和巳がレナードの伴侶になることを決定事項のように言われることには抵抗があった。いくら当事者の片方が否定しようとも、もう一方の気持ちは固く、変わりようがないと知っているのに。

「あの、何度も言いますけど、陛下が伴侶にしたいと思っているのはカーディフさんなんですから、そんなに遠慮しないでください。指環はたまたま僕の指に嵌ってしまっただけで、運命の相手ではないと思います。陛下も僕も、恋愛感情は一切ありませんし、周りが盛り上がっているから否定しにくいだけで、陛下と僕は絶対に結婚なんてしませんから」
和巳が強く言い切ったことで、却ってフレデリックは態度を硬化させてしまったのかもしれない。
「和巳さまが誤解していらっしゃるようなので、失礼を承知ではっきりと申し上げておきます。私は陛下が幼少の折に絶対服従を誓った身ですから、関係を迫られれば、断れる立場にはないのです。とはいえ、婚姻ともなれば話は別です。陛下には然るべき相手を伴侶に迎えていただかなければなりません。くり返しますが、私は陛下に対して個人的な恋愛感情は一切抱いておりません。陛下がお小さい頃からお傍に仕えさせていただいておりますし、年齢的にも、とても恋愛の対象にはなり得ないのです」

毅然とした態度と語調で言い切られ、返す言葉を失ってしまった。
レナードの思い入れの深さを知っているだけに、フレデリックの意思の強さに困惑すると共にひどくショックを受けた。
それは、知らぬ間にフレデリックの背後に立っていたレナードにはより強いものだったに違いない。
整い過ぎて冷たく感じるほどの麗容は色を失くして、不本意にも痴話喧嘩に居合わせることになってしまった和巳は取りなすこともできず、ただうろたえるばかりだった。

「何と言われようと、放してやる気はないからな。伴侶の件については和巳の了承も得ている。おまえがしたくないなら、俺も一生結婚などしなくても構わない」
もはや気遣う余裕も失くして、レナードはフレデリックの肘を掴むと乱暴な仕草で席を立たせようとする。
「陛下……先に戻られたのではなかったのですか……」
「おまえがついて来ないのが引っ掛かったからな、途中で引き返して来た」
急ぎの用件ではなかったのかと、部外者の和巳でもツッコミたくなるのに、レナードはしたり顔をしている。

「……そうですか。では、こんな話をしている場合ではありませんね。ひとまず王宮に戻りましょう」
そもそもレナードを呼びに来たのは緊急性があったからのはずで、フレデリックは執務の方が優先だと判断したらしい。
「そうだな、そのうち指環の方が諦めて、外れるかもしれないしな」
依然として、レナードは指環の意思に従う気などないようで、自分の伴侶は自分で決めるという決意を翻す気はないようだった。

まるで和巳がそこにいることを忘れているみたいに、レナードは一言の断りもなくフレデリックを引き摺るようにして去ってゆく。
そこだけ空気が違うような二人の後ろ姿を見送りながら、和巳は胸の痛みに耐えかねて、その場へ座り込んでしまった。

レナードが誰を選ぶのかなんて、最初から知っていたはずなのに。
なぜ、こんなにも落ち込んでいるのかわからない。
婚姻を結んでいるわけではないから浮気ではないし、それどころか結婚などしないと言い切られていたのに。

かつて、指環に認められないカップルが幸せになった前例はないという話だったが、もしかしたらレナードとフレデリックが最初の一組目になるのかもしれない。
逆に言えば、レナードと和巳が指環の見立ての最初の間違いなのだろう。
せめて指環が外れれば、こんな思いからも解放されるのではないかと、和巳は無駄な努力を試みずにはいられなかった。




左手の薬指の根元を、右手の指先で摘んで揺すってみる。
普通の指環なら、外れないまでも多少は動かせそうに思うのだが、誂えたようにピッタリと嵌ったそれは、きついわけでもないのに微動だにしないのだった。

どう考えても、指環に宿る精霊が相手を見誤って和巳を異世界まで連れて来たに違いないのに、中途半端にその効果に振り回されている自分にも腹が立つ。
指環の精霊は自分の間違いを認めない代わりに、和巳にだけこんな効果をもたらしているのではないか。

ふと思いついて、指環に向かって意思の疎通を試みてみる。
レナードの守護をしているのは精霊王だと言っていたことも忘れて、ただ意思があるはずだという思い込みだけで話しかけた。
「精霊が宿ってるんだったら、話くらい聞いてくれるはずだよね? 陛下が僕を伴侶にすることはないから、早く外れて。陛下の好きな人の指に嵌めさせてあげて?」
フレデリックの態度を見ていれば、あの二人が正解とも言い難い気もするが、レナードに試す機会くらいは与えてあげればいいのにと思う。
指環の精霊がどういう意図を持っていようとも、レナードがフレデリックの他に目を向けてみる気がない以上、和巳の指に嵌っていても意味がないのだから。


「えっ……」
ぼんやりと指環を見つめていた視界が、霧のようなものに覆われていることに気付いて顔を上げる。
いつの間に現れたのか、和巳のすぐ傍に、おそろしいほどの美貌の男が佇んでいた。

「だ、誰……?」
かろうじて声は出たものの、和巳の体は金縛りにあったみたいに固まってしまっていて、身じろぐこともできなくなっている。
和巳を見下ろす蒼穹の瞳には魔力でもあるのか、目が合った瞬間に和巳の鼓動を暴走させ、血液が沸騰してゆくような錯覚を起こさせた。

「わかっていて呼んだのではないのか? 先の問いも兼ねて答えるなら、私は指環を通して請われた縁を見極め、必要に応じて他の相手を探して引き合わせたりもしている。アルフレッドと言えばわかるか?」
「アルフレッドって、確か、この国の名前ですよね?」
国名を出された意味を理解するよりも前に、その美しく高貴そうな男はとんでもないことを言う。
「そうだ。歴代の王と、その指環を代々受け継ぐハノーヴァー家の当主の守護だけでなく、この国を災害や侵略から守る精霊たちを統べている」
「それって……もしかして、精霊王ってことなんじゃ……?」
今更のように、自分がどんな凄い相手と喋っているのかを悟って血の気が引いた。

改めて見上げてみれば、その神々しさに息が止まる。
眩いほどに煌めく金色の髪と晴れた空色の瞳はレナードに似通っているが、群を抜いて美しいと思っていたその人さえも圧倒的に凌ぐ麗しさは、魂まで奪われてしまいそうなほど。
まさしく神と呼ぶに相応しい秀麗な容姿だと、惚けた頭ながら納得した。

