- ドラスティック.8 -

☆ドメスティック.Z の後日談になっています。



「黒ー」
ソファに横になったまま、キッチンにいる黒田を呼ぶ紫の態度はかなり横柄だったが、大きな体躯は、まるで忠犬のように速やかに傍にやってくる。
ただ、機嫌を窺うような表情とはうらはらに、発せられた言葉は少々不満げだった。
「紫さん、そんな犬を呼ぶような言い方はどうかと思いますが」
紫の顔の横辺りの床に膝をつき、少し距離を保つ今の黒田は、恭しいといってもいいほどだ。
「あんたが他人行儀な呼び方はやめろって言うからだろ」
「それなら名前で呼んでくれればいいじゃないですか」
最初からそう呼ばれたがっているのだろうとわかっていたが、紫は黒田の“悪友”に絡まれた日から、こいつのファーストネームなんて一生呼んでやるもんかと思っている。
そればかりか、あの一件以来、黒田の部屋に来るのは初めてで、今後訪れるのも黒田を伴っているとき限定という不便さを強いられてしまった。
つきつめれば、結局はこの節操なしを恋人にしてしまった自分の非だということに他ならないのだったが。

「じゃ、黒田」
「それは名字ですよ。もう少し親愛の情を籠めた呼び方をしていただいてもいいと思うんですが」
「だったら、“黒”でもいいだろ?気持ちは籠ってる」
腕を伸ばし、黒田の頬に触れる。
困ったような顔をする理由を知っていながら、紫はわざと挑発するように見上げた。
「紫さん、それは“待て”解除と受け取っていいんでしょうね?」
手首を掴まれ、熱を帯びた眼差しを向けられると、見つめ続ける勇気は持てずに顔を背けてしまう。

いつまた黒田の悪友が襲撃してこないとも限らないと思うと、とてもここで抱き合う気にはなれず、黒田が強く出れないのをいいことに“お預け”を命じたままでいる。
きっと、キスを許せばなし崩しに流されてしまうだろうということは想像に難くない。だから、ここでは軽くハグをする程度に留めさせていた。実のところ、それではもの足りないと思っているのは自分の方だとわかっていても。

「そんなに心配しなくても、もうあの人たちはここには来ませんし、万が一来たところで私がついていますから」
黒田の言いたいことはわからないでもないが、頭と体は別物で、意地とはまた違った次元に二つの思いがある。
この部屋にいること自体が怖いという後遺症的な不安と、もし黒田に抱かれているときの自分を見られたらという言い知れぬ恐怖と。
不感症どころか、快楽にめっぽう弱いと知られたら、今度こそ逃れられなくなるのではないか。

「でも、俺、5Pとかムリだし」
内心を押し隠して、努めて軽く返した紫に、黒田は驚きとも怒りともつかぬ顔をする。
「何てことを言うんですか、そんなことは絶対にさせません。できるなら紫さんをどこかに閉じ込めて誰にも見せたくないくらいなのに、他の誰かと共有するなんてあり得ません」
言い切る語気の強さに、正直面食らった。
あんなに横暴だった黒田が、何故こんなに低姿勢になったのか、知っていたはずなのに。

「……俺って、かなり愛されてる?」
「この上なく愛していますよ、今まで会った誰よりも」
真顔で言い切る黒田を、却って信じられないと思う自分の猜疑心の強さにいい加減うんざりしながら、尚も試すような言葉が口をつく。
「それなら、三日と言わず一週間でも十日でも我慢しろよ?」
目を瞠る黒田が、何を思ったのかは知りたくなかった。

「わ」
崩れるように、黒田の頭が紫の胸元へと突っ伏してくる。
「努力はしますが、せめて一週間以内にしてください。それ以上は自信がありません」
懇願するような声音でも、結局それは紫にとっては脅迫でしかなく。

「……俺にごちゃごちゃ言うんなら、あんたも妄りに他の誰かで済ませようとするなよな」
顔を上げた黒田は、ひどく驚いたように紫を見つめてきた。
「そんなことはしませんよ。あまり“お預け”が長いと、我慢できずに紫さんを無理やり襲ってしまいそうだと言ってるんです」
戸惑う紫の、頬へと延びてくる手に包まれ、少し強引に黒田の方に向かされる。
「そろそろ、“カム”か“OK”と言ってくれませんか?」
焦れたように見つめられると、引きずられそうになる。きっぱりダメだと言えるなら、黒田を助長させることもなかったはずだった。

「まだ5日目だろ?辛抱が足りないと思わないのか?」
「駄犬で結構ですよ、マウンティングされないうちに早く解除してください」
掴まれたままの紫の片手を頭上に押さえ込まれ、真上から見据えられると、これ以上抵抗することの無意味さを痛感した。

「しょうがないな……最初にちゃんと躾られなかったんだから、もう手遅れだよな」
観念して目を閉じる紫の首筋へと、吐息がかかる。堪らず反らす喉へ、唇が伝い降りてゆく。もっと触れて欲しくて、押さえられていない方の手で、黒田の後頭部を引きよせた。
結局、辛抱ができないのは紫の方なのかもしれない。

「黒……」
「まだ、そう呼びますか……紫さんの家でもずっとおとなしくしていましたし、“ご褒美”をくれてもいいと思うんですが?」
おとなしくと言うが、紫の実家でも二人きりになればすぐにベタベタしようとしていたくせに、ご褒美まで欲しがる黒田は図々し過ぎる。

期待に満ちた眼差しから、ふっと目を逸らす。宥めるように、黒田の頭を撫で、耳元へ唇を寄せる。
「俺は、あんたの“お友だち”と同じ呼び方なんかしないんだよ」
黒田の望みを却下するのは難しいが、どうしてもそれだけは譲れそうになかった。




- ドラスティック.8 - Fin

Novel  


2010.5.10.update

“クロ”とカタカナ表記にするべきか迷ったのですが(その方が犬らしいので)、
やっぱり漢字の方がイメージを崩さないように思えたので“黒”にしました。

☆黒の台詞について補足ですが、“待て(ウェイト/ステイ)”の解除は“よし(OK)”、“来い(カム)”等だからです。