- ドラスティック -



「まさか、ピーラーでケガをする人がいるなんて思いもしませんでしたよ」
紫の左手の、洗い流した傷口を軽くガーゼで押さえながら、黒田がため息を吐いた。
うっかり、じゃがいもの皮と一緒に中指の表皮を剥いてしまった紫は、黒田を苛つかせてしまったらしい。
「一体どうやったらこんなところに刃が当たるんですか」
「……そんな怒らなくてもいいだろ」
ほぼ30年、殆どキッチンに立つ機会のなかった紫にとって、料理は簡単なものではなかった。黒田の所へ泊まりに来る度、不本意ながら翌日の朝食の用意を手伝っているというのに、黒田の評価は厳しいと思う。
「怒っているわけではありません。予想外の事態に動揺しているだけです」
「だから、俺にはこういうのは向いてないの。そんなに腹を立てるくらいなら、料理の出来る奴とつき合えばいいだろ」
「……そういうことを言いますか」
心なしか、黒田が痛そうな顔をしたような気がしてドキリとした。言葉が過ぎたようだと気付いても、もう遅い。
握られた手首は、手当てを終えても離してもらえそうになかった。それどころか、いつの間にやら黒田の首の後ろへと誘導されてゆく。
「なあ、これ、どうするつもり?」
「そうですね、どう料理しましょうか」
黒田の目線は調理台ではなく、明らかに紫に向けられていて、あろうことか情欲の色を濃く浮かべてさえいた。
「俺じゃなくて!このままじゃ飯食えないだろ」
声を荒げてみても、今にもシンクに体を押し付けられようとしているような状態では、中途半端に放り出された食材の心配をしている場合ではなさそうだった。
「私は食事より先にあなたをチャージしたいんですが?」
「だめ、俺のブランチが先……っ」
言い終わらないうちに塞がれた唇は、たわいなく反論を継ぐのを諦める。黒田のキスはいつも有無を言わせないほど優しくて、知らぬ間に紫の反抗を宥めてしまう。
黒田の手に引き寄せられた腰まで甘く痺れて、もう紫の主張を通すことは出来そうになかった。



「……腹へった」
互いをチャージし終えて熱がおさまると、色気のない言葉が口をついた。波が行き過ぎてしまえば、いくら慣れてきたと言っても、朝っぱらからこんな場所でサカってしまった自分が恥ずかしい。
「もう少し余韻に浸っていたいと思いませんか?」
まだ背後から紫を抱きしめたままの黒田の声がどんなに甘く響いても、本当は自分もそう思っているとは認めたくなかった。
「だから、俺は腹ごしらえが先って言っただろ」
「……そうですか。わかりました。すぐに用意しますから、少し待っていてください」
苦笑する黒田が何を思っているのか、今は考えたくない。流されるばかりの紫の、つまらない反抗だとわかってはいても。
「早く服を直さないともう一度襲いますよ?」
口ではそんなことを言いながら、黒田はもう料理の続きに取り掛かっていた。紫の不器用さに呆れたのか、手伝いをさせる気は失せてしまったらしい。
「なあ、俺も何かしようか?」
手持ち無沙汰に声をかけてみたが、黒田の返事は少し冷たい。
「構いませんから座っていてください。またケガをさせてしまったら大変ですから」
「悪かったな、不器用で」
「そんなことはありませんよ、私がもう少し気を付けていれば良かったんです。目を離すのが早過ぎました」
「呆れてんのか」
「いいえ、綺麗な指に傷を付けたことを反省しているんですよ」
思いがけない言葉に面食らった。どうやら、黒田は本当に紫がケガをしたことを気にしているらしい。
「じゃ、今日は見学しとくな?」
黒田の傍に近付いて、刃物を持っていない方の肩に顔を寄せた。肩に手をかけて、見学というよりジャマにしかならないような体勢で覗き込む。
「紫さん……今度は私を傷物にするつもりですか。ランチにも間に合わなくなっても知りませんよ?」
「ていうか、あんたが全部やった方が早いのに、何で俺に仕込もうとすんの?」
「そうですね。たとえば夜勤明けで戻ってきた時にあなたが食事の用意をして出迎えてくれたら疲れが飛ぶでしょうし、たまには先に起きて朝食を作ってくれるようになるかもしれませんし、いろんな下心からですよ」
出来合いのもので構わないなら、すぐにも叶えられるのに、黒田の要望は“手作り”らしかった。
「あんた、ホントにそんな日が来ると思ってんの?」
「少し先になるかもしれませんが、そのうちには」
「あんたは気が長いよな」
「まあ、猫は芸をしないものですから、仕込むのに時間がかかるのは仕方ありません」
「……また“猫”かよ」
殊勝げな言葉に絆されそうになっていたが、まだまだ紫は黒田に敵いそうになかった。



- ドラスティック - Fin

Novel  


ドメスティック→ドラスティックと微妙にもじってみたり。
相変わらずタイトルをつけるのは苦手です。
甘いのを、というご要望をいただいていたので糖度高めにしたつもりなのですが……。
やっぱりこちらの二人で甘々は難しいですー。