「そういうことだ。おまえには特別にアルフと呼ぶことを許そう」
頭上から降ってくる声に我に返り、この期に及んで、先に言われた“アルフレッド”が精霊王の名前だったのだと気付く。
「え、と、アルフさまとお呼びすればいいんでしょうか?」
「敬称は必要ない。おまえは私が直々に連れて来たのだから、遠慮は無用だ」
「でも……あ、では、あなたも王さまなのだから、陛下とお呼びしましょうか?」
いくら本人の了承があったところで、神さま的存在を愛称で呼ぶなど滅相もないと思っての提案だったのだが、精霊王は眉を顰めて、あからさまに不機嫌を露わにした。
「私をそんな風に呼ぶ者はいない。おまえにはアルフと呼べと言ったはずだが」
つまりは許容ではなく命令だったのだと思い至ったところで、呼び捨てにするような勇気は持ち合わせていない。せめて、軽く敬称を付けて呼ぶことを許されるよう祈った。



「あの、アルフさんは、僕を陛下の伴侶にさせるために連れて来られたんでしょうか? もしそうだとしたら、陛下には心に決めた方がいらっしゃるので、僕では伴侶になれないんですけど」
気を取り直し、和巳はアルフレッドを呼び出してしまうきっかけとなった疑問を再度投げかけてみた。
「おまえが人の王に合うとわかって連れて来たのは間違いないが、あれは思っていた以上に頑固なようだな。素直におまえの手を取ればいいものを」
アルフレッドの言いように何とはなしに違和感を感じながらも、見込み違いの責任の一端を感じて、とりあえず頭を下げておく。
「すみません、陛下には指環の力はあまり効かなかったみたいです」
「その伝承自体が間違っている。この国の人間は皆、思い違えているようだが、指環には人の気持ちを操るような力はない。あくまで番う相手をわかりやすくするために外せなくするだけで、惹かれ合うように作用するようなものではないからな」
「え、でも、それなら僕は、どうして陛下に……?」
自分には情緒が欠落していて、一生恋愛とは無縁だろうと思って生きてきた和巳が、初めてそれらしい感情を覚えたのは指環のせいではなかったのか。

「だから、相性が良い相手を引き合わせていると言っているだろう? 必ずしも互いにただ一人というわけではないが、一番上手くいくと思われる組み合わせになるよう気を配っている。ただ、先にも言ったが、“縁結び”は指環を嵌めた者に加護を与える際の副産物で、本来の目的ではない」
にも拘わらず、レナードにときめいてしまった自分にショックを受けた。
指環に起因する感情ではなかったのだとしたら、恋に落ちかけているのは和巳だけで、レナードはありもしない指環の効力を警戒しているだけということになる。

「……僕との相性がどうであれ、陛下はカーディフさん以外の人は認めないと思うんですが」
「だろうな」
涼しい顔で肯定するアルフレッドに、立場も忘れてカッとなってしまう。
「わかっていらっしゃるんなら、僕を元の世界に戻してください」
「悪いが、それは私にもでき得ないことだ。こちらの世界に来ることはできても、元の世界に戻る術はない」
痛ましげに、アルフレッドが表情を翳らせる理由は、和巳には想像もつかなかった。
和巳を異世界へ連れて来た張本人に、元の世界に戻る方法を探索しても無意味だと言われたことはショックだったが、あらゆる手を尽くしても帰りたいとまでは思っていないというのが本音だ。
こちらに来た当初は、生まれ育った場所で平和に一生を終えたいという思いが強かったが、言葉や環境の不自由がなく暮らせるならば、どこでも同じと思えなくもない。
たぶん、その程度にしか、和巳は元の世界にも、家族や交友関係にも思い入れはなかった。

「僕を元の世界に戻すのは無理だとしても、指環は陛下に返してあげてください。僕の指に嵌っていると、カーディフさんも遠慮しないわけにはいかないでしょうし」
「あれが遠慮しているように見えるのか?」
呆れたように和巳を見下ろす冷たい眼差しに驚く。
「え……」
「仮に、指環を嵌める機会を与えてやったところで、相手が受け入れるとは到底思えない」
守護者というだけあって、アルフレッドは二人の実情も把握しているようだった。

「でも……カーディフさんは僕の指に指環が嵌っているから意地になってるっていうのもあると思うんです。僕が陛下の対の相手ではないとわかれば、指に嵌めてみるくらいはしてくれるんじゃないでしょうか」
「おまえを理由にしているだけだろう。現に、指に嵌められそうになって放り投げたのだからな」
そこまで言われて気が付いたが、そもそも和巳がこちらに連れて来られることになったのはカーディフのせいではないのか。

「もしかして、指環が僕のいた世界に落ちてきて指に嵌ったのは、カーディフさんが放り投げたからなんでしょうか?」
「いや、投げた勢いでおまえが元いた世界へ飛んでいったわけではない。今回に限らず、番いになる相手がこの国の中にいない場合は他の世界まで探しに出向いている。もし、人の王がおまえと番わないなら、生涯一人身ということになるだろう」
だからレナードの伴侶になれと言われているように聞こえて、言葉に詰まる。
ほんの少し前に、フレデリックと一緒になれないなら独身を貫いてもいいと言い切ったのを聞いたばかりでは、とてもではないが和巳の方から歩み寄ってみる気にはなれなかった。




とはいえ、このあとの余生をこちらで過ごすことになるのなら、国や王の世話になるのは必至で、自分の感情ばかりを通すわけにもいかないことはわかっている。
「……陛下が一生独身を通されたとしたら、僕のせいってことなんでしょうか? それって、陛下の立場的にも良くないんですよね?」
「おまえが気に病む必要はない。独身を貫いたところで自業自得だ。それに、他に良縁がないのはあれだけで、おまえには“当て”があるから心配するな」
とりあえず、伴侶の件については和巳に責任はないと言われてホッとした。
だから、恋愛など一生しないのではないかと思っていた和巳の方に“縁”があるようなことを付け加えられていたことは聞き流してしまっていた。

いくぶん気は楽になったが、敢えてもう一度先の願いを口にしてみる。
「それなら余計に、僕の指に嵌っている指環は外していただけませんか? そうしたら、陛下もカーディフさんに改めてプロポーズできるでしょうし、結果がどうあれ、お互いに納得がいくのではないでしょうか」
とりあえず、指に嵌めてみることを許してくれれば、あわよくばカーディフの指に納まってくれれば、和巳の立ち位置もはっきりするはずだった。

