- 可憐なひと -

☆両性受けで、NL的描写等が出てくる予定です。
抵抗のある方はご遠慮ください。



くらり、と回った視界を何とか保とうと壁に付いた手は頼りなく、細すぎると言われる体を満足に支えることもできない。
気慣れないドレスの裾をかろうじて捌き、細工の施された冷たい石の床へと、ユイは崩れるように座り込んだ。
今にも遠のきそうな意識を気力で留めながら、ギュッと目を閉じ、眩暈をやり過ごす。
空気の綺麗な王宮なら、病弱なユイにも害はないだろうと安易に考えていたが、極度の緊張と不慣れな就労で疲れた体はすぐには順応してくれなかった。

大きく息を吐き、壁に凭せかけていた額をゆっくりと起こす。急に立ち上がってはいけないと自分に言い聞かせながら、そっと膝を立てかけたとき、背後から大きな影が現れた。
反射的に警戒し、緊張する背中へと降ってきた低い声に、そう強くはないユイの心臓が竦み上がる。
「具合が悪いなら部屋まで送るが」
振り向いた視界に入ったのは紫紺の軍服で、相手が近衛騎士だと気付く。
ずいぶん見上げなければ顔まで辿りつかないほど背が高く、鍛え上げられていることはコートを纏った服の上からでも一目瞭然だった。
自分には持ち得ない、その剛健な体躯は憧れを通り越していっそ妬ましいほどで、先ほどとは違った意味でもユイの鼓動を跳ねさせる。
動揺を隠すように一度深く頭を下げ、また眩暈を起こさないよう、殊更ゆっくりと顔を上げた。
「……お気遣いいただき、ありがとうございます。少し休めば大丈夫ですので」
王侯の警護や王宮の警備をする騎士の手を煩わせるなどとんでもないと、辞退するべく出した声は情けないほどに掠れ、その言葉の信用性を著しく低めてしまう。
「そんな青白い顔をして強がられてもな……侍女頭には報告しておくから、おとなしく部屋で休んでいればいい」
どこか横柄な物言いは、よほど家柄が良いのか、ユイより遥かに年上だからか。
親切というには些か強引な雰囲気に、頑なに断るのも躊躇われ、どう対応するべきなのか判断がつかない。

「たしか、一週間ほど前からタカ王子に付いているユイだったな?一緒に城に上がった妹は、王子のところか?」
「はい、私は厨房に行った帰りに眩暈を起こしてしまって……お手間を取らせてしまい申し訳ありません」
警護をする騎士は、一介の見習い侍女に過ぎないユイのことまで詳細に把握しているのかと思うと恐ろしくなる。
決して知られたくない事情を持つ身としては、下手に知り合って余計な詮索をされるような事態になることは避けたかった。

「俺はクドーだ。今は、アキ王子の警護と城の警備をやっている。巡回のついでに送るだけだから遠慮しなくていい」
「いえ、そんな……っ」
差し出された手に、慌てて立ち上がろうとして、失敗した。
充分に時間を置いたつもりだったが、まだ眩暈は完全には去ってくれていなかったらしい。

「だから、休んでいろと言ってるんだ」
倒れ込んだ体は、冷たい床ではなく、筋肉質な腕に抱き止められていた。
「申し訳、ありません」
焦って離れようとしたユイの腰が引き寄せられ、軽い動作で抱き上げられる。対格差のせいか、クドーの片腕に座るような体勢は、まるで父親にあしらわれる幼い子供のようだ。
「元々体が弱いのだろう?具合が悪いのなら、無理をせず休んだ方がいい。倒れられては却って迷惑だ」
「……申し訳ありません」
そこまで言われては返す言葉もなく、せめて少しでも負担にならないよう、おとなしく身を任せることしかできなかった。




「妹と同じ部屋なのか?」
部屋まで送ってきたクドーは、なぜか不満げに室内を見回した。
「はい、慣れるまでは一緒の方が何かと心強くて」
ユイは“妹”と、二室続きの部屋の間仕切りのドアを外し、ベッドを隣り合わせにくっつけて一室のようにして使っている。
「おまえのベッドは?」
「手前の方ですが、自分で……」
歩けるから下ろして欲しいとは言わせてもらえず、結局ベッドまで運ばれてしまう。
先に部屋の前でも一度断ったのに、クドーはユイを抱く腕を離してくれなかったのだった。

「あ、あの……?」
ベッドへと下ろされて暫く経っても、クドーはユイに覆い被さるような体勢のまま動こうとしない。
「クドーさん?」
「おまえは細いな。俺が乗ったら潰れてしまいそうだ」
囁くような低い声が、ユイの背筋を震わせる。
未だ膝の裏と首の後ろに回されたままの腕が動いた瞬間、その仮定が実行されるかに思えて体が強張った。

「きちんと食ってるのか?」
予想に反して、あっさりとクドーの腕はユイの体の下から抜かれ、近かった顔も離れてゆく。
安堵する半面、肩すかしを喰らったような気がしないでもない。
「え、ええ、それなりには」
「夜は眠れてるのか?」
「はい」
「それにしては顔色が悪いな。熱はないようだが」
大きな手のひらが、確かめるように額に触れる。クドーの体温はユイより少し高めのようで、その手に耳や頬も包まれてみたいと思うほど温かかった。
「医師を呼んでおくか?」
よほどユイの具合が悪そうに見えるのか、単に心配性が過ぎるのか、クドーは気難しげな顔でユイを見下ろしたまま、なかなか職務に戻ろうとしない。
「いえ、本当に大丈夫ですから」
地方の屋敷で気ままに暮らしていた頃に契約していた医師を呼ぶというのならともかく、ここで診察を受けるような行為だけは絶対に避けなくてはならなかった。
「そうか。何か要るものはないか?」
「はい、大丈夫です。わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」
内心、早く一人にして欲しいと思いながら頭を下げる。
そのくせ、髪を撫でるその手を心地良いと思ってしまったのも本音だったが。

「仕事がきついようなら、俺から話しておくが」
ぼんやりとしていたせいか、クドーはまた心配げな顔でユイの顔を覗き込んできた。
「い、いえ、大丈夫です」
「何か困ったことがあれば頼っていいからな?」
「ありがとうございます」
まだ何か言いたげなような、或いは名残惜しげなクドーが部屋を出てゆくのを黙って待つ。
なぜクドーが初対面のはずのユイを気にかけてくれるのか不思議に思いながらも、その理由をあまり深く考えることはしなかった。






ドアの開閉する音に続いて聞こえてきたパタパタと走る軽い足音に、浅い眠りを妨げられる。
「ユイ?倒れたって聞いたけど大丈夫?」
ベッドの横に跪くように腰を落とし、ユイを覗き込んできたのは“妹”のリオだった。
ユイより2歳下の15歳という年齢や、血の繋がりが信じられないくらい、リオの顔立ちは幼げで可愛らしく、元気に満ち溢れている。
「倒れたなんて大げさだよ。ちょっと眩暈がひどくて座り込んでるところに、近衛騎士のクドーさんが通りかかって、送ってくださっただけなんだから」
「クドーさんって、第一王子の護衛の人だよね?大きくって、ちょっと怖そうな感じだけど、意外と優しいんだ?」
リオがすぐにその姿を思い浮かべたらしいことに驚く。
「リオ、クドーさんのこと知ってたの?」
「え、ユイは知らなかったの?侍女のお姉さんたちって、みんな騎士さんの噂話が大好きでしょ?クドーさん、結構人気あるのに」
「うーん……そう言われてみれば、聞いたことがあるような気がしないでもないけど……そういう話は興味なくて、いつも聞き流してるから」
ユイはどちらかというと女性は苦手で、そういう意味ではこの職場はあまり快適とは言えない。対照的に、外見も中身も“女らしい”リオは上手く馴染んでいるようだったが。

