- 愛のかたまり -

☆『Someone Else Like Me』の視点を俊明に変えただけのお話です。
本編を読んでいない方には不親切な展開なので、苦手な方は回避してください。


【 1 】

「ごめんなさい、やっぱり俺……」
遠慮がちに抑えた声が、足早に行き過ぎようとしていた俊明の興味を惹いた。
高過ぎず低過ぎない中性的な耳障りの良いトーンは心なしか震えて、そのまま押し切られてしまいそうな弱々しさが庇護欲をそそる。
けれども、終電が去った後の駅の構内は閑散としていて、その控えめな小競り合いに目を留める者は俊明の他にはいなかった。
男に掴まれた腕を振り解こうと抗う華奢な体が、抵抗の甲斐なく引き摺られるように俊明の横をすり抜けてゆく。
「今更そういうことを言うなよ、金が要るんだろ?」
訳知り風な男の言葉に、あどけないと言っても差し支えないほど幼さを残した横顔は青ざめ、細い腰に伸びてくる手のひらに身を竦めながら、何とかこの場に留まろうと努めている。
ふと覚えた既視感にドキリとした。
小綺麗な顔立ちをしているが、どこか自信のなさそうな瞳と頼りない物腰が、俊明の知る面影に重なる。場所の違いはあっても、かつての恋人に出会った時を彷彿とさせるようで、俊明はその光景を見過ごすことができなかった。
今にも連れ去られてしまいそうな痩せた体を背に庇うように、二人の間に割り込む。細い手首から男の指を外させ、自由になった手を包むようにそっと繋ぐ。
「悪いけど、僕が先約なんだ」
「なっ……後から来て何言って……」
見るからに短気そうな男が荒い声を上げる。
せっかく捕まえかけた上等な獲物を奪われそうだと、本能的に察したのだろう。
「僕が来るのを待ちきれなかったらしくてね、勘弁してくれないか?」
やんわりと返しながら、否と言わせぬ強い視線で男を睨めつける。
静かな睨み合いに根負けして先に目を逸らしたのは本来優先権のあるはずの男の方で、粘っても無駄だと悟ったのか、いくつか悪態を吐いただけで去って行った。
呆然と、俊明を見上げたまま立ち尽くしている高校生と思われる相手に声をかける。
「余計なことをしてしまったかな?」
「あ……いえ。すみません、助かりました」
我に返ったように慌てて頭を下げると、今度は真っ直ぐに俊明の目を見つめてきた。
到底、援交まがいのことを(もしくはそのものを)しようとしていたとは思えないくらい顔立ちも態度も真面目そうで、色事に長けているようには見えない。何か事情があってのことだったのかもしれないが、かなり晩熟なように思えた。
そういえば、前の恋人と会ったのも離婚したばかりの頃だったと、とりとめのない考えが頭を過る。
よもや、それがジンクスになってしまったようだとは、俊明はまだ気付いていなかった。



【 2 】

俊明が助けた(もしくは援交の邪魔をした)学生は芝南央(しば ななか)と名乗り、お金だけでなく泊まる場所が必要なのだと言った。
家出を疑う俊明に、複雑な家庭事情で今日は帰れないと言い、俊明の家へ来たがった。
初対面の男について行こうとする無謀さを説いたつもりが絆され、結果、 連れ帰ることになり、風呂と着替えを提供し、泊めるに至っている。
道すがら、南央が学校の授業料を失くし、それを贖うために援交を思い立ったことと、自分の性癖の確認にもちょうどいいという安易な考えで行動を起こしたことを聞いた。
男に絡まれていたところに俊明が通りかかったという出逢い方も、華奢で儚げな雰囲気も、かつての恋人と共通していると思っていたのに、“俊明さん”と呼ぶ声のトーンまでが似通っているようで驚かされた。まるで、やり直す機会を与えられたような気になってしまうほどに。