「おまえが来ていなかったとしても、婚姻を結ぶ気がなかったのは明白だと思うが。寧ろ、これ幸いとおまえを伴侶に据えようと画策しているのではないか?」
おそらくはアルフレッドの言う通りで、和巳のしようとしていることは余計なことなのかもしれない。
それでも、レナードの気の済むようにさせてあげたいと思ってしまう。
あれほど頑なに、カーディフの他には伴侶はいらないと言われ続けていれば、そのうちカーディフの気持ちも揺らぐような気がする。
若しくは、心残りがあるからレナードは次に進むことができないのではないかという思いが拭い切れないのかもしれなかったが。

答えられない和巳に根負けしたのか、アルフレッドはわざとらしいほど大きく息を吐く。
「外してやるにしても、いくつか問題がある。まず、異界人のおまえは指環の保護なしには言葉も通じないのに、この世界でどうやって生きていくつもりだ?」
「そんなの……僕の都合も聞かずに連れて来ておいて、どうやって生きていくかなんて、こっちが聞きたいです」
度重なる横暴な言われように、さすがに怒りを抑えられなくなった。
そもそも和巳は被害者のはずだが、この国の人たちは誰もそうは思っていないような節がある。

「方法がないわけではない。一番簡単なのは、おまえが私と番うことだ」
事も無げに告げられた言葉は思いがけなさ過ぎて、驚きの声さえ出てこなかった。
レナードの次には精霊王の番いだなんて、冗談にしても途轍もなさ過ぎて笑うこともできない。

呆然としたままの和巳に、アルフレッドは腰を屈めて顔を近付けてきた。
「人の王に、求婚する機会を与えてやりたいのだろう? そのうえ、おまえにも支障が出ないようにするには一番いい方法だと思うが?」
「だとしても、アルフさんが僕を伴侶にする必要はないでしょう?」
これまでの会話で判断するかぎり、アルフレッドには、和巳を連れて来たことに対して謝意があるようには思えない。
もちろん、和巳がアルフレッドの運命の相手であるはずもない。

「おまえを連れて来たのは、確かに人の王に合うと思ったからだが、番わないのなら、私が貰い受けても問題ないだろう?」
「えっ……?」
不意に掴まれた腕に電流が走る。
初めてレナードに触れた時のように、こみ上げてくる甘い衝動に抗うことはできず、吸い寄せられるようにアルフレッドの胸へと身を捕えられた。

「私と口づけを交わせば、その一日は言葉が通じるようになる。情を交わせば一月はもつだろう。要するに、私の伴侶になれば、言葉の心配はいらなくなるということだ」
確かに、言葉が通じなければ日々の生活に支障が出る。やがては、不便なだけでなく精神的にも参ってしまうだろう。
けれども、それだけの理由で精霊王と結婚するというのはあまりにも突飛な手段に思えた。

「あの、それじゃ、とりあえず、毎日キスだけしてもらうっていうわけにはいかないですか?」
それでも、和巳からすれば随分と妥協したつもりだったというのに。
「当面はそれでいいとしても、この先おまえが誰かに心を寄せるようになったらどうする? 私も、おまえと番わないなら他を捜すことになるが、相手が見つかれば、おまえに口づけることなどできなくなるだろうな」
「え、と、それじゃ、“当面”ってことで、お願いします。とりあえず陛下の件を何とかしないことには、僕のことまで考えられませんし」
苦し紛れの提案を、アルフレッドは不敵な笑いを浮かべながらも、聞き入れてくれることになったのだった。





[6]
また後で、と言い残すと、現れた時と同様にアルフレッドは霧と共に消え去り、和巳はまるで狐につままれたような気分になってしまう。
それでもアルフレッドの言葉を信じてマシューを探し、レナードの仕事が終われば会って話したい旨を伝えてくれるよう頼むと、自室に戻って待機しておくことになった。

火急の用件というのがレナードを和巳から離すための口実でないなら、都合をつけて来て貰えるとしても、まだまだ時間がかかるだろう。
もし、そのタイミングが合わずアルフレッドに立ち会って貰えなかったら、指環の件と今後のことをどういう風に話せばいいのか悩む。
この国においても、実際に精霊に会ったというような話は聞いたことがないのに、 いきなり精霊王が現れたなどと言っても説得力がないのではないか。

思案しながら長椅子に腰を下ろし、座面につこうとした手が触れた質感や距離感のズレに驚き、思考と共に体が固まる。
「え……っ」
違和感を確かめようと首を横に向けると、庭園で姿を消したはずのアルフレッドが、すっかり寛いだ姿勢で陣取っていたのだった。

「あ、アルフさん……?」
さっきまで和巳の目には見えていなかったから、まさかアルフレッドが先に腰掛けているとは思わず、何気なく置いた手がちょうどその膝に乗ってしまっていたことに気付いて、慌てて引っ込める。
もちろん、それくらいでは、アルフレッドの顔をまともに見つめ、不本意ながら体にまで触れてしまった和巳の鼓動の暴走を止めることはできなかったのだけれども。

「難しい顔をして悩んでいるより、私の伴侶になれば全て解決するのではないか?」
まるで何もかもを察しているように優しく、事も無げに囁かれる言葉に、浮ついた意識は容易く唆されそうになる。
ついさっき、返事は保留にしてもらうことで話は落ち着いたはずだったのに。

「和巳?」
急かすように、名前を呼ぶ声までが、和巳の心臓を揺さぶるような錯覚を起こす。
頬の辺りに感じる、澄んだ空色の瞳の魔力は、見つめ合っていなくても効果があるに違いない。だから、差し伸べるように開かれたその腕の中に、和巳は自ら捕らわれていったのだった。


「……アルフさんって、もしかして瞬間移動とかも、できたりするんですか?」
バクバクと高鳴る胸のときめきと戦いながら、和巳は話を逸らすためにも、率直な疑問を口にしてみた。
「おまえが思っているのとは少し違うだろうが、できないことはない。ただ、今回は他の者に私の存在を明かすと面倒になりそうだったからな、見られる前に姿と気配を消しておいた」
ということは、庭園から戻る際に一旦別れたのだと思い込んでいたが、ずっと近くに居たということなのだろう。和巳には物思いに浸っている時についつい独語が出そうになる癖があるが、自戒しておいて正解だったようだ。

「それでは、陛下のお仕事が終わるまで大分お待ちいただくことになりそうなのも、わかってくださってるんですよね?」
あまり長く待たされることになればアルフレッドが去ってしまうのではないかと不安になり、レナードが訪れるまで居て貰えるよう念を押さずにはいられない。
「待つも何も、一緒に暮らすことになるのだから、“当面”ここに居ることになるのではないのか?」
「一緒に暮らすって、僕とですか?」
そんなわけがないと思いながら、話の流れ的に他に取りようがなく、一応確認しておく。
「おまえの他に、誰に保護を与えてやる必要がある?」
呆れたような声音ながら、それはまるで告白のように甘く響いて、また和巳の胸を高鳴らせた。




すっかり舞い上がってしまっていた和巳の意識が、扉をノックする音に冷静さを取り戻す。
レナードの訪いを知らせるマシューの声に、弾かれたようにアルフレッドの胸から飛びのき、扉の方を振り返った。

「指環を外すと決めたのなら、そんなに気を遣わなくてもいいと思うが」
不満げに和巳の腕を掴み、引き戻そうとするアルフレッドから立ち上るオーラが、一層勢いを増したような気がする。
神の力なのか、所謂フェロモンなのか和巳にはわからないが、抗い難い強さなのは間違いない。
それでも、レナードの伴侶候補の件に片を付けるまでは、流されている場合ではないのだった。

アルフレッドの手を逃れ、ダッシュで扉の外までレナードを迎えに出る。
逸る気持ちは、レナードを部屋の中へ通すより先に用件を口にしていた。
「お忙しいところ申し訳ありません。僕の指に嵌ってる指環のことなんですけど、外していただけることになったので、早くお伝えしようと思って……」
「指環が外せるだと? 誰に、どうやって外すと言われた?」
てっきり喜んでくれるものだとばかり思い込んでいたのに、レナードは眉間に皺を寄せ、和巳を部屋の中に押しやりながら、疑惑の眼差しを向けてくる。
「この指環の守護をしていらっしゃる方に、外していただけないかお願いしてみたら、聞き入れてくださったんですけど」
率直に、『精霊王に』と言うのは躊躇われ、回りくどい言い方をしてしまう。
「指環の守護をしている方だと? まさか、精霊王と話したとでも言うのか?」
よほど驚いたのか、レナードは和巳の二の腕のあたりをきつく掴み、詰問口調でたたみかけてくる。
その勢いに気圧され、言葉選びに悩み固まる和巳の体が、ふいに背後から包み込むように回された腕にさらわれた。

「乱暴に扱うな。おまえは和巳を伴侶にする権利を放棄したのだろう? この者を自由にできるのは私だけだ」
羽交い絞めにするような体勢ながら、和巳を抱くアルフレッドの腕は優しく、瞬くうちに甘い気分に変えられてゆく。
やはり、精霊王の力は尋常ではないと頭の片隅で思いながら、惹きつけられる引力に身を任せる。目の前で呆然とするレナードのことも、その瞬間は意識の外に追いやられてしまっていた。


「……伝承通りの姿で、対の指環を外せるというあなたは、やはり精霊王なのですか?」
困惑した表情で、躊躇いながらも言葉を選びながら問いかけるレナードにも、アルフレッドの姿は認識できているということらしい。
それでも、俄かには信じ切ることができず、対応に迷っているのだろう。
アルフレッドは、和巳とのことが保留中だということをすっかり忘れてしまっているみたいに、さも自分に所有権があるような素振りで返す。
「そうだ。私の連れて来た者が気に入らないなら、無理に番う必要はない。望み通り、和巳に嵌めていた指環は返してやろう」
精霊王直々に対の相手は和巳だと明言されてしまっては、いかに一国の王といえども、面と向かって意に染まないとは答えられないに決まっている。
そうと知っていながら、アルフレッドは何か言いたげなレナードに口をきかせないよう、素早く和巳の手を取ると、勿体もつけずに指環を抜き取ってしまったのだった。
その動作の延長でレナードに指環を渡し、もう用はないとばかりに、アルフレッドは和巳の背を抱いたまま部屋の奥へと移動しようとする。

驚きの声を上げるレナードの言葉はただの音でしかなく、和巳には上手く聞き取ることもできなかった。
肩越しに振り向き、伝わらないと知っていながら、決別の言葉を告げる。
それに対してレナードが何かを訴えるように話しかけてきたのも、和巳の耳には馴染みのない言語で、解読することはできなかったのだった。




「触るな」
引き止めようとするように、和巳の肘へと伸びてきた手を、容赦のない声が撃退する。
「指環を外した以上、和巳に触れることは許さない。当面は通例通り、和巳の面倒は国家で見てもらうことになるが、もうおまえの伴侶扱いはさせない」
指環を外した和巳にも、なぜかアルフレッドの声は聞き取れていて、理解もできている。
ひどく狼狽しているように見えるレナードが、何と言っているのかは和巳には全くわからないのに。

ぼんやりとしていたせいか、強い影響力のせいか、身を屈めてくるアルフレッドの顔が近付いてきても、魔法にでもかけられたみたいに、和巳は指一本動かすことができなかった。
ただ、瞼だけが自然と落ち、甘い口づけを受けとめるほかに術はない。

短く驚愕の声を上げたレナードの言葉が、また、和巳にもわかるように変換される。
「……指環を外したら、異界人のおまえとは話すこともできないんだな」
「はい。でも、今、精霊王が話せるようにしてくださいましたから大丈夫です」
「そうか、言葉が通じなくては生活にも支障が出るからな。では、精霊王はそのために、わざわざおまえの部屋まで赴いて来られたのか?」
「だと思いますけど……効果は一日しかもたないそうので、とりあえず毎日お願いすることにしました」
加護を与えられる手段がキスだと目の当たりにしたからか、レナードは訝しげな顔で和巳を見る。
「では、精霊王は毎日おまえに会いに来るということか?」
「ずっと傍にいるつもりだが」
ムッとしたように口を挟むアルフレッドの言葉に、レナードはあからさまに眉を顰めた。
「この部屋で一緒に住まわれるつもりでいらっしゃるとでも?」
レナードの対応は不遜で、喧嘩腰のように見えて、和巳は慌てて二人の間に割って入った。
「あの、とりあえず、僕の身の振り方が決まるまでは傍にいてくださることになっています。そうでないと、僕はこの世界のことを何も知らないし、今後どうするか相談することもできないので」
「この国のことも、精霊王に教わるつもりなのか?」
「え、と、できれば、前に仰ってくださっていた通り、教育係の方をつけてくださると助かります。ただ、言葉のこともありますし、当面はアルフさんと一緒に住まわせていただこうかと思っています」
「それなら、もっと大きな部屋の方がいいんじゃないのか?」
レナードの気遣いに、和巳が遠慮する間もなく、アルフレッドが要望を告げる。
「では、離宮をひとつ貸してもらおうか。湖の傍の城が空いていたはずだな? 和巳の気に入る者を何名か連れて移るとしよう」
レナードの返事も待たず、アルフレッドは和巳の背を抱いて、今にもそこへ向かいそうな素振りを見せる。

「すぐに手配しても、部屋を調えるのに1日くらいはお待ちいただくことになるでしょうが」
なぜか、レナードの物言いはいちいち挑発的で、和巳の方がハラハラしてしまう。
「では、今日はこのまま王妃の間に泊るとしよう」
和巳が心配するほどには、アルフレッドは気にしていないようで、進行方向を反転させると、今度こそ部屋の奥へと和巳を連れて行ったのだった。


「え」
その整い過ぎた顔が近付いてくる理由がわからず、咄嗟にアルフレッドの胸を押し返してしまう。
もちろん、抗いきれるはずはなく、掠め取られるようにキスをされてしまったのだけれども。

「あ、あの……言葉は通じてるみたいですから、今日はもうしなくていいんじゃないんでしょうか?」
純粋に疑問に思ったことを言っただけなのに、アルフレッドはひどく驚いたようだった。
「どうやら、手ごわいのはおまえの方だったようだな。あれが頑固なだけかと思っていたが、これでは先が思いやられる」
複雑な表情で何やら呟くアルフレッドがどんな思惑を持っているのかなど、和巳には想像もつかない。
ただ、指環を外してもらい、当面の利便が確保できたことに安心し、これで平穏に過ごしていけそうだと、暢気に思っていただけなのだった。




「え」
視界がぐるりと回ったかと思うと、背中に柔らかな衝撃を受ける。
気を抜いた途端に、和巳の体はあっけなくアルフレッドの腕に攫われ、ベッドへと倒されてしまっていた。
「気の変わらぬうちに、私のものになってしまえばいい」
耳を疑う言葉に呆然と見上げてみれば、真上にある麗しい顔は魅惑の微笑みを浮かべていて、つい、うっとりと見惚れてしまいそうになる。
けれども、見つめ合えば思考も抵抗も何もかも奪われてしまうと、レナードの時に学習したことを思い出して、慌てて視線を逸らした。

「そう難しく考えずに流されておけ」
無責任な言葉と共に、アルフレッドの手がためらいもなく和巳の上着にかけられると、さすがに危機感を覚えないわけにはいかなくなった。
「当面は言葉が通じるようにしてくださるだけなんじゃなかったんですか?」
「あれの件は片が付いたも同然だろう? おまえの願いは叶えてやったのだから、私の望みも聞き入れてもらわないとな」
遠回しな制止はあっさりと躱され、アルフレッドは今後の関係性を明確にしようとする。
“当面”がこんなに短いものだとは思っていなかったから、和巳の思考はすぐには追い付いてくれなかった。
ただ、ゆっくりと考え込む時間がなさそうなことは、長い上着の裾を押し上げて直に肌に触れてくる手の早さで知れる。
アルフレッドが言うように考えることを放棄して流されてしまえば、きっとその方が楽なのだろうけれども。

「ちょっと待ってください。突然連れて来られて国王陛下の伴侶候補だなんて言われて、やっと指環が外れたと思ったら、今度は精霊王さんとなんて……そんな急には切り替えられません」
「和巳はあれに好意を持っているのか?」
心底、不思議そうに問うアルフレッドの心理が理解できない。和巳が混乱するのは当たり前のことなのに。
「……伴侶になるために異世界へ連れて来られたなんて言われて、意識しないわけがないでしょう?」
もしもフレデリックのことがなければ、いくら和巳が晩熟だといっても、レナードとの未来をもう少し前向きに考えていたに違いなかった。

「惹かれるのも無理はないが……あれは薄まっているとはいえ、私の血が受け継がれているからな」
「え……」
「最初に異界人を伴侶にしたのは私だ。今の王家の祖先になった男子を一人産んで、元の世界に戻って行ってしまったが」
「元の世界にって、帰れないんじゃなかったんですか?」
「最初の異界人が元の世界に戻ってしまったから、それ以降は帰れない者しか連れて来ないようにしている。もう逃がさないためにな」
驚きのあまり、思考力まで固まってしまう。
見つめないようにしようと思っていたはずの、アルフレッドの瞳を真っ直ぐに捕えたままなことも忘れてしまうほどに。

「その者には元の世界に伴侶が居たからな。私はそうと知っていて伴侶になるように強いたから、逃げられたのはショックだったが、連れ戻すことはできなかった。それ以来、番う相手を見誤ったことはない。おまえのことも、一目見た時から本当は私の元に置いておきたいと思っていた。ただ、人の王にも合うとわかっていたから、先に引き合わせてやっただけだ。けれども、結果として、あれはおまえの手を取らなかった。私には何とも好都合な展開になったというわけだ」
蓋を開けてみれば、ますます和巳には理解不能なことばかりで、困惑は深まるばかりだった。

「でも、アルフさんのお見立てでは、僕は陛下の対だったんですよね? なのに、アルフさんとも合うってどういうことですか?」
「対は必ずしもその二人でしか成り立たないというわけではない。合う相手というのが複数いる場合だってあるからな。その中で、一番相性の良い相手を見つけて引き合わせているというだけのことだ」
「じゃ、僕はアルフさんより陛下の方が合うということですよね?」
「そうではない。おまえは“人の王にとって最も良い相手”として連れて来たが、おまえにとっても人の王が一番というわけではないからな。今回の件に限ったことではないが、必ずしも互いが一番同士とは限らないものだ。稀に、誰とでも合うような心の広い者もいるからな」
たぶん、和巳の居た世界もアルフレッドの言う通りで、いくつも縁を持っている人もいれば、ひとつもないのではないかと思うような人もいるのだろう。
それに、向こうの世界には指環のきまりなどないから、縁を見過ごしてしまっている場合もあるのかもしれない。

「それなら、僕の一番は誰なんでしょうか?」
真面目に尋ねた和巳に、アルフレッドは苦笑しながら答える。
「だから、私だと言っている。おまえも、これだけ傍にいて何も感じていないわけではないだろう?」
「だって、アルフさんみたいに綺麗な人を見てときめかない人はいないでしょう? それに、アルフさんは言葉が通じるようにするためとはいえ、キスしてくださったし、何も感じない方がおかしいと思うんですけど」
極力、個人的感情を省いて自己分析したつもりの返事に、アルフレッドが嘆息する。
「おまえは本当に鈍いのだな。おまえの前に姿を現すのを、私がどれほど迷ったと思っている?」
「どうしてですか?」
「私に会えば、たとえそれまで人の王と連れ添ってもいいと思っていたとしても、おまえの気持ちがこちらへ向くとわかっていたからな」
それがただの自意識過剰ではないのだろうとわかっていても、振り回された和巳としては、何か言い返さなくては気が治まらなかった。
「でも、アルフさんの一番は、最初にこちらの世界に来た人なんですよね?」
「だから、最初の相手には逃げられたと言っただろうが。あまり可愛らしくないことを言うなら、強硬手段に出ることにするが、いいのか?」
それがベッドに押し倒された状態の続きを差すと気付くまでに暫くかかり、そうとわかった瞬間、和巳は全力で首を横に振った。
これだけ状況が調ってしまっては、いかに鈍い和巳でも、抗い切れる自信はない。

「気の変わらないうちにと思っていたが、もう急く必要はなさそうだな」
残念そうな顔をしながらも、なぜかアルフレッドが思い止まってくれたおかげで、和巳はもう暫く晩熟のままでいられることになったのだった。






それからの生活は、和巳が望んでいた通りの平和な毎日が送れていた。
朝、目が覚めるのとほぼ同時に与えられるキスで一日が始まる。
そうしてもらわなくては言葉での疎通ができないからだとわかっていても、最初は触れるだけだったキスが日毎に深くなってゆくにつれ、和巳の認識も少しずつ変わり始めていた。

美人は三日で慣れるなんて嘘だと、アルフレッドを見るたびに思う。
こうしてアルフレッドの美貌に見惚れているうちにすぐに時間が過ぎてしまうのも、もう日課となっていた。

先に身を起こし、ベッドに腰掛けたアルフレッドの上半身は、和巳のいた世界で有名な彫像のように綺麗な筋肉を纏っている。
ベッドについた腕も、優雅に組まれた長い脚も、秀麗な外見からすれば意外なほど筋肉質で、実は武道派なのかもしれないと思わせた。

「具合が悪いのか?」
いつまでもぼんやりとしている和巳に、心配げな声が掛けられる。
「あ……いえ、寝惚けてました」
慌てて言い訳を口にしながら起き上がり、アルフレッドの横をすり抜けてベッドを降りる。
気を張っていなければ魂を抜かれてしまうのではないかと本気で心配してしまうくらい、合うと言われていたレナードの時以上に、精霊王が和巳に与える影響は尋常ではないのだった。


冷たい水で顔を洗い、緩んだ頬を引き締める。
簡単に身支度を整えてから部屋に戻ると、先に着替えを終えているアルフレッドはすっかり精霊王らしい装いになっていた。

派手な刺繍の施された上着に映える黄金色の髪は、アルフレッドが動くたびに眩く煌めきながら流れ、知らず目を奪われる。
同じ人型でありながら、人には持ち得ない麗しさを具現した姿こそが精霊ゆえなのだろう。
つくづく、どれだけ眺めていても飽きない容姿だと感心しながら、促されるままに片手を預けて、朝食が用意されている別室へと向かった。

その間に、部屋の掃除やベッドメイキング等の手入れが済まされる。
侍女も侍従も、和巳以外の誰とも関ろうとしないアルフレッドを気遣って、極力その目に触れないようひっそりと作業しているのだった。
だから、朝食を終えて、アルフレッドがどこかへ出かけて行くまで、和巳は他の誰とも接する機会がない。
そのぶん、和巳はアルフレッドのいない間に、少しでも良好な人間関係を築こうと、マシューや他の侍女たちと気さくに過ごす。
もうレナードの伴侶候補から外れたのだから(寧ろもっと大物の目に留まったにも拘わらず)、なるべく一庶民として接して貰うよう頼み、身の回りのことは自分でできるように教わり、他の仕事についても可能な限り手伝うようにしている。
その甲斐あって、この頃はお茶の淹れ方も大分上手くなり、ごく簡単なお菓子や軽食程度なら何とか作れるようになってきていた。自活するための準備は、僅かずつながら着実に進んでいるように思う。
そうやって時間を費やしているぶん、せっかく付けて貰った勉強やマナーの教育係の出番はあまりないが、誰にも窘められることなく、有意義に過ごしている。
周囲は、和巳がアルフレッドの伴侶になるなら人の世の理などさほど重要ではないと考えて、和巳の好きに過ごさせてくれているのだった。




自由を満喫していたはずなのに、アルフレッドが戻ってくると不思議なくらい気持ちが落ち着く。
アルフレッドにも王としての務めがあるのだろうとわかっているから、置いて行かれることに不満はないが、いつの間にか、傍にいないと不安を感じるようになっているようだった。

「変わったことはなかったか?」
アルフレッドが何の前触れもなく窓辺に出現することにも、もう驚かない。
「はい、今日は木の実のパンの作り方を教わりました。すごく美味しく出来たので、良かったらアルフさんも後で味見してみてください」
家庭的ではない両親の許で育った和巳はこれまで料理などしたこともなかったが、教え方が上手いのか、和巳に適性があったのかわからないが、なかなか芳しい成果を上げている。
未だに、和巳がアルフレッドの伴侶になるとは信じ難く、やがては一庶民として慎ましく生きてゆくことになるとしか思えないから、とりあえず生活力だけは付けておこうという目標があるからかもしれない。

「退屈しのぎならいいが、あまり無理はしないようにな」
心配げに和巳を抱き寄せるだけでなく、なぜかアルフレッドは日に何度となく唇にキスをしようとする。
言葉の為なら、今朝も起き抜けに長々と施して貰ったはずなのだったが。

抵抗感は拭い切れないのに、アルフレッドに触れられると体の芯から満ち足りてゆくような心地良さに包まれて、ついつい為されるがままに身を預けたくなってしまう。
腰を抱く手が、抱擁だけでは留まらず、その先を求めるように動くのも初めてのことではないのに。

ふわりと攫われた体が、一瞬でベッドへと運ばれる。
いつになく、アルフレッドが焦れたような顔をしているのが不思議で、それが和巳を我に返らせた。

「あ、あの、アルフさんは、どうして僕みたいな平凡な男を伴侶にしようと思ったんでしょうか? アルフさんなら、もっと綺麗な人とか、選り取り見取りだと思うんですけど」
気を逸らしたいという下心だけでなく、それは初めから疑問に思っていたことだ。アルフレッドほどの外見と力があれば、敢えて和巳を選ぶ必要性はないはずだった。
「異界人というだけでも充分に非凡だと思うが。それに、おまえの言う“綺麗な”者など見飽きている。おまえの黒髪に黒い瞳の方がよほど稀少だ」
「こちらの世界では、僕はレアものってことですね」
確かに、美形揃いのこの世界では、和巳のような一般的な日本人の方が却って珍しいというのも頷ける。
「見目の話なら、そういうことだ。なにより、おまえは物静かで落ち着いているうえに控えめで、傍に置いておくのに適しているからな」
そこまで言われては、謙遜も反論もしづらい。好みかどうかは別にして、和巳には稀少価値があるということなのだろう。




「だから、いい加減に観念しないか」
いつもはすぐに諦めるアルフレッドが、なぜか今日は引く気配を見せず、和巳を追い詰めるように見下ろしてくる。
本当はもう流されてしまいたいと思いながら、なけなしの理性が、今の関係のままではいられないものかと足掻く。
「あ、あの、そういうのなしで伴侶になるっていうのは無理でしょうか?」
「無理だ。前にも言ったと思うが、他に相手がいる状態では、加護を与えてやることはできない」
なぜ、追い込まれているはずの和巳よりも、アルフレッドの方が悲壮な表情を見せているのかわからない。
この世界で楽に生きたいと望む和巳に、決定権はないに等しいはずなのに。

「……もし、僕がアルフさんの加護を受けられなくなったとしたら」
「差し迫って危機に陥ることになるだろうな」
問いを最後まで言わせずに、アルフレッドが結論を出してしまう。
それほど大げさなことではないと、思う和巳の考えが甘すぎるのかもしれないが、言葉の壁なら努力次第で何とかなりそうなものなのに。
「この世界の言葉は、僕には覚えられないような独特なものなんでしょうか? 僕の住んでいた世界にはいくつもの種類の言語があって、全く馴染みのないものでも、習えばある程度は身につけられるんですけど」
言い募る和巳を、憐れむように見つめる眼差しに、どうやら問題はそんな単純なことではなさそうだと気付く。

「……言葉の問題は口づけなくてはならないというわけではない。そう言えば、おまえが受け入れやすいのではないかと考えてのことだ」
「え、と、それはどういう意味でしょう?」
解釈次第では、アルフレッドが和巳にキスをするために言葉の件を言い訳に使ったという風に聞こえる。

「本来の目的はおまえに精気を与えることだ。そうしなければ、おまえは生命を維持することができなくなるからな」
「それは、僕が異界人だからですか? だから、誰かに精気を貰わないと生きていけないってことですか?」
どうやら、和巳が思っていた以上に、和巳の置かれた状況は厳しいものだったらしい。
取り立てて生命の危険を感じたり体調を崩したりしたことはなかったが、異界人の和巳にだけ有害な何かがこちらの世界には漂っているとか、食事以外のエネルギー源が必要だったりするのだろうかと、思いつく可能性を考えてみる。

「異界人だからというよりは、最初の異界人以降、死に瀕した者しか連れて来ていないからだ。元の世界に帰らせないためには、ここでなければ生きていけない者だけを連れて来れば良いとわかったからな。要するに、今後おまえが誰の加護も受けないなら、この世界でも生きていくことはできないということだ」

短期間の間に、いろいろと驚きの連続だったが、まだこれほど驚くことがあるとは 思わなかった。
こちらの世界に来る直前までの記憶を辿ってみても、何か持病があったわけでなく、特に体調不良を感じていたわけでもなく、とても死にかけていたとは思えないのだったが。

「つまり、僕はこちらの世界に来る前に死にかけてたってことですか?」
「来る前ではない。今も、これからも、だ。私の庇護から外れれば、すぐにも心臓が止まるだろう」
まるで死の宣告のような言葉に、和巳は暫し呆然としてしまった。
詰まるところ、どうあってもアルフレッドの伴侶にならなくてはならないということなのではないか。

「……元の世界に戻れないっていうのは、戻ると死んでしまうからですか?」
「そもそも、戻る道は塞いでいるが、もしこの世界から出たとしたら、元の世界に辿りつく前に、おまえの存在は消滅することになるだろう。元の世界では、既におまえは死んだことになっている」
だから、以前マシューに兄弟はいないという話をした時に痛ましい顔をされたのだと、今やっとわかった。

「年を取らないのは、そういう理由からですか」
「そうだ。命を留めることはできても、寿命を伸ばすことはできないからな。死ぬ寸前の魂を留めておくためには、伴侶を得て、いずれかの精霊の守護を受けていなければならない。だが、私の伴侶になるなら、両方を一度に叶えることができるというわけだ」

レナードの伴侶にはならないと決めた以上、この世界で生きていくには、アルフレッドの言う通りにするしか術はないのだろう。
他の相手を探すにも、和巳はまだこの世界のことを知らな過ぎるし、そう簡単に相手が見つかるとも思えない。

「だから、アルフさんは僕にキスしてくれていたんですね」
「その場凌ぎに過ぎないが。おまえは対の相手の精気を身の内に受け入れていないからな」
いくら和巳が鈍くても、アルフレッドの言っていることの意味はわかる。

「あ、あの、もしかして、僕はこのままでは生きられないってことですか?」
「そうだ。口づけだけで長らえることはできない。限界はもう間近に迫っている」

見つめ合ったら指一本動かせなくなると、ずっと警戒してきていたはずなのに。
うっかり目の当たりにした瞳に魅入られてしまえば、もう言い逃れの言葉は思い浮かばず、ただアルフレッドの為すがままに身を任せることしかできなかったのだった。






神の気を身の内に受け入れると世界が変わるらしい。
それとも、和巳はまだ夢を見ているのかもしれないと、覚束ない思考を巡らせた。
ぼんやりと開けた視界の端々に、人ならぬ者の姿が見える。
まるで、和巳が昔読んだ童話に出て来るような薄羽の生えた小さな女の子が、花瓶に活けられた花の周りを飛んでいたり、窓辺で踊っていたりする。

ふと、視界を過った眩い黄金色の光に目線を上げて見れば、それがベッドの際に立つアルフレッドの纏うオーラの色だと気付く。
しかも、今まで気配も感じたことがなかったのに、アルフレッドの傍に、流れるような青銀の髪の、やはり見目麗しい精霊が佇んでいるのまで見えてしまった。湖面のように澄んだブルーのオーラに包まれた立ち姿から、おそらく水を司る人なのだろうとわかる。

「……あの、お客さまですか?」
そういえば身繕いもまだだと慌てる和巳を、大きな手のひらが掛布の上から押し留めた。
「いや、人の世界で言えば側近のようなものだから気にしなくていい。疲れているようなら、まだゆっくりしていろ」
“疲れている”と気遣われる理由に思い至ると、いたたまれなくなって掛布の中で身を丸める。
とはいえ、もしかしたら結局は何もなかったのではないかと疑わずにはいられないくらい、眠りに落ちる前の記憶は朧げなのだったが。


後から思えば、アルフレッドが何か力を使ったのかもしれないと勘繰ることもできるが、その時の和巳には事態を冷静に分析するような余裕はなく、溺れる者のように必死に縋りつくばかりだったように思う。
渇いた喉が水を貪るように、本能的にアルフレッドの気を取り込もうと躍起になっていたのは覚えている。
やがて、精気が体中に巡り、細胞のひとつひとつが活性化されてゆくのを実感する頃には、和巳の思考力は完全に飛んでしまっていた。
それがどれくらいの時間だったのかもわからない。ただ、熱に浮かされたように散漫な意識は、アルフレッドの声で、ほんの少しだけ現実に戻された。
「もう大丈夫だな」
安堵の吐息と共にかけられた言葉が、生命の危機から脱したという意味だとは寝惚けた頭では思いも付かず、首を傾げてアルフレッドを見上げた。
目が合うと、苦笑まじりにもう何度目かもわからないキスを唇に落とされ、さすがに鈍い和巳にも、どうやら“初夜”は無事に終了したようだとわかったのだった。


「和巳?」
すっかり物思いに耽ってしまっていて、アルフレッドの呼ぶ声が脳に届くまでに時間がかかったらしい。
掛布が捲られていることに気付いて慌てたが、先の精霊の気配は既に消えていた。
「……“気”が強過ぎたのか」
心配げに伸ばされた腕の中に、吸い寄せられるように近付いていってしまう和巳は、まるで催眠術にかかっているみたいだと思う。
けれども、細かな記憶は曖昧でも、その腕に包まれれば何もかもが満たされることを、和巳はもう知ってしまった。
これからは、身に余るほどの力強い精気を糧にして生きていくしかできないことも、わかっているのだから。






後日、和巳の様子を見にレナードが離宮を訪れた。
執務の合間を縫ってきたのか、敢えてアルフレッドがいない時間帯を狙って来たのかはわからないが、また険悪な場面に立ち合わずに済んだことにホッとする。

「不便はないか?」
「はい、ここは静かで快適です。アルフさんとも仲良くしてます」
レナードの伴侶候補だった時とは比べものにならないくらい、離宮での生活は平和で、異界に居ることを忘れさせるくらい居心地が良い。
もし和巳が一般的な十代の感覚を持っていたとしたら、刺激のない毎日は退屈でストレスになっていただろうが、元から安寧を望む傾向が強かっただけに、願ってもない環境と言ってもいいくらいだった。

「未だ納得はいかないが、おまえが満足しているのなら間違いではなかったということなのだろうな」
「そうですね、恐れ多いとは思ってますけど、アルフさんが傍に置いて下さっているので、甘えさせて貰っています。それに、陛下の時のように周りが異常に盛り上がったりするようなこともないぶん、僕としては今の方が気楽かもしれないですね。陛下の方もお変わりないですか?」
話の流れを装いながら、気掛かりだったことを尋ねてみる。
偽装とはいえ伴侶候補にされていた和巳は、少なからず迷惑を被ったのだから、そのぶん二人には上手くいってもらわなければ意味がないという思いもあった。
「フレッドとは相変わらずだ。周りがまた結婚しろと騒ぎ立てない限り、俺たちは上手くやっていけるだろう」
迷惑していたのは自分たちの方だと言わんばかりの口ぶりに、確かに、振り回されたのはレナードも同じだったことに気付く。
それでも、ひとまず伴侶問題から解放されて肩の荷が下りた気がしているのもまた同様で、余計なお世話かもしれないが、もう周囲がレナードに無駄な期待をかけないことを切に願った。


「そんなに心配なさらなくても、私はずっと陛下の傍にいます。陛下と連れ添うことはできなくても、今後、陛下がどなたかを伴侶に迎えられても、陛下が望む限り、私の忠誠は生涯変わりません」
レナードを迎えに訪れたフレデリックは、和巳にだけこっそりと決意表明をして帰って行った。
フレデリックが敢えて“忠誠”と言ったものを、それでも生涯と言い切る覚悟に安心すればいいのか、結局はレナードの思いに応える気はないのだと悲観するべきなのか、和巳にはわからない。




つらつらと思い悩みながら、午後遅く戻って来たアルフレッドを出迎える。
いつものように、アルフレッドは和巳に口づけると、その広い胸にすっぽりと包み込んだ。
アルフレッドから放たれる気はヒーリング効果を伴っているようで、和巳の気分を落ち着かせてくれる。

「人の王のことで、おまえが気を揉む必要はない。あの二人が対になり得ないことは、もはや明白だろう?」
アルフレッドは唐突に、まるで和巳の胸の内を見透かしたようなことを言う。
「そういえば、アルフさんは最初からカーディフさんが陛下の申し込みを受け入れるはずがないって仰ってたんでしたね」
「あの者は、何年も前から父の方を好いているからな。子の方に仕えるよう命じられたから傍にいて支えてきたものを、好かれて求められた時にその延長線上で応じたばかりにややこしいことになってしまったのだろう。最初に毅然と断っておくか、いっそ父の方を好いているとハッキリ言ってやれば良かったものを」
アルフレッドは二人の経緯やフレデリックの事情も把握していたようで、相性の問題以外の面でも、対にはならないという認識だったようだ。だから、初めて会ったときに、二人の可能性を否定したのだろう。
「まあ、もう片方も脈がないとわかっていて関係を強いているのだから、どっちもどっちなのだろうが」
結局、報われていないと取るかどうかは主観の問題で、当人がそれで納得しているのなら、和巳が心配するのは余計なお世話なのかもしれない。
アルフレッドの言う相性が、恋愛感情や結婚という形に拘ったものなら、レナードとフレデリックが対にならないのは仕方のないことなのだと、漸く和巳にも理解できたような気がした。




「和巳さまって大物食いだよね」
和巳のモヤモヤが解消した頃、休憩中のマシューが侍女の一人に振った話題は、その場にいた皆に共感され、主人のいない空間を盛り上げていた。
本人の自覚はさておいて、和巳が望んでいた平穏よりは些か賑やかな生活を、異界の地で送ることになったのだった。



- ゆびわのきもち - Fin

Novel


2012.6.20.update

書き始めた頃は、無気力というか、感情の起伏の乏しい主人公を書きたかったので仕方なかったのですが、
読んでくださる方のことを思えば、レナードかカーディフ主人公で書くべきだったんだろうなあ、と反省しています。
そしたら、俺さま×ツン展開になったはずなので、もうちょっと盛り上がりがあったと思うのですが。