「一番人気はユキさんだよ。すっごい美形で背が高くて、遠くにいてもすぐわかるくらいオーラが出てて、みんな、王子より王子さまみたいって言ってるんだ。俺も、ユキさんを見かけた日は一日幸せな気分になっちゃうくらい」
ややふっくらとした頬を紅く染め、高い声を上げてはしゃぐリオは、まさしく恋する“乙女”そのものだった。
「リオ、いくら自分たちの部屋でも、大きな声で“俺”とか言ったら危ないよ。言葉遣いも“女らしく”って言われてるだろ?」
声を潜め、諌めるユイにつられたように、リオもトーンを落とす。
「わかってるけど、ずっと“侍女”な話し方してたらストレスたまっちゃうよ」
「そのくらいの我慢は覚悟の上だろ?“侍女”見習いとして城に入れて貰ったのに、中身は男だってバレるわけにはいかないんだから」
「半分だけ、だけどね」
「半分だけ?リオだって中身はぜんぶ男だと思うけど?」
「しょうがないだろ、ずっと男子として育てられてきたのに、今更女性になれって方がムリなんだよ。それに、下手に女らしくなって“見初められ”ても困るし」
「それはそうだけど……っていうか、リオは可愛いし、本気で心配した方がいいかもなあ……」
女性にしても細過ぎる、いかにも病弱で肉感的な魅力に乏しいユイと違って、健康で愛らしい容姿のリオは、社交界に出れば引く手数多だろう。
零れ落ちそうに大きな黒目がちの瞳に、腰まで伸ばした黒髪は纏めてしまうのが惜しいほど艶やかで、幼い顔立ちに反して発育の良い胸元は、細身のドレスに押し込めるには窮屈なほどだ。
身内の贔屓目を抜きにしても可愛らしすぎるリオが、中途半端な貴族に目を付けられたりしないよう、ユイも用心しておかなくてはと思った。

「俺は浮かないようにしてるから大丈夫。ユイこそ、クドーさんに気に入られてたりして?」
いかにも女子的なひやかしで、リオは矛先をユイに返してくる。
「それはないよ、倒れられたら却って迷惑だって言われたし」
「ユイ、具合が悪いのに仕事に戻ろうとかしたんじゃないの?」
「だって……眩暈くらいで休んでたらキリがないだろ?」
「やっぱり。ユイはすぐムリするんだから。クドーさん、ユイが帰りやすいよう気を利かしてくれたんだね」
どうやら、クドーはいい人という結論に落ち着いたようで、リオは早速ユイとの未来を妄想し始めた。
「クドーさんがユイの恋人になったら、王さまからも守ってくれそうだよね。ていうか、王さまも許してくれるかも」
「軽々しくそういうこと言うなよ」
慌てて強い口調で窘めてしまうユイの事情は、リオも同様で、わかりきったことのはずなのに。
「なんで?俺たち、“そのため”に逃げてきたようなものなのに?」
「相手に迷惑がかかるだろ、下手すれば反逆罪だ」
リオはずいぶんと楽観的に考えているようだったが、自分たちはそう簡単に相手を見つけられるような立場ではなく、正体が知れれば、この国の法では王家に“献上”されるような存在だというのに。
「ユイは悲観的だなあ。さすがに、男で通すのは体型的にもうムリだと思うけど、女なら違和感ないだろ?一緒にお風呂にでも入らない限り、バレないって」
全くといっていいほど危機感を感じていないリオは、平穏な生活も“普通の”恋愛も諦めてはいないようだった。いっそ神官でも目指そうかと密かに思い詰めたことのあるユイとは違って。
けれども、さすがにその考えは甘く、用心し過ぎということはないのだと、リオが気付くのはもう少し後のことになるのだった。






洗い場へと向かう途中の庭で、少し離れた回廊を行く一際大柄な人物を見かけて、挨拶をしておくべきかどうか迷った。
本来なら、昨日送ってもらった礼を言っておくのが筋なのだろうが、あまり関わり合いになりたくないというのが本音で、相手が行き過ぎればそのままでも構わないのではないかという狡い考えが頭を過る。
その躊躇が長かったのか、相手の洞察力が鋭いのか、こちらを向いたクドーと、気付かなかったことにはできないほどしっかりと目が合ってしまった。

「仕事に出るのはまだ早いんじゃないのか?あまり顔色が良くないようだが」
広い歩幅で、あっという間に傍まで近付いてきたクドーに先に声をかけられる。
「いえ、大丈夫です。昨日はご迷惑をおかけしました」
腕に抱えたバスケットを足元へ置き、丁寧に頭を下げるユイの、髪に触れた大きな手のひらの唐突さと無遠慮さに固まってしまう。
人と違う体に生まれついたせいもあって、ユイは他人と接触するのは苦手で、どういう対応をすれば良いのかわからない。

「おまえ、アキ王子に付かないか?」
「えっ?」
思いがけない言葉に、後頭部にクドーの手を乗せていることを忘れ、結構な勢いで顔を上げてしまった。
なのに、クドーの手はユイの首の後ろ辺りから離れず、おかしな体勢になっているような気がする。
「近々、アキ王子の王妃候補が集められることになったからな、人手が欲しいのはタカ王子よりアキ王子の方なんだ」
「でも、私はまだ見習いで……それに、もしまた体調を崩すようなことがあれば、却ってご迷惑をおかけしてしまいます」
「だから、アキ王子に付いていた方がいいと言っているんだ」
「は……?」
そんな大事な時期に、体調管理もままならない新米の侍女が入れば寧ろ足手まといになってしまう可能性の方が高いのではないか。
「そうすれば目が届くからな」
ますます意味不明なことを言われて、ユイは表情からもクドーの真意を読み取ろうとじっと見つめた。
「あ……っ」
ふいに、ユイの首の後ろに触れたままになっていた手のひらに力を籠められ、よろめいた体がクドーの胸元へと抱きよせられる。
「俺はアキ王子に付いているからな、タカ王子の傍に居られたんじゃ助けてやれないだろう?」
落ち着いた重低音が、なぜこんなにも優しい響きでユイの髪を揺らしているのか、まったくもって理解不能だった。
ただ、薄い胸から心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほど鼓動は激しく高鳴って、どうやって治めればいいのかわからない。
そうと知ってか、クドーの腕は力強く、ユイの背を支えるように回されている。

「あ、あの、とりあえず仕事に戻らないと困るのですが……」
遠慮がちに硬い胸を押してみても、強靭な腕は緩められる気配もなく、クドーが何を考えているのか見当もつかなかった。
ユイは職務中で(おそらくクドーもそうなのだろうが)、あまり長くかかるとまた具合が悪くなったのかと思われてしまいそうで気が焦る。

「仕事の後は何か予定はあるのか?」
「え、いえ、特には」
「それなら空けておいてくれないか?落ち着いて話がしたい」
早く仕事に戻れるならその方が良いように思えて、流されるままに頷いてしまう。

「今日は熱もなさそうだが、あまり無理をするなよ」
依然としてクドーの腕に囲い込まれたまま、掛けられた馴れ馴れしいほどの言葉の意味を、必死に頭を働かせて考えてみる。
クドーとは城に来るまで面識はなく、どう贔屓目に見てもユイの働きぶりに期待ができるとは思えない。いくら急に人手が要り用になったのだとしても、この勧誘の仕方は常軌を逸している。

リオに何だかんだと言いながら、自分が“女性”として城に来たのだという自覚が全くないユイには、クドーの意図を推し量ることはできなかったのだった。






部屋に近付いてくる足音は軽くはなく、それがリオのものではないとわかると、ユイは静かに、横たえていた体を起こした。
ほどなく、形ばかりのノックの返事も待たずに、ドアが荒く開かれる。
「また倒れたのか」
まるで怒っているような口調でユイに詰め寄るクドーはいつもの落ち着いた態度ではなく、ひどく急いているように見えた。
「いえ、あの、立ちくらみがしただけなのですが」
タカ王子の午後のお茶の時間を庭で過ごしているとき、ユイは木陰にいたにも拘わらず顔を上げた拍子にふらついてしまい、心配性な王子はそれを見逃してくれず、部屋で休んでいるよう“命じ”られて職務に戻れなくなってしまったのだった。

「……よくそんな病弱な体で働こうなどという気になったな」
いつの間にやら、クドーはベッドの端に腰掛け、ユイの手を握っていた。
心配げな表情で見つめられると、なんだか悪いことをしてしまったような気がして、手を引くこともできず、かといって見つめ返すこともできずに俯いてしまう。


実際のところ、ユイもつい最近まで自分が誰かに仕えるような立場になるとは思ったこともなかった。
辺境伯の第一子として不自由なく過ごしてきていたから、いずれ父親の跡を継ぐのだろうと漠然と思ってはいたが、それも、妹の(当時は弟と公言していた)リオや身内で協力し合って、暢気に人生を送れると安易に考えていたのだった。
家族とごく一部の使用人や専属の医師以外には徹底して隠し通していたが、二つの性を両方持って生まれてきたユイとリオは、幸か不幸か器量にも恵まれていたために、ユイが17歳になる頃までは男子として育てられてきていた。
両親は、将来美人になりそうな二人を女性として育てると、自分たちより爵位が上の誰かの目にでも留まれば面倒なことになると考え、男子として育てた方が無難だろうという結論に至ったらしいが、第二次性徴期を迎える頃にはさすがに無理が生じ始めてしまった。
女性にも負けず劣らず可愛らしく育ったリオは、特に胸元の発育が良すぎて、ごまかし切れないほど女性らしく成長してしまっていた。
また、ユイはそれほど女性的に育ったわけではなかったが、父の付き添いで出席したとあるパーティで侯爵家の令嬢に気に入られてしまい、結婚を迫られないうちに家を出ておいた方が良さそうだという事態に陥ってしまったのだった。
急遽、二人は戸籍を女性に変え、あらゆる手段を講じて城で働くという逃げ道を選び、今に至る。


「ムリをして勤めるよりも、嫁に行った方がいいと思わないか?」
項に触れる手が、ユイの頭をクドーの胸元へと引き寄せる。
どうして、この男はこうもスキンシップが過剰なのか、ユイの感覚とは違い過ぎて戸惑ってしまう。
「生憎、貰い手がなくて」
なんとか出した声は震えていて、ユイは自分で思う以上に大人の男を怖いと感じていることに気が付いた。
「俺なら喜んで貰い受けるが」
至って真面目な顔でさらりと返されても、本気であるはずがないのに、ユイは上手く答えることができず、ただ火照る頬を俯けることしかできない。

あやすようにそっと髪を撫でられて、驚いて見上げたのと、クドーが顔を近づけてきたタイミングは合い過ぎていて、一瞬何が起きたのかユイには理解できなかった。
ただ、はずみで触れてしまったにしては、頬を包むクドーの手はユイを離してくれず、重なった唇は一向に離れる気配もなかった。

どうやら口づけられているようだと認識した途端、ユイは急に恥ずかしくなって、慌ててクドーの胸を押し返した。
「嫌か?」
僅かな距離を取った唇が、囁くような低い声で問う。
咄嗟に首を横に振った理由はユイにもわからない。
「そうか」
何がそうなのかわからないまま、ユイはもう一度クドーの腕の中で、長いキスにつき合うことになった。






「ユイ、顔が赤いけど、大丈夫?」
夕方、仕事を終えて部屋に戻って来たリオに心配げに問われて、ユイはますます頬を熱くした。

クドーが部屋を去ってからも、抱擁と口づけの余韻から抜けられず、ユイの心拍数は上がるばかりで未だ落ち着かない。
どういうことになっているのかきちんと考えようと思うのに、クドーの腕や唇の感触が強烈過ぎて、いつの間にか思考はそのことにばかり向いてしまう。

「ユイ?」
深刻な顔でユイの様子を窺うリオに、黙ったままではいられなくなる。
「俺、クドーさんとキスしちゃったみたいなんだけど……」
「ええっ!?いつの間にそんな仲になっちゃったの?てことは、やっぱ、ユイってクドーさんに気に入られてたってこと??」
その時のユイ以上にリオは驚き、矢継ぎ早に問いを重ねてくる。
「俺が倒れたっていう風に聞いて心配してくれたみたいで、お見舞いに来てくれたんだけど、なんか、顔上げた拍子に唇が当たっちゃったっていうか……」
とりあえず、事故かもしれない一度目の接触の話をして、確信的に触れた二度目の方は伏せておく。
「たまたま当たっちゃったってこと?クドーさん、どんな顔してた?」
「どんなって……よく覚えてないけど、真面目な顔してたんじゃないかな?」
今にして思えば、突然のことに固まってしまったユイと違って、クドーはとても落ち着いていたように思う。
「怒ってたとか、困ってたとかじゃないんだよね?」
「だと思うんだけど……俺が鈍くて気が付かなかっただけかも……」
そのときには思いつきもしなかったが、考えてみると急に不安になってしまう。
「クドーさん、何か言ってた?」
「えっと、嫌かって聞かれた」
「ユイは何て答えたの?まさか、嫌だったなんてこと、ないよね?」
思い出すと、また頬がじわりと熱を帯びてくる。
答える代わりに首を横に振ったユイに、クドーはとても優しい顔をしていた。
「嫌じゃなかったから、そういう風に伝えたと思うけど……クドーさん、笑ってたような気がする」
さすがに、その後でもう一度キスをされたと言う勇気は出なかったが。

「クドーさん、わざわざユイのお見舞いに来てくれたんだよね?そんな心配してくれるくらいなんだから、期待していいってことなんじゃない?」
ユイを気遣い、励ましてくれるリオを見ていると、自分の思い上がりではなかったかもしれないと思えてくる。
「本当に?実は、クドーさん、嫁に貰ってやるって言ってくださったんだけど……慰めっていうか、話の流れみたいなものかなって思ってたんだけど……」
「嫁?!ユイ、クドーさんにプロポーズされたの?いいなあ、もう相手見つかっちゃうなんて。しかも、クドーさんって、侍女のお姉さんたちの“お嫁に行きたい相手”投票の上位なんだよ?すごいなあ、ユイはゆくゆくは公爵夫人かぁ……」
まるで自分のことのようにリオは喜んでくれているが、ユイにはあまりピンとこない。
「お嫁に行きたい相手投票って……侍女の人たちってみんな、そんな目で騎士さんのこと見てるの?」
「ここにいる侍女の人たちの志望理由の大半は政略結婚から逃れるためだもん。仕事に生きる人もいるだろうけど、呼び戻される前に自分で相手見つけた方が確実でしょ?特に近衛騎士さんって家柄が良くないとなれないし、みんな狙ってるみたいだよ」
「そっか……じゃ、競争率高いんだ?」
「そうだよ。だから、クドーさんのこと、いいなって思ってるんだったら、早くくっついておかないと取られちゃうよ?」
「くっつくって……俺、そういうのはよくわからないよ、結婚なんて、一生しないと思ってたし」
男子として生きてきた期間に女性に気持ちが向かなかったことから、ユイは年齢のわりに極端に恋愛に疎いと自覚している。リオと比べても体が未熟なせいか(単にそういう体型なのかもしれないが)、色ごとに対する好奇心すら薄かった。




「今更だけど、ユイって対象は男の人なんだよね?侯爵家の美女から逃げてきたくらいなんだし」
断定的に問われても、つい最近まで自分が恋愛するとか結婚するとかいう風には思えなかったユイは、その対象がどちらかということさえ、あまり考えたことはなかった。
だから、縁談を持ち出されそうになって逃げ出したのは、相手が女性だったからというよりは、自分が結婚できるとはどうしても思えなかったからだ。

「どっちとか考えたことなかったけど……あの人と一緒に生活するのは無理そうな気がしたから。でも、クドーさんは嫌じゃないよ。ちょっと怖い感じもするけど、いつも、すごく優しくしてくださるし」
なにしろ、クドーはユイが思いもかけないことばかり言ったりしたりするから、身構える暇もなくて、少々強引な態度を取られても、突き飛ばして逃げ出したくなるようなことは一度もなかったように思う。
「よかったー。俺たち、ここには女性として来たし、今更お嫁さんを貰うとかムリだもんね。まあ、俺は最初から女の子とは友達にしかなれないし構わなかったけど、ユイはそういうんでもなかったし、これからは表向きでも女性として生きるなんて大丈夫なのかなって心配だったんだ」
「俺、女性になるっていっても、言葉と服を変えるだけみたいに軽く考えてて。それに、一生結婚しないつもりでいたから、戸籍もどっちでもいいと思ってたんだけど……でも、もしクドーさんとおつき合いするとかってことになったら、やっぱり本当のことを言っておかないといけないんだよね?」
「隠そうにも、そのうちバレちゃうだろ?おつき合いするんなら、やっぱ、ちゃんと言っとかないとまずいんじゃない?」
リオの言う、“そのうちバレる”のが何故なのか深く考えもせず、ユイは神妙に頷いた。
「じゃ、もし万が一、そういうことになったら、クドーさんに言ってもいい?もしかしたら、リオにも被害が及ぶかもしれないけど……」

本来なら両性だとわかった時点で国に届け出なければならない法があるのだったが、ユイとリオの母のように周囲に隠したまま結婚し、その伴侶やごく身内にだけしか知らせないというようなパターンも実はそう珍しくないことだと聞いている。
両性だと知れれば、王族から意に染まない婚姻を強いられたり後宮に入れられたりする可能性が高く、それを名誉だとか幸運だとか思わない者からすれば、生まれついた性は災いでしかなくなってしまう。だから、両親は、二人が自分たちの意思で生き方を選べるようになるまで、敢えて男子として育ててきてくれたのだった。

「ユイのことがなくても、バレたときの覚悟はしてるよ?でも、悔いが残らないよう、俺も一か八かユキさんにアピっとこうかなあ」
そんな楽観できるような状態ではないのだが、リオは少しも気にしていない風に明るく答えてくれる。
「ごめん、焦らせてしまうけど……でも、リオは本当にその人でいいの?」
リオの口からユキの話が出るのは初めてではないが、もっと時間をかけて相手を見つけるべきところを急かしてしまうのは心苦しかった。
「えっとね、実を言うと、俺も今日ユキさんに話しかけられたんだ。ユイが部屋に返されたあとで呼ばれて。近くで見ると本当に素敵な人で、しばらく見とれちゃったよ。あ、そういえば、俺もユキさんとハグしちゃったかも。って言っても、俺のは本当にただの事故なんだけど」
嬉しそうに、けれども他人ごとのように話すリオも、既に渦中にいるとは、この時の二人には想像もできなかったのだった。







ユイの戸惑いをよそに、クドーの誘いはこまめなうえに強引で、あれ以来毎日のように逢瀬を重ねていた。
仕事の合間を見計らって会いに来たり、仕事の終わる頃に迎えに来たり、クドーは何かとユイと会う時間を作っている。
先日、クドーが夜間の勤務に入った日は、夕方までに仕事中のユイの様子を見に来ただけでなく、翌日の明けで帰る前にも顔を出すという徹底ぶりで、さすがにユイも自分が特別な扱いをされているようだと思えるようになっていた。

だから、今日は初めてユイの方から、クドーの主な職場となっているアキ王子の住まう宮の方へ行ってみる気になったのだった。
いつもユイの休憩に合わせて来ていたことから、おそらくクドーもその頃に時間が取れるのだろうと思いながらも、もしも仕事の邪魔になるようなら黙って帰るつもりでいる。

広い庭園を抜けていこうと足を踏み入れたところで、少し向こうの木陰に、見慣れた大きな背中を見つけた。
つい名を呼びそうになったが、クドーの向こう側に、真剣な顔をした若い騎士がいることに気付いて思い止まる。
何やら緊迫した雰囲気に、自分が居合わせるべきではなさそうだと察して踵を返そうとしたが、既に近付き過ぎていたようで、その告白の言葉はユイの耳にも届いてしまった。

「俺、クドーさんに憧れて騎士になりました。お近づきになりたくて護衛にも志願しましたが、婚活中だと聞いて居ても立っても居られなくなって……もし、俺にも可能性があるなら……」
「悪いが、男は範疇外だ。仕事で関わるのは構わないが、つき合う相手は間に合っている」
相手に最後まで言わせず、淡々とした態度で断るクドーの言葉は、ユイの胸にも突き刺さった。

男は範疇外なら、ユイも対象から外れるのではないか。
全くの男とは言えないにしても、女性でもないユイは、両性だと知られればクドーの関心を失くしてしまうだろう。
もっと早く体の事情を告げておけばよかったのかもしれないが、クドーとのつき合いが必ずしも上手くいくとは限らず、リオにまで疑惑を向けられるかもしれないという心配もあって、なかなか言い出せずにいた。


「ユイ?」
声をかけられて我に返る。
すぐに立ち去るつもりが、あまりの衝撃と動揺で、ユイはその場にぼんやりと立ち尽くしてしまっていた。
「会いに来てくれたのか?」
いつもと変わらぬ落ち着いた声に、ふっと緊張が弛む。
「はい、いつも来ていただくばかりなので申し訳なくて」
「そうか」
素直に口にした言葉に、クドーの目元が和らぐ。
先のやり取りをユイが聞いてしまったことに気付いているのだろうが、クドーはその件には触れなかった。

「あまり顔色が良くないようだが」
大きな手が頬に触れ、心配げに顔を覗き込まれると、なぜだか泣いてしまいそうになった。
「いえ……」
堪えたつもりが、声が上擦る。
顔を隠したくて俯くと、クドーの胸へと引き寄せられた。
無骨な指が髪を撫で、ユイの気を落ち着かせるように、何度もくり返される。
ユイが半分は男だと知られれば、クドーにこんな風に優しくされることもなくなってしまうのだろう。

やがて、髪に絡む指が首を伝い、ユイの顎を上向かさせる。
疎いユイにも、この数日の間に何度か経験したおかげでその先に何をされるのかわかっていたから、そっとクドーの胸を押し返した。
「大丈夫だ、誰もいない」
ユイが拒む理由を取り違え、クドーはそのまま唇を近付けてくる。
もう、こんな関係を続けるわけにはいかないと気付いてしまったのに。
一刻も早く離れなければと思いながら、包み込むように抱きしめる腕から抜け出すことはできそうになかった。






仕事を終え、食事と入浴を済ませて部屋着に着替えたリオはすっかり寛いだ様子で、ユイのベッドに勢いよくダイビングしてきた。
「あー疲れたぁ。やっぱ、ドレスって動きにくいよね。髪を結うのも面倒だし、女の人って大変」
てっきり、リオは侍女生活を楽しんでいるのだとばかり思い込んでいたが、そうでもないような口ぶりだ。
「リオは女性になる方が良かったんじゃなかったの?」
「服と髪と言葉遣いと立ち居振る舞い以外はねー」
腰掛けるユイの横で、リオは俯せのまま大きく伸びをしながら、あっけらかんと言い放つ。
どうやら、リオも女性になって良かったとは思っていないようだ。
「……やっぱ、早まっちゃったのかな」
男として生きて行くのが難しくなったから、それなら女になろうなんて考えが安直過ぎたのだろう。
しかも、山と森に囲まれた辺境で世間知らずに育ってきた二人には、華やかな都で暮らすこと自体が負担になっているのかもしれなかった。

「ユイ、クドーさんと何かあったの?」
「え、何で?」
急に、真面目な顔で見上げるから、何でもない振りをする余裕もなかった。
「休憩から帰ってから、暗いっていうか、ため息ばっか吐いてるし、もしかしてクドーさんと気まずくなったのかなあって思ったんだけど」
言われてみれば確かにその通りで、知らず知らずのうちに、深いため息が口をついている。
クドーとのことは、始まりと同様、続けていけそうにないとわかるのも突然過ぎて、ユイの気持ちはその事態についていっていない。

自分の胸の中だけに仕舞っておくべきか迷ったが、やはり昼間の出来事を話さずにはいられなかった。
「何かあったっていうか……会いに行く途中の庭園で、クドーさんが若い騎士の人に告白されてるのを見てしまって……」
ユイにとっては相当に衝撃的な出来事だったのに、リオはそれほど驚いた風でもなく、肘をついてゆっくりと顔を上げ、背を反らすような体勢を取った。
「クドーさん、男の人にもモテちゃってるんだ?でも、今はユイとつき合ってるんだし、もちろん断ってくれたんだよね?」
「それはそうなんだけど……クドーさん、男は範疇外だっていう風に答えてたから……俺も半分はそうなわけだし、どうしようって……」
思い余って、また逃げ出したくなってしまうほどのユイの心配は、リオにはあまり伝わっていないようだった。
「どうしようって、まだ話してなかったの?」
「まだって、そんな軽々しく言えないよ。もしかしたら、クドーさんにも迷惑かけることになっちゃうかもしれないのに」
「確かに、勇気がいるよね。最悪、そのまま王さまのところに連れて行かれる可能性だってあるわけだし」
さすがにリオも茶化したりはせず、神妙な顔で相槌を打つ。
けれども、ユイの悩みとリオの気にするところは微妙に違っているようだった。
「報告されるのも困るんだけど、それ以上に問題なのは、クドーさんが男はダメってことで……それってつまり、俺も対象外ってことだろ?」
「それは本人に聞いてみないとわからないんじゃない?ユイは女でもあるんだから」
「でも……」
はっきり対象外だと言われたらと、考えただけでおそろしくなる。
あの騎士に対峙していたときのように素っ気なくされるのではないかとか、黙っていたことを怒られるのではないかとか、何より、つき合うのをやめると言われるのではないかと思うと、胸が絞られるように痛んだ。




「ずっと黙っておくことはできないんだよ?わかってると思うけど、脱いだり触られたりしたら確実にバレるんだからね」
「あ……そうか」
今更のように、ユイはリオの言っていた意味を理解した。
会う度に抱きしめられ、口づけられているのに、ユイにはその先が自分の身に起こるとは思い至らずにいたのだった。

「俺のことは気にしなくていいから、それとなく話してみたら?あまり先延ばしにして、騙してたみたいになったら嫌でしょ?後になるほど言い難くなるだろうし、お互いショックも大きくなるんだからね」
言われてみればリオの危惧はユイを納得させるもので、それでクドーに嫌われるようなことがあれば、立ち直れなくなってしまいそうだ。
「そうだよね……俺、今でもかなりダメージ受けてるのに」
「ユイだけじゃないんじゃない?クドーさん、ユイを気に入って、おつき合いすることになったんだから。もし、クドーさんが両性はムリだったとしたら、すごく好きになったあとで知らされるのは辛いと思うよ」

でも、すごく好きになったあとなら、ムリを覆せるかもしれないのではないか。
おそらく、正式に婚姻が成立する前なら、体の関係を拒んでもおかしくはないはずだ。
世間的には相当珍しいことだとしても、箱入り育ちを理由になんとか逃げ切れないこともないだろう。
その間に手放したくないと思ってもらえるようになっていれば。

そんな風にリオの言うことを曲解してしまいたくなるくらい、ユイはいつしか追い詰められていたのかもしれない。

「俺も、もし機会があったら、ユキさんに話しちゃうよ?そのついでに、ユイのことまでバレちゃったらゴメンね?」
結論を出せないユイを追い込むためか、リオは脅かすようなことを言う。
驚いてリオの顔を見つめ返してみても、いたずらっぽく笑う顔は真剣味に欠けているような気もする。
「……じゃ、お互いさまってこと?」
「そうだよ。だから、どっちからバレても後悔のないようにしとこうね?」
ユイの気を軽くさせようという配慮か、告白を急かすための方便かわからないが、リオは黙っておくという選択肢はくれなかった。


「そういえば、俺もアキ王子の花嫁候補を迎えるお手伝いに行くことになったよ。俺たちみたいな新米にまで声がかかるなんて、よっぽど人出不足なのかな?」
リオは話題を変えると、肘で支えていた体を反転させて、仰向けにベッドに寝転んだ。
「ほんと、却って邪魔になるだけのような気がするけど……あまり大変なお仕事じゃないといいね」
尤も、そんな負担になるような仕事なら、クドーがユイを抜擢するはずがないのだったが。


それが王子の花嫁選びのためだけの催事ではないとは二人が知る由もなく、別の思惑は既に二人に的を絞って動き出していたのだった。






アキ王子の王妃候補として城に来るのは5人で、そのうちの3人は近隣諸国の王族から迎えることになっていた。
到着する日は多少前後するようだったが、それぞれ宮廷の一角を与えられ、約一ヶ月の滞在期間を経て、正妃が選ばれるらしい。

ユイとリオも、その誰かに付くために宮廷で勤めることになるのだとばかり思っていたが、なぜか二人は別の離宮に連れて来られていた。
その中でリオとも離れ、ユイは侍女二人に一番奥まった部屋へと案内された。

重厚な扉の向こう側は、ユイが想像していたような派手な装飾はされておらず、寧ろシンプルな印象を受けた。
調度品は全て薄い茶系で揃えられ、キルトやドイリーは白系で統一され、華やかさより寛ぎを優先したような落ち着いた空間になっている。
とはいえ、至るところに細かな刺繍や繊細なレースがあしらわれていて、一見する以上に手が込んでいると見て取れた。

ここで食事もできそうなほど大きなテーブルや、ちょっとした作業なら充分こなせそうなライティングデスクに、大人二人がゆったり寛げそうな長椅子などから察するに、花嫁選びの期間の仮住まいというより、王子と親睦を深めるための部屋なのかもしれない。
外に面する窓は高い天窓がひとつあるだけで、防犯のためなのだろうが、外部と遮断されたような作りは、まるで閉じ込めるためのようにも見える。

要するに、王妃候補を複数招くのは、外見や性格だけでなく、もっと深く知り尽くしてから正妃を選ぶためなのだろう。
色ごとには一切免疫のないユイには、ますます不似合いな仕事に就かされてしまったようだと、気が重くなった。


「ユイさま」
敬称を付けて呼ばれるなどあり得ないはずで、聞き違えたのだろうと思いながら侍女の方を窺った。
「あまり時間がありませんので、先にお召し替えを済ませていただきたいのですが」
続けられた言葉は更に難解で、おそらく何らかの思い違いをしているのだろうと気付く。

「あの……私はまだ見習いなので、皆さんは普通にお話してください。服が不適当なら、すぐに着替えて参ります」
「とんでもありません。私たちはユイさまのお世話をするために選抜されました。もちろん、お召し替えも私たちにお任せください」
膝を折って丁寧な礼を取られる訳がわからず、侍女の言葉を何とか理解しようと必死に考えを巡らせた。

「お世話というのは、私の教育係という意味でしょうか?」
「滅相もございません。私たちは、ユイさまに恙無くお過ごしいただけるよう、お仕えさせていただきます」
「そんな……私はただの侍女見習いです、どなたかとお間違えなのですよね?こちらにはアキ王子の正妃候補さまをお迎えするのでしょう?」
どんなに考えてみても、ユイが侍女の言うような待遇を受ける理由が思いつかない。
「いいえ、私たちはユイさまのお側仕えで……」
くり返し説明をしようとする若い侍女を遮るように、年長の侍女が割って入った。
「申し訳ありませんが、お話はお召し替えをしながらにさせていただきますね。急がなくては、お出迎えに間に合わなくなってしまいそうですので」
言いながら、ユイのドレスの留め具のひとつに手をかける。
全て脱ぐわけではなくても、体の事情を知らない(もしくは知らせたくない)相手の前で薄着になることには抵抗があった。




「あの、お出迎えというのは、アキ王子の王妃候補の方のですか?」
かといって断る言葉も思いつかず、されるがままに侍女用の淡いピンクのドレスを脱ぎ、別の白いドレスの袖に腕を通す。
侍女用のものと違い、背中側で留めるデザインは、自分で脱ぎ着するには不向きで、人の手を借りないわけにはいかないようだった。

「こちらにいらっしゃるのはクドーさまです」
寧ろユイが知らずにいたことの方が不思議だと、侍女たちは言いたげな表情で、いっそうユイを驚かせる。
「クドーさまって、アキ王子の護衛の方のことですよね?」
王子付きの侍女と近衛騎士は同程度の地位にあると聞いていたから、ユイはクドーに対してそれほどの敬意を払ってこなかったのだったが、どうもそうではなさそうな口ぶりに、今更ながら冷や汗が出そうだった。
「護衛というより、側近のおひとりと言った方が正しいかと存じます」
「でも、皆さん、親しげな感じで話していらしたように思うのですが……?」
「これまでは、クドーさまもユキさまも他の騎士の方と同じように接するように仰っていましたので、皆そうさせていただいていました。でも、奥方さまを迎えられて次期国王の側近としての地位を確立されれば、そういうわけにもいかなくなるでしょう」
「奥方さまって……」
もしかしたら、クドーとつき合っていたのはユイだけではなかったのかもしれないと思うと、目の前が真っ暗になる。
「もちろん、ユイさまのことですよ。ご成婚されるのは少し先になるかもしれませんが、今日からお二人で過ごされるわけですから、ご夫婦同然ということになりますね」
あまりにも思いがけなくて、すぐには言葉も出なかった。
確かに、貰ってやるというようなことを言われた覚えはあるが、知り合ってから日も浅く、今日にも夫婦生活を始めるなんて考えられない。
高貴な人ほど、顔も知らないままに婚姻するというような場合も珍しくはないと知ってはいても、いざ自分の身に降りかかってみると、そう簡単に受け入れられるものではなかった。

ユイが逡巡している間に、壁際の椅子に腰掛けるよう促され、纏めてあった髪をほどかれる。
結いあとを伸ばすように何度も櫛を通されても、元々緩いくせのある髪はまっすぐにはならず、波を打つように腰まで流れてゆく。


「あ、あの、それでは、リオたちのところに来られるのも、アキ王子の王妃候補の方ではないということでしょうか?」
ふと、ユイと同じように離宮に連れて来られたリオや他の侍女たちのことを思い出した。
「はい。リオさまのところにはユキさまがいらっしゃいます。クドーさまとユイさまのように、今後はお二人で過ごされることになります」
先と同じく、当然と言わんばかりの返答をされても、俄かには信じられなかった。
「本当に、リオも結婚することになるんですか?」
まがりなりにもクドーとつき合っていたユイと違って、ユキとリオは顔見知り程度ではないのだろうか。
「アキ王子が王妃候補を迎えられるのに便乗して、クドーさまはユイさまと、ユキさまはリオさまとご親交を深められることにされたと聞いております。一部の侍女と騎士は落胆しているようですが、殆どの者は祝福しております」
余計な情報と共に告げられた事実に愕然とする。
「どうして、私やリオが相手に選ばれたのでしょうか?私たちはここに来てまだどれほども経っていないのに……」
「クドーさまもユキさまも婚活をしていらっしゃいましたから、見初められたのだと思います」
「だとしても、こんな急に結婚なんて……おつき合いというなら、まだわからないでもないのですが」
よほど切羽詰まって結婚しなければならない事情でもあるのだろうか。
「アキ王子の王妃候補に付き添って来られるご家族の方の目に留まったりしないよう、隔離しておくためではないでしょうか。それなりに地位のある方が相手では、いろいろと面倒なことになりかねませんから」
それを受けて何か言いかけた侍女が、ふいに扉の方を振り向き、表情を引き締めた。
「クドーさまが来られたようです」
手を引かれて立ち上がると、すぐに扉の方へと促される。
重い扉が開いた瞬間、ユイはこれまでにないほどの緊張感に襲われ、また眩暈を起こしそうになった。




気が付いた時には、クドーの腕の中にいた。
長椅子に腰掛けたクドーの膝に、ユイの体は横抱きに乗せられている。
「具合が悪かったのか?」
ぼんやりと見上げた先で、眉を顰めるクドーは不機嫌そうに見えて、ユイは慌てて身を捩った。
「いえ、あの、緊張してしまって……」
とりあえずクドーの膝から降りようとしたつもりが、抱かれた体は僅かも動きそうにない。
「それくらいで気を失うのか?」
「いえ、少し眩暈がしただけです」
「完全に意識が飛んでいただろうが」
「え……」
そう言われてみれば、扉の前にいたはずの自分が、長椅子の方に連れて来られている経緯が全くわからなかった。
そればかりか、視線を巡らせてみれば、侍女の二人も消えていた。
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑だとは思っていないが、もう少し丈夫になってもらわないと困るな。そんなに弱いと、一緒になっても何もできそうにないからな」
肩を抱く手とは別の手のひらが、ユイの頬を撫でる。
鈍いユイにも、なぜかその意味はすぐにわかってしまった。

話を逸らしたくて、侍女の説明だけでは納得できない現状を尋ねてみる。
「あ、あの、どうして私はこちらに来ることになったのでしょうか?昨日までのお話では、アキ王子の王妃候補のところに行くことになっていたと思うのですが」
「聞いてないのか?」
少なくとも、クドーからは何の説明も受けていないというのに、ユイが知らないのはおかしいとばかりに怪訝な顔をされる。
「侍女の方には、こちらでクドーさんと過ごすことになると伺いましたが……私は働くために呼ばれたのではなかったのですか?」
「最初に勧誘したときにはそのつもりだったんだが、王妃候補と一緒に厄介なのが来るとわかったからな。おまえを匿いつつ、万が一の場合に俺のものだと主張できるようにしておいた方がいいだろうという結論に至った。式やおまえの親への挨拶が後回しになって悪いが、念のために体裁だけは整えておかないとな」
「あの……クドーさんは、本当にすぐにも私と結婚するつもりでいらっしゃるのでしょうか?」
もう少し婉曲に尋ねるべきだとわかってはいても、焦るあまりに頭は上手く働かず、思ったままを口にしてしまう。
「早く貰い受けたいと思っていたから、最初からそう言ったんだろうが。おまえも、それでいいと思ったから了承したんじゃないのか?」
「え……」
“最初”の記憶を辿るうちに、嫁の貰い手がないと言ったユイに、クドーが自分なら悦んで貰い受けると答えたことだろうかと思い当たる。
更に、その直後に起こったことを、つまりは口づけられることを嫌ではないと伝えたつもりが、結婚の承諾をしたことになっていたようだと気付く。

「違ったのか?」
よもや、あれが正式な結婚の申し込みだったとは知らず、とはいえ、せっかく成立しているらしいものを今更思い違えていたと白状するのは惜しく、急いで首を横に振った。






クドーの腕に抱き上げられ、進む先にあるのが寝室だということくらいはユイにもわかる。
ほのかに甘い花の香りに満たされ、抑えめの灯りの下で目にした部屋の、いかにもな雰囲気に呑まれそうな不安に、我知らずクドーの首へとしがみついた。

大きなベッドを覆う天蓋から幾重にも垂らされた淡い色の帳は、今は低めの位置で緩く纏められ、赤やピンクの花びらの散るシーツが覗く。
コンソールデスクには溢れんばかりに活けられた花や、替えのシーツと共に厚めの布が積まれ、ワゴンには果実酒やウォーターサーバー、揃いのグラス等が用意されている。
否がおうでも、ここが夫婦の寝室だと意識せずにはいられない。

ユイの動揺に気付いているのか、クドーはユイを膝に乗せたまま、ゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
依然としてクドーの左腕に体を預けた体勢は気恥ずかしく、つい俯きがちになってしまう。
「急なことで戸惑わせてしまったか?おまえとのことはもう少し時間をかけるつもりだったんだが、そう悠長なことも言ってられなくなってな。他に何か疑問に思うことがあれば聞いておくが」
疑問なら山ほどあったが、何から聞けばいいのかもわからないくらいユイは緊張してしまっていて、上手く言葉を返せそうになかった。

「特にないなら、いくつか言っておきたいことがあるんだが」
顔を伏せたまま、はい、と答えると、クドーの手のひらがユイの頬を包んで上向かせる。
「とりあえず、アキ王子の正妃が決まって候補や従者が全て帰るまでは、極力この離宮から出ないようにして貰いたい。できれば、部屋からも出て欲しくないくらいだ」
先にクドーが言っていた、匿うとはそういう意味だったのだと理解した。
「お部屋で待機しておくというのはわかりましたが、私はここで何をすればいいのでしょう?クドーさんも休暇を取られるのでしょうか?」
クドーが居るのなら、ユイも侍女の一人だと思っていればいいが、もし仕事に行くのならそうもいかない。
「悪いが、今は纏まった休みを取れるような状態じゃないからな。さすがに今日は一日空けてもらったが、明日からはいつもより長い勤務になるだろう。退屈するようなら、刺繍でも読書でも、好きなことをしていればいい。必要なものはすぐに用意させるから遠慮なく言え」
「ありがとうございます。でも、クドーさんがお勤めされているときに、私だけがそのように気ままに過ごすわけには……そういえば、妻って何をすればいいのでしょう?ここには、食事の用意や洗濯は専門の方がいらっしゃるようですけど、私がお手伝いしても構わないのでしょうか?」
結婚について深く考えたこともなく、つい最近まで女子的な教育を受けたこともなかったユイには、妻の為すべきことがすぐには思いつかなかった。
「そんなに気になるなら、妻にしかできないことを教えてやる」
事務的なやり取りが、ふいに前触れのような甘い空気に変わった理由を、体は疾うに察しているのに。
展開についていけない思考は、ユイの背を抱くクドーの腕に力が籠ったことに気付かなかった。
眩暈を起こしたときのように視界が回り、いつの間にかクドーに見下ろされている現状に、ただ驚くことしかできない。
「子供ができれば退屈する暇もないだろう」
言い含めるような声は優しく響くのに、甘い気分を瞬時に吹き飛ばし、ユイに決定的な事実を思い出させた。
ユイの体は、クドーの決断を覆してしまうだろう。性別も関係ないほど好きになって貰ってからならともかく、ユイはまだクドーとつき合い始めたばかりなのに。




覆い被さってくる大きな体を、咄嗟に腕を上げて拒んだ。
「ユイ?」
訝しげに名を呼ばれても、首を振ることしかできない。
できるなら、一秒でも先に延ばしたいと思っていた。
どっちつかずの体を、稀少で貴重な保護すべき存在だと肯定的に受け止める者ばかりではないことを、一般論として知っている。
真実を隠してつき合っていたことを詰られるのも怖かったが、いつも優しいクドーの眼差しが嫌悪に変わるのはもっと耐えられない。

「私では、ダメなんです」
すぐにも逃げ出したいのに、ユイの顔を挟むように置かれた腕からは、簡単には抜け出せそうになかった。
「子供ができないとは聞いていないが」
耳元に近付く低い声に気を取られ、言い回しの違和感を聞き逃してしまう。
「たぶん、できないということはないと思うのですが……」
成熟の遅かったユイは、外見的にはあまり女らしく育たなかった。
女にしては高めの身長に、丸みのない細く薄い体、高くはない声。そのいずれもが男にしては頼りなく、女というにも中途半端で、どちらにもなりきれない。
それでも、専属の医師からは、機能面での問題はないようだと診断されていたから、おそらく妊娠することも出産することも可能なのだろうと思う。

「すぐに母親になるのは嫌か?」
「あ……いえ、そうではなくて……」
クドーに出逢うまで、結婚することさえ深く考えたことがなかったのに、ましてや自分が子供を産むとか母親になるとは想像もできなかった。
それ以前に、今はユイに男の部分があることをクドーに知られないことの方が重大で、どうすればそれが可能になるのか、無意味な思考が止められない。

「まあ、すぐにできるとも限らないしな」
独り言のような言葉が首筋を掠め、広く開いた襟元に大きな手のひらが滑ってくる。
「や、ん……っ」
思わず上げた声の高さに、自分で驚いた。
クドーの手に触れられた肌から、甘く、痺れるような感覚が全身に拡散していくような気がする。

「そんなに気負うな。何も取って食おうというわけじゃない」
笑みを含んだ声は、心なしか呆れているようにも聞こえて、ユイの不安を煽った。
大事そうに頬を包まれ、怖々上げた視線が合うと、不思議と緊張が和らぐ。クドーが優しいことは、身を持って知っている。

いつものように目を閉じると、唇を塞がれた。
頬の手が撫でるように顎へと移り、上向かされる。触れ合った唇を割って中まで舐めようとする舌は少々不躾に、戸惑うユイの舌を絡め取った。
「ん……っ」
日増しに深まっていくキスに、少しずつ慣れていっているつもりでいたのに。
食べられてしまうのではないかと思うほど執拗に舐められ、きつく吸われて上手く息ができない。もう少し間を取りたくても、顎を固定された体勢ではそれも叶わず、一方的に貪られて頭の芯がぼやけてくる。
クドーの胸に突っ張っていたはずの腕は、いつの間にか、その太い首に抱きつき、より密着したがっているみたいに力を籠めてしまっていた。




背に直に触れたシーツの感触に我に返る。
いつの間にか、背中側の留め具が外され、肩が剥き出しになっていた。
既に半ば脱がされたドレスが腕から抜かれようとしていることに気付いて、慌てて胸元を庇う。
「や……だめ、返してください」
「悪いが、それは聞いてやれないな。明日からは時間が取れそうにないと、さっき言っただろう?」
胸の前で交差させた手首を取られ、難なく袖が引き抜かれる。
肉づきの悪い体をクドーに晒すのは、羞恥より不安の方が強かったかもしれない。
せめてリオのように肉感的だったならまだしも、肝心な女性的な部分が発育不良の身では、到底クドーの気に入るとは思えなかった。

辛うじて胸元を隠す生地を死守しながら、見られて気分を害させるより、正直に話して破談になった方がマシだろうかと思い直す。
「わ、私は、女性とは言えないのです」
「そうだな」
特に驚いた風もなく同意するクドーには、きっとユイの言いたいことは伝わっていない。
際どいところまで近付く手から逃れようと必死に身を捩りながら、その絶対的な力の差に、ユイは言葉を選ぶことさえ諦めた。
「違うんです、私にはどちらもあって……今まで黙っていて申し訳ありません。両性なんです」
クドーの反応を見る勇気はなくて、言い終えるより前に視線を伏せてしまう。
だから、痛くなるほどに強く、胸元の生地を握りしめていた指先をそっとほどかれて、薄い胸が露わになったことにも気付かなかった。

「知っている」
「え……?」
「王位継承権第二位の王子に付ける侍女の身元を詳細に調べるのは当然だろうが。しかも、その前から辺境に両性がいるという情報は入っていたからな、ちょうど調査に出向こうとしていたところだったんだ」
平然と答えるクドーの言葉の意味が、俄かには理解できずに見つめ返す。
「調査に行ったのは俺とユキだ。その時はまだ、おまえもリオも男として生活していたようだな。でも、おまえは男の格好をしていても、線は細いし物腰もたおやかで、とても男には見えなかったし、リオに至っては、男だというには無理があり過ぎだったが」
その頃を思い返してみても、父親の仕事関係でも、騎士が訪れたというような記憶はない。
「もしかして、変装か何かして来られたのですか?長閑な村ですから、騎士さんが来られたら、きっと大騒ぎだっただろうと思うのですけど……全然、気付きませんでした」
「隠していることを調べに行くのに、わざわざ身分をバラすような真似はしないだろう?そうでなくても、俺はでかいしユキは綺麗過ぎるからな、極力目立たないよう気を付けていたんだ。だから、おまえたちとも顔を合わすことのないよう少し離れたところからしか見られなかったが」
「あ……じゃ、クドーさんは私が男だったときのことをご存知なんですか?」
「だから、そう言っているだろうが。あの時、おまえは左手の、たぶん薬指だと思うが、包帯を巻いていたな。俄仕込みで料理や裁縫を習っていたんだろう?」
必死に隠そうとしていたことが、とっくに知られていたとわかって、張り詰めていた気が抜けていく。
「……何もかも、ご存知なんですね」
その意味に思い至らず、ユイは泣きそうになってしまった。




素肌にクドーの息が触れるのを感じて、感傷に浸っている場合ではなかったことを思い出す。
「あ、あの、それならどうして、私と結婚するなんて仰ったのですか?」
ユイが両性だと知りながらの行動は、男は範疇外だというクドーの恋愛観に反している。
それとも、まさか両性には男の性も備わっているという風には認識していないのだろうか。

「一目惚れなんだ」
包まれていた指先に口づけられ、真剣な眼差しを向けられると鼓動が跳ね上がる。
臆面もなくそんなことを言うクドーと違って、ユイは驚き、うろたえるばかりだった。
「俺の知る限り、貴族の女は皆華やかに着飾って、化粧をして、気が強いものだと思い込んでいたからな、おまえのように清楚なのがいるとは知らなかった。だから、誰かに先を越されないうちに、こちらに戻ってすぐ、報告に行くより先に許可を申請しに行ったんだ」

「……両性の身柄は、国家が管理するんでしたね」
見初められて嬉しいと思うのに、素直に喜び切れないのは、発覚すれば自分の自由にはならない身の上ゆえの葛藤だ。
「管理と言っても、国が好き勝手に扱うというわけじゃない。法の行き届いていない地方では、珍しさから迫害されたり、見目の優れた者が売られたりした前例もあるからな。理不尽に害されることのないよう、環境や健康状態を把握して、必要なら国で保護することになっている。そうでなくても両性は体が弱い場合が多く、おまえの妹のように丈夫なのは稀だ」
「そう、なんですか……」
「たぶん、おまえが考えている以上に、両性を娶る場合の審査は厳しい。俺も申請はしたものの、正式に許可が下りるまでに随分かかって、待ち切れずにフライングしたからな。何とか間に合ったから良かったが、もう少し遅ければ法に触れているところだ」
そう言ってユイの肩口へと顔を伏せてくるクドーは、まるで問題は全て片付いたと言わんばかりで、ユイもそんな気になりそうになったが、よくよく思い返してみれば、肝心な問題はまだ解決していないのだった。

「でも、クドーさん、男は範疇外だって仰ってましたよね……?」
「おまえにそんなことを言った覚えはないが……それに、おまえは男じゃなく両性なんだろうが」
微妙な反論に、逆に不安を煽られる。
「男じゃなくないんです。寧ろ私は女性的なところが殆どなくて……とても、クドーさんのお気に召すとは思えないんです」
到底、女性的とは言えない体を目の当たりにされば幻滅されるのはわかっているのだから、先に話した方がマシかと思ったのだったが、クドーの反応は素っ気なかった。
「おまえの胸が薄いことなら、服の上からでも十分わかっていたつもりだが」
そう言いながら落とされたクドーの視線の先の、ユイの胸元がすっかり晒されていたことに気付いて焦り、今更と思う余裕もなく両腕で庇う。
「そんなに心配しなくても、気に入ってなければ最初から貰い受けたいとは言わないだろう?もし、おまえがあの新米のように厳つかったら範疇外だったかもしれないが、おまえは華奢で美人だからな、仮に男だったとしても大丈夫かもしれないな」
揶揄するでもなく掛けられた言葉に、張り詰めていた気が弛んでゆく。
圧し掛かってくる体を押し返す力もない腕を取られ、クドーの首に回すよう促され、もうこのまま流されてしまいたいと思うのに、今にも触れそうな唇を躱しながら尋ねずにはいられなかった。
「ほ、本当に、男のようでも大丈夫なんでしょうか?」
途中で、やっぱり無理だと言われるかもしれないという不安を抱えたままでは、身を任せる勇気はもてない。
「今すぐ証明してやる」
クドーの声は優しかったが、その表情は呆れているようにも見えた。
「あっ」
腰の辺りで留まっていたドレスを、少し手荒に抜かれ、クドーの体の下に囲い込まれるような体勢を強いられる。
下穿き姿にされて、ますます体の貧相さが際立つようで居た堪れないのに、クドーはその僅かな拠り所さえ躊躇なく奪い取ってしまった。
「や、クドーさん、待っ、て……」
「少し黙っていろ」
苦笑するクドーはもうユイの時間稼ぎに付き合ってくれる気はないようで、黙らせようとするように深く口づけてくる。
そうでなくても混乱し、思考力の低下した頭は簡単に気持ちの良い方に引き摺られ、これ以上悩むことを放棄してしまう。
ただ、その先の全てを体感するにはユイの神経は細すぎて、最後まで意識を留めておくことはできなかったのだった。






ずいぶん眠ったような気がするのに、頭の中は靄がかかったようにおぼろげで、身じろぐのも億劫なほどに体がだるい。
なんとか状況を把握しなくてはと、重い瞼を上げて、窮屈な首を巡らせてみる。

「気が付いたのか」
気遣わしげな声は思いのほか近く、ユイの鼓動を跳ねさせたが、もうクドーの腕の中で目を覚ますことには違和感を覚えなくなっていた。

それでも、首の後ろから回された腕や、密着している体が互いに衣類を纏っていないということに気付いた途端、眠りに落ちる前の、もしくは気を失った原因を思い出してしまい、顔から火を噴きそうになった。
「あ、あの、申し訳ありません。いつの間にか眠ってしまったみたいで……」
「いや、先を急いで無理をさせたな。しばらく時間が取れないかもしれないと思うと気が急いて抑えられなくなった」
気遣うように髪を撫でる手はいっそう優しく、ユイはクドーを落胆させていなかったようだと知ってホッとした。

ただ、その体勢が一向に崩されそうにないとわかると落ち着かなくなる。
いくらユイが細いといっても、いつまでもクドーの腕に乗っていたのでは重いだろうとか、近過ぎて吐息がかかってしまっているようだとか、煩いほどに高鳴る鼓動がクドーにも聞こえてしまっているに違いないとか、気にしだすとキリがない。

ユイが困惑していると気付いていないはずがないのに、クドーは距離を詰めたままで話し始める。
「俺とユキが仕事に出ている間はリオと過ごしていても構わないが、部屋から一歩でも出るときは必ず誰かを連れて行くようにな」
リオの名前を出されたことで、侍女に聞いた話を思い出した。
「それでは、リオとユキさんが結婚することになったというのは本当なんですね」
「ああ、向こうも今頃は同じような状況だと思うが」
同じような状況、という意味を深く考えてみるよりも、ユイにはもっと気になっていることがある。
「あの、リオも視察に来られた時に見初められたのでしょうか?」
いくらリオがユキに憧れていたようだったといっても、恐れ多くもリオの方から口説いたとは思えない。
「そのようだな。ユキとは好みが違っていて助かった」
何が助かったのかわからず首を傾げてみても、クドーは目元を細めるだけで、ユイにわかるようには答えてくれなかった。




「あの、ものすごく今更なことを伺いますけど……ここを自由に使えるということは、クドーさんもユキさんも陛下に近しい間柄なのでしょうか?」
依然としてクドーの腕に包まれたまま、控えめに尋ねてみる。
婚姻を結んだ体(てい)を整えられた今も、ユイはクドー個人のことも家柄についてもあまりよく知らないのだった。

「俺の父と陛下は義兄弟だ。ユキについては、あの容姿を見れば陛下のご落胤なのは言うまでもないと思うが。侍女たちから、いろいろ吹き込まれてるんじゃないのか?」
ユイが侍女の噂話の輪に入れていなかったから知らなかったということなのかもしれないが、それとこれとは根本的に別問題で、クドーはいろいろと言葉が足りな過ぎるように思う。
ユキのことにしても、王の姿は遠目に見かけたことがあるという程度で、そんなにも似通っているのかどうか判断できない。
「私はそういったお話には疎くて……お二人が王族の方だとは知らず、これまで失礼な態度を取ってしまいました」
おそらくクドーはそんなことは気にしていないのだろうが、窮屈な体勢でできる限り頭を下げた。
「俺は陛下とは血縁関係にないから王族じゃないぞ。ユキにしても、公然の秘密になっているとはいえ、公式には親子ではないし、そんなに畏まる必要はない」
「そうなんですか……」
安堵の息をつきながら、この機にもうひとつ尋ねておこうと思った。
「あの、クドーさんのお仕事のことですけど、アキ王子の護衛をしていらっしゃるというより、側近のおひとりだと言った方が正しいと伺ったのですが」
「いや、最初に言ったと思うが、俺の仕事は護衛や城内の警備が主だ。王子の執務の手伝いもするから側近と言っても間違いではないが、宰相や参謀役を務めるのは王子が即位された後の話だからな」
周囲の認識はともかく、クドー本人は騎士の方が本業だということらしい。

「ほかに聞きたいことはないか?」
少し考えてから、差当たって知っておかなければならないようなことはもうないように思えた。
「はい、また疑問に思うことがあればお聞きします」
「そうか」
クドーがひどく優しい顔をするから、いっそ何も聞く必要がないような気さえする。

それにしても、ユイを抱きしめている腕はいつになったら解かれるのか謎だったが、きっとそれも聞かない方がいいのだろうと思った。



- 可憐なひと - Fin

Novel


2011.5.30.update

息抜きのつもりで書き始めたお話ですが、寧ろ息が詰まってしまいました……。
軽く読み流していただけると幸いです。