俊明のパジャマを着て風呂から上がってきた南央はあまりにも細く無防備に見えて、庇護欲よりも支配欲を駆り立てられて、柄にもなくうろたえた。
肩が合わず広く開いた襟元から、ほんのりと色づいた薄い胸元が覗く。折り上げた袖から伸びた腕は細く、色気や艶といったようなものとはほど遠いのに、異常なほどに俊明の脈を煽る。
油断すれば取り返しのつかないことになりそうな気がして、南央に先に寝ておくように言い置くと、逃げるように風呂場に向かった。
いつになく長湯せざるを得なかったのは、まだ幼げな南央に抗いがたい引力を感じていたからで、それも、口では否定したはずの即物的な欲という情けなさだった。
自分のことを節操なしだと思ったことはないが(聖人君子のようだとも思っていないが)、自制のきかない衝動を持て余してしまう。
二度目の離婚をしてから誰かと深くつき合う気にはなれず、かといって刹那的な関係で紛らわせたいとも思えず、生理的な欲求もおざなりにしていたことに気付いた。
いくら南央が真面目そうに見えても男の袖を引くようなことをしかけていたのは事実で、大人としては道を踏み外させないよう導かなければならないという建て前と、据え膳は食うものだという大人の都合のいい言い訳がせめぎ合う。
名乗るときに敢えて社員証を見せたのは、(よもやこんな事態に陥るとは想定していなかったが、)自戒の意味もあり、それが俊明をかろうじて踏み止まらせているともいえる。
のぼせそうな体を水で冷ましてからリビングに戻ってみれば、南央はまだソファに座って待っていた。
今にも閉じてしまいそうな目を、懸命に堪えて。




【 3 】

「……どうやら僕は離婚すると男の子を拾うことになっているらしくてね」
子供らしい、真っ直ぐに瞳を覗き込んでくる視線に耐え切れず、俊明はつい本音を明かしてしまった。
「じゃ、俊さん、男も大丈夫ってことですよね?」
期待に満ちた眼差しに辟易しながら、明確に答えることはできずに苦笑する。
「どうかな……前につき合っていた人は例外というか、中性的な感じだったからね。いかにも男って感じの人は無理かもしれないな」
「俺って、いかにも男って感じですか?あんまり言われたことないんだけど……あ、これから男っぽくなるってことですか?」
先回りして悲しげな顔をする南央に、つい庇うような言葉をかけてしまう。
「きみも外見はどちらかといえば中性的だと思うよ。成長期といっても、もうそんなに極端な変化はないだろうしね。個人的な好みを言えば、きみのように“可愛い”と“綺麗”の中間くらいの顔がタイプだし、少し細すぎる体つきもいいなと思うよ」
本音を言えば南央のように華奢で小綺麗な男が対象外のはずがなく、それはかつての恋人の名残のように俊明を誘う。油断をすれば、すぐにも押し倒してしまいたくなるほども。
「それなら、サポとかいうんじゃなくて、俺とつき合ってくれませんか?」
明快に口説き始めた南央は、殺人的な無邪気さで俊明を誘惑する。
「俺、次の人が決まるまでのツナギでもいいし、軽いつき合いでもいいです。つき合ってくれるんなら、もうしつこくしないし、俊さんが前の人を忘れるまで待ってます」
俊明が断ったところでまた別の男を誘うだけで、それでは南央を救うことにはならないと、身勝手な言い訳に負けそうになる。
「……僕のことを何も知らないのに、そんなことを言って大丈夫かな?」
「初対面の俺に5万も払ってくれて、何の見返りも要求しないし、こんないい人はいないと思います。もし、騙されたとしても、悔いはないです」
まるで俊明を信頼しきっているかのような返事に、大人気なく頭に血が上った。良識ある大人でいようとすることがどれほどの労力を強いられるか、大胆な行動と裏腹に中身は幼いらしい南央は気付かないらしい。
「僕は逆の心配をしているんだよ。僕はつき合った人のことは好きになってしまうからね。僕が本気になったとき、きみは責任を取ってくれるのかな?」
「責任って、どういう……?」
「興味本位じゃなく、ちゃんと僕の本気につき合える?思っていたのと違ったとか、やっぱりこんなおじさんは嫌だとかいうことにならないかな?」
「遊びじゃないっていうこと?俊さんが構わないなら、俺もその方がいいです。俺、最初は優しい年上の人がいいって思ってたし……」
うっすら顔を赤らめた南央は、“本気”を軽く考えているようだった。そんな無防備に、全て俊明に許すと言わんばかりの表情を見せられたら、期待せずにはいられなくなってしまうのに。
「誤解があるようだからハッキリ言っておくけど、きみが卒業するまでは“清いおつき合い”だよ?」
「ウソ……あと、2年近くあるのに?」
手近な誘惑は確かに魅力的だったが、俊明が本当に欲しいと思っていたのは刹那的な関係ではなく、永続的に愛を傾けられる相手だ。
もちろん、幼い南央にそんな寒いことを望んでいると告げるつもりはないが、つき合いが続けば、嫌でも俊明の気持ちを無視することはできなくなるだろう。
「きみは僕を犯罪者にしたいのかな?未成年者と性関係に至ったら、“真摯な交際関係”であっても罪に問われる場合があるようだからね。特に、同性間では“結婚を前提としない”と取られかねないし、きみの親に訴えられたら僕は逮捕されてしまうんだよ?」
「……じゃ、それは保留でいいです。つき合ってくれることになっただけでも、すごいことだと思うし」
「保留じゃなくて延期だよ?」
「どっちでもいいです、俺には同じことだから」
やや不満げではあったが、南央は俊明の条件を飲むことにしたようだった。




【 4 】

南央は今時の子にしてはメールも電話も控えめだった。
もっとくだけた喋り方をして欲しいと南央に言って以来、話すときに敬語を使われることは殆ど無くなったが、メールの文面は常に敬語になっている。しかも、ごく短い用件や返事のみのものが殆どで、俊明の知る誰のものよりも素っ気無かった。
口説かれたときに感じた押しの強さや情熱は、素の南央にはないような気がする。もしかしたら、あと2年間はプラトニックな恋愛しかしないと言ったせいなのかもしれないが、南央は意識して俊明との間に壁を作ろうとしているように思えて仕方なかった。



休日出勤をしていた俊明とは違い、一日休みだったはずの南央は10時過ぎにはもう眠そうな顔をして、一緒に選んだはずのDVDを退屈げに眺めていた。
レンタルする前に南央の希望を確認したつもりだったが、もしかしたら俊明に気を遣って興味のないものを見たいと言ったのかもしれない。
欠伸をかみ殺す仕草を微笑ましいと思う反面、俊明と過ごすのはつまらないという意味にも取れて、ディスクを変えるか、いっそ見るのをやめるべきか迷う。
やがて、画面の中に色っぽい雰囲気が漂い始めると、俊明の肩に凭れかかっている体が居心地悪げに身じろいだ。
映像に刺激されたのか、南央はとんでもない問いを俊明に投げかけてくる。
「……キスするのも、ダメなの?」
出逢った日に言っていた“興味”が視覚的に触発されたのか、南央の瞳は幼いながら危うげな色気を湛え、俊明を惑わせる。
「こういうのを見ると、そういう気分になる?」
内心の動揺を悟られぬよう努めて大人の顔を装って返したが、ふと、自制するばかりでなく、少しは南央の好奇心を満たしてやらなければ愛想をつかされてしまうのではないかと気付いた。
「見なくてもなるけど……“清い”って、どこまでならいいの?」
問い詰めるような口調に、なるべく刺激しないよう無難な言葉を選ぶ。
「そうだね。どこかにラインを引いておかないと、気が緩んで箍が外れてしまうといけないかな」
「……外れた方がいいのに」
「ナナ?」
投げやりな南央に、一瞬でも気を抜けば流されてしまいそうで、ついきついトーンになった。
「俊さんてすごくきちんとしてるみたいだけど、俺くらいの頃もそんなに真面目だったの?」
「僕がナナくらいの頃は今みたいに厳しくなかったからね。それに、お互い未成年なら罪に問われるということもないだろうけど、僕は大人だからね」
「そっか……年上でも、もっと年が近い人なら問題ないんだ」
出逢って間もなく熱心に口説かれたせいで勘違いしてしまいそうになるが、南央が求めているのは単に大人の優しい男で、必ずしも俊明である必要性はなかったことを思い出す。今となっては繋ぎ止めておきたいのは俊明の方で、そのくせ大人の都合で南央の望むことはお預けというような状態では、不満に思われるのは当然のことなのかもしれない。
「冗談でもそういうことを言わないでくれないかな?他の人もだめだよ、きみはもう僕とつき合ってるんだからね」
「でも、俺、この間も友達にセマられたし、そのうち好奇心に負けてしまうかも」
ただの子供じみた挑発だとわかっていても、迂闊な返事をするわけにはいかなかった。たぶん、俊明が前の恋人を失うことになったのは、友人からの回りくどい忠告を深く気に留めなかったり、恋人が表に出さない本心では疾うに切羽詰っていたと気付かなかったりしたせいで、結果、配慮の足りない言葉をかけてしまい、取り戻すことができなくなってしまったのだった。
「ナナが自分で断れないなら、僕が出向くよ?」
「そんな大げさな話じゃないから。ノンケの奴だし、ちょっとふざけてただけだし」
慌てて言葉を翻すのは、やはり俊明を試してみただけなのだろうか。
「本当に?」
「うん。俺がしっかりしてれば大丈夫」
「それなら信用しても大丈夫かな?ナナはしっかりしているから」
念を押す言葉に、南央はいつもの大人びた笑顔で答えた。




【 5 】

「途中で寝てしまうかもしれないけど、いい?」
予めそう告げられていた通り、ほどなく南央は俊明の肩に凭れたまま気持ち良さそうに眠ってしまった。
警戒心のなさは俊明を信用しているからか、幼さゆえの無防備さか、寝入ってしまった南央は軽く揺すったくらいでは目を覚ましそうになく。
暫くは南央を肩に抱いたまま画面を眺めていたが、もう脳はストーリーを追えず、ただ腕の重みにばかり気持ちが傾いてしまう。
このままでは我を忘れて意識のない相手に無体なことをしてしまうのではないかと自分の自制心が信じられなくなり、迷った挙句、場所を変えることにした。


ベッドへ連れて行って横たわらせても南央はくうくうと安らかな寝息を立てるばかりで、全くもって身の危険を感じていないようだった。
影になった南央の寝顔が見たくて、頬にかかった長めの髪を払う。さらさらと零れ落ちてくる艶のある髪を梳く手はそれだけで留まらず、頬を撫でずにはいられなかった。
そっと指を滑らせて顎を上げさせ、規則正しい呼吸をくり返す唇に触れると、異常なほどに脈が速くなってゆく。
おそらく、深い眠りの中にいる南央にもう少し触れたところで気付かれることはないだろう。薄く開いた唇から覗く舌の感触や、シャツの下の肌の手触りを確かめることも、今なら簡単そうだった。

おそろしく甘い誘惑を、軽く首を振って払う。
触れてしまえば、少しで済ませられるはずがないとわかっている。きっと、大人失格な事態にまで発展してしまうことは目に見えていた。
一度でも南央を“そういう対象”に見てしまえば、二度と抑えがきかなくなるだろう。わざわざ、南央が卒業するまではプラトニックな交際だと言っておいたのは自戒の意味の方が強かったのだから。

何とか衝動をやり過ごしてから、南央の胸の辺りまで薄い肌掛けで覆い、生地を隔てた隣へと横になった。
心身ともに未成熟な南央を焦らせたくはない。たとえ痩せ我慢であっても、俊明は余裕のある大人の顔をして、無理に背伸びをしなくても機が熟すまで待っているというスタンスでいなければいけないと思っている。
実際には、南央に対して紳士的でいようとし過ぎて、却って不謹慎な事態を引き起こしてしまったりしたのだったが。



【 6 】

抱きとめた体の、あまりの細さに面食らった。
食事を摂った店の外で、歩道との段差に躓き転びそうになった南央を支えるつもりで出した腕は咄嗟のことで力の加減ができず、痛い思いをさせてしまったような気がする。
いや、それ以上に、その折れそうに細い腰に劣情をそそられたと悟られることを恐れて、慌てて身を引いたのかもしれない。
ひどく細い、たおやかな体に中性的な容姿が、今の俊明の“どストライク”だと認識させられた瞬間でもあった。

何か言いたげに顔を上げた南央の様子がおかしいと気付き、突然の衝動に焦るあまり俊明が不自然な態度を取ったことで誤解させようだと思い至る。
「ナナは思っていた以上に細くてびっくりしたよ。思わず力が籠もってしまったけど、大丈夫だったかな?」
「え……あ、うん」
即行フォローに回った俊明に、南央は拍子抜けしたようで言葉が上手く続かないようだった。
「肩幅も狭いし体も薄いし、強く抱いたら折れてしまいそうな気がするよ。こんなに華奢な男の子はそういないだろうね」
明確に口説くわけにもいかず、ほどほどに期待を持たせるような言い方をするのはいつものことで、どうすれば好奇心ばかりが先走る幼い恋人に愛想を尽かさせず繋ぎ止めておけるのか苦慮してしまう。そうでなくても自分の忍耐力にはあまり信用がおけないというのに、寧ろ襲って欲しいと言わんばかりの無防備さには、いつまで自制できるか甚だ怪しい。
内心の葛藤はさておき、含羞んだように俯いた南央の首筋は赤く、ひとまず弁解は聞き入れられたようでホッとした。

そのまま南央を連れ帰ろうとしていた俊明の邪魔をしたのは母親からの電話で、自宅に戻って以来めっきり実家に顔を出す機会の減った俊明の週末の予定を確認するものだった。
日曜はだめだと断り、休出がかからなければ土曜に、という曖昧な返事で手短に通話を終え、少し距離を取って待つ南央を追いかける。
もっと一緒に居たいと思い俊明のマンションへと誘ったが、南央の返事はずいぶんと素っ気無いものだった。
その後のやり取りでも、南央の受け答えは優等生過ぎて、それが余計に俊明を我慢のきかないダメな大人にしてしまう。
おそらく南央には駆け引きをしているつもりなどなく、聞き分けがいいということは俊明に対する思い入れも浅いということで、本気になっているのは俊明だけだということになる。
ただ引き止めるためだけに思わせぶりな行動をするべきではないとわかっていても、その肩を抱き寄せずにはいられなかった。
「まだ帰したくないけど、だめかな?」
不謹慎なほど熱っぽく、耳元で囁く俊明の思惑に背くことなく、眼下に晒された南央の首筋が再び赤く染まっていく。思いの方向性はともかく、南央を連れ帰ることには成功したようだった。





【 7 】

土曜の夕方だというのに手ぶらで訪れた南央に違和感を覚えた。
明らかにいつもと違う雰囲気と、部屋に入ることを躊躇うような素振りが気にかかり、少し強引に中へと引き入れる。
「ナナ?何かあったの?そんな思い詰めた顔をして」
南央が暗い表情を見せるようなことは滅多にないだけに心配になる。迷うように揺れる瞳を覗き込むと、南央は意を決したように口を開いた。
「……話したいことがあるんだけど、いい?」
「いいよ。座って聞こうか?」
言い出しづらくならないよう、努めて優しく背を促す。
ソファへと腰を落ち着けてほどなく、南央はひとつ息を吐いてから話し始めた。
「……俊さん、大きな病院の跡取りなんでしょう?」
断定的な問いかけに驚きは隠せなかったが、南央が知っているのなら誤魔化すべきではないと思い、なるべく感情を交えずに事実を告げる。
「大きいというほどでもないよ、個人病院だし。それに、僕は医者じゃないから跡は継がないよ」
「お医者さんじゃなくても、経営に携わったりとか、するんでしょう?」
「先のことは断定できないけど、たぶん関わらないと思うよ。僕には弟もいるし、一度免除されているからね」
「どうして、病院のこと黙ってたの?」
南央がどんな噂を聞きつけたのか、或いは誰かに心無い中傷でもされたのかわからないが、いつになく強い調子で詰め寄られ、俊明もつい言い訳がましいことを言ってしまう。
「別に隠していたわけじゃないよ、わざわざ話すようなことでもないだろう?僕は独立して自分の収入で生活をしているんだから、実家がどうでも関係ない」
俊明の答えに納得がいかなかったのか、南央は俯き、聞き取れないほど小さく呟いた。
「……知ってたら、口説かなかったのに」
南央の反応がただの困惑なのか反発なのか判断がつきかねて、続ける言葉を迷う。
俊明の経験上、親が医者だとか実家が病院だとかいうことが知れて喜ばれはしても、拒否感を示されたことはなかった。むしろ、それで俊明の方が嫌悪しそうになることはあっても。
だから、南央が戸惑っているというより敬遠するような態度を取る理由がわからなかった。
「ひょっとして、医療事故でもあったのかな?僕の知る限りでは、トラブルは父の女性関係以外は聞いたことがないんだけど」
「そういうんじゃなくて。俺は男だし、親は離婚してるし、そのうち秘書か何かが俺のことを調べて、つり合わないから別れろとか言いに来るんでしょう?」
あまりにも突拍子のない、飛躍しすぎた思考に面食らった。適齢期の女性が相手ならともかく、今の南央を有害だと考える身内は少ないだろう。
「すごい想像力だね。それに、とんでもない偏見だ」
「自分の立場を弁えてるだけだよ。それに、俺はそういう格式のある家とか苦手だし」
「格式なんてないよ。ごく普通の外科医の家庭だよ」
単に医者が三代続いたというだけで(しかも一人は婿養子で)、名家というわけではない。傍から見れば特別に思えるのかもしれないが、当人たちは至って普通だと思う。
「……“普通”のレベルが違うんじゃない?俊さんちって、すごくお金持ちみたいだし」
「父はそれなりに収入もあるんだろうけど、僕は独立しているんだから関係ないよ。僕はごく普通のサラリーマンだからね」
「……そんなこと言って、大きな病院とか製薬会社とかから縁談が来たりするんでしょう?俺みたいな毛並みの悪い子供を相手にする必要はなかったんだよね」
「ナナは被害妄想が過ぎるよ。僕の親は家柄や生い立ちで僕の好きな人を否定するようなことは絶対しないし、僕もそんなことを気にしながら恋愛することはないよ。偏見を持っているのはナナの方じゃないのかな?」
言いがかりとしか思えないような言葉に、知らずに口調が厳しくなってしまう。まさか、そんなつまらないことで俊明を否定するようなことを言われるとは思ってもみなかった。
「……もう、いいよ。どうせ、俺じゃ身代わりにもなれないんだし」
「ナナ、何の話をしてるの」
「ごめんなさい。しつこく口説いたの俺なのに、こんなことを言うのは間違ってるよね」
「ナナ?僕はナナを誰かの代わりにしようと思ったことはないよ?」
自己完結するような南央の態度に焦り、南央の不満の根底にあるものが何なのかわからないまま、離れてゆこうとする体に手を伸ばした。


【 8 】

肩へと伸ばした俊明の手を避けて、南央の体はいざるように奥へと逃げる。
体勢を立て直そうとするように後ろにやった手が、ふいに思い立ったように財布を抜く。
「俊さんには、これぐらい何でもないんだろうけど……」
徐に差し出された数枚の札に気が動転する。
「……ナナ、これをどうやって?まさか、また」
俊明の危惧を遮るように、南央は顔を上げ、強い口調で言い切った。
「違うから。お義母さんに貰った、ちゃんとしたお金だから。ずっと、返さなきゃって思ってたんだけど、遅くなってごめんなさい」
「ナナ?」
聞きたくないと言いたげに首を振り、俊明の追及を拒むように顔を背ける南央の意図に思い当たって愕然とした。
「まさか、別れるつもりじゃないだろうね?」
無言は肯定だとわかっていても問い詰めずにはいられず、肩を掴む手に力が籠もる。
「ナナ?」
俊明から逃れようとするように視線を伏せる仕草に、頭に血が上った。
「僕を好きになってくれたわけじゃなかったということかな?」
答えようとしない南央に焦れ、これまで慎重に隠していたはずの通俗的な欲求が抑え切れなくなる。
「責任を取る約束だったね?」
激昂するあまり、無害な大人を装うことを忘れた。
「それは、本気になったらっていう約束でしょう?」
まだ、どこか他人事のような顔をしている南央の背を抱きよせ、腕の中へと閉じ込める。
「僕は本気だよ。本気じゃない恋愛なんて、したことないしね」
「……え」
南央を腕に抱いたまま、ソファへと倒れ込む。見開かれた瞳は、さんざん俊明を誘うような態度を取っていたのは何だったのかと思うほどに驚愕と拒否を湛えていて、焦燥を煽るばかりだった。
「いや」
逃げようとする南央の細い手首を押さえ付ける手の力を加減することもできないほど、俊明は切羽詰っている。
思えば、南央に出逢ってからというもの、俊明は忍耐を強いられ続けていた。
「卒業するまでは我慢しているつもりだったけど、そんな悠長なことを言ってる間に逃げられてしまったら意味がないね」
これまで大切に守ってきたはずのものをあっけなく壊してしまうことに、もう躊躇いは無くなっていた。



【 9 】

塞いだ唇は想像以上に甘く、その先まで求める思いを強くさせる。
閉じきらない唇をなぞりながら舌を中へと滑り込ませても、南央は呆然としたようにされるがままだった。歯列の裏側を撫で、舌先に触れても抵抗らしいものは返らず、軽く擦り合わせてから絡め取る。
逸る気持ちはあったが、南央の洩らす吐息ひとつ逃すのも惜しく、優しく吸い取っては微妙に角度を変えながらより深めてゆく。
苦しげに腕の狭間で小さく首を振る仕草にさえ煽られ、南央が何も知らないようだと思っていたからこそ大人らしく接してきたことも忘れて、欲望の赴くままに貪った。
細い腕で溺れそうに俊明の背に縋りついてくる仕草も愛おしく、南央の全てを自分のものにしてしまいたい欲求に拍車がかかる。
滑らかな顎のラインに伝った雫を舌で追い、晒された喉を唇で辿ってゆく。微かに震える胸元に手のひらを這わせ、シャツの下の小さな突起を探したのは殆ど無意識だった。
「ひゃぁ」
俊明の指先がそこを摘んだ瞬間、南央の背が跳ねた。感じ入ったように仰け反り、濡れた声を洩らす。
「いや……何、で……っ」
南央のこめかみへと溢れた涙に気付いて我に返った。
年齢以上に幼く見える泣き顔は、高揚感に水を差し、否応なしに俊明に罪悪感を抱かせる。
とはいえ、泣かせてしまったことを可哀そうに思う気持ちと、これまで俊明を軽々しく誘ってきた経緯とのギャップに戸惑いを覚えずにはられなかった。どちらが本当の南央なのか、未だ判断がつきかねている。
「……キスもしたことなかったの?」
「だから待ってくれていたんじゃなかったの?」
一番狡い言葉を返す南央に、軽く怒りがこみあげてきた。俊明を見上げる潤んだ瞳は、憐れみよりも情欲をそそる。
「そうじゃないよ。僕のものになると思っていたから、待っていられたんだ。逃げる気だと知っていたら、もっと早く全て奪っていたよ」
「やだ、そんな言い方……」
「それなら、他に何できみを縛ればいい?監禁でもする?そんなことをして警察沙汰にでもなれば二度と会えなくなるかもしれないのに?」
無理に押し込めてきた欲望は、なまじ触れてしまったばかりにもう止められそうになかった。
「でも、高校生になるまでダメって言ってたの、俊さんなのに」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。聞き違いではないかと思いながら、問い返す。
「高校生になるまでって、まさか、ナナは中学生ってこと?」
「そうだよ?」
何を今更と言いたげな返事に、俊明は思い違いをしていたようだと悟った。
「でも、授業料って……ああ、そうか、晴嵐は私立だったね。ナナはしっかりしているから、まさか中学生とは思いもしなかったよ」
「じゃ、俺のこと、高校生だと思ってたの?」
「そう思い込んでいたよ。一応、確認しておくけど、ナナは今14歳?」
「うん」
「参ったな……ナナが高校生でも犯罪だと思ってたのに、中学生じゃ、僕は凶悪犯だね」
さすがに、邪な欲望も鳴りを潜めるほどの衝撃だった。
いくら頭に血が上っていても、ローティーン相手に本能を剥き出しにしてしまうほど人でなしではないと、自分では思っている。


【 10 】

「……しないの?」
俊明の焦燥ぶりを見て余裕を取り戻したのか、南央はいつもの怖いもの知らずの子供に戻ったように、挑発的に問いかけてきた。
心残りは甚だしいが、続きを望めるわけがない。
「さすがに義務教育も終わっていない子に“淫行”を働くわけにはいかないよ」
「ふうん」
ついさっきまで怯えて泣いていたのは別人だったのかと疑ってしまいたくなるほども、南央は冷めた顔をして服を整え、乱れた髪をかき上げた。
まるで、もう俊明に用はないと言いたげな間の取り方に、情けないほど狼狽えている。つまるところ、南央の本心が掴めないという現状は全く変わっていないのだった。
「まさか、しないなら別れるというつもりじゃないだろうね?」
視線を微妙に外し、答えない南央の態度は肯定以外の何ものでもなく、焦りばかりが募ってゆく。
「ナナ?僕がきみにこれ以上のことをしないのは、“したくない”からじゃなくて、“してはいけない”気がするからだよ?」
言い訳ではなく、本心からそう思っている。法律や条例で定められているからというより、心身ともに成長途上の未成熟な相手に対して、安易にするべき行為ではないというのが俊明の考えだった。
「……どっちでもいいよ。どうせ、そのうち俊さんは女医さんとか、取引先の社長令嬢とかに気に入られて結婚するんだろうし」
投げやりなもの言いは、もう俊明に興味はないというサインにしか取れず、南央の達観したような態度のわけもわからない。
「その決定事項みたいな言い方は何なのかな?僕にはバツが二つもついてるのに、もう縁談なんて来ないよ」
「そんなことないでしょう?俊さんはまだ若いし、家柄もいいし……跡継ぎだって要るんだろうし、放っておいてくれるとは思えないよ」
南央が引こうとする理由がわかると、少し気が楽になった。敢えて言う必要はないと思っていたが、それで南央の思い込みを訂正できるなら、黙っている意味はなくなってしまった。
「僕にはもう子供がいるよ」
慎重に南央の反応を窺いながら、続ける言葉を選ぶ。


【 11 】

「ごめん。話してなかったけど、僕の幼い弟というのは、戸籍上は僕の嫡出子ということになってるんだ。最初に離婚してから半年と経たないうちに、奥さんだった人の妊娠が発覚してね。もう一度籍を入れて認知もしたんだけど、実は僕の子供じゃなくて、僕の父の子供だったんだよ。それがわかったとき母と相談して、認知は取り消さずに父の養子という形を取ったから、戸籍上も遺伝的にも、僕の弟なんだ。だから、もう跡継ぎはいるから、そんな心配はいらないよ」
子供がいると言ったときにはそれほど驚いた風ではないように見えたが、なぜか南央は話すほどに表情を強張らせてゆく。
「黙っていて悪かったよ。でも、ナナが最初に僕のことを何も知らなくても構わないみたいな言い方をしていたから、敢えて不利なことを話す勇気が出なくてね」
「……俺も、助けて貰ったの運命みたいに思い込んで、勝手に盛り上がっちゃってたかも。最初はホントに、つき合ってくれるだけでいいって思ってたんだ。なのに、いつの間にか欲が出てきて……」
俯いてゆく南央の頬へ手を伸ばす。ものわかりの良さは前の恋人を思い出させて、俊明を不安にさせる。
「僕は最初から軽い気持ちじゃなかったよ。ナナに出逢う前にいろいろあって恋愛するのは億劫になっていたし、ナナみたいに若い子が相手だと慎重にならざるを得なくてね。好きになるほど、自重しなくてはいけないと自分を諫めるのに骨が折れたよ」
「うそ……そんな感じ、全然……いつも、俺には興味ないみたいな顔して」
心底驚いたというような表情の南央に、俊明は本心を正直に伝えることにした。
「だから、なるべく感情を抑えるようにしていたんだよ。それでも、我慢できなくてナナを帰さなかったこともあっただろう?」
「でも……結局、一緒に寝るだけで何もしなかったし、したそうな感じでもなかったし」
時として暴走しそうになる劣情を悟られないよう細心の注意を払ってはいたが、南央にはそういう風に作用していたとは思いもよらなかった。
「寝ている間に抱きしめていたこともあったよ。さすがに意識のないときまで自戒することはできなかったみたいでね。だから、理性を飛ばさないよう、“溜めない”ことにしているよ」

漸く、南央の表情が和らいだ。
俊明が洩らした余計な一言は南央には理解できなかったようだったが、漸く南央の表情の強張りが解けてゆく。


【 12 】

「俺、俊さんに好かれてると思っていいのかな?」
まだ疑わしげな眼差しを向ける南央に、つい熱がこもる。
「好きだよ。僕はとっくにナナを好きになっていたよ」
気を抜けば、自分の定めたボーダーを軽く越えてしまいそうになるほどに。
「……でも、何もしないの?」
「忍耐力が持つ限りは、そのつもりだけど」
尤も、いつまで自制心がもつのか甚だ怪しくなってしまっているのだったが。
「卒業したら、また3年、先に延ばすの?」
「あと1年9ヶ月が我慢できそうにないのに、その先3年も延ばせるかな……」
自嘲する俊明の心情など想像することもできないのか、南央はまた大人びた表情で感情を隠そうとする。
「ナナはまだ別れようと思ってるのかな?」
「俺の忍耐力が持たなかったら、そうなるのかも」
「だめだよ、“やっぱり嫌”は聞かないと言ってあったはずだからね」
こんな日が来るかもしれないと予測できたから、最初に“俊明の本気につき合えるか”確認を取っておいたのだった。いくら南央が、思っていた以上に子供だったとわかっても、約束を反故にさせる理由にはならない。
「……それって、俺の意思では別れられないってこと?」
約束の本当の意味にやっと気付いたらしい南央に、大人げなく止めを刺す。
「そうだよ。“責任”を取る約束だったね?」
「責任って、そういう意味だったの……?」
ありえない、と言いたげな責めるような視線にも怯むことなく俊明は約束の履行を要求する。
「確認は取ったはずだよ?僕はもう、好きな人を手放すつもりはないからね」
俊明の言い分に納得はいってないようだったが、南央は約束を違えるつもりはないようで、挑発的に見上げてきた。
「……じゃ、俺も言っとくけど、最初の期限を越えたら知らないからね?」
脅かすような南央の言葉に、つい弱音が口をつく。
「そこまで持つかどうかも怪しいけどね」
一度触れてしまったからこそ、これまで以上に耐え辛くなるだろうということは予想に難くない。
それでも、出来うる限りの努力はしようと、俊明は当てにならない決意を新たにした。



- 愛のかたまり - Fin

Novel    


2009.12.20.update

実は、タイトルは書いているときのBGMから頂きました。
もちろん、KinKi Kidsの方です。

軽く流して書くつもりだったのに、途中、俊明にどっぷり感情移入してしまいました……。
全体を通すと非常にバランスの悪い仕上がりになってしまい、反省しています。
というか、一番書きたかったのは、俊明も例に洩れず、大人げなくて粘着質で執念深いってことです。
(加えてヘンタイちっくだったり